【歴史】連戦連勝のモンゴル帝国はなぜ突然ヨーロッパ征服をやめたのか、ウィーンを征服目前
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1223年、チンギス・ハーンははるか西方のカスピ海と黒海の北のキプチャク平原に住むテュルク系遊牧民のクマン人の征服を計画し、ジェベとスブタイという2人の優れた武将に2万の軍勢を与えて討伐に向かわせた。
モンゴル軍の攻撃が迫っていることを知ったクマン人の指導者コチャンは、東スラブ系のルーシ人のキエフ(キーウ)大公国に助けを求め、8万人の連合軍を編成した。
数で劣っていることを知ったモンゴル軍は、相手を欺く作戦に出た。スブタイはみすぼらしい装備の2000騎の軍勢のみを率いて進軍し、連合軍の大軍を見たら「パニックになって逃げるふり」をするように命じた。
この策略に引っかかった連合軍はモンゴル軍を9日間にわたって追いかけ、現在のウクライナのマリウポリ近くのカルカ川までおびき出されると、ここで待ち構えていたジェベ率いる本隊に攻撃され、大敗を喫した(カルカ河畔の戦い)。これが、ヨーロッパでのモンゴル軍の最初の勝利だった。
しかし、モンゴル軍はその先の侵攻に失敗すると中央アジアに戻っていった。その後、将軍たちは中国北部で金の征服に赴くことになるが、この遠征は何年も長引いた。
■再びヨーロッパへ
チンギス・ハーンが1227年に没し、後継者となった息子のオゴデイ・ハーンが西方への新たな攻勢を命じたのは1235年のことだった。オゴデイは、クマン人とその同盟国を完全に制圧しようと考え、12年前に父が送り込んだ軍団をはるかに上回る10万人規模の騎馬軍団を編成した。
オゴデイは甥のバトゥ・ハーンを西征の指揮官に任命した。モンゴル軍はボルガ川上流域から侵入し、クマン人、アラン人、ブルガール人の軍勢を破り、再びキエフ大公国を攻撃した。1237年末、ロシア最初の巨大要塞リャザンは6日間の包囲戦の末、陥落した。
バトゥ・ハーンとその軍隊は、キエフ大公国の諸都市を席巻した。1240年末にはキーウが、9日間の包囲戦の末に陥落した。モンゴル軍は捕虜の軍事知識を取り入れたことで知られ、中国の攻城兵器や可燃性の液体や火薬は、このとき初めてヨーロッパで使用された。
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■モンゴル軍の侵攻と突然の撤退
その後、バトゥ・ハーンとスブタイは、軍事史上最も効果的で華麗な侵攻を組織した。モンゴル軍は3つの部隊に分けられ、ウクライナから別々のルートで目的地に向かい、700キロ離れた2つの地点からほぼ同時にヨーロッパに攻め入った。
モンゴル軍の部隊の1つは2万人からなり、ポーランド南部に侵攻した。1241年4月9日、彼らはヘンリク2世が率いるポーランド人、モラビア人、テンプル騎士団の連合軍と現在のポーランド、レグ二ツァ郊外(ワールシュタット)で激突した。
モンゴル軍は旗や鏑矢(かぶらや、音の鳴る矢)で互いに連絡を取り合う襲撃隊を組織し、フェイント攻撃と撤退するふりを繰り返して連合軍を混乱させた。また、重騎兵をかく乱し、歩兵を無防備にするため、煙幕も使って攻撃した。
モンゴル軍はワールシュタットの戦いで重要な勝利を収めた。ヘンリク2世は戦タヒし、モンゴル軍は数週間にわたりヘンリク2世の首を槍の先に刺して掲げていた。
この勝利からわずか2日後の1241年4月11日、本隊を率いるバトゥ・ハーンは、モヒでベーラ4世率いるハンガリー軍を撃破した。モヒの戦いでは、「ネルゲ」と呼ばれる残忍な作戦が用いられた。これは、馬に乗って獲物を円形に囲み、円を小さくしながら獲物を仕留める狩猟戦術だ。
この戦いで、ハンガリー軍は1万人以上の兵士を失い、ベーラ4世はクマン人の護衛とともに追っ手をかわしてアドリア海の小島に逃げ延びた。
モンゴル軍は、モヒの戦いの後、ハンガリーの首都ストリゴニウム(現在のエステルゴム)を略奪した。ハンガリー人の抵抗によりモンゴル軍はドナウ川の西側に9カ月間押しとどめられていたが、冬の寒さでドナウ川が凍結するとモンゴル軍の大軍勢が川を渡り、ついにウィーンに到達した。
ところが完全な征服を目前にしてモンゴル軍の進撃は突然止まり、モンゴル高原へと撤退していった。1242年春のことだった。
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最近の考古学研究により、ハンガリー侵攻におけるモンゴル軍のタヒ傷者数は、これまで報告されていた数よりも多かったことが明らかになっている。この大損害がモンゴルの将軍たちに退却を決意させたのかもしれない。(以下ソース)
8/21(水) 18:03配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/24d43e099909c8a3980ee9873aa84650a6406bb7
https://cdn-natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/072201975/map.jpg
上陸作戦的な不利があったとはいえこんな化け物を倒せた昔の日本やばくね?
ベトナムやタイも倒してるぞ
ホラズムはやられたけど、しぶとく抵抗した王子がいる
本国で代替わりがあったからだろ
13世紀中盤の情勢でモンゴルが連戦連勝って認識が間違え
前線が伸び切っていたのでイスラム諸国には負けているし
そもそもオゴタイがタヒ亡したので、その後継争いで外征どころじゃなくなった
そんで統治範囲がデカくなりすぎて無理だった
結局、部族の集合体だからな。
天辺タヒぬと、部族間で跡目争いが発生して統一されるまで戦争どころじゃない
とにかく元は強かった
そうなっていれば今より平和な世界になっていただろうね
それはない
ロシア、中国、北朝鮮、韓国
世界の問題児は元モンゴル帝国の版図だったことに気付こう
単独相続なら跡目争いで揉めるし分割相続なら頭数で縮小するしで
確かモンゴルも分裂して崩壊したような
でおわり
ほんこれ 結果出てるもんな
ベトナムは戦術が素晴らしかったな
フランスの権謀術数には残念ながら敵わなかったようだが
そしてアイヌがクソ強かったこともあまり知られてない
最終的には負けたけど30年間戦いを繰り広げた
何度もアイヌ側から仕掛けていった
いいように言うなよw
そもそも樺太のアイヌが元支配下の部族に襲撃略奪を繰り返してたから討伐軍を起こされただけだしそれも3回ほどでしかない
元寇も二回だよ馬鹿
10年くらい空いている
アイヌ元寇はそれをもっと続けただけ
つまりそれまで失敗してる
アイヌの方から攻め込んだりしたからだよ
ちなみに蒙古側の記録では
アイヌ元寇のモンゴル武将の名前で
九州元寇に同じ名前のやつがいるんだぜ
どちらも参加したモンゴル武将がいた
交易絡みのトラブルが原因とも言われているね
遊牧民にとっては自然の草原が漁場のようなものだから
都市化されると養殖地のように見えている
天然資源が失われて非常に憤りを感じるらしい
よくモンゴル軍が都市を更地にしたという逸話があるけど
あれは文字通り建物を壊しまくってる
人間を○してるのではなく自然破壊を憎んでいる
日々訓練しているから糞強かったらしいな
鎌倉時代の弓とか今の奴はまともに打てないらしい
世界史は全くわかんねーよ。
内部争いが起きたから
手を広げ過ぎたから
終わり
内輪揉めで分裂
まあ、普通に考えて分裂するわ、広すぎるしww
現代のガソリンエンジンや鉄道網、そしてネットや電信電話の通信網があったとしても
あの広さの領土は維持できないんじゃないか、流石に。
何しろ、ポーランドから日本海までだからなww
今のアメリカも糞広いけど、その2倍くらいあるだろ。
あ、ソ連、ロシアはシベリアは殆ど無いも同然だからな。
ウラル以東のシベリアはただの氷。
海戦ができること
日本は海賊国家だからな
海の強さは陸の強さとは違った凄みがある
日本にいたら海の者がどれだけ強いか知っている
西に行けば硬い鎧と無茶苦茶射程があって強力な矢が飛んでくる
もう異種格闘なんてレベルじゃなくて結構撃退されてんのよな
モンゴルは負けてもしつこく何度も攻める粘り強いのが強み思うわ
南宋なんて30年かかってる
日本は2回ですんでラッキー
南宋滅びたのは世界史の上でも非常に勿体なかったね
あれで支那の歴史が決定的に途絶えてしまった
戦争における騎馬兵の重要性が下がったからじゃね
突撃ばっかでタヒ傷率高いと兵力不足で負傷は足手まとい
常識覆したチンギス・ハンだけはとんでもない版図だったけど息子はそこまででもない
東は日本、西はウィーンまで攻撃するって今、考えても凄いよな
歴史上の出来事で仕方ないとはいえ、
ウィーンは取って欲しかった。
そこから山岳地帯なんじゃないか
ヨーロッパ制覇するなら
北に回った方がいいと思うけど
なんでアルプス山脈に突っ込んだんかな
フン族もそうだけど欧州に入った途端に
自滅していく遊牧に適する牧草地が激減して
補給が難しくなったのでは?
