源頼朝は源義経が平家を滅ぼしたと聞いてあまり喜ばなかったらしいからな
https://business.nikkei.com/atcl/plus/00031/070100010/
3種の神器を朝廷にもたらせば
ドヤ顔できたからな
西国に領地獲得しても配下の御家人にくれてやる
だけだからそんなに嬉しくないw
安徳天皇をタヒ亡させたのは作戦失敗
さすが三谷と思うくらい45分の使い方が上手い
あと不穏好きならおススメ
ダメだなあれは。。
おれは早々に脱落した
まずいにしえの武士があんな言い方だったのか
時代考証してるはずなのだが
どうもこれまでの雰囲気がないというか
現代劇みたいに思えてきて、、
かなり最近の学説に基づいているらしいが三谷だからどうしてもコメディ調になるね
話しの筋が内ゲバ、粛清の荒しで陰惨さをなくすためといっているけどね
実態はどの戦いも源平連合軍。
ゆるく源氏平氏分けてるだけで、
保元の乱の頃から入り混じって源氏同士、平氏同士○し合ってる。
仇の平氏倒すのに、素寒貧の流人の頼朝に参じた北条も三浦も平氏
以仁王は、源氏に令旨をまく目的 だったから
義仲にしろ頼政にしろ武田にしろ安田にしろ
一応、大将は源氏なのよ
平氏を地球連邦軍とすれば平家はティターンズみたいなもんやな
敵を倒しました!とかってドヤられても・・・
「勝てばいいんだろ勝てば」
なので、
頼朝から嫌われたという感じだけど
今の通説ではどんななんだろ?
弟の頼範は頼朝に使者を派遣して指示を受けていたが、
義経は独断専行していた。
・義経は西国の武士を率いた別働隊で本隊は範頼の率いた東国武士団の方だったから。手柄を立てるのは東国武士団じゃないと戦後色々面倒なことになる
なにげに長期政権
義経のやってたことはただの討伐戦
掃討戦て言いたかったの?
おう
いっぱい自称落ち武者らしいとこはあるからな
あれと項劉記とスーパードッグワールド復活しねえかな
あれの徴兵兵力と動員兵力と無常の概念は良かった
異母兄弟だし兄弟も多いから現代の兄弟と比べてらもっと希薄な関係じゃない
母方の実家で養育されるから
異母な時点でほぼ他人
乳母兄弟のほうがよほど強い絆というね
朝廷の位打ちでやられたようなもの
それ何て源平討魔伝?
手下が勝手に天皇から官位をもらうと非常に困る
天皇の臣下みたいなイメージを周りに与えてしまうからな。まして義経は自分と血筋の近い弟だし
平家一門っていう言い方は嘘。鎌倉で内紛していたのと同じ
まあ暴力団抗争と似てるわな
平家の落武者って基本的に平家について家人、郎党たちのことだから伊勢平氏の血統というわけではないよな
源氏と平氏で仲良くしてりゃ良かったものをくだらん離間の計にハマりやがって
頼朝が源氏の棟梁だの後付けそのもの
あえて源氏の棟梁なる人物がいたとしたら最初にタヒんだ頼政
頼政は三位までなってるから源氏としても異例に出世した
伊豆に流されてきたのがキーポイント
あの当時ちょい前は、富士山大噴火や浅間山噴火で気候変動が農業後進東国にはあった
河川の大氾濫で川の流れが変わり、明日は他人の土地になる
しかし、朝廷からは税の要求はある
坂東武士が望んでいた神輿がそばにいた訳で
なぜなら、利根川のふもとから将門が出た
東国大飢饉から起きた朝廷への不満の前哨戦だよ
実のところは当時は西国が飢饉で平家が短期間で崩壊したのはそれも原因に
源氏は昔から一族同士でころしあいばっかしとるからな
武田信義と頼朝が初対面したときも微妙な空気が流れとったが
あの家も何代か前に暗○し合ったりしとるからな
そんなわけないだろう
平氏がろくに源氏追討軍と戦えなかった理由は内紛だ
源平合戦って言うか平平合戦なんだけど
源氏物語の頃は都に源氏で
将門を追伐した平貞盛の子孫が土着して、介(長官)になる
要人の守(県知事)は、任国には下がってこないから、介は権力を持ち始める
だから、坂東武士は平氏が圧倒
桓武平氏の1人が東国に国守でやって来て、本当は結婚出来ない土豪の娘と結婚し
父姓名の平と名乗る「桓武天皇の子孫だ!」ってね
それが、飢饉でアウトローの時代は効き目がある 用心棒姓名
それが、繁殖して平だらけになった訳
それは源氏も同じ
ただ桓武平氏よりあとの天皇である清和天皇から別れた清和源氏の方が血統的には天皇家に近いし、そもそも天皇家から二親等以内で別れた源氏と三親等以降で別れた平氏では源氏の方がブランド力があった
清盛系の伊勢平氏が急激に家格を上昇させるまでブランド力は源氏>平氏で間違いない
坂東平氏では頼朝みたい旗頭になれないし、奥州藤原氏が、義経を大将といったのも奥州藤原氏より源氏ブランドの方が上だったのが証左
