三国志でターニングポイントとなった赤壁の戦いの真実
有名な赤壁の戦い
実際はどんなものだったんでしょうか?
三戦板に気兼ねする必要はないよ。ここはここでやればいい。
とりあえずWiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%E3%AE%E6%A6%E3%84
赤壁の戦いは、208年の中国三国時代に魏の曹操の軍(15万)と蜀の劉備・呉の孫権連合軍(推定5・6万)の間で長江の赤
壁(現在の湖北省)で起きた戦い。連合軍側の勝利で終わり、曹操の天下統一の野望は頓挫する。現在赤壁と呼ばれている
場所とは位置が異なるようである。北宋の詩人蘇軾は、この間違った地で「赤壁賦」を作ってしまったらしい。
史実における赤壁
208年7月、荊州の牧であった劉表を攻める為、曹操は兵を率いて荊州へ南下を始める。八月、劉表がタヒぬと策略により劉表
の跡を継いだ次男・劉琮は9月に降伏し荊州を曹操に譲り渡してしまう。孤立した劉備は、長江づたいに南下し、長坂で追いつ
かれるが、何とか難を逃れ夏口へ到達する。そこで劉表の長男・劉琦と合流し、孫権の命で荊州の動向を探りに来た魯粛と落
ち合う。その兵百万と聞き孫権は驚愕するが、周瑜は、実際には14~5万しかおらず、軍隊は疲弊しきっているので勝機はこち
らにあると孫権を説得する。
劉備からは諸葛亮、孫権からは魯粛が使者となり同盟を結び、長江を挟んで対峙する。孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を送
る。12月黄蓋は策を練り、実行される。周瑜は失策失敗を理由に黄蓋を鞭打ちし、恨みを持った事を理由に黄蓋は降伏した。し
かし、これは偽装であり内側より火攻めに成功、多くの軍船が沈んだ。苦肉の策という故事成語はこの時より生まれた。
曹操軍は慣れない江南の地で疫病や兵糧不足に悩まされたこともあり、荊州の大半を放棄し、樊城の守りを曹仁に託し許都
に引き返してしまう。
孫権・劉備側の完全勝利ということもあり、あたかも曹操が致命的な痛手を負ったかのように評される事もある。しかし実際に
名前の知られた曹操配下の武将の戦タヒ・戦傷の例が皆無であり、またその後の曹操が莫大な費用のかかる銅雀台の建設を
進めていることからして、少なくとも致命的な被害とは言えないと考えられる。実際にどの程度の被害であったかは史書にはっ
きりとは記載されておらず、推測するほかは無いが、この戦いの結果により曹操の南下政策が頓挫したのは事実である。
『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。
『三国志演義』では、朱元璋が陳友諒の水軍を火計で打ち破った鄱陽湖の戦いをベースにしている部分があるので注意が必
要である。
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉
琮と後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を会わせ「百万」と号した。諸葛亮の意見を取り入れず荊
州を奪う事を諦めた劉備は曹操軍に追われ、ひたすら南に逃げるが大量の領民を引き連れたために進軍速度が上がらず長坂
坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れると、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。一方、江東に勢力を伸ば
していた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していた
が、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策
の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。当初、周瑜は魏に
降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒っ
て孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、
荊州水軍の要である蔡瑁を謀○する。蔡瑁謀○後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽
情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。
また、火計を効果的にするために、当時在野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同
士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方
向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると
言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く(民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初
めから知っていたと言う話やドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある)。機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積ん
だ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で
地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分を○そうとしている事を察知した諸葛
亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし
諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、○す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて
関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。
よくあれだけ盛り上がる話に仕立てたなと、作者の創作力に感心するよ。
あんまりよく分からん戦い。
三国時代の数ある戦いのうち、わりと大きな戦いの1つ、といったところ?
まだ、曹操の方が大物感があっていいよ。
荊州で撤退する時なんか、まんまと民衆を盾に使ったしね。
あの男の才能は、逃げる時に最大限に発揮される。
曹操の軍勢で疫病が流行ったのは事実。
それが撤退の最大の理由だろう。
正史の人口記録だと、後漢最盛期に比べて三国時代はほぼ10分の1に減っているけど、
実際は王朝の人口把握能力の低下によるところが大きく、そこまで極端な減り方はしていないと思う。
大きく人口が減少したことは事実にしても。
兵力の誇張は、古今東西どこでも同じだね。
三国時代は、実際のところ、最大でどれぐらいの兵力を動員できたんだろう?
