『古事記』って江戸時代に本居宣長が称揚するまで偽書扱いされてたんだから、序文は偽書だと思うんだが
①古事記序文によれば勅撰であり、天皇に奏上された筈の古事記が、正史の「日本書紀」にも「続日本紀」にも一切登場しない
②勅撰を自称している古事記が、無官の太安万侶一人で編纂されている
③古事記を暗誦した稗田阿礼は「日本書紀」にも「続日本紀」にも登場しない謎の人物
④性質の異なる、しかも内容も違う二つの史書が天皇(天武)の勅命でそれぞれ並行して編纂されるという不可解さ
⑤日本書紀では崇峻天皇が蘇我に暗○されるが、古事記では暗○されない。
日本書紀では厩戸皇子(聖徳太子)の功績が強調されるが古事記では一行しか登場しない。
⑥本当に太安萬侶が文学性豊かな『古事記』の撰録者であれば全4500種が集まった『万葉集』の歌の中に一首ぐらい彼の歌があって当然だが、無い。
⑦古事記ではヤマト→倭と表記。日本書紀ではヤマト→日本と表記。
⑧天皇の没年齢が古事記と日本書紀で全く違う(つまり日本書紀の編者は先にできた筈の古事記を意に介していない)
⑨古事記が他の書物に引用されるのは802年[弘仁私記序]が初めて。謎の100年のブランク。
⑩江戸時代まで偽書扱いないしは軽視されていた。
謎が今夜、このスレで全て解けます
それは原古事記が失われた伝説の書「天皇記」の写本だったからです
古事記と日本書紀……なぜ日本には史書がふたつあるのか? [926170111]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1601485043/
学会で認められてからまたどうぞ
↓以下タワ事
>>12
全く関係ない
古事記が発見されたのは812年から
それ以前の記録は一切なし。
正史である日本書紀にも続日本紀にも一切登場しない
延喜式の原資料は別の史書
その日本書紀が意図的に捏造されたもん
>>38
藤原不比等の都合が良いように書かれているのが【日本書紀】
蘇我の都合が良いように書かれていた「天皇記」を、当時権勢を振るっていた藤原氏に弾圧されないよう&自家を称揚するため多人長が修正したのが【古事記】
古事記は「編纂」な。
なぜ60年間も費やしたか→陰陽師たちが史実か否か、「サニワ」しなら仕上げた。
聖書も似たようなもんだろ
イエスて何して食っていたのかね
やはり献金がっぽりで最後の晩餐やったのかな
>>43
きたむらは>>1の疑問に全て答えられるの?
そもそも日本書紀の天皇没年齢が、先に編纂が終了した(と古事記序文で自称している)の古事記との違いが多過ぎるという大問題がある
つまり、日本書紀の編者達が古事記(天皇記)を【全く意識】してなかった。存在すら知らなかったということ以外に考えられないぞ
反論するなら712~812の間にある古事記空白の百年の記録を一つでも持ってきてほしい
すげーな
江戸時代の事知ってるんだ
だったら古墳時代とか飛鳥時代の事知ってても不思議ではないかな
俺は信用しないけどね
>>53
賀茂真淵にすら古事記は偽書だと言われてますよ
江戸時代のネトウヨ
物凄いパワーワードw
わかりやすくタイムライン化しましょう
【古事記の辿った歴史】
○[真]西暦620年
蘇我馬子らが「天皇記(大王記)」を編纂する。
○[真]西暦649年
蘇我倉山田石川麻呂さんが誅○される。
重要な「好書=おそらく天皇記」を遺す。
●[偽]西暦712年
稗田阿礼が暗誦、太安万侶が編纂し「古事記」が完成。と古事記の序文に書かれている。が客観的な証拠なし。
○[真]西暦800年前後
日本書紀講師の多人長さん、講義に使える参考書を探してる間に「天皇記」を発見
( ゚д゚)ハッ!
