三国志・蜀の中心地である四川盆地の地政学を語ろう!
周りを山に囲まれて、孤立した感じだし。
>>4>>5
>三国期の劉備、五代期の王建、孟知祥らが割拠
二人とも「ら」の中だねw
とりあえず四川盆地について
気候区分:Cw(夏暑く、冬寒い)
夏は曇りがち・高湿度な天候の為、汗をかきにくい。
なので、人為的に汗をかくために辛い物を食べると言われている
標高は200~500m、場所によって1000m台
周囲は秦嶺山脈・チベット高原・雲貴高原に囲まれている
米の世界的産地
三国志時代は蜀錦という高級織物が特産品
民族はほとんどが漢民族だが、南西部に異民族が住んでいる
三国志時代の人口は200~400万程度らしい
山地に囲まれているため、交通は不便。
主に
漢中を経由して長安・天水に至る道(通称:蜀の桟道)
長江を船で下る、または長江の川岸を進む道
南部を進んで昆明に出る道
がある。
稲作ができるし、農業生産力はなかなか高かっただろうね。
江南には及ばないだろうけど。
昔は農業生産力=経済力だったし。
動物の血から塩分を摂取できない農耕民族の場合、
塩の確保の重要性は武田信玄の故事にも明らか。
狭い日本ですらそうなのに、だだっ広い中国大陸であれほどの内陸だと
海塩の利用は難しいし、敵に流通ルート押さえられたらアウト。
その点四川は岩塩が取れたんで自立できたそうな。
日本じゃ想像つきにくいけど、塩って大事なんだよね。
塩賊が物凄い力を持ったわけだし。
四川でもいい岩塩の産地があるんだろうね。
つまり農業生産力はあまり高くないなんて話があったんだが、どっちが本当なん
でしょう?
空からの爆撃を受けにくいからだって説もある。
現代でもそんな感じならまだ農耕技術も品種改良もないような時代に
農業生産力が高いとは言いにくいと思うけど。
流石にその頃の時代だと蠶叢や柏灌、魚鳬なんかの名を何とか上げることはできるが語ることまでは難しそうだw
扱っているからなあ。
諸葛亮の北伐も涼州を略して長安に出ることをとりあえずの目標にしてたしね。
江南勢力が四川を押さえたのを除外すれば、諸葛亮のいた時代の蜀漢と、秦・鳳を得ていたときの後蜀が、脱引き篭もりを図った勢力と言え、その最大版図を得ていたのじゃないかな。
ただし2者の比較では、雲南方面を得ていた蜀漢の方に軍配はあがる。
蜀漢は江陵を得たままであれば、かなり有力な地方軍閥だったろうが…
雲南は領有していてそれ程意味があったかなあ?
住んでたのはほとんど異民族で統治が難しかったのでは。
江陵を得ていればという点は同意。
一応、北伐の為の貴重な軍需物資供給源になったから、その分の意味はあったと思うよ。
唐書には諸葛亮の残した石碑も記述があるので、偉大な先人という認識は深かったようだ。
三藩の乱はもっといい線までいっただろうか?
ほぼ一定して中華帝国に組み込まれているね。
しかし、秦と蜀の間って、地形的に通るの大変そう
剣門関の辺りとか、地勢が凄まじいね。
町の人も穏やか。西安は外国人観光客に馴れてたけど、成都では物珍しがられた。
豊かな、とか、肥沃とか、そんな言葉がやっぱりふさわしかったと思うよ。
中国も大分開けて、日本の下手な地方都市よりか開けてると思ってたけど、
成都ほどの大都市でも、まだまだ外国人が珍しがられるんだなぁ……。
あまりの変化に、ついていけない部分も多いだろう。
四川を落とせば、湖北、江南を一気に崩せるからね
晋の平呉戦役にしろ、斉万年の叛乱から続く四川→荊州→江南の叛乱の連続にしろ
西魏の江陵陥落にしろ、全て四川が落ちたことで他の地域に重大な影響を及ぼしている
曹操が漢中を得た時点で、征蜀を実施しなかったあたりが、彼の軍事行動の限界を
思いっきり露呈している
逆に言うと、劉備・諸葛亮の方が大局的な軍事作戦に関しては上かもしれないってことか
これは、出陣もとの後唐が、前蜀を滅ぼしたあたりで、内乱に突入していたからだけど
ほとんど問題なく後蜀にスイッチしたのは、隔絶された地勢と、孟知祥以下優れた将帥の手腕によるところが大きい。
曹操の軍事力の限界だった、というのは同意するが、それでどうして劉備や諸葛亮が
上ということになるのかがわからん。
地図で見たら、こっちも通るのがかなり大変そうに思えるけど。
話の流れブッタ切って申し訳無いですが、
四川地方って、中国が群雄割拠の時代に成ると、
必ず誰かしらの群雄が割拠したけど、そんな中、唯一不明なのが、
隋末唐初の群雄割拠期。
この時代って、自分が知らないだけで、実は誰か居たんですか?
