モンゴル帝国ってあれだけ大きかったのに、なんで東ヨーロッパすら征服できなかったの?
恥ずかしくないの?
また、ポーランドの強さは、ハンガリー人(匈奴)との混血だからだと言える。実質的な武力より、兵器開発に優れている。モンゴル人は安定した国を作ることは出来ない。まず農耕の知識がない。
https://www.youtube.com/watch?v=4dv-kJUIpo8
モンゴル人は
地主層か,商売人層が多かったんですか ?
モンゴルが征服したルーシは東欧だろ
14世紀でvsモンゴルというとポーランドていうかリトアニアのイメージが強いなぁ
征服できなかったからたいしたことないよね
ポーランドとか国王が曝し首にされてるけど
>>5
樺太アイヌは完全制圧されて最南端に白主土城つくられてますけど
北海道にまで来てなかったから勝ち論はなしな
そもそも最初からそんな計画はなかったのだから
でも征服できなかったよね
何で?
ジョチウルスの歴史調べてみればわかるでしょ
建国以来四六時中内ゲバしてるのに
例えばノガイが西はリトアニア、南は東ローマ帝国の首都まで迫って東欧を席巻するも内ゲバでタヒ亡
でまた振出しに戻るこれの繰り返し
東欧あたりがギリギリ遠征できる範囲
森林や湿地帯での戦闘になると騎兵なんて何の役にも立たないだろう。
馬の食料もなくなるし。
東欧遠征軍の大半はオゴデイ・カーンのタヒ去によって東へ帰還し、現地に残ったのは
ジュチ家8000人だけ。
むしろ負けたら恥ずかしいレベル。
東欧<<<<<<<<<<マーワラーアンナフル
戦いが本格化した頃にはモンゴル人と言うより
イスラム教徒のチュルク人の軍勢になってたの知らないの?
モンゴル語とチュルク語って日本語と朝鮮語くらい違うんだよ?
対立軸が宗教になったのも理由だな
最初はイスラムが強くてもレコンキスタされる
高等宗教っていうのは1つあればよく、上から塗り替えるというのは可能だがそう容易ではない
素朴な精霊信仰の地域が高等宗教どれか1つに染まるのは容易だが、乗り換えは困難だ
キリスト教圏がイスラム化した例もあるが、征服者以外はかなり時間がかかっている
チュルク人は伝統的に大酒飲みだし、近代までそんなに熱心なムスリムでもなかった
ポーランドに攻め込んだ時にチンギス・カンがタヒ去したので
長男はチンギス・カン後継者になるべく帰国しかかったが
モンゴルは遠かった
僅か1万人攻め込んだだけで国土蹂躙されて国王○されるポーランドってどうなん?
しかし撤退
防備の体制を整えるのが間に合わないうちに手薄なところからやられていく。
すぐ北のロシア人すら征服できなかったクマン族って何なの?とむしろ思う・・・
タタール人と戦う前にヴァイキングの血を注入されていたからだろうな
モンゴル襲来以前の歴史を見るとあのままでは小国分立のまま終わってそう
>>42
森林だから説はびみょー
だってルーシの連中もツンドラの森林地帯にいたけどフルボッコにしてるし
クリルタイでモンゴル帝国の大事業として行った初期の欧州侵攻は圧倒的だった
後の東欧攻撃がしょぼくなるのはモンゴル帝国の事業ではなく
ジョチウルスの事業とかで単に軍勢そのものが縮小してるから
っていう物凄く単純な話
>ツンドラの森林地帯
ジョークのつもり?
>>48
いや素で間違えてた
確かにタイガだなw
仏教徒じゃなくてムスリムの
モンゴル要素ゼロともいえる
ノース人、定住に成功、とけ込む
ブルガール人 定住に成功、ブルガリア
マジャール人、定住に成功、ハンガリー
モーロ人、撃退され追放、さようなら
トルコ人、ちょこっと残った
ウラル語族、定住に成功
ロマ人、いたのね
ソルブ人、誰れ
モンゴル人、撤退
>ロシア人がスラヴの中で頭一つ抜きん出ているのは
>タタール人と戦う前にヴァイキングの血を注入されていたからだろうな
いや、寧ろ積極的にモンゴルに接近・協力して力を蓄えたんじゃ?
