学校が教えてくれない大韓民国の歴史
南朝鮮って、アメリカから独立して今日で71周年だよな?
ライダイハン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%A9%E3%A4%E3%80%E3%A4%E3%8F%E3%B3
韓国軍慰安婦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%B0%E5%AE%E5%A9%A6
遣唐使は18回任命されたが3回中止されとるので実際には15回、遣新羅使は17回
新羅からの新羅使も20回こっちに来とる
更に欽明天皇以後(571年)からカウントすると46回の遣新羅使が確認できるあたり
白村江とかで殴り合いはするものの結構密接な関係なのが伺える
当時海路で直接唐に向かうのは大変すぎるっていうのは有名な話で
両国関係が悪化するまでは行きやすい新羅経由であれこれするのが便利やった
当たり前といえば当たり前なんやけど具体的数字で出されるとおもろいな
まず彼の代に高興なる博士から漢字が伝わったという伝説があって
事実百済において実在したと言い切れる最初の王は近肖古王や
そして新羅と結んで高句麗に勝利して故国原王を葬り
東晋に初めて朝貢することで南朝の文化を吸収しそれが倭国にも影響を与えた
そもそも倭国との交流を始めたのがこの王だとする説もありあの七支刀を送ったのが近肖古王ともされる
残念ながら最晩年には高句麗との辺境を巡る戦いで負けてしまうが
百済という国家を築き上げた王のひとりとしてもうちょっと扱いよくてもええ気がするで
調べてみると王建って名前の有名人は高麗のも含めて3人はおるんやね
五代十国時代に前蜀を建国した王建と中唐の時代の詩人の王建
そして水軍つよつよの高麗の王建
ジェットストリームアタックできそう(小並感)
大運河はまあ民衆を犠牲にしながらも一応できたからともかく
高句麗遠征は完全に失敗、高句麗の勝ち
面白いのはこのとき高句麗がテュルク系の突厥と協力していること
片や半農半猟の高句麗、片や遊牧民の突厥が隋を共通の敵として協力するのが夢のタッグって感じですこだ……
歴史観と少しでも外れるものは排除
韓国人は当時の「半島人」がすべて強制連行されたようなイメージを持っているが、1910年の日韓併合以来、朝鮮半島からの労働者動員は1939年7月~45年4月に行われたが、それ以前は自由意思による出稼ぎである。
つまり、今世界中で行われている労働移民と同じである。
しかも、動員についても、①民間企業による募集、②官斡旋、③徴用とあり、③は44年9月から8ヶ月のみである。
さらに言えば、「戦前の在日朝鮮人」には、選挙権も被選挙権もあったのである。そのことについては、いろんな機会に論文を発表し、韓国の大学でも講義をしてきたが、日本研究に携わっている学者ですら無視し続けている。
つまり、「日本は朝鮮半島で過酷な植民地支配を実行した」という歴史観と少しでも外れるものは排除するという姿勢である。
https://blogos.com/article/398428/
三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼
「三跪九叩頭の礼」は映画「北京の55日」等でも見れるので、我々は映画の方式しかないと考えがちです。
ところが「三跪九叩頭の礼」には、琉球ベトナム等が行う映画の方式とは別に、朝鮮王が行う方式がある。