さらに頼朝は平治の乱で一瞬従五位もらってたんで、関東で位階をもらった人なんてみんな見たこともないってのりだったんで担がれた
公家のコバンザメみたいな事までして苦渋なめながら富を選び領民には威張り散らす平家のやり方があまりにも下衆だったからだろ
義経はソレを理解せず単なる仇討ちにしてしまった
頼朝としては武士全体の地位向上と自治運営を勝ち取りたいだけだった
同じ武士の根絶やしが目的ではなかった
頼朝は以仁王の令旨受けとっただけで、全然挙兵するきなかったぽいんだが
頼朝の京都からの情報を送っていた三善が令旨を受けとったやつは厳しく詮索されて処罰されるとかいう勘違い情報に振り回されて挙兵したってのが最近の説みたいだけどね
あれは改名してるんじゃくて
朝廷にだす正式な名乗り姓と
日頃の名乗り苗字の違い
頼朝や清盛は苗字ないけどだいたいのは自分の領地の名前を名乗った
足利も朝廷には源氏、北条は朝廷には平氏
戦国ぐらいになるともういったものがちで、
徳川は源で、織田は藤原といっていたのに途中から平氏とかなんでもあり
秀吉も豊臣を名乗ったのは朝廷でだけで
関白になってからも普段は羽柴を使っていたというよね
これ豆な
奈良ぐらいだとまだ反乱あると思うけど
平直方と頼義の家が合体したみたいに古代豪族も天皇家や藤原氏別れた血筋を婿養子にして、そいつが地盤引き継ぐケースとかもかなりあるかステルスするからね
源、平、藤原、橘だろうね
武家の藤原の場合は一般的に藤原秀郷の子孫を指す
ただ源氏ってのは、ある時期から天皇家から二親等以内に臣籍降下した一族を指すから二十八源氏といって二十八天皇から別れた血統がある
一般的に武家の源氏は、清和源氏の流れでとくに頼朝以降は、清和源氏の中でも河内源氏を本流とするけど
公家の源氏で一番偉いのは村上天皇から別れた村上源氏、ほかに宇多源氏もちらほら
村上源氏でも久我家は公家のランク二位の清華家の七家に入ってる
尚、ランク一位の五摂家や残りの清華家はすべて藤原氏
村上源氏って
足利と源氏長者争いしてた久我家
南北朝や戦国期に暴れまわった北畠家
(とその支流の木造家)
幕末で色んな意味で暴れまわった岩倉家
ぐらいしか知らん
村上源氏でもっとも出世したのは土御門通親だね
ちょうど先週鎌倉殿の冒頭で暗○されかけた人
この人の奥さんの連れ子が、土御門天皇を生んだので実質外祖父てして権勢を誇った
奇しくも清和源氏をもっと輝かせた頼朝と同時代の人ですね
貴族社会でも三位以上を公卿といって上級エリート貴族、いうなればキャリア官僚の家柄でこいつらはキャリアなんだから固定した教養だけでなくまんべんなく勉強をするエリート
四位以下で終わる下級貴族の家柄は家業が固定されてたんだよ
和歌であるとか文筆であるとか
そのうち武芸を家業とする家柄の貴族たちが、武士の棟梁になっていったから源氏や平氏や藤原氏、橘氏のなかでも武装貴族になったのは決まった家柄だけなの
ちなみにこの家柄がだいたい固定されたのが将門、純友の乱でこの討伐に参加した武装貴族から続く一門が武家の棟梁と言われるようになった
だからキャリア系貴族の摂関家も武芸やらないわけじゃないから馬や弓が上手なのもいるわけ
ただ専業じゃないよってこと
そんな運動会の「棒倒し競争」みたいなのは嘘つきの作り話。
大体や、人を○して良いわけがない。「戦さ」がどうのこうのと逃げ口上
清盛も頼朝もそんなことはちゃんとわかっていた
ところが、常識もクソもない愚連隊は、「○し」・「犯し」・「盗み」で手柄が立って
褒美をもらえるという「甘い汁」に群がった。最頂点が源九郎義経。頼朝の
思惑とは別に行動した。なぜ、頼朝が平家が滅亡した一報を歓迎しなかったか?
その後の鎌倉の内紛を想定したからだ。共通の敵を失うと愚連隊は
次の敵を攻撃し始めた
義家、義綱、義光
兄弟3人同じ神社に祀られてるらしい
三男が長男の息子を○害した上に次男に罪を擦り付け次男一家が全員首くくる
これで三人仲良く祭りましょうって頭おかしい
佐竹・南部・武田・小笠原のご先祖だから
悪く言うのは難しいわな
頼朝は頼義信仰だったのに足利氏は義家信仰だったと聞いたけど
これよくよく考えたら
佐竹、武田、南部、小笠原より足利の方が上だアピールするために足利は義家を持ち上げたのかな
台頭したから逆に八幡太郎を強調てわけか
義家は後三年が私闘扱いになったので、それ以上は出世できなかった
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