越後の北条高広を北条家の人かと思っていたら、まったく関係なくて間際らしすぎる
北条 高広(きたじょう たかひろ、永正14年(1517年?) – 天正15年(1587年?))は、戦国時代の武将。長尾氏(上杉氏)に仕えた。北条広春(安田広春)の子(養子で実父は北条高定とも)。北条景広・北条高広(父と同名)・女子(沼田朝憲妻)の父。丹後守・安芸守。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%E6%9D%A1%E9%AB%E5%BA%83
始めは後北条家の一族と思ってました。
同名の息子がいたり、かなり紛らわしい。
謙信がタヒんだ時には入道してたりする。
きたじょうだお
河内国で若き楠木正成を教育してたと言う伝説あるね。
その後に南北朝の争乱で河内を捨てて安芸国にいき毛利氏になったみたいな。
武田一族も安芸守護になったり上総の武田信長が有名だったり若狭にもいたりするね。
大内や山名、大友とかみたいに集中せずに領土がエラい飛び地っぷりだよな。
もっとも山名を追討した後の大内氏も最盛期には和泉・紀伊にも領土があって堺に要塞を築き拠点にし幕府軍を引きつけておいて、軍船で尼崎に迂回上陸して京を目指して義満と決戦しようとしたがな。
おお、郷土武将の単独スレが・・・
近くを走る信越線から見ると結構北条城って急峻だよ。
築城技術とか詳しくないからよくわからないけど、
要害と言って差し支えないんじゃないかと思う。
ちなみに近くの斎藤朝信の赤田城はゆるやかな山地にある。
宇佐美爺の枇杷島城はいわずもがな。
さらに天正11年には北条に厩橋城を包囲され、援軍も来ずについに開城…
ちょっと晩年がかわいそうな北条どののその後をご存知な方はいらっしゃいますか?
>>14
よかったら、詳しいリポート頼みます!!
(レスが埋まるでしょ?)
>>15
確か、息子の大胡城に移ったはずだよ!! 北条に憚って「毛利」と改姓したとか…
天正十五年に厩橋八幡宮に納めた永代守護不入の書状を最期に消息は途絶えている。
北条城は・・・要害と書きましたが、普通の体力のある方なら十分登れる感じです。
下から見るとなかなか急斜面に見えますが、実際はそれほどでもw夏は虫や蛇が多いんでご注意。
枇杷島城跡は現在農業高校になっていて入ったことないです。
赤田城跡までの道はなだらかで、近所の老人たちのよいトレッキングコースになっていて、
私もガキの頃よく祖父とともに歩いた記憶があります。
そのあたりは謙信公の時代に造られた道が今でも使われていて、
斎藤朝信の奉行としての手腕を垣間見ることができますよ。
あと、北条毛利とお隣の安田毛利は仲が悪かったことで知られてますが、
今でも北条地区と安田地区のあいだにははっきりと境界線がひかれてる感じがしますw
仲が悪いと言うのは聞いたことありませんが。
・・・ちなみに、あくまで私の知るうちでの北条出身の人は
「体育に優れ頭も悪くないけど、少しこずるいところがある」ってイメージですw
高広のDNAは脈々と受け継がれているのかもしれませんw
安田は最近他所から来た人が多く、なんともいえないです。
柏崎市には他に上条氏の本拠なんかもありますが、こっちの方はちょっとよく知らないです。
というかこんな狭いエリアでよく群雄割拠してたもんだなとwww
なんかあんまり高広に関係ない長文ですいません。
>>17
ふっといてレス遅くなってゴメン
赤田城は本で見るととても規模が大きいんですね!! さすがは謙信・景勝の重臣だけはあります。
北条城は中規模、安田城は小規模っていったところかな?
柏崎市は、御舘の乱の舞台の1つになったから見所の廃城がいっぱいあってうらやましいw
北条広春の嫡子説より高定の子説の方が有力みたいですよ。
日本中で日常的に起こっていた事で何も越後だけが多いわけじゃないんだよ。
全国的な統計で見れば越後はむしろ忠臣揃いといえるほど裏切り頻度は少ない。
一般的な戦国武将が生涯に主君を裏切る頻度は3.9回。
越後では1.2回と格段に低いことを覚えておいて欲しい。
その、越後の武将は忠臣が多いってのを
上杉家は裏切りが多いって言ってる人達相手に使いたいんだけど、
一般武将がどういう武将かはっきりしてないとなあ…
3.9回という統計に関心。
それはさておき両属とか複数に本領安堵されるとか普通なのにな。
一主一従(んな語句ないけど)なんてほうが珍しいよな。
晩ご飯の米が足りなくなったら借りにいけるくらい。
平治物語や平家物語にはあるらしいが。
Yahoo!辞書 – かえりちゅう【返り忠】
ttp://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%BF%E3%8A%E5%BF%A0&dtype=0&dname=0ss&stype=0&pagenume=1
北条は上杉の家臣じゃないから、裏切りや謀反って感じがあまりしない。
家臣じゃないから、独自行動もあるでよ。
みんな武田信玄の調略によるものや。
喜多条
天文二十四年の善根での騒乱は北条高広が武田に通じて起こったのではありません。
根拠とされる越佐史料の武田晴信書状が、新潟県史編纂時の原本調査で"信玄"と
署名されていることが判明したからです。御存知の通り武田晴信が信玄と名乗るのは永禄期であるので、
安田氏宛の文書で確認される騒乱と、北条高広が信玄と内通していたことを示す書状とは結びつかないのです。
へぇ。そうだったんですか?