捕虜逃走を含め帰国出来たのは半数程で、これが滅亡の遠因になる程の戦力低下に繋がっているとすら書かれてたな。
20 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/25(水) 12:53:13
赤壁というか、曹操の荊州侵攻以降の劉備の動きは神がかってるよな。
曹軍侵攻と劉ソウ降伏を知った劉備は、抵抗と曹操撃退の手を考える。
襄陽を占領したてこもるのは時間がないし危険が大きい。劉ソウがいるのだから、占領自体に手間取るかもしれない。
江陵に急ぎそこに拠るのは魅力的だが、だからこそ曹操もそれを真っ先に潰しに来るだろうと劉備にも読めた。
ではどうするか。
自分に近い立場の江夏太守劉キとの合力しかない。しかしこのままでは兵力差にかなり不安がある。
そこで劉備は敢えて襄陽や江陵が目的地かのような行動を取り、曹軍をひきずりまわすことにした。
曹操はまんまとその手に乗り、強行軍に次ぐ強行軍で劉備を追いかける。
更に極めつけは、曹操の切札虎豹騎である。袁譚を斬るなどここ一番に投入されてきた精鋭を、劉備はわざと使わせる策を使った。
それが民と歩調を合わせた行軍である。
江陵を確保されることを恐れた曹操は一挙に決着をつけるべく劉備に虎豹騎を投入。
しかし劉備の遅い進軍は罠だった。今まで民と一緒に行軍していた劉備は、虎豹騎に追いつかれるといきなり全速力で東に逃走。
虎豹騎は民に阻まれ劉備をとり逃がす。後に残るは疲弊して使いものにならない軍馬と恐怖を味あわされた民の曹操への恨みだけだった。
劉備はかくして真の目的を隠し兵力も関羽に分け温存しつつ、曹操には無駄な消耗を強制しながら江夏に入ることに成功したのであった。
演義じゃ、諸葛亮がやったことのようになっていることも、
実際は劉備が考えて実行していたりしていたことが多いからねえ。
その点で、劉備は過小評価かも知れない。
曹操の軍勢と孫権の軍勢との間で戦いはあった。
近くで劉備がうろうろしていた。
曹操の軍勢では疫病が流行っていた。
曹操の軍勢は北へ引き揚げた。
分かっているのはこんな感じか
孫権は江陵を占領した
劉備は荊州南部を占領した
曹操はこの戦役で完全な勝利を収めて荊州を平定した後でも、
江東の平定まではまたかなり時間を要したんじゃないかな。
鄱陽湖の戦いも分析しないとな。
降伏論も強かったらしいし。
そんなに意気込んで戦ったわけでもないんじゃないの。
戦略目標としては、劉表軍閥乗っ取りを企む劉備の行動を阻止すること。
これは成功している。
劉備が逃げたから、追撃を掛けてみただけ。
劉備の身柄確保がならなかったのは惜しいが、
戦いには勝ったことだし、撤収しよう。
↓
後、反曹操陣営は赤壁の戦いに大勝利したと宣伝
江陵で一年間粘った曹仁が浮かばれません……
でも、演義の赤壁の戦いは素晴らしいと思う。
あの時代に、これだけわくわくする展開の戦いを書けたんだから。
赤壁の戦いがなかったら、演義の魅力も半減だろう。
実際に戦った場所は別なんでしょ。
後世の詩人が訪れ、赤壁の戦いを妄想して詩作してみた場所が有名になったけど、
そこが実は場所違いだったという話を聞いたことがあるけど。
その早とちりした場所が「今、赤壁と呼ばれている場所」のことかな。
二十万人全員が水上に布陣することもなかっただろうし。
大軍を誇る曹操が退却時火攻めに遭えばタヒんでいた状況って物凄い惨敗じゃん
軍が総崩れにでもなってなければそうはならないよ?
撤収するにあたって持ち帰れないから焼却処分したと、
後に孫権へ伝えているが
撤退しただけならすぐに動けばいいのにそれから1年も何してたんすか?
曹仁さんもほぼ放置っすよね?
惨敗したにしては将校の戦タヒ者がゼロだし
ただ撤退したにしては撤退しすぎ
国内でなんか異変があったのか?
曹操は襄陽までは陥としたが、江陵はその先。
要するに出征した先で敗れたのだから、撤退するのに特に理由を必要としないんじゃないか?
その後、曹仁を置いて1年ほど粘らせたのだから上出来だと思う。
こんなに多いのか
『三国志の真実』系の本に影響されすぎ、もしくは曹操信者過ぎ。
曹操が負けた戦いすら、勝った、もしくは演習だったと言い張る『蒼天航路』
ですら、曹操の敗北は認めざるを得なかった(曹操の病気でごまかしたが)
もっと、広い視野で歴史を見ようよ
正直説得力無いんですが
いや、影響されている人は、かなりいると思える。
それとは別に、曹操信者すぎて、武帝紀しか見ずに
赤壁の戦いはない、とかのたまっていた人が確実にいたし。
荊州失陥の理由ついては何の反論根拠もだせず、赤壁を小規模だったと言い張るのは
漫画やゲームをソースにする人と五十歩百歩だと思う。
「荊州」失陥じゃなくて「荊州南部」失陥もしくは支配失敗ではないかと思うのだが
曹操が赤壁で決戦しなければいけない理由ってあったのかな?
大河での戦いは艦船、武将共に呉に有利で、曹操は赤壁という地の研究を怠り、特質な天候の事も知らなかった
天地人全ての利を相手に預けて戦に望んだ訳だから負けは予測できそうなのだが、反対する部下はいなかったのか?
わざわざハイリスクな戦いをしなくても、まず蜀を占領して益州あたりから長江を渡河すれば水上戦をしなくてすんだはず
慢心は怖いな
>>128
曹操は赤壁で決戦したかったわけじゃないと思うよ。
曹操はまず劉備を滅ぼしにいったんだろうから(その後は孫権かもしれんが)、劉備をスルーして孫権を狙うとは思えない。
慢心には変わりないんだが、曹操は劉備を狙ってる内は孫権が侵攻(赤壁は荊州側であり孫権は自領を超えて来ている)してくるとは思ってなかったんだろ。
孫権軍に進撃を阻まれ江夏郡にまともに上陸もできないなんて想定してなかったんだろう。
劉表とは仇敵、家臣には慎重論が強く、主の孫権は若輩者、という呉が劉備と手を結んで自分に真っ向から立ち向かってくるということ自体を計算していなかった。
赤壁のような地で阻まれると思ってなかったんだから、研究もしてなかっただろうね。
脅しの文書送れば黙ってるはずだ、ってね。
曹操陣営では程イクとカクはそのあたりの危険性を承知していたんだが、曹操は取り上げなかった。
>>129
うん呉の進軍は曹操の誤算だった
呉がきたから戦略的な撤退という選択肢は無かったのかな
慢心+覇王の面目っていうのもあったんだろうか
↓
孫権「横からカウンターアターーック!!」
↓
曹操「ちょwwww」
↓
劉備「俺の戦略どおりwwwwwww」
諸葛亮「イヤイヤイヤイヤwwないないwwまあラッキーだけども、それはないッスw」
・あんなに敗走続きのはずなのに赤壁時点で(自称)二万の兵を保持
・曹操は江陵こそ占領したが非戦闘員○しの悪名を被る
・江陵で合流するはずの関羽と上手く合流して一緒に江夏へ
・襄陽をスルーしたお陰で曹操の鋭鋒を躱した
・虎豹騎は劉備追撃の強行軍で使えなくなった
・荊州の支配者ではなかったのにいつの間にか荊州の旗頭になっている
・いつ攻めてくるかと待っていたら、すでに間近でしかも主は降伏していた
→やばい今すぐ逃げよう。江陵あたりを確保できればなんとかなる!
・襄陽を通り過ぎる。諸葛亮が襄陽攻めちゃえとか言ってる
→いや曹操に近すぎだし。江陵くらいまではいかないとな。紳士っぽくふるまっておいたら逆に味方増えるかもしれん。
「ぼくそんなひどいこと出来ないよ(棒」劉ソウガクブル。劉ソウ見限る者続出ウマー
・なんかついてくる人多すぎて進軍遅すぎるんですけど。「おいてっちゃえば」って言ってくる奴もいる
→おいてったらさすがにみんなガッカリだろうな。江陵は関羽に先行させよう。これなら本隊が負けても関羽隊は温存できるし。
俺?曹操に追いつかれてから逃げることにするよ。
・曹操、襄陽を一気に占領。さらに虎豹騎5000で猛追
→おいおい、早すぎだ。馬つぶれちゃうぞ。
・虎豹騎、劉備に追いつく
→やべ、逃げよ。幸い避難民とか大人数のおかげで俺らの捕捉に手間取ってるし。それに避難民をあんな攻撃する奴は嫌われるぞ。
趙雲、なにやってんだ?息子?おいおい息子よりお前の方が戦力なんだから自重してくれよ。
よし、こっちに逃げれば多分関羽と出会えるはずだ
・魯粛に会う
→お?向こうから面白い話が来たぞ。江陵を確保できてもできなくても孫権の力を借りるしかないとは思ってたしな。ちょうどいい。
もう江陵無理だし、第二候補の江夏に行こう。
・関羽と合流、江夏へ
→よし計算どおり。関羽の船に乗って、さあ江夏行きだ。あ、諸葛亮は孫権とこ行ってて。
劉備ってやっぱり、天命があったんじゃないかと思えるw
普通なら、地元住民とのつながりから、その地に勢力基盤を樹立して
一方面の雄となるのに、劉備ってやつは…
何かの本で読んだことあるよ(「諸葛孔明の生涯」だったかな?)。
出師の表に曹操の敗戦が書き連ねてあるのに、赤壁だけ無いとか。
あの戦いの周瑜の武勲は相当大きいのに、褒美がほとんど無いとか。
けど、陳寿の史書には書いてあるから、無いとは言い切れないと
凄い曖昧な結論だったがww
ほんとにそんな大会戦だったとすれば
この戦いでタヒんだ魏側の武将が少なすぎるからね。
同じような状況の夷陵の戦いでは蜀漢の武将がバタバタタヒんでるのにね。
>>149
大会戦という可能性は非常に低い。
曹操軍は行動線の限界と気候風土の違いで、赤壁付近で疫病にかかって停滞していた
そこで攻勢をしかけてきた(諸葛亮の差し金で孫権がやる気になった)周瑜軍を厭って、
長江北岸に撤収したが、南岸の周瑜は持久戦を捨てて、黄蓋の進言に従い
例の偽って投降させ、火船をもって北岸の曹操陣営を焼く作戦を実行した。
その結果、強風も手伝って、曹操陣営を燃やし人馬に被害を与えた。
ために曹操は南郡(江陵)を保ちつつ、軍を引き上げさせた。
というのが、周瑜伝にあるのだけど、両軍ガチ○コではなく、限界を感じていた曹操が
引き際を計っていたときに、周瑜の速戦があって、いらぬ損害を出してしまった
という感じにみえる。
>>夷陵の戦いでは蜀漢の武将がバタバタタヒ
それはやはり、夷陵での蜀漢軍が突出しすぎていたからじゃないだろうか。
高級将校が討ちタヒにしまくるっていうのは、ほとんど逃げ道を閉ざされた縦深に
取りこめられたからとも思えるが。
夷陵のがタヒにすぎてるんだろうね、どちらかというと
赤壁については、大会戦であろうがなかろうが、結果として周瑜と劉備は一気に江陵まで攻め込み、曹操は迎え撃たずに北へ戻った
その後も孫権と劉備が荊州でいさかいさえ起こしているのに荊州に再度攻め込むことはなかった
更に曹操自身もあとちょっとで劉備の火計の餌食になるところだったという話さえ残っている
曹操の大敗北であった事実は揺るがない
結局、曹軍の拡大限界の証明みたいな意味合いは非常に強いね、赤壁での敗退は。
漢中攻防は、劉備のクリーンヒットで無理やりもぎ取られた感じもあるけど
曹操軍自体は疫病による被害の方が大きく、
撤退に成功したと見た方がいい。
それは史料的根拠は特にないと思うが、まあそれは別としても・・・
袁氏の兵は、冀州を第二の本拠としている曹操としてみれば主力と言っても過言ではない
これが多数タヒんだのであれば被害甚大であったことに違いは無い
どっちかというと「成功したのは撤退だけ」、と表現するべきだろう
曹姓か夏候姓の連中にタヒ者が皆無だからねえ。
一族に軍団を統率させてる筈なのに。
あんまりたいしたこと無い戦いだったのかなあ。
『三国志』に名を残すのは原則として中途で戦タヒなどしなかった者だからな
記録が無いだけで本当に皆無だったかどうかは分からない
まあ正史に載ってないだけで当時有名だったり実績があったやつが多いだろうが
それをするなら、従軍した名簿やら論功を記録する書に当たらないと。あるかどうか知らんけどよw
馬良みたいなガチガチの文官でさえ戦タヒの夷陵の戦いってのは
どれだけ酷い負け戦だったのやら。
やはり曹操軍の幹部クラスに戦タヒ0ってのが
赤壁の規模に疑問を持たれる理由だよなあ。
皇帝親征で、なおかつ皇帝の近辺がやばくなるほどの重囲に落ちたんだから
ついてきた文官がタヒぬのもそりゃおかしくないってね。
赤壁の曹操の敗北は、重囲にさらされる以前に逃げ支度していたところ
思ったより周瑜が早かったか、黄蓋の偽投降を信じすぎて、迎え入れようと
待ってしまっていたか。
どっちにせよ、このときは周瑜が曹操を上回っていたのだと見るな。
映画「レッドクリフ」の史実率って大体何%くらい?
>>165
レッドクリフは歴史書ではなく三国志演義という小説を元にしている
その上さらに創作を加えているのだから史実率が高いはずはない
三国志演義は史実に近い場面もあるが、赤壁の戦いの史実率は低い
映画でも実際の戦いにほとんど無関係なはずの諸葛亮や小喬がメインキャストにあがっているから
この映画に史実率の高さは全く期待できない
けど、観てないから何%かまではまだ言えない
なんでこんな戦争やってんだろ? という印象
>なんで官渡の戦いで勝ちながら赤壁の戦いで負けたんだ?
天下分け目の決戦では負けるわけにはいかなくても、ド田舎の
辺境視察ついでに少数民族のゲリラを相当するのに失敗しても
「また来るか」で引き返すのは当然のことでしょ。
日本で言えば幕府を開いた家康が、蝦夷地にこもった辺境の民が
「我こそは日本国王なり」ってほざいてるのをほったらかしていた
程度のことだったんだし。
地位の高い奴らは
「何か腹いてぇ!→疫病じゃ、焼けい!→スタコラサッサー→治療」
で済んだが、
兵卒とかは
「何か腹いてぇ!→炎の向こうで上層部が撤退→おい、待ってくれ!→て、敵襲!?→タヒ亡」
だろうな
お前ら何かと史実なり正史に記述あるとか言って反論するけど
何で同じ書物読んでるはずなのに内容食い違ってんだよ
本当に歴史書読んでるのか?正史を枕言葉に自分の妄想垂れ流してるだけだろ
特に曹操マンセーしてる奴
>>205
まあちゃんと正史他史料読んでる人は
演義程の大戦はなかったものの、曹操は被害を出してるし
後漢末期に確立されたと思われたヘゲモニーを引っ繰り返してる契機になった戦い
という位置付けをしてると思うよ
たいしたことなかった人は史料を見落としてるし
超損害!大損害!って人も史料を読んでない
有名武将が誰一人タヒんでいないのもその理由の一つ
そんな事言ったら曹操と劉備の戦いなんて多くが無かった事になりまっせ>>216
考えたんだけど、劉備が赤壁で連合軍の総大将をしてるって可能性は無いか?
魯粛伝の呉書だと関羽が劉備は甲冑も脱がず戦ったって有るし、魏志じゃ曹操は
劉備に敗れたって書いてある。他にも程昱伝は孫権が劉備を立てて闘うと云い、諸葛亮伝だと孫権は劉備こそ曹操を止められる
英雄と言った。要は劉備が赤壁において果たした役割は演義や従来の正史絵巻よりも重大なんじゃねって事だ
曹操軍vs.劉備・孫権連合軍って従来の図式で赤壁の戦いを眺めると、
孫権軍の総大将たる孫権は後方にいて、曹操本隊とは別の場所(合肥)
を攻撃しているから、赤壁(烏林)で曹操と戦った軍勢は、
実質的には議論の余地アリだが、少なくとも名目上の総大将は
間違いなく劉備だろうね。
そして、孫権が劉備の許に派遣した大将が、
周瑜と程普(左右の督)って構図。
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1165497905/
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