このスレは、各年代の四川に詳しい方が多そうなので、
何方か御存知でしたら教えて下さい。
これねえ、確かにオレもわからなかった。
四川と荊州の境目で叛乱を起こした小勢力が確かいて
襄陽には蕭センか誰かがいたと思う。
隋末の各郡の太守が頑張ってたのかな。
>>56
やっとのレスありがとう。
自分も多分その線じゃないかな?って思います。
隋の太守が治める。→李淵が長安を抑え、恭帝を擁立して隋の正統を自認。
四川諸郡は長安政権に臣従。
李淵が隋から禅譲され隋から唐へ。
四川諸郡もそのまま唐の勢力圏として移行。
って感じですかね。
自分のせいでスレッドストッパーみたいに成ってしまった気がして心苦しかったです(苦笑
玄奘三蔵は統一前、治安がいいという話を聞いて、兄と共に洛陽から長安に引っ越した。
しかし高僧の多くはもっと住みやすい蜀に避難していたため、彼は蜀に向かったそうだ。
蜀に割拠した人間のほとんどは外から来た連中で、地元の人間は自給自足が可能なので、
中原に進出する野心より、治安の維持をねがう気持ちが強いのではないか?
>>76
>蜀に割拠した人間のほとんどは外から来た連中で云々
言われて見ると確かにそうですね。
面白い着眼点ですね。
風土的には蜀に近そうだけど。
だいたい秦嶺山脈を境に、北は乾燥、南は湿潤という感じで気候が違うけど、
漢中はその秦嶺山脈の南側で、関中は北側。
今でも農業では、漢中、蜀は稲作が多いのに対して、関中は畑作が中心。
盆地って元々、農作に向いてる地形だそうだな。
農地面積じゃ、山がちな日本より四川盆地の方が広そう。
中国の耕地面積=1億3000万㌶
四川の耕地面積=356万㌶
へえー、四川よりは日本の方が広いか。
流石に総面積は四川の方が広いよ
蜀の桟道ってまだあるの?
ここって、劉邦のころは確か流刑地だったって読んだ記憶があるけど。
いつから、肥沃な土地になったのかな
跡に復元されてる。痕跡もわかる
中央政権から完全独立してくれたら面白かった。
そこまで一体化できれば、人口的にも呉・魏ともに対抗できたと思う。
そうすれば、現代まで天下三分が続いていたかもしれない。
現在、中国はミャンマーとの関係がどんどん深くなってる。
それが四川独立に向くのなら、日本としては最高なんだが、
実際は北京からシナ勢力が伸びてるわけだから、
ベンガル湾の制海権を抑えられてるようで、
日本のシーレーン上、大変気持ちが悪い。
>>87
正直、当時にあれだけの山間部を越えて領土を広げるのはちょっと無理だと思う。
史実で、蜀の版図があそこまで広がっただけでも大したものだと思えるし。
ところでベンガルからビルマにかけてのあたりって、
歴史的にはインド亜大陸のデリーの王朝にはあまり支配されていないね。
デリーに拠点を構えた王朝ってたいてい西方由来の勢力だから。
インド亜大陸は、民族的なまとまりに欠けているところがあるから、
東のアッサムの方とか、南のタミルの方は、インドの一部という意識はなかったと思う。
文明らしきものが生まれた頃には、既に稲作も始めていたと思う。
日本でさえ縄文時代には稲作が始まっていたんだし。
旅行で行ったけどどんよりしてるねここ。 中国て物安いな。
あと水がおかしいのと汚い。俺には住めん。
群雄連中がここ来たらなんつーか覇者になるぞ~!とかよりまぁまぁえらい
とこきちゃったな~みたいな。
中国からここ拠点にした人らってメンタル的にきつそう。
あとここってまだ原住民みたいなのが多いみたいに聞いた。
>>102
世界的に見たら、日本のように飲み水に困らない国の方が珍しいけどね。
原住民というのは、南部や西部の少数民族のことじゃないかな?