貴公の私見でもいいので…
詳しく教えてくださいね。
偽書ってこと?
> 525 名前: 515 投稿日: 02/03/15 15:03
> なお、それなら武田信玄書状はいつ頃のものかというのははっきり
> しませんが、信玄時代なら、北条高広が厩橋城代になってからのこ
> とではないでしょうか。謀反であるかどうかも書状だけからは断定で
> きませんが、厩橋城代になったあとで一時高広が謙信に背いたのは
> 事実なので、そのときのものかもしれません。
―ここまでコピペ―
>>68
偽書じゃなくて今まで写しでしか伝わっていなかった書状の原本が見つかっただけ。
で、写しには差出人の花押しか記されていなかったのが、原本では花押に加えて「信玄」という
署名がされていたので年次比定が間違っていることが分かったと。
あと上記の柏崎市史資料集306号信玄書状は新潟県史研究No.20の資料編補遺が初出だと思われる。
>>63について既に上杉家過去スレに分かりやすいレスがあったのでコピペ↓
【毘】上杉家を、普通に語りましょう。【毘】
http://curry.2ch.net/warhis/kako/1013/10136/1013659467.html
> 522 名前: 515 投稿日: 02/03/15 14:54
> あと、北条高広が何度も謀反したという定説についてですが、最初の
> 天文23年(1554)12月の謀反というのはどうも怪しいんです。ちょっと
> 煩雑ですが詳しく述べますと……。
>
> この謀反は「越佐史料」が最初に書いたようで、花ヶ前先生が何度も
> 書かれて(笑)定着しましたが、根拠となる史料は、一つは天文24年
> 2月3日に本庄宗緩(実乃)ら3人が安田景元に対して出した起請文
> です。これは「今度、善根(ぜごん)の一件で(殿が)出陣されたが、あ
> なた(安田景元)は、(敵が自分の)骨肉であるにもかかわらず、殿に
> 異心なく働くと誓われた。われわれも決して景元父子を見放すような
> ことはしないことを神に誓う」というもの。
> この史料からは、善根という場所で何かあったこと、そこで景虎に攻
> められたのは安田景元の一族だったことはわかりますが、北条高広
> かどうかはわかりません。
>
> もう一つの史料は、書状なので年が書かれていませんが、某年12月
> 5日付けの武田晴信書状(北条丹後守あて)で、これに「先日聞いた
> 話が事実なら大慶です」とか書いてあるので、越佐史料編者はこれを
> 上の起請文と結びつけて、天文23年12月の北条高広謀反説を立てた
> ようです。しかし「先日の話」が何かは書いてないので、そもそも根拠
> が薄い議論ではあります。
wikiも修正した方がいいんじゃね。
これはやばいと考えて拠点に逃げ帰り、篭城して武田などの周辺勢力に、
手当たり次第に助けを求めただけでしょ。
○害理由は川中島に関する論争かも。
そりゃ本庄繁長の話ですがな
その信玄書状ってこれのこと?
・元亀二年(1571)12月5日付、信玄→高広あて書状で、信玄は
「…(略)…先日承った事が、真実ならば大満足です。
今後は他の武将よりも優先して仲良くしようね。
(この同盟は)私の望みなので同意するよ…以下略」と書いていますし…
それで合ってると思います。
ちなみに善根の武将ですが、延徳年間の上杉家臣に毛利左近将監定広という人がいるので、
安田らに鎮圧された同族はこの人の子孫である可能性が高いかと…
延徳年間に毛利定広が善根を拠点にしていることが分かる、という意味です。
誤解を招きそうだったので一応…。
大いに、感服させられましたよ。ありがとう。
4: 武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2 スレッドでも言いましたが
「定説・通説だけど…云々ですね」
毎度帰順を許してる謙信公も相当懐が広いというか・・・。
一応可能性の高そうな系図を書いてみた。ずれてもご愛嬌(´ω`)
「安田」清広─広春─景元─顕元
∥
「北条」輔広=広春=高定┬高広┬景広
∥ | ├高広(毛利弥五郎。高明?)
