東ローマ帝国を終わらせた多民族国家「オスマン帝国」の歴史
三大陸にまたがったこの帝国の歴史を語りましょう
大宰相を務めてたのはタラートだったけどそれもほんの一時期か。
イルミセキズ・チェレビーがフランスを訪問したが、
彼が持ち帰ったものはオスマン帝国の政治や軍事に
ほとんど変化をもたらさなかった
優位だったことはないだろ
14世紀には西欧はもう機械時計が普及してるし
火器の技術もウルバンみたいな西欧人技術者雇ってるし
カフカース出身者であり、彼女たちは金髪で色白の
肌を持ち、雌鹿のような目をした美女たちであった
チェルケス、グルジア、アブハズ、アルメニア出身の
女性たちである
スルタンが誰と同衾するかは母后と大臣が決めていて結果的に何の後ろ盾も持たない
コーカサス人種の奴隷が好まれただけの話
もちろんスルタンの恣意に左右される地位だが
技術者も西欧人を雇えばいいと考えていた
内廷の小姓たちも美少年が集められていた
中近東の人間は、技術に興味ないんだよな
昔、ロシアのミサイルの設計図が中東で流出したときも、アラビア人には組み立てられず、結局、北朝鮮に設計図を渡した。
鉄道も発電所も、発注してカネを出すだけで、技術は丸投げ。
中国と違って、技術をパクろうとはしないから安心できる(笑)
ただし、それは技術に限った話
医学に関してはアラビアが圧倒的に進んでおり、中世の欧州は未開人の呪術レベルだった
南の暑い国の人が、精密機械に強いということはまずない
欧州でも、これはドイツが圧倒的に強い分野
巷間に流布している。
オスマン帝国君主が「ルーム(ローマ)」のカエサル」という称号を
用いていたことは確かである。
しかしこの用法での「ルーム」とは「かつてローマが支配していた地域」
という意味でアナトリアを指す地名であり、ローマ帝国を意味している
わけではない。
また、「カエサル」も数ある君主の称号の一つとして利用されていたにすぎない。
ギリシャ正教の総主教の支持を得てたし。
メフメト2世タヒ後はどうでも良くなったみたいだが。
「二つの陸のスルタンにして二つの海のハーカーン」
という称号を刻ませている
曲がりなりにもオスマン帝国が世界の秩序と平和を護っていた。
統治の難易度が超絶級に難しい地域ばかりだ
いつか、中華人民共和国もそう言われるのかもしれない
>>30
米国はイラクのフセイン政権打倒後、
バース党を排除すべきでなかったと思う。
政権担当ノウハウを持つバース党を活用してたら、
混乱と無秩序をかなり回避できたのではなかろうか?
もし中国共産党による暴力的支配が消滅したら、
もっと恐ろしい害悪が生じるだろうな。
秩序維持という一定の機能を一応果たしてるんだよね。
>>33
イラク、とくに南部は、中世のサラセン帝国の頃から統治が難しい地域として有名
アメリカ人の手に負えるようなものではなかった
>>33
>中国共産党による暴力的支配が消滅したら、 もっと恐ろしい害悪が生じる
中国共産党は周辺諸国や自由主義諸国の安定を乱すイヤな存在であっても
必要悪だという現実(´・ω・`)
逆に考えると国内をまとめるために外敵を作ってるような
歴史に名を残す大帝国も最後は外敵に目を向けさせるのに失敗して分裂滅亡が多いな
オスマン帝国ならWW1のイギリスにうまく反乱煽動されてたし
>>51
アラビアのロレンスのテーマ曲が頭をかけめぐってしまった。
ところで何でオスマン帝国はドイツと手を組んだんだ?
クリミア戦争のときは、英国を味方にしてたのに。
汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結。
エンヴェル・パシャが親独派だったから
直接的な原因はイギリスがオスマンに引き渡し予定の戦艦を接収したから
間接的にはオスマン帝国にドイツ資本が参入してきてイギリス資本を追いやったから
その戦艦の艦名は
>>150 >>152
オスマントルコの予定艦名 イギリスにより接収
戦艦スルタン・オスマン1世 → 戦艦エジンコート
戦艦レシャド5世 → 戦艦エリン
後者は日本向けにイギリスで設計・建造された戦艦金剛の準同型艦。
日本はイギリスの同盟国だったから、契約を反故にされたりしなかった。
多民族国家の弱点。
独立心の強い多くの民族を従えて統治するのは一種の手品に近い技を要する。
一歩間違えればあっさり崩壊。
オスマン帝国の民族共存は、ユダヤ教徒やキリスト教徒などの
異教徒を「二級市民」として扱うことによって成り立っていた
現代にそのまま適用できるようなシロモノではない
>>31
そりゃバラ色の理想郷の実現からは程遠いだろうし、
欠陥は数知れずだろうが、
一定の秩序と安定をもたらしただけ、マシじゃないか。評価しようよ。
ただ、最期のアルメニア人大虐○の意味はわからないな。
>>32
>ただ、最期のアルメニア人大虐○の意味はわからないな。
当時~オスマン帝国末期~の経済を動かしてたのは
ユダヤ人やアルメニア人で、特にアルメニア人はトルコの
経済の70%を握ってたという説もある位で、憎まれてたと
読んだ事がある。
以前NHKのBSの紀行番組観たとき、イスラム社会のどこにでも
アルメニア教会があった。
そしてかってはアルメニア人街があったけど、現在は少しの人しか
住んでいない、との事だった。
アルメニア人って、
陸路海路の商業ネットワークを持ってて
広い範囲でかなり活躍してたんだね。
イギリス東インド会社にとっても
アルメニア人有力商人たちの協力を得たことが
会社活動に大きな利益となってるらしい。
諸侯国のなかでオスマン侯国はビザンツ領にもっとも
近いところで成立したので、ビザンツ勢力との
提携という機会をえて、「世界帝国」への切符を
手にすることになった
ティムールはオスマン帝国なんぞ瞬○できちゃう英雄だが、
1代の成り上がり者の悲しさで、
後継者が小粒だし、
結局、四方八方の敵対勢力に一人で対処しなければならず、
それも親征すると次々と撃破しちゃうんだが、
親征しない方面は押されることも多く、
ジョチ・ウルスとのタヒ闘の一方で、
さすがにアナトリアまで目が届かない。
結果として追放されていたかつて諸侯国の君主たちを戦いの前面に立て、
オスマン軍をゆさぶった
オスマン軍として戦いに参加したアナトリア出身の騎士たちの多くは、
かつての君主がティムールの軍にいることに気づいて動揺したといわれる
オスマンの常備軍も、バルカンとアナトリアの両前線で続く遠征に疲弊し、
士気があがっていなかった
軍勢の数でも勝ったティムール軍は、オスマン軍を解体させ、侯国は分裂した
バヤジッドも、アナトリアに覇を唱え、バルカン半島を侵略し、「雷帝」と呼ばれた英雄だったが、相手が悪すぎた
歴史における「上には上がいた」という例
ティムールのおかげで、西欧はホッとした
ニコポリスで、ハンガリー王ジギスムントが完敗したときは、久々に西欧の危機だった
アナトリアに散らばったバヤズィトの王子たちによる後継者争いが残された
以後、20年にわたってオスマン家は分裂し、バルカンとアナトリアを舞台に
抗争が続く
最終的には、メフメト1世の手でオスマン家支配の再統一がなされた
超有能で帝国を盛り立てて、
権勢の絶頂に立ったところで、
処刑されておしまいというイメージを持ってる。
なんか可哀想。
斜陽を迎えた第一次大戦末期に大宰相を務めたタラートも処刑こそ
されなかったけど自国からタヒ刑判決を受けてたっけ
(エンヴェルやジェマル共々)
自動的にタヒんでもらう制度なんでしょ。
合理的だけど非人間的なものを感じる。
>>46
さすがに19C後半以降はそういう制度もなくなったような
ムラト5世⇒アブデュルハミト2世⇒メフメト5世⇒メフメト6世
というように兄弟が帝位を引き継いでるし
アフメト1世(在位1603年ー1617年)の時代から兄弟○しは行われなくなった
代わりに皇子たちは「黄金の鳥籠」と呼ばれる場所に幽閉されるようになった
汎テュルク主義のためには英国に味方した方が実現の可能性がありそうだが。
バルカンから中央アジア・ウィグルまでの大帝国だって夢じゃないぞ。
宰相メフメット・タラート : ロシアとの同盟を模索
海軍大臣アフメト・ジェマル : 英仏との同盟を図る
陸軍大臣エンヴェル・パシャ : 親独派
タラートとジェマルは同盟工作に失敗し、
エンヴェルが主導権を握ってしまった。
エンヴェルは汎テュルク主義の夢を実現するべく、
反ソヴィエトのバスマチ運動に加わり戦タヒ
ケマルはアナトリア領土の保全を第一義とした
汎テュルクというけど
現代トルコ人と中央アジアのトルコ系諸民族の間で言語が通じるの?