チベット族とか、イ族とかの。
統一に向かうんじゃないかな。
どう考えても関中とも長江中流域とも隔絶された地域だろうに。
雲南は結構長い期間独立していたんだけどね。
もし中原に中心を置いてた三晋とか斉とかが統一の主体になってたら
切り離されてたかも知れん。
中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化
研究センターと成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代
(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。
中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったの
は初めてで、221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を
建国した理由を解明する上でも重要な発見として注目される。同大で27日午後に
報告される。
秦の始皇帝(在位・紀元前221~210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を
置いたとの記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。
その結果、今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、
幅最大1メートルのレンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの
高さがあったと推定され、日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。
調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは
山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために積極的に入っていた
可能性がある」と推測している。
ソース:読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071027i506.htm?from=main5
四川省には今でも、銅や鉄の鉱山が結構あるしね。
唐辛子はなかったが、山椒はあったわけか。
今の四川料理から、唐辛子を抜いた感じ??
曹丕「孟達によると、蜀の肉料理は味が薄いから蜜で味付けをするらしい」
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/meats.html
不味そうだなw
今の中華料理自体、宋代に石炭を使うようになって、
強い火力を持続させることが可能となって、原型ができたわけで、
それ以前とはかなり様相が異なっている。
漢代の料理は、資料が少なすぎてほとんど何も分かっていないけど、
調味料は、主として塩と梅だったらしい。
中華人民共和国の直轄都市に重慶がなってるけど
そんなに要地なのかな?
成都を直轄にして重慶を四川の治所にするというのはどうか
>>123
経済的な成長が著しいからだと思う。
成都は歴史的にずっと四川の中心地だったから、
重慶に治所を移すのは違和感強いんじゃない?
>>123
たしか蜀に侵攻した張飛が厳顔と対峙したのもここのように、益州とケイ州の間にある昔からの要地。成都だと毛沢東相手に中原争うにはには遠すぎるので重慶に首都を置いたんだろう
蒋介石は
生の食材を無加工で食べるのは野蛮人扱いだったんだろうな
生魚の寄生虫に当たってタヒんだって聞いたことあるな。
http://unkar.jp/read/news24.2ch.net/scienceplus/1211347283
中国・四川大地震を起こしたとみられる竜門山断層帯は長期間めだった活動がなく、
「タヒんだ断層」と考えられていたことが、中国の過去の地層調査や歴史文献の記載などからわかった。
(中略)
中国地震局によると、文献などから、鮮水河断層帯ではマグニチュード7以上の地震が
頻繁に起こっていることがわかっているが、竜門山断層帯の地震についてはこうした記録はない。
池田さんは「三国志の時代(3世紀)から人口が多い地域なので、大地震があれば
何らかの記録に残っているはずだ」と指摘する。
目が出っ張った青銅製の仮面とか
10m以上の金製の樹木とか他の地域にはない独特の
文明があったみたいだし
元々は20000年前にスペインからきた熊の一種らしい。
因みに20000年前の中国は黄土期で山頂洞人が跋扈。
発音は流石に無理だろうが、あの文字は古代の他地域の絵文字や陶文とは違って一線を画しているからな
>>157
10000~20000年前の中国は今とは違う文化があったのであろうからロマンがある
言語だって現代の大陸諸語の祖先たる原始・上古漢語や蜀語とは違った系列の言語が有っただろう
公孫述
劉焉
劉備
王建
たしかに外からの流れ者ばっかだ
そういえば現代において四川盆地で独立政権を維持するのは相当困難なんだろうか・・・
近代から海岸線と巨大河川の重要度が増しているから
昔の金と南宋のように
北京中心の勢力と江南(南京・杭州周辺)中心の勢力に続く
第3勢力を長い期間、維持出来そうな地域は広東省中心の勢力が無理が一番無さそうなんだが
明朝末期の段階だと
漢人の密集地域はこうなる?
華中は長江下流デルタと湖広平野
華南は珠江下流デルタ
西南は四川盆地
東北は遼河デルタ
すると華北や西北はどうなる?
華北の文化的中心地は北京
聖地は曲阜
だけど集住地帯となると
分かりづらいかな
満州族の土地とか言ってるけど
遼寧省は明代から漢人の土地だよね
日本にも山の塩、つまり井塩の一種に当たるか、の生産があったのは初めて知った。
http://aizu-yamajio.com/
しかも江戸時代からあったとか。
ずいぶんと海塩と成分比率が違う。
四川料理というのは現代に海塩が入るまで現地の塩で味付けしてただろうから
今の外から入った塩だと古代のレシピだと味が狂うかもしれない?
それと井塩だったことは四川人の気質にも影響があったかもしれない。
どんな組成だったのか知らないけど。
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163606506/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません