三国志・晋以降、中国を300年ぶりに統一した隋、その後を継ぎ、さらに発展していった唐
隋唐帝国について皆さんのご意見を。
唐はともかく、隋って輝かしいのか?
唐って、一見輝かしい世界帝国のイメージはあるけど、
実際は、強盛な時期より、劣勢な時期の方が多くない?
後半は節度使の割拠でぼろぼろだし、
それでなくとも周辺の吐蕃や突厥とかに押されがち。
一時的に拡大した勢力範囲は中国史上最大かも知れないけど、
全体的に見れば、漢や明、清、宋にさえ劣るかもね。
だからこそ、お杉サマなどは、元を棚に上げてでも
「瞬間世界帝国」と評するんだろうな。
しかし、超巨大帝国が崩壊してボロボロになって
やがて別な形に再生していく過程が、これまたおもしろい。
あくまで今現在の視点として。
その辺、やはり宋という国の出現は意味が深い。
自分達を皇帝の教師と言ってうぬぼれている唐の
宦官か「九千歳」と言わさせた明の宦官か。
唐では、宦官が朝廷の廃立権をも握ったけど、
明では、どれだけ権勢を誇った宦官でも、皇帝の後ろ盾あってこその権力だった。
つまり総じての宦官勢力全体の力は、唐の方が強大だった。
ただ、明の場合は、特定の宦官個人に権力が集中したので、
個人単位では明の方が上。
唐の皇族って最終的に何人ぐらいにまで増えたんだろう?
途中で何度か粛清されたり、虐○されたりしているけど。
唐は上手い具合に隋の遺産を継承できて、長期王朝を築いたね。
漢が秦の遺産を吸収したのによく似ている。
これがなかなかうまい具合だったので
ムリに変える必要がなかったという…
継承政権だわな、唐は。
しかし豪奢を好んだ煬帝に対して、李世民は倹約を旨とした。
同じように高句麗遠征しながら、最終的に破綻しなかった差は
そのへんにあろうかと思う。
>>8
>継承政権だわな、唐は
ただし太宗が継承しようとしたのは煬帝じゃなくて文帝だがな。節約趣味という点では文帝の方が上。
やはりこの頃から江南の経済力が大きくなっていたからだろうか?
隋代だと華北中原を安定させた方が実入りを大きくできた。
だから、江南に依存するためってのなら、ちょっと違うかな、と。
交通・流通の利便性を向上させること、それ自体に意味があったと思う。
後は軍事的に南朝(特定の王朝という意味じゃなくて)の再建を
いつでも押さえ込める侵攻ルートとしてという面も強いと考えてる。
建康自体、小都市(というか江寧県の一部)に転落させられたし。
その運河を軍事に最大利用したのは、実は後周世宗の
南征北伐が最初の例になるのかな?
ベトナムには、安南都護府が置かれて、阿倍仲麻呂が長官として赴任したこともある。
ただ、独立運動のようなものが結構あって、治安はそれほど安定していなかったみたい。
雲南に勢力を伸ばした南詔は唐とかなり敵対していて、
四川の成都まで攻め込んだこともある。
今の雲南地方は漢代には支配地だったけど、南詔なんて
国が出てきたし。
唐に対してかなり攻勢をかけている。
同時代のアッバース朝やウマイヤ朝の方が国力的には上なんじゃない
乾燥地帯、砂漠が多いし、国力的にはどうだろう。
農業生産力については、イスラム帝国は、メソポタミアからシリアにかけてや、
カフカ○、ナイル川流域などが中心と思われる。
これに加えて、商業が発達し、交易も盛ん。
唐の場合は、ずばり江南だろうな。
やはり江南が唐の生命線であったということだな。
これってやっぱり北朝系の伝統なのかな?
>>29
唐の後半、玄宗以降ぐらいになると、
果たしてどれぐらい鮮卑系としての意識があったんだろうか?
ほとんど漢化しているように見えるけど。
隋から唐にかけての時期に登場する人物の名前ってさ、あんまり他の時代には見られないようなのが多い気がするんだけど、気のせいですか?異民族系は別として。来護児、麦鉄杖、瀟摩可、羅士信、宇文述、杜如晦、etc。流行りなの?てめーら無学な俺に教えてください。
異民族出身者が多く、それに由来した変わった名前も多いけど、
でも他の時代と比べて、特別変わった名前が多いとも思えないな。
杜とか、羅とかは、他の時代でもそう珍しくはないと思う。
それに宇文は、鮮卑系の姓、
隋唐のルーツとなった北周が、宇文氏の王朝だったから、
多いのは当然とも言える。
これだけ他民族を吸収する文明はない
イランあたりも、遊牧民による王朝が多いけど、
あれも同化されているんじゃないかな。
唐の後半での異民族というのは、契丹や奚とかソグド、渤海はては高麗などの人々。
さらに突厥にウイグル、吐蕃などなども。
五胡以来の「異民族」からはガラリと代替わりした感じがあるから、
以前の「異民族」は今の「漢族」となるんじゃないかな(ちょい強引な見方ではあるが)。
ま、それに鮮卑ももとからいた「漢族」と混じってしまって、純粋ではない以上
すでに中華民族として漢族化しているというだけのこと。
同化なら世界的に見られるんではないかな。
例えばゲルマン人がヨーロッパに入った後、作った国家はローマ文明的だったし、
イランに入った諸民族やアラブ人のイスラム国家もオリエント・ペルシア文明的だった
というような感じで。
中国の特殊性は、そうやって以前の文明を受容してった
元々は異民族だった人たちが自分たちを「漢族」と位置づけたとこだと思う。
あー、でもイラン人の定義って何だろうという疑問も出てくるな。