「石曾根」……………高定| └高繁(常陸介、大胡を継ぐ)
└高政(長門守)
・広春は元々安田の庶子で北条を継いだが、安田のほうが何かの事情で
継ぐ人がいなくなってしまったので、同時に安田も継いだ?
・ところがその広春も子供ひとりしかいなかったので、それには安田を継がせ、
北条の方には石曾根の高定を連れて来て養子にした?(高定は『前橋八幡宮文書』の
寄進状によると北条下総守を名乗っていたらしいから、多分北条は高定から継いでいたと思われる)
・北条一族には安芸入道芳林よりやや年下と思われる「長門守」という人物がいて、
これは芳林の弟の高政か?
・芳林と同名の毛利弥五郎高広はひょっとしたら高明とも名乗っていたのかもしれん。
・大胡常陸守(常陸介)高繁は芳林の実子か養子か判らんが、とにかく大胡を継いだ。
この人物はことによると上泉家ともつながりがある、というのは考えすぎか。
ありがとう
北条毛利と安田毛利の関係はややこしいから
前からちゃんとした家系図を見たいと思ってた
しかし天文23年に(北条高広ではないと判明した)反乱を起こした
善根城の毛利大万助って家系図に入ってこないのかな?
北条長門守って年齢推定可能な史料あったんだ?
御館の乱関係の書状に出てくるのは知ってるが、
年齢は全然わかんなかった。
確か景勝方だったよね、長門守って。
謙信は人がいいのか、2度の謀反後も信頼して、上野の豪族・膳氏の嫡男を高広の猶子にさせたり、能登畠山の娘を北条家に嫁がせたりしているww
でも厩橋の変節は通常万タヒに値する離反だよなあ。
なんでこの人の権力基盤を固めてあげたんだろうかw
上条政繁はジョウジョウ・マサシゲです。
ややこしいので気をつけてね。
バ○花なんとかの二回も謀反したとする誤解釈が原因です。
それ、息子の景広だったような…
>>97
近衛の小説でも、その説がばっちり採用されてたなw
彼のブレーンの一人が、バ○ヶ前だからw
>>99
近衛はゴミ作家だな。
上杉小説=駄作の方式を一人で作り続けているし、
ブレーンが鈴木と花ヶ前。
おまけに藤木の馬○な略奪説も宣伝してくれるw
景虎バンザイ、柿崎は暗○、景勝は不義。
本当はこいつアンチ上杉なんじゃないのか。
研究者の間で藤木ゼミ出身の人がいるが、必ず馬○のように「略奪のための戦争」論を出す。「じゃああなたは平和運動でもやってなさい」と言いたいね。小説は史実プラスフィクションが入ってるから多目にみる事だね。
それ以来北条家では旗指物をなるべく小さくすることが通例になった。
現存する最小のものでは縦10センチ、横3センチのものがある。
景広のこと?
鬼弥五郎なんて異名もらってるのに不遇だ
そこまで小さいとわざわざ旗にする必要がないな。鎧に縫い込んどけばいい。
もっとも何のための旗印がわからなくなるがw
それって息子の方だよな?
本人は景勝に降伏してなかったか?逃走、行方知れずだっけ?
武田勝頼に降伏し、勝頼を通じて上杉家に復帰した。
普通に謙信と越後から山を越えようとしてたんだが。
>>111
強引に解釈しようぜ。
つまり「輝虎に出兵を願いに直々に春日山に出向いていた」んだよ。
実際彼の妻子は越後に住んでいるわけだから不具合はない。
でも関東じゃなくて信濃に出兵していたのは内緒。
すっかり親北条になってた部下達に怒鳴られる高広w
大河の謙信は参勤交代を先取りしていたと。
寛永期に成立した勘定奉行という職責も、いち早く導入していたなw
高広の場合、代官としてじゃなくて領主として配置されているからねえw
平和時に参勤交代がないシステムなんてどの将軍様も不安になるわな
ただ真冬に春日山は・・・。 まあ正月の挨拶に強行軍で来たついでの絵と補完するか
謙信は質素を好み正月の飾りつけなど無用という方針で・・・
どうでもいいか
宇佐美や政景が変タヒして間もないから
春日山へ行って状況を確認してたんじゃね
ついでに下野常陸への次の軍事侵攻の打ち合わせ会議やってさ
また高広は永禄12年の時点で、後北条に宛行われていたのか伊豆国稲取郷や片瀬郷をすでに領有していた。
上条の息子に畠山弥五郎景広ってのがいるようだが、
北条弥五郎景広と輩行・諱が被ってる。
しかも北条は謙信から畠山の未亡人を押し付けられるし。
何か関係が…?