ネフスキー公はモンゴルに協力したし、正教会はモンゴルに逆らった者を破門にしてたし。
ロシアのことを「白モンゴル」と呼んでさしつかえないと思う。
ロシアが、というよりモスクワ大公国が、ロシア諸侯国のモンゴルに対する貢納の
実務を担った代官だった。
そのモンゴル帝国の代官たるモスクワ大公国の地位をベースに「ロシア帝国」が発展した。
「ステップ地帯の全遊牧民の天下統一」
なんだな。
それに次ぐ優先権だったのが、
「遊牧地帯に隣接した遊牧国家への貢納地になりうる農耕地帯の征服」
そういう意味で、ロシア以外の東欧は遊牧軍団のベースキャンプたるステップ地帯から
ちと遠かった。
誰だか忘れたが絹が取れるからやめたほうがいいと進言した馬○がいる
それは耶律楚材をヨイショするために書かれた与太話だから。
耶律楚材はチンギス・カンに対してそんな影響力は持っていなかったことが判明している。
遊牧地帯はちょっとした気候変動ですぐに大飢饉になる。
モンゴル帝国にとって征服した農耕定住地帯は遊牧地帯の飢饉を救済するための
穀物を得るための重要な「遊牧権力の源泉」だった。
だから、帝国初期には放牧地はチンギス・カン家の王族に分配しても、
定住農耕地帯の支配権を皇帝は手放さなかった。
皇帝中央権力が弱体してきて初めて帝国内地域政権を確立してきた王族が
定住農耕地帯への支配権と徴税権を手にしている。
中国や朝鮮は、だれも農民のための政治をやらない社会になった。
とりわけ朝鮮半島では、もともといた朝鮮原住民を南端に追いやった満洲系の狩猟民が流入して土地を所有したため、
人糞を肥料に使う風習が失われ疲弊し奴婢が使役される古代がそのまま近代まで維持されることになった。
はっきり覚えてないけど壬辰倭乱以降だとか
これだから池沼は困るワ
>>81
それが、統一新羅時代とか高麗時代には黄海の海運の主力を担う開かれた交易国家で、
高麗時代に貨幣経済への移行は済ませているんだな。
一般に、衣料品や穀物を交換財として使う経済に後退したのは
モンゴル侵攻による戦乱期とされているけど、
あれほど商業経済に力を入れていた大元ウルスのクビライ政府の藩屏に
高麗が組み込まれていた時期に貨幣経済が復調していた可能性は検証する価値があると思う。
朝鮮半島の貨幣経済に最終的にとどめが刺されたのは、元末のモンゴル帝国全体を覆った
汎ユーラシア的な社会と経済の混乱によるところが大きいんじゃないかと思う。
実際、この混乱の危機対応政権として登場した大明政権は中国大陸での貨幣経済や
大元ウルス時代の銀本位制を停止して、事実上衣料や穀物による物々交換経済に経済を後退させている。
大明が先代時代の銀本位制を復活させるのは、日本やメキシコからの銀が大量に流入して、
民間で勝手に銀建て経済が復興してきたのを追認したことによる。
ところが、李氏朝鮮ではこの大明での貨幣経済復興に連動した経済復興が起きなかった、
という視点でこの王朝での貨幣経済の不成立を論じるべきなんじゃないかな。
一応、「モンゴル帝国周縁史」に引き戻したつもりではあるので勘弁してくれ。
レス付けも、出来たらモンゴル帝国に関係づけてやってくれると助かる。
そうだね
責めたわけではありません
82すごく面白いのに専スレがないのが悲しくなった
モンゴルモンゴル!
「モンゴル時代の高麗経済」に関して書いていて、ふと気が付いたことがある。
宋朝は北宋の時代も南宋の時代も北方の遊牧勢力に供えた国境線防衛で使う火薬兵器の
原材料の硫黄を日宋貿易で手にしていたんだけど、モンゴル帝国は南宋を接収する前の
弘安の役の段階で、日本侵攻のための兵器として黒色火薬による炸裂弾を使ってるんだよね。
どうやって当時のクビライ政府が火薬原料の硫黄を手にしていたのかずっと疑問に思っていたんだが、
これってもしかすると博多に交易に来ていた高麗船に日本が硫黄を売って、
それをモンゴル軍が日本侵攻に使っていたって事じゃないのか?
>>87
やっぱりそうだわ。
東大のサイトにあった。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/ginnan/ginnan27html/16koutouB-paberu.html
日本は高麗にずっと硫黄を売ってるわ。
カルカ河畔の戦いとワールシュタットの戦いは双方3万以下
崖山の戦いでもモンゴルは2万で兵力は少ない、南宋は25万もいたのに弱過ぎだろ。
モンゴルはたいした兵力持ってないのに何故圧勝したんだか
モンゴル軍の戦闘自体の強さは他の遊牧国家と大差ない。
モンゴル軍の強さは戦闘の強さじゃなくて戦争の強さにあった。
つまり、戦闘に突入する前に徹底した諜報、調略によって敵の弱点のあぶり出し、
敵内部の裏切りの誘発などなどを済ませていて、戦闘自体は最低限でよかった。
戦争がうまくいきすぎて諜報、調略を済ませていない地域まで軍が突出すると、
あっけなく負けたり泥沼の戦争に巻き込まれることも少なくなかった。
モンゴル帝国が鎌倉幕府統治下の日本社会に裏切り工作を仕掛けるとしたら、誰だろう。
日蓮宗門徒とか西国の在地勢力とかかな。いずれにせよ反幕府勢力を利用するだろうね。
壱岐の島に救援を送らなかったら、幕府を見限ってモンゴルに寝返る勢力も出てきたんじゃないかな。
森林の多いところは苦手なんだろうな
あと完敗したのがエジプト
モンゴルは西欧まで侵攻してないし、北ロシアで苦労なんかしてないだろ。
それに、エジプトが完敗なら日本はそれ以上の完敗。
弘安の役のモンゴル軍の損失なんて10万人以上じゃん。
モンゴルは、インドも征服できなかったよ。
ムガール帝国
ホンマや。モンゴル弱いわ。
井の中の蛙が妄想で偉そうにしたんだな。
>>104
ジャワ忘れてるで
要するに蒙古は大陸弁慶や
島嶼や沿海地域では大して強くない
宋の征服では何十年もかけて執念で歩兵部隊主力の軍を作った
草原を駆ける騎馬部隊では宋の制服は無理だった
モンゴル帝国隷下の朝鮮人脈を利用して、朝鮮と交流のある日本人に調略をしかけると思う。
となると北九州の商人に利益と○戮の恐怖をちらつかせれば、モンゴルになびくかもしれない。
外国の侵攻をはねのけるのは…『征夷大将軍の仕事』の最たるものだと思う。
江戸幕府が攘夷を強要されて窮地に追いやられるのも、同じ理由だよね(^_^;)
>モンゴル帝国って何で東欧すら征服できなかったの
逆に聞くがナポレオンもヒトラーも敗退しているけど、だれが上手くやったのか?