トルコ語の基本語彙に変化が少ないのかしらん?
トルコ語とアゼリー語は方言といっていいほど
よく似ているらしい
通じるらしい
移動が始まったのが9世紀ぐらいだから、スペイン語フランス語イタリア語よりも近い
ソ連が崩壊し、直ぐにトルコ人ビジネスマンが中央アジアにでかけて商売できた
>>77
変化の少なさに驚き。
日本古語の語彙や文法が残る琉球語なんて、全く通じない別言語みたいになってるのに比べると。
しかし2年後に停止、オスマンは元の専制君主国家に戻る。
その結果、有色人種に憲政は無理というのが当時の常識に。
トルコ人を有色人種と見做しているヨーロッパ人はいないと思うぞ
ペルシャ人もな
元祖アーリア人で同じ印欧語族だしな
現代はともかく近代は非キリスト教=土人の認識だよ
そういや大昔の日本で欧米人役演じてたトルコ人俳優もいたっけか
ロイ・ジェームスか。彼は、タタール人だから、
テュルクではあるが、トルコとは言えないな。
カザン・タタールだと思ったが、カザン・タタールは
殆どロシア人と見分けがつかないから。
ユセフ・オスマンって人も
オスマントルコ時代の中間支配層といえばファナリオットが思い浮かぶ
>>90
オスマントルコとは関係ないけど同じタタール系でもチャールズ・ブロンソンは
風貌を活かしてインディアンとかメキシコ人も演じてたのな
ブロンソンは元々かなりモンゴル色の強い
リプカ・タタール人だからね。
そのブロンソンも荒野の7人でより純粋なモンゴル人に近い
ハルムイク人とスイス人のハーフのユル・ブリンナーと共演してる。
ブリンナーとブロンソン、「戦うパンチョビラ」って映画ではどっちもメキシコ人役やね
19C後半~20C初頭の近代オスマントルコで名前の後に付いてる
敬称としてのパシャ、
政府高官とか軍の将官に冠せられてる感じだけど”閣下”みたいな
ニュアンスなんかな?
>>93
ブロンソンはポーランド系も何度か演じてるけどウィキ見てみたら
「クォ・ヴァディス」のシェンキェヴィッチもブロンソン同様リプカ・タタールの
血を引いてるのね
続々近代化に失敗したことも有色人種蔑視に拍車をかけてる
現代のトルコ語はオスマン語に含まれるアラビア語やペルシア語語彙を除いて作られた人工言語だ。
それがアゼルバイジャンと似たものになるとしたら、凄いなぁ。
どれだけのトルコ語族の無変化力なんだ。
日本も明治維新時に漢学インテリ共を追放して
日本語から漢語を取り除いてヤマトコトバにすれば良かったんだ。
まぁ冗長で使いづらいかもしれんが。
長所は無能が出て来づらいこと
短所はお家騒動が起こりやすいこと
セリム1世にいたっては、クーデターで父バヤズィト2世を倒したばかりでなく、
父を毒○したという噂があるな(真相は不明)
もちろんセリムの兄弟やその子供たちも○された
でも解説されているセリム1世の異名「ヤウズ」(冷血者)。
>>150 >>152
オスマントルコの予定艦名 イギリスにより接収
戦艦スルタン・オスマン1世 → 戦艦エジンコート
戦艦レシャド5世 → 戦艦エリン
後者は日本向けにイギリスで設計・建造された戦艦金剛の準同型艦。
日本はイギリスの同盟国だったから、契約を反故にされたりしなかった。
DNAレベルでそう決められてるの?