大きな戦いは数年前から動員と編成と兵站を
考える
ヨーロッパ遠征の時は人口に応じて16歳から
17歳の少年を集め歴戦の指揮官の元2年前に
モンゴルを出発し戦闘訓練をしながら現地に
着いた
若者達は1人者だから身軽で現地に留まり
主に征服し配下となったトルコ系の
キプチャック族やカンクリ族の女性を妻として
子孫達は急速に風貌もトルコ化し新たな
モンゴル族をユーラシアに拡大させた
使節が携えた「元は弘安の役で無様にも我が国に敗れた。貴国はいつまでも弱い元に怯えて従属しておられるのか」という親書を読んだチャンパ王は「日本は元を破った。我が国に出来ないことはない!!」と発奮
北部の大越国陳朝と手を組んで元に反旗を翻すことに決めたのだった
なお、元は陳朝と手を組んだチャンパ王国に攻め入ったものの戦況は思わしくなく敗走を余儀なくされた
ほんまかいな
ウソくせえ
アズマエビスの関東脳筋暴力団に
そんな脳みそないやろ
元の記録にも載っているれっきとした史実だよ
鎌倉幕府の上層部は禅に帰依して学問に通じた教養人でもあった
執権北条時宗も幼少期から学問に親しみ蘭渓道隆や無学祖元といった禅の高僧に帰依していた
鎌倉幕府は渡来した旧南宋人を相談役として抱えていたので、チャンパ王国に使節を送ったのも彼らの進言といわれている
ウソくせえ
元への返書も書かず、使者を切るという関東脳筋暴力団が外交できるわけねえだろ
そもそも南宋ともすら正式な国交もなかったのに
ベトナムに国使派遣するわけねえw
鎌倉幕府は南宋との民間貿易を奨励していて出先機関である鎮西奉行に管理させていた
鎌倉幕府が禅に帰依していたのは南宋でも有名であり、南宋の禅僧が往来していた
南宋はチャンパ王国とも民間貿易をしていたのが判明している
元の使節を斬ったのは、最初の頃の元の使節が諜報活動をしていたのが発覚したので、情報漏洩を防ぐためにやむなく斬ったのが実情
鎌倉幕府が残忍というわけではない
その証拠に、高麗の使節は捕らえたものの助命しており、使節がそのまま日本に住み着いたと記録に残っている
鎌倉幕府が無学とするのは大きな間違いで、上層部は少なくとも教養があった
九州人が大陸と民間貿易をしてたから
関東広域暴力団に外交能力があるのはつながらない
そもそも日本は遠国に国使を派遣できる航海能力がない
留学僧は宋の船に乗った
それは宋への留学生だったからでは?
松浦の船なんかは自由に南シナ海を行き来してなかったっけ?
倭寇は南北朝以降
しかも前期倭寇の活動場所は朝鮮半島や黄海沿岸
陸には強いが海にはめっぽう弱い
ベトナムは陸じゃないかと言う人が居そうだが、中国からベトナムは山が凄くて馬で越えるのは困難
中越の移動は古代から海路が中心
広い平原でこそ無双のモンゴルが山や森の多い国を攻めるのは難しいだろね
日本やベトナムみたいな高温多湿地域だと
水溶性の膠を大量に使ったモンゴルの合成弓は使い物にならなくなるだろうし
後継者グユクが急タヒすると
モンゴルは後継者争いになったからだろ
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1724262696/
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