マケドニアやバルカン半島、ルーマニアとかも含まれる
今のトルコあたりもギリギリ入ったり入らなかったり
ローマ帝国ぐらいじゃないのか一部とはいえ統治できたの
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Map_of_Poland_and_Lithuania_(1618-1667).svg
今のポーランドあたりあった地域からそりゃロシアが発生したんだし
西ゲルマンと東ゲルマンの分裂でロシアは東ゲルマンの延長
だいたい官吏がそろって強いとこに着きたがり裏切るからね
中国あたりは事変が起きるたびに官吏連中が処刑された歴史やの
自分らで都開けて待ってる場合もあるんだぜ
最後は徹底的に見下されて終わり、被害ぶろうが無駄
騎兵だけだと厳しい
イスラム化して、ジパングスタン共和国とか。
それを言うならジパンギスタンだろ
ジパングをZi-pangだと思ってる奴多いけどZi-pan-gu(日 zi 本 pan 国 gu)だから
Zipanistan
南宋がなかなか落とせなかったのも、大河が渡れなかったせいだし、日本もそうだし、ベトナムも森と河で、やられている。
ジャワも海路でヘロヘロになって失敗。
モンゴルは大陸平原弁慶
しかし、騎馬部隊では宋の征服は無理と分かって
わざわざ何十年もかけて歩兵部隊中心の新しい軍を作って宋を征服した
必要ならここまでやるかということもやる
バトゥなんてとんでもない優れものだぞ
今でも、ポーランドのクラクフでは、バトゥ軍が攻めてきて、警告のラッパ手が弓矢で○されてるのを再現して
ラッパの音を途中で止めてるからな。
13世紀からずっと続けてる。
あと一回目の侵略の時重装騎兵の損失が非常に少なかったから、重装騎兵中心にしたらキプチャクの侵攻も食い止められるようになったとあるね
一回目で引き返して相手の防衛体制を整えさせたのが失敗
欧州軍の話?
>>139
>あと一回目の侵略の時重装騎兵の損失が非常に少なかったから、重装騎兵中心にしたらキプチャクの侵攻も食い止められるようになったとあるね
モンゴル騎兵相手に重装騎兵とか完全に悪手なんだが
数十万単位の鉄騎を保有していた金ですら太刀打ちできなかったのに騎馬民族でもない貧乏農耕民のルーシがつけ焼き刃で鉄騎揃えたところで何の価値もない
曹操でも華南ではぼろ負けした。
曹操は北方の遊牧騎馬には異様に強かったらしいな
人口がはるかに多く、経済力が突出している南宋を攻略するには、
軍事力だけでは駄目だった。
モンゴル自身が変革して、漢文化をかなり受容する必要があった。
中華に傾倒してたフビライが帝国を中華式に変貌させたことが南宋征服に最大に貢献したと言える。
モンゴル帝国ってあれほどの国土を支配した恩恵はどれほどあったんだろうね?
ローマ帝国は奴隷や物資を吸い上げて贅沢三昧していたけど
モンゴル帝国はほとんどが荒野と草原でしょう?
具体的にやってた事って人住んでるところに無差別に攻め込んで忠誠を誓わせて
旗立てて行くだけでその後は放ったらかしなのかね?
>>150
モンゴルだって贅沢品を収奪して
それらを味方の諸部族に分配することで
支持を集めて権力を強化していた。
素朴な遊牧民も贅沢の味を覚えてしまうと元に戻れず、後に引けない。
より豊かな南方へと目が行く。
西方の大国ホラズムへは最初から侵略を企図してたわけではなく、
交易を望んで使者を派遣したら、大虐○されてしまったので、
報復大遠征となってしまった。
東方の金朝に対しては、
金が長年にわたって遊牧諸部族同士を操って敵対させる政策を取ってきたことへの復讐がある。
基本的に商人を優遇する交易促進政策だったことから、
商業ネットワーク構築を歓迎する東西の商人たちの支持を受けての拡大とも言える。
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