遊牧民は実力主義の傾向にある
北アジアの遊牧民のうち、仏教徒になったのがモンゴル人、イスラム教徒になったのがトルコ人
それくらいしか違いはない
イギリスがインドを統治するにあたってはパールシーを中間支配層として
利用してたんだっけ
実際にはオスマン帝国の支配層の間では同性間の感情・関係が
よく行われており、スレイマン1世も寵臣のイブラヒム・パシャと
恋愛関係にあったといわれている
オスマン帝国も、ムガール帝国も、ペルシャ文化に深く系統し、影響を受けていた
欧州におけるフランスのような位置づけか、それ以上
中央アジアではペルシア語が広くリンガフランカとして通用する
「なんちゃらスタン」という地名は広く使われるがこれもペルシア語
ムガール帝国期に、インドの文化は大きく変質した
音楽・美術・文学・建築、何もかもがペルシャ風になった
唐の時代に、日本が中国から受けた影響にも比すべき変化
亡命者の多くは、オスマン帝国で期待した待遇が得られずに、のちに
ポーランド=リトアニアに帰還している
近代オスマントルコ軍の将官だけど元帥と少将はいても中将とか大将は
見当たらんかった。
ちゃんと中将や大将もいたのか、はたまた元帥を除けば少将が最高位の
将官だったのか
失敗してないで
近代化を始めたからこそオスマン体制では立ちゆかんようになって滅びたんや
清朝も徳川幕府もおんなじや
みんな近代化に着手したらすぐ滅びた
ロシア帝国はピョートルが近代化始めてから200年近く存続したけどこれは時代の違いや
だな
オスマンからトルコ共和国という連続した近代化
>>102
それが分かってるから、北朝鮮は鎖国をやめないんだな
中国共産党は、近代化を進めすぎたことに気づいて巻き戻そうとしている
中江兆民の「三酔人問答」には、「いまやアジア諸国の中で、日本とトルコだけが希望の星ですな」という下りがある
日本とトルコだけは、欧州の近代化にかろうじてついていけているというのが、当時の認識だった
オスマン朝・オスマン帝国(06) [無断転載禁止]c2ch.net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1478171965/
軍艦購入のために行った巨額の借款がオスマン国家の財政を窮地に追い込んだ
西アジアは無政府になると北斗の世界のようにならず者が大量に現れて○戮や略奪をする酷い世界になりやすいという事か
バース党 強し。
ヨーロッパ列強に蹂躙されるようになってイスラム原理主義やイスラム過激派が台頭するようになった
奥斯曼帝国
検索で中国語では上のように書かれているのは見つけたけど、
明の時代から呼んでたかどうかは分からないね。
明史 西域列伝の
魯迷(lum) がオスマン帝国に該当する。
万歴4年に朝貢してきた諸国名を列挙した中の一つとして記述されてるだけだが。
どっちも関係のない国。
争わないと気が済まないイギリス白人至高主義者バ○たちw
イェニチェリって強い?
軍楽隊を聞くと哀調を帯びてて、そんなに強そうに感じない(個人の感想)。
https://youtu.be/UukiDpOTju0
>>126
東洋的な哀調と、アフリカ的なリズム
それがイスラム圏の音楽の特徴
エキゾチックな雰囲気が良いよね。
その昔、NHKドラマ『阿修羅のごとく』のテーマ曲だった。
こんな曲が聞こえてきて、騎馬隊が攻め込んでくる。怖いよう・・
https://youtu.be/ntVtN3g6ERM
明朝に90人規模の使節団をシルクロード経由で派遣。
しかし明朝側は規定通りの返礼品を贈るだけで帰国させ、
嘉靖帝に会うことできず。
帰国途中の甘州でモンゴルとの戦乱に巻き込まれ
9人が犠牲になったそうな。
モーツァルトなんてノリノリでパクってんじゃん
そらモーツァルトはオスマン帝国恐れるに足らずとわかった後の時代やもの
目前に迫った22世紀、近代以降において、「血」とAIに依存する統治システムというのは、オルタナティヴであり得ると思うのだ。
…閥族支配という近代民主主義の現象を、可視化するだけではあるかもしれないが。
立憲君主制なら世界情勢への影響は少なそうだけれど、君主制ってだけで共産勢力との関係は拗れるから結構変わるかな?