正史と全く違う記述に仰天&豊かな神話に感嘆し、自家の権威付けのため利用してやろうと考え先祖の太安万侶を編者とした序文を追加。
藤原氏が権勢を振るう世情を鑑み&不敬を恐れ、ある程度正史と整合性取れるように修正。
○[真]西暦812年
「古事記」の存在が初めて他文献(弘仁私記序:多人長さんが講義)に記される。
《紆余曲折、秘書扱いで近衛家書庫に封じられたり偽書扱いされたりでずっと不遇…》
○[真]西暦1798年
国学者本居宣長が「古事記伝」を完成させる。
彼が古事記を称揚した事により評価が一変し、史上初めて日本書紀と並び評される神典として祭り上げられるようになる!!
古事記の神話、日本人がずっと昔から受容し続けてきたと思われがちだが室町時代に一部の知識階級が知って江戸時代に本居宣長が称揚するまでは軽視されてたんだよ
両部神道でも山王神道でも日本書紀しか使わない
一条兼良『日本書紀纂疏』(代表的な日本書紀注釈)なんて、旧事本紀引用27箇所、古事記引用【1箇所】だけ
日本書紀≧先代旧事本紀>>>古事記って扱いだったわけな
>>6
それ延喜式じゃん
古事記全然関係ないよ
日本書紀も大和朝廷側の当時のトップの意向が反映されてるから全てが真実じゃないだろうしね
>>13
そういう話ではない
古事記は正史に一切登場しないのです
古事記が天武の命令で編纂されたってのも、712年に完成したってのも、古事記が自称しているだけ
たとえばアメノミナカヌシは原初の始原神だが延喜式に載るような古くからの神社では殆ど祀られておらず古事記復権と国学の隆盛により近代になってから広く祀られるようになったという経緯がある
江戸時代まで古事記信じてたやつなんてほぼいない
何言ってんだよ。
>>17
古事記に出てくる神×
原古事記である天皇記に書かれている神◎
朝鮮征伐した神功皇后は旦那の仲哀天皇タヒんでから
1年以上経って応神天皇産んだと書いてる
応神天皇誰の子やねん
万世一系と言いながら
「あ、察し、、」とわかるように
めちゃめちゃ正直やんけ
>>22
そうなんだよ
だから比較的日本書紀より古事記の方が信頼できる。というか蘇我時代に作った史書に近いと思う。
日本書紀は藤原不比等の息が掛かりすぎてる。崇峻天皇が蘇我氏に暗○されたってのも蘇我氏を悪魔化するための嘘だよ
古事記に書いてないもの
仲哀てヤマトタケルの息子だろ
ここで卑弥呼と同じ畿内か九州かの別れ道
>>28
というか古事記にしか書いてない
天皇の命令で編纂され、和銅5年に奏上されたのなら正史である続日本紀に記載されていなきゃおかしい。
例えば日本書紀なんかは『宮中のみんなで勉強会やりました~』みたいな記録が残ってるし他の史書にもバンバン登場する。
古事記は日本書紀や続日本紀に一行も登場しない。
>>50
あるけど。
纏向、箸墓
これ、古事記と日本書紀でプロットすると面白いんだよなあ。
私は全部偽書だなんて思ってませんよ
むしろ日本書紀より藤原の息がかかっていない重要な史料。
ただ編纂の経緯が明らかにおかしいと言っているだけ
>>61
いや古事記の方が正しい
昔は半年で一年カウントだったから古事記の方が古い習慣を残している。
やはり原古事記は失われたはずの天皇記が元ネタ
古事記には崇峻天皇が蘇我氏に暗○されたなんて書いてないし厩戸皇子(聖徳太子)なんて一行しか登場してこない
一方日本書紀では、蘇我氏が崇峻天皇暗○までしちまうし厩戸皇子が大活躍する。