それは中国に似てるかも。
民族としては小国に分裂してる
中国もこうなっても不思議じゃないんだけどね
イラン一帯が、東洋で中国に相当、
西欧一帯が、東洋で日本に相当する。
そりゃ、全盛期ですからね
東アジアの覇者だった高句麗は、668年に新羅と唐連合軍によって滅亡し高句麗人20万人が中国に連れて行かれた。
彼らの子孫だった高仙芝が世界帝国だった唐の将軍となり、シルクロードの支配者にまで上り詰めたのだ。
風貌りりしく、話術と弓術に長けていた彼は20歳で将軍となり、以前に唐が三回も失敗した西域征伐の任務を引き受け
る。彼は西域征伐(740~750年)に成功して唐と地中海を引き継ぐシルクロードを完全に掌握するようになる。
この過程で彼は1万人余の軍人を率い、世界の屋根とも言われるパミール高原を越えて70ヶ国以上を征服する。遠征
の道中で一番高い場所では4600mにもなった。ヨーロッパの史家たちが18世紀ナポレオンのアルプス登頂よりさらに
偉大な戦史と評価する業績だ。
彼は世界の歴史の中心にあった。751年に7万人の唐軍隊を率いてイスラムのアッバス王朝を主軸にしたサラセン連
合軍30万人と戦い、タラス河畔の戦いでは敗れたものの当時 捕虜となった唐軍人たちが製紙法、火薬製造術、羅針
盤などを西域に伝えるようになる。
高仙芝は755年の安録山反乱時に長安の守備していたが、讒訴により獄中で処刑される。 彼のタヒを嘆き悲しむ部下
たちの”口惜しく怨めしい”と言う叫びは天地を震動させた。
「高仙芝は韓民族の開拓精神を象徴する人物だ。」とは”高仙芝評伝”を書いた延世大史学科チ・ペソ教授の言葉である。
唐朝は危うくなっただろうか?
というより、隋初代の幼年期若年期がどんなものだったかを知りたいです。
隋初代って文帝楊堅のこと?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%A0%85
↑とりあえずこれを読んで、分からない部分を質問するべし
遣隋使・遣唐使と日本とも関わりがあるのに一般的にはドマイナー
普通に史記や三国志の方が面白いからじゃね?
そりゃ、後漢初に比べれば、群雄はそれなりに強いし魅力的だが、
唐最強にならざるを得ないし、日本人が好きな群雄割拠にはならないだろ
隋唐演義は地味だし、説唐は派手だが日本人好みでなく翻訳されていないしな
周王や漢皇帝は日本の天皇に擬しやすいが、
隋唐の易姓革命は日本人にはなじみにくいのかもしれない
それに、隋唐に日本が朝貢をしていたのがまずかった可能性もあるな
2年後のレスなんだ 何かワロタw
授業のプリント穴埋めの記憶しかない。三国志とかのネームバリューに比べるとさすがに・・。
全然全くと言っていいほど大陸側認識はないらしい
隋からの勅使が箸を教えました、の人物も勅使本物かというとそれも怪しい
>>77
煬帝対聖徳太子って、別段日本でも盛り上がっていないと思うが?
セットで話題に上がることはあるけれど、対ではないだろう
「ギャグマンガ日和」または「爆撃聖徳太子」での話?
なにを書いているのかさっぱりで
なんとなく隋と倭なんじゃねw
>>81
おい大丈夫か?
その頃の支配層は漢文が出来て当たり前だし、大体にして仮名もなかったんだぞ?
配信日時:2013年4月15日 21時40分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=71356
三国志に当てはめると
北周→魏
北斉→蜀
陳→呉
隋→西晋
って感じか
なんか
秦、唐、宋は同じ人種らしいね
明、漢以外は 文革様様だね
漢民族とは何なのか
秦・唐・宋が同じ人種なんて聞いたことないんだけど、どゆこと?
にわかには信じがたい
トルコ系?
科挙の導入かな?
向こうじゃ人気なのかな
李淵のソース追加。
注3)『明經胡氏宗譜(始祖傳條)』には「大唐第22代皇帝・昭宗は、
唐朝末期に産れた幼皇子(李昌翼)を宮廷の危険から遠ざける為に、
近侍していた股肱の臣・胡三に預けた。
胡三は皇子を御駕に載せて東へ遷り、己の身の危険を顧みず養育したが、
唐朝は朱全忠の圧力に抗し難く昭宗は廃位されて○害された。
皇子らも、翌年、洛陽苑の宴で謀○され、ついに天祐4年(907)、哀帝(李昌翼の実兄)は、
朱全忠に帝位を禅譲し唐は滅亡。これを受けて朱全忠は「後梁」を開いた。
その後、李昌翼は、養父の姓を享けて胡氏を名乗った。これが明経胡氏の始祖である」とあり、
従来は一家伝に過ぎないと看做されてきたが、DNA解析の結果、
何らかの史実が反映されているのではないかと指摘されている。
史実としては、天祐2年2月9日(905年3月17日)、洛陽苑内で行われた偽りの宴会の最中に、
朱全忠らによって哀帝の兄弟皇子(男子)17人のうち9人が謀○され、7人の皇子らが身を隠し行方不明となっている。
紅頂商人・胡雪巌(1823-1885)のY染色体は、ハプログループN(N-M231)である(注1)。
胡雪巌は、安徽省の績渓の出身で、清朝の末期に杭州で起業し官商として巨万の富を得た。
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1190784441/
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