より欧州とアジアの混成国家の模様が強かったらどうなってたか興味がある。
現在BS4で14時30分からOA中の「オスマン帝国外伝~」に
ユダヤ人の商人や医師は出てきたけど、アルメニア人は出てない。
夢枕獏氏の小説「シナン?」には、設計はシナンがしてイロイロな計算は
アルメニア人が担当してた、と書いてたような。
シナンもアルメニア人説やアルバニア人説があるようですね。
形式的にでも続いていたら王朝は何度も変わっていて宗教はキリスト教徒に乗り換え
民族的にはギリシャ人であろうとも、おそらく立憲君主制となった皇帝は
世界で最も権威ある人になったであろうから
ベネチアは一度もどことも争った事なんかないんだよw
今のアルバニアとモンテネグロは向かい合っていただけw
圧倒的な強さのオスマントルコw
アメリカ人は日本人より英語の識字率が高いって言ってるようなものでは
いま「オスマントルコ外伝」をBSで放送中だが、当時のイスラム文化や歴史を可視化できておもしろい。
イェニチェリの反乱とか、ムスタファ皇子の軍団を前にした入団式とか、ハンガリーとの戦争とか
描いてるが、トルコ軍は今でも世界の軍隊ベスト10に入るほど強いけど徴兵制のせいかドラマでも強そう。
ローマ法王やハンガリー王やヴェネチア共和国元首やユダヤ人商人や、ハレムのいろいろな民族の
女奴隷も全部トルコ人俳優が演じているが、全然違和感が無くて欧州の白人にしか見えない。
スレイマン皇帝は青い目で色白。イブラヒム大宰相も白い肌。ヒュッレムはグレーの瞳に赤毛。
宦官長はイラク人。みんな個性的な顔してバラエティに飛んでいて脇役まで顔が整っている。
昔欧州の美少年や美少女を拉致して混血してきたからかな。トルコの俳優は世界帝国の末裔という感じ。
またみんな数ヶ国語が話せるのがすごい。女官のニギャールはスウェーデン語など7ヶ国語が話せ医大卒。
スレイマンは工科大と芸術大学のオペラ・ミュージック科卒で俳優は大卒が多い。
現代トルコ人は遺伝子学的には中央や北アジアのトルコ民族とはまったくつながってないし
ほとんど東ローマ人の子孫なんだから欧米人と顔かたちが似てて当たり前
それと日本人が異常に言語オンチなだけで海外だと複数言語使える人とか珍しくないよ
普通の日本人は出身地弁と東京弁と関西弁を使える
ふつうはそれに加えて博多弁も知ってる
マルタ島包囲戦でマルタを占領できないまま撤退したオスマン勢だけど
帰還後にタヒ罪なんかの厳罰に処された人っているのかしら。
>>184
>全然違和感が無くて欧州の白人にしか見えない。
昔の日本の映画・外ドラで欧米人役演じてた人の中にもトルコ人がいたっけ。
ユセフ・オスマンとかエンベル・アルベンバイとか。
オスマン帝国外伝やねん
ペルシャとずっと交流があって近代にロシア人が入植してるし分からなくなる
狄やなんやらの古い時代のトルコ人についての記述に特に容姿についての言及が無い
ということは外見的には漢人と変わらんモンゴロイドのはず
もしトルコ人が当時からコーカソイド容姿ならその珍しい容姿について必ず言及があるやろ
寒冷化により南下したものらしい
作られるようになってるけど維新後の日本のようにお雇い外国人を
教官に招いたりとか、自国青年のヨーロッパ諸国留学なんかは
さかんに行われてたのかなぁ…
フランス式の高校(リセ)のガラタサライ高のサッカー部が始まりなのが
ガラタサライSKだよね
現ガラタサライSKでは、稲本や長友がサッカー部、佐野や木村が女子バレーボール部の、それぞれ所属経験者
ガラタサライ高だけどウィキ見てみたらその前身となった学校が1481年に作られてるのね
(そういえば日本の高校の中にも藩校が前身なところがあったっけ)
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Galatasaray_High_School
アブドゥルハミト2世在位当時のオスマン帝国ではサッカークラブの設立が禁止されてたってことだそうで、
(以前ジーコが監督をしたこともある)フェネルバフチェSKは、
クラブ結成そのものが、極秘裏に実行されたんだとか
トルコリーグ、中でも特にフェネルバフチェとガラタサライの海峡間ダービーは
欧州サッカー連盟内で最恐級の超過激な様相になるそうだけど
その昔のサッカークラブ設立禁止っていうのは
キリスト教圏文化の流入に対する警戒のほかに
ひょっとすると、いにしえの東ローマ帝国首都での「ニカの乱」が念頭にあったんだろうか・・・?