つまり飛鳥時代の事績が蘇我氏の物ではなく厩戸皇子の物として描かれている。
つまり日本書紀は古事記と比べて【超・反蘇我氏】
まあ、こういう差が出るのも納得だよね
通説によれば推古天皇の政権は、大王推古・推古の甥の厩戸王(聖徳太子)・大臣蘇我馬子の三者による共治だった。
ただしその当時、皇太子という地位も、摂政という職位も成立していなかったので、厩戸王は大王位継承資格者としての政権参加だった。
ひとことでいえば聖徳太子の地位はファジーだ
地位がファジーだから、どれだけ政策決定や統治に参加していたのかもあやふや。厩戸の名前も、そもそも実在の人物かもあやふや。
史上初の女帝・推古天皇即位の直接の契機である崇峻天皇暗○と、その背景にある巨大帝国・隋の大和朝廷への圧迫がなければ、
聖徳太子という人物は後世の日本人には全く知られず歴史の闇の中へ消えていったはずだ。
蘇我宗家の政治的業績を公認するわけにいかなかった天武・持統朝が、ほんとうは蘇我宗家がした仕事を厩戸王の業績に付け替えた
だけなのかもしれない。そういう意味で日本書紀とは胡散臭い書物である。
俺は蘇我氏が可哀想で仕方がない
蘇我氏の方が有能だった。天智天皇や中臣は大馬鹿者だぜ?
有能だったら必ず歴史に名を遺すとは限らない。むしろ嫉妬され警戒されて誅○された者たちの数のほうがべらぼうに多い。
蘇我馬子の墓と推定されている石舞台古墳を見学しに行って、これはどうみても天皇家より立派な古墳じゃないかと感じた。
だから蘇我宗家は滅ぼされたのだ。
滅んでなければ天智天皇の権力掌握もなく白村江という大敗北はなかったかもしれない。が今さらそんなこと考えても仕方ない。
日本書紀を深く知るためには当時の簡単な政治権力の変遷と編纂命じた天武に至るまでを知らねばならん
説明しよう
【天武が政権握るまで大雑把に説明】
まず蘇我氏(葛城氏の外交担当支族)が全方位外交繰り広げてまあまあ上手くやってた(船原古墳から、蘇我氏は新羅とも仲良かった事が分かってる。)
けど中臣(後の藤原)&中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗○し【百済一辺倒外交】を展開。
唐との無謀な戦いに臨み派遣軍全滅。
で天智朝は白村江の戦いで完敗してから求心力失い豪族に妥協しまくって部民制復活(甲子の宣)させたり無茶苦茶な近江遷都で放火が相次いだり謎の唐軍2000人の上陸も阻めないで受け入れる様なレームダック政権になる
そんな天智朝を武力で(壬申の乱)ひっくり返したのが天武天皇
即位後直ぐに豪族が就いていた大臣職を全部皇族に入れ替える親政を開始
八色の姓で抵抗勢力は片端から粛清&左遷
国号を『日本』に変えたのも天武
『天皇』号使い始めたのも天武
五畿七道に分類して行政し始めたのも天武
伊勢神宮に社建てたのも天武
現人神扱いされたのも天武が初めて(柿本人麻呂の歌)
大嘗祭始めたのも天武
この時に天武の命令で古事記が編纂される。と古事記は主張するが
ならば古事記本文でヤマトを倭と表記するのはおかしい、既に国号を正式に日本と定めた後なのだから。
日本っていう国号を考えたのは武則天だと思うわ
あまりに国号と武則天の思想が合致しすぎるし、武則天は既存の名称を自分色に変更しまくってたし、日なんて武則天お気に入り文字だから敗戦国の国号に使わせるわけない。
唐が送り込んだ監視役が藤原なんじゃないかな。
古事記空白の百年間を説明出来るやつはいるか?