朝鮮王の三跪九叩頭の礼とは、「空手家が頭突きで瓦を割る」ように、大きな音が出るくらい岩石に頭突きをする方式です
仮に音が出ないか小さい時は、清朝への 誠 意 が足りないのでもう一度最初からやり直しとなる。
ですから当然、「三跪九叩頭の礼」後の朝鮮王は血だらけになる、、、実に素晴らしいですね、、大笑い
朝貢も同じで、例えば
朝鮮の方式、、、100万円朝貢すれば、数 十 万円分下賜
琉球等の方式、、100万円朝貢すれば、数 百 万円分下賜
でしたし、朝貢時の服装なども
朝鮮方式、、、黒色の服を着て徒歩で入城、、(香港映画キョンシーの黒服)
琉球方式、、、朱色の服を着て人力車に乗って入城
でした。
日韓の「歴史認識問題」はなぜ収束しない? 植民地支配が残した課題とは
ttp://www.sinkan.jp/news/9526
なぜ日本の植民地支配が特別ではないのか。
木村氏は、日本の植民地政策と比較されているヨーロッパ諸国の植民地支配の理解自体が、「現地社会を徹底的に搾取し、
貧困へ追い込んだ」という、16世紀大航海時代のステレオタイプにとらわれていると指摘する。
だが実は、日本が植民地支配を進めていた同じころ、西洋列強も植民地に積極的な投資をおこない、現地の経済発展を
促していた。植民地の経済動向は宗主国の経済的利益に直結する。ひいてはそれが自国の政治的安定にもつながっていた
からだ。つまり、「インフラを整え、経済成長を促す植民地支配」は、19世紀末から20世紀にかけては普遍的な植民地支配
の形態だったのだ。
その一方で、労働者や「慰安婦」の動員など、日本の植民地支配が西洋列強よりも悪辣だったという声も根強い。確かに
戦争末期においては、日本の支配にそのような側面があったことは事実であろう。 しかしこの点についても、必ずしも日本が
特別ではなかったと木村氏は考える。
植民地支配に対する抵抗運動や兵士や労働者の動員も日本に限ったことではなく、同化政策についても例えばフランスでは
「創氏改名」に似た政策を早くから行っていたという。
■歴史認識問題の議論は1990年代以降に激化 一体なぜなのか?
韓国併合から終戦までには35年という時間があり、その前半ではインフラ整備や教育文化政策が進められており、日本の
悪辣な植民地支配は戦争末期の短期間で行われたものだった。にもかかわらず、日韓の間で根深く残る「従軍慰安婦問題」
や「徴用工問題」を通して、後者の論調ばかりが今なお語られている。
なぜ今も植民地支配のイメージが終戦直前のそれから変わることなく歴史認識問題が叫ばれ続けているのか。
実はこの悪辣な植民地支配が「戦争再末期に行われていた」ということが、歴史認識問題にも大きな影響を与えていると
木村氏は述べる。
カン・トクス教授はサハ共和国南北辺境に住んでいるエベンキ人たちが使うエベンキ(ツングース)語は
数字や一家親戚を称する単語が韓国語と非常に似ていると話しました。 韓国人のルーツはエベンキ人
ではないかと主張しています。
言語学的に研究して今まだに分からないと言われている朝鮮語が「アリラン」という言葉です。
「アリラン」という歌がありますが、これはエベンキ人の歌なのです。
近隣の少数民族であるエベンキ族は現在まで「アリラン」と「スリラン」という単語を使っています。
韓国でもっとも有名な民謡である「アリラン」の歌詞の「アリラン」は「迎える」、「スリラン」は
「感じて知る」という意味なのです。
カン・トクス教授が研究したのですが、エベンキ人と朝鮮人は、共通する言葉がたくさんあるのです。
朝鮮半島の乳出しチョゴリ文化!