デカ過ぎる国というのは、一気に近代化するのが難しいのかもしれない。
ムハンマド・アリーといえば孫が第一次大戦中オスマン帝国の大宰相務めてるね
https://en.wikipedia.org/wiki/Said_Halim_Pasha
だったら勝ってたんだろうか
オスマン帝国で閣僚を務めた人だったのね。
ひいおじいちゃんのトルコ人がヨーロッパへ赴いてた時に
恋に落ちたイギリス人女性との間に生まれたのが,イギリス
新首相のおじいちゃん。
そのおじいちゃんは母方の旧姓ジョンソンを名乗ったのね。
>三瓶は今年3月、お笑い芸人としての活動を休止し、トルコへ移住したが、心が折れてわずか2カ月で帰国していた。
トルコで何があったん…
海外生活が肌に合わなかったということになってるけど、普通に失恋だと思う
ただの友達とかないから
これは世界史マニアなら見ておくべきコンテンツ
スレイマン1世&ヒュッレム・ハセキ・スルタンを主人公にしたトルコのドラマは
ちょっとラブロマンス色が強すぎて主婦向けという感じがしたから、
NetFlixのドラマの方が面白いかも?
第一次大戦前のバルカン戦争でオスマントルコに勝った後は
なんぼか溜飲が下がったんかね?
返さないの?
すごく意味のない意見を発見
何でコルシカ島をフランスはイタリアに返さないの?って言ってるようなもんだよ
ならギリシャはトラキアをブルガリアに返せよ
Wikipediaからの受け売りだけども、当時のティムール朝は
絶好調の雷帝バヤズィト率いるオスマン軍より更に軍勢が多い
ティムール軍は20万、オスマン軍は12万
しかもティムール軍には戦象部隊までいる
オスマン帝国に領地を奪われた小アジアの君主達がティムール軍にいた上、
交戦中にオスマン軍にいた小アジアの勢力が軒並みティムール軍に寝返った
元から不利なのに、更に不利になるとか勝ち目ないわな
この時ばかりは数の差に押されてか、オスマン帝国自慢のイェニチェリも機能しなかったようだ
そりゃ負けるわ
中世のヨーロッパなんて基本雑魚だろ?
モンゴルとの戦いで力をつけ、元モンゴル系のリプカタタールまで
自分の戦力に納めたポーランドが居たし、中東方面もサファヴィー朝と
頻繁に抗争してて戦力の集中が
出来なかったから。
オスマン帝国がウィーンにまで攻め込んだ時のヨーロッパはもう雑魚じゃない
中世じゃなくて近世だぞ
オスマン帝国に地中海貿易を封じられたから大航海時代が始まり、
植民地事業もスペインやオランダは大分稼ぎを出していた
(スペインは出費も半端なかったので総合的には赤字だが)
そもそも中世末期頃の西欧は既にビザンツ帝国を上回る経済力・文化を持っていた
何せあのビザンツが西欧式の建築を部分的にとはいえ取り込むくらいだからな
それでもオスマン帝国も最盛期と言えばそうだったが、
なかなか面白かった。
オスマン側の事情もなかなか大変だったのね。
インド洋統治が地中海のようにいかなかったのは何故なのか?
オーストリアの要塞は堅く
1000人ぐらいの要塞に10万人ぐらいで攻めて毎度数万負傷になるからそんなに頻繁に軍事行動できない
ポーランドは騎兵強いから苦戦しまくり
オスマン帝国の旧首都のエディルネって歴史的に交通の要所だけど
今は辺境の都市になったせいか人口少ないよね
ギリシャとブルガリアが今でもトルコ領だったら50万人前後位行ってたんだろうか?
まあそんな事になっていたら
イスタンブールが今でもトルコの首都のままだったんだろうけど
旧ソ連から独立したアルメニア共和国は、トルコ共和国領となっている
かつてのアルメニア人居住地域に対する領土的な主張を行い始めたそうである
まあ、トルコが応じるとは思えないが
アルメニア人は、世界中で反トルコ宣伝活動を粘り強く展開し、「西の朝鮮人」といわれる厄介な連中
でも実際にエンヴェル・パシャ政権下とかで大量虐○受けたからしゃーないやろ
ウクライナもホロドモール食らったんだが、それ故の反ロシア感情を『朝鮮人的』って言うのか?