勅撰史書なのに、正史である日本書紀や続日本紀に一切登場しない
宮廷でも日本書紀の講義はたびたびおこなわれているのに古事記はない。
天武が作らせたというのに、推古朝で終わっている。
なんだこりゃ
どう考えても失われた天皇記が元ネタだろ
あったとしても一般的じゃない
和や大和の方が通りがいいだろ
>>76
存在するし天武の時代に公文書は全て日本で統一された
そもそもなぜ天武が編纂命じたはずなのに推古天皇までしか記載されてないんだ?おかしいよな
これ、620年編纂の失われた天皇記が元ネタだったってことで全部説明つくのだよ
古事記が藤原氏に配慮した多人長によって修正される前の原古事記を見たかった
そう思わねえか?
>>80
朝廷は原古事記を隠匿したつもりだったから完全に歴史上から消えたと思っていたのだろう(だから日本書紀にも続日本紀にも一切古事記は記載されてない)
だけど、隠匿されてから100年後に何故か日本書紀講師の多人長がどこからか原古事記を入手してしまったというわけ。
天安門事件
>>84
天安門事件は二回起きてるから(中国国内では一回しか起きていないということになっているが)
ちゃんと【六四天安門】と書かないと意味ないよ
ほんの最近のことだからなぁ
印刷と言う複製技術が現れるまでは
ほとんどの書物は今の美術品かそれ以上の扱いで
目にすることすら難しかった
推古天皇「歴史書作ってください!」
聖徳太子&蘇我馬子(620)「天皇記できました!推古天皇までの歴史が書いてあります!」
どう考えても、古事記はこっちが元ネタだろ
あれ同時代の人間でも読んで理解できたのか、
なんか謎なんだよな
>>99
いや違う古事記の方が古い歴史をそのまま残している
けど多人長が序文上書きしたからおかしくなった
天武天皇(~686年)「壬申の乱に勝った!新しい歴史書作ってくれ!」
正史に登場しない謎の男稗田阿礼「わかりました暗誦します」
無官の太安万侶「わかりました編纂します」
稗田阿礼&太安万侶(712)「古事記完成しました!推古天皇までの歴史が書いてあります!」
流石におかしいわな、
一方で客観的に天武の勅撰だった事が確定している日本書紀は持統天皇まで記載してるわけで。
その前に聖徳太子が歴史書の編纂の為に歴史資料を全国で集めまくってた事実があるやん
東北の民話からロシア神話まで全部取り入れてるでしょ 東北では聖徳太子が本を盗みに来る伝記も残ってるんだろ
>>104
桓武天皇が色々焚書した
と神皇正統記に書いてあった
中国とかもだけど歴史書は勝者側の都合のいい歴史が書かれてるから話半分で読んだ方がいい
ただ完全に嘘でもないけどね
焼かれたり管理が適当だったら失くなる。
天皇記は乙巳の変で焼失。
国記は焼失を免れたけど結局わからなくなったとのこと。
他に帝紀、旧辞などがあったけどこれらもどこかいった。
日本書紀や古事記の元ネタ。
そのせいで軽視される物部一族の粛清の事変
日本の土着信仰を司っていたのが物部であり、仏教勢力の蘇我氏がこれを滅ぼして覇権を取ったことにより、
「初代天皇(天武)から仏教の帰依者」だったことを意味している
森 博達の「日本書紀区分・成立論」はもはや定説になってる
森 博達
日本書紀の謎を解く―述作者は誰か
日本書紀 成立の真実 – 書き換えの主導者は誰か
森博達先生の著作は勉強になりました。さすが中国語科だとおもった。
でもね、森先生のアプローチは史学科じゃなくて中国語科なんだ。そこが残念で、もう一押し足りない。
いつか将来、史学科的観点でもうすこし敷衍した形で日本書紀の研究が進化してほしいとおもう。
何だかんだで戦後も皇国史観に縛られてるから無理でしょ
古墳の発掘調査すら許可しないんだから
何が映っても文句言うなよ
引用元: ・『古事記』って江戸時代にネトウヨの本居宣長が称揚するまで偽書扱いされてた。俺も序文は偽書だと思う [237216734]
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