「朝鮮」という名が「明国から賜り、李氏朝鮮」から始まる。
現代の韓国人の大半がこの習慣を親や学校等で教育されていない為事実を知らずにいる。
約50年前まで続いた半島の習慣で50年前の習慣すら知らない韓国人は、歴史を隠蔽し
嘘の歴史を信じさせられている。
「長男を生んだ女性は乳房を露出する」ことが一人前の女性としたのが「乳出しチョゴリ」です。
滋養が有り精がつくとされている。夏の暑い時期に、犬肉を食べる習慣が有るのだ。
また、産後の滋養にも犬肉を食べる習慣が有り、病後の滋養食としても食べられている。
韓国の「犬喰い文化」は昔から欧米各国から強い非難を浴びていました。
韓国側もそれはよく承知しており、1988年夏、京城(ソウル)五輪が開催された際は、
各国からの批判を恐れ、開催前にソウル市内の犬肉レストランを一斉に閉鎖する措置
を取りました。
それでも年間300万頭の犬を食べる「犬喰い文化」は今も残っており、韓国では欧米側
の非難に対し「牛や豚を食べるのと何が違うのだ」との声も根強くあります。
しかし、HSIと言う世界の動物愛護団体がこれを問題視し、強く非難するのには、単に犬肉を
食べるという行為以前に、「あまりにも残酷過ぎる仕打ちをイヌに強制する」からなのです。
英BBC放送(電子版)がこの問題について「韓国の養殖犬、無事国外へ」との見出しの長尺
記事で報じているのですが、その中で、6年前に設立された英の動物愛護団体で、
韓国の“犬喰い文化”撲滅に向け尽力している「チェンジ・フォー・アニマル・ファンデーション
(動物の変化のための基金=CFAF)」の設立者である英国人女性、ローラ・ウェバーさんは、
「生きている犬をどうやって食肉に加工するか」について言及しています。
韓国には食肉用のイヌの市場があり、顧客はそこで生きたイヌを選ぶと、市場の業者がイヌの口に
電極を押し込み、感電タヒさせるのです。そして、1回でタヒなない場合、タヒぬまで何度も電極を口に
突っ込むといいます。 そして、恐ろしいことに、こうした残虐極まりない行為は、他のイヌたちが
閉じ込められた檻の前で繰り広げられるといいます。
英国人こらみた朝鮮の実態が記述されていてとても新鮮だ。
中国とロシアににらまれて、強い側について延命するしかなかった民族の悲哀を感じた。
また、国家観を全くもっていない国王や役人貴族に搾取されるしかなかった朝鮮人。
彼らが今現在も世界の常識を理解できずに、自分たちよりも劣る民族と考えていた
日本人が国際社会で認められることに我慢出来ず、虚偽に満ちた主張を繰り返す背景や
国民性をこの本から垣間見ることが出来る。
竹島は英国人からみても、明らかに日本の領土であったこと、従い現在も、日本の領土で
あることが分かると思う。
何故朝鮮半島民は、日本を1000年恨み反日にいそしむのか?
朝鮮併合時、大日本帝国政府は下記の朝鮮の文化や風習の中に
「人道的でない」と廃止や禁止をしました。
・身分制度の廃止(両班・中人・白丁は平民とした)
・凌遅刑の廃止 ・シバジの禁止
・サンプンの禁止 (糞尿)
・病身舞(びょうしんまい)の禁止
日韓併合で「身分制度を廃止」されて平民となり
「特権を失った★両班★」だった輩(李承晩等)が日本を恨み、
戦後、歴史を「隠蔽、改ざんして反日教育」を実行しているから。
三・一運動は単なる、朝鮮人同士の暴動騒ぎで「治安の安定」の始まりに過ぎなかった。
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三・一運動の実態
日韓併合で、身分制後が廃止されると、特権階級であった、「両班の権力」が無くなり
「白丁階級の人は奴隷から解放され法律で守られる」のです。
医療施設は完備されて・字も教えて貰い「素晴らしい世の中が来た」と庶民は思っていたのです。
「コノヤロー」と思っているのは「両班だけ」なのです。
それが至るところで火をつけて暴動を起こし、両班の言う独立運動とは「両班の世に戻せ」という
恨みが起こしたのです。朝鮮人(元両班)が、朝鮮人に起こした暴動であったのです。
日本人暴動に巻き込まれ被害にあっていたので、日本が警察や軍を投じて制圧したのです。
この後、治安の安定対策が講じられることとなります 。
李氏朝鮮は、明国の属国であった。
身分制度があり、両藩(特権階級)が白丁(奴隷)を搾取にいそしみ苛め抜いた時代。
両班という特権階級は 「仕事をしない」ことが美徳とされていた。
日韓併合により、身分制度が廃止された。
多くの庶民は、良い暮らしができると喜んだ。しかし、「特権を失った両藩は」日韓併合を
快く思わなかった。
そして、三・一独立運動を起こすが実際は日本から独立するのではなく、
<特権を失った両藩が起こした暴動>であった。
朝鮮人(両藩)が朝鮮人(白丁)に火をつけて 暴動が起きた。規模が日を追って大きくなり
日本人にも被害が出たため、日本政府は警察と軍を投入し朝鮮人を制圧したのが実情だった。
引用元: ・学校が教えてくれない大韓民国の歴史
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