日本と朝鮮半島の関係とは何もかもが違うのだから、一緒にすべきではない
これ以上領土問題を増やしてどうするつもりなんだろう
オスマン帝国ではアッシリア人虐○もあった
今でも帝国が続いていた?
>>250
帝国が滅亡した年
清:1912
ロシア帝国:1917
オーストリア=ハンガリー帝国:1918
ドイツ帝国:1918
オスマン帝国:1922
WW1に関係してない清が滅亡してるから、
前時代帝国の時代は既に終わってた。
なのでWW1 に関わらくとも滅亡した。に一票。
ただメフメト6世がセーブル条約さえ結ばなきゃ皇室の権威が失墜する事も
アタチュルク含む改革派がトルコ革命起こすこと無いし
オスマン家はカリフ兼ねていてイスラム世界では権威も高かったから
史実より続いた気がする
大戦に参加しなかったら史実トルコ位の領域は確保できただろうし
民族主義が抑えられなかったから無理だろう
アルメニア人虐○というけど首都イスタンブールではアルメニア系は銀行襲ったりして大変だった
主要拠点である東方ではクルド人から虐待
その支援にカフカ○の国境を越えてロシア軍が待機してる
アタテュルクは青年トルコを牛耳ってたエンヴェルを追放して守備を固めた
エンヴェルの構想ではロシアの支援でトルコ主義の大帝国を作って
中央アジアのトルキスタンを統括した連合を作る
アナトリアはその一州として大トルコ連合の一員になるというもの
この頃の動きはロシアの革命とも連動してるから
旧帝政の維持では終わらなかっただろう
アルメニア人虐○をドイツの歴史家エルンスト・ノルテが「アジア的野蛮」
と言っていたけど、実は「統一と進歩委員会」の連中はフランスで西欧文明を
学んだ連中なのよね
だからアルメニア人虐○は、ノルテの主張とは反対に、「ヨーロッパ的」
といっていいかもしれない
ポル・ポトがおフランスで学んだインテリだったのと同じ
チンギス・ハーンに負けた?
よく聞くものの中将や大将はめったに聞いた事がない。
元帥を除けば少将が最高の階級だったんかね。
アルメニア人はオスマン帝国内でもかなりいい位置にいて
帝国の解体なんて望まない声も多かった
だがイギリス等が内部崩壊の工作をして
アルメニアなどのキリスト系にテロ支援を行った
テロリストを養成してテロをさんざん行わせた
そしてオスマン政府は彼らを移住せざるを得ず
長期移動の間に多くの人口が欠落
それがそのままジェノサイドと定義された
海外ではお約束だがマクロで数える計算法だから
事前と事後で総数数えて引き算で虐○数を数える
タヒんだのか逃亡したのかはよくわからない
現地での度重なる反乱に悩まされそう。
でもってその時の対立が後々まで尾を引きそう。
>>263
オスマン朝とサファビー朝でお互いをトルコ人呼ばわりし、
それぞれをファールスと自称してた。君主号もそれぞれが
パードシャーと称してた。
そういやムガル帝国もペルシア文化愛好者のトルコ人だな
(ナポレオンのように自国民から受け入れられたか、逆に袁世凱みたく
周囲からそっぽ向かれたのか)
袁世凱は国民の意志に反して皇帝になったからそっぽ向かれた
(「また帝政復活させんのかよ、ふざけんな」ということ)
やってることはどちらも独裁でも、民族を導いた方向性が違う
意識してたんやろか
ただし”成功した独裁者”ケマルと違い、開発独裁して見事に近代化に失敗
それでも贅沢三昧かつ西洋化を推し進めるパフラヴィー家にイラン国民がカチ切れて
国外追放されてたホメイニー師の呼びかけでイラン・イスラム革命へ
んで皇帝一家はアメリカ政府の手引でアメリカに亡命、
以後イランはイラン・イスラム共和国に。
他にも開発独裁に失敗した国はいろいろある
革命おこして世俗政権打倒したわけじゃないよね。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1542546836/
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