高広は御館の乱後も生存したと言われるが、
同名の息子の事だという説もあるらしいな。
生タヒ不詳が一番悲しい。
上杉家の関東最前線に配されながら、情勢次第の行動をとった北条高広。
謙信タヒ後の御館の乱で景虎=北条派に属したものの、
景虎が自害すると武田勝頼に臣従し、織田がくれば滝川一益に従った。
ところが本能寺の変で織田までがいなくなると、
後北条と徳川の同盟が成立、後北条の北関東侵略にさらされるようになる。
天正十一年。
後北条氏は真田領を奪取すべく、高広にも出兵を命じた。
明らかな踏み絵だが、高広はこれを拒否し、抗戦の道を選ぶ。
そして、援軍を頼んだ先は、上杉景勝。
真田昌幸がどうこう言われるが、こいつも相当なタマだ。
どうせ北関東タヒ守のために景勝は動かざるをえないし、
そうすれば佐竹や宇都宮ら、反北条勢も動くだろうとたかをくくっていたらしい。
ところが、領内すら不安定な景勝の動きは鈍く、数ヶ月たっても牽制すらしてくれない。
焦った高広は、直江兼続らに長々と書状を送って援軍を懇望したが、たいした効果はなかった。
高広は半年以上も孤立した戦いを繰り広げ、ついに降伏した。
その後の彼の人生については、よくわかっていない。
政権中枢にいた斎藤朝信にしてみれば、地方司令官に格下げされたら、不満を持つだろ
北条高広が那波氏の同族だったことも関係あるだろうけど
娘だか妹だかを那波氏に嫁に出してるんだよな?
通字見ると高広の血を継いでると思うんだが
この人が安田能元の跡を継いだって事は
北条安田の対立って
北条高広と安田景元との個人的対立のみで終わったのかね
那波、安田、越後北条や安芸毛利氏は大江氏で同族なので
大江広元の広と元をよく使っている。
安田氏を継いだのもその縁だろう。もちろん高広と縁戚だったかもしれないけど。
一応那波俊広の実父とされてる人は北条高広の所から嫁もらった人みたいだね
武田に行った名和無理之助の弟っぽい人で、一時期上杉の人質だった人
那波氏は家系図がめちゃくちゃらしいから訳解らんことになってるw
ここらを治めていたのかと思うと感慨深かった
山ばっかりで平地らしき平地がない小さな区域だったけどね
こんな小さな領主も家中であれほど名があるとなると、田舎大名の家臣なんてほんと小領主のあつまりなんだなと思ったよ
広い越後の中でもこの数キロ圏の近隣には斎藤、上条、宇佐美と名だたる者の城が密集してて楽しかった
スレ血だが北条城、矢田城、安田城、赤田城、勝山城、枇杷島(学校)、上条城、鎌田城、二田城と行ける限りだが柏崎の城攻めたが二田城は流石に越後最大級を謳うだけあり途中でタヒ亡
>>175
北条城…タカヒロ(越後において知らぬ者の居ない生まれながらの反骨腹黒やくざ)
安田城…アキモト(かつてタカヒロと杯を交わした仲。同時に永遠のライバル、チクリ魔)
上条城…マサ☆シゲ(能登より来たエリートやくざ、ときおりタカヒロを見る目が冷たい)
赤田城…トモノブ(普段は優しくなんでもこなすマルチなやくざ。キレたらタカヒロにも止められない)
鎌田城…ヒョ→エ(いつもタカヒロを暖かく見守っている)
枇杷島…USA(謙信組長の覚えが良い、とにかくアタマがキレる若頭、タカヒロの苦手な人物。クルージングが趣味)
万事休す今は謝るとしよう、みんなに罵られようともかまわないし耐えるさ、謀叛のチャンスがまた巡るまで。
なぁに心配ない、土下座なんてもう慣れっこだよ
また縁があったら誘ってくれ
by喜多条たかひろ
まとめると、
北条高広は、毛利氏と同じ大江氏の一族です。
通名の「広」は家祖の大江広元からきてると思われます。
ちなみに、毛利氏の通名は「元」です。
大江氏は、宮廷貴族(最高位は三位?)だったのが、源頼朝の時に幕府に仕えて幕府の要人になった家系です。
一族の端くれ
本流はずれの分家筋の次男のそのまた次男
ありがとうございます。
高広や景広の実子とかじゃないのね。
少し前にNHKで前田慶次のドラマがあったけど、そこでも安田氏は上杉家重臣として出てた。
長州藩の毛利家の本家筋みたいだけど、交流はあったのかな?
裏切りのペースが凄まじい昌幸と
キャリアが長い北条
しかもこっちは流れ者の上、名前まで紛らわしいとか
2回離反したのに謙信に許されて家臣に復帰出来て謙信のタヒの直前まで実務を任せてたということは実力があったということや。
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189679152/
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