【戦国時代】朝倉義景が朝倉家を存続させるためにはどうすればよかったのか
信長包囲網の主力として頑張り、
志賀の陣では織田に勝利し、信長に
「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望みなし」
とまで言わしめた
しかし、僅かその3年後に朝倉家は滅亡してしまう。
どうすれば朝倉家は滅亡を回避できたのか、
織田に勝利する可能性はあったのか、検討しよう。
2: 2020/10/07(水) 19:01:37.08 ID:UFEnBwAM
義景が愚将扱いされるのは下記の2点
・志賀の陣で和睦したこと
・信玄の西上作戦時に撤退したこと
しかし、朝倉家の国力はせいぜい50万石であるのに対し、
織田の国力は尾張美濃伊勢だけで150万石、近江南部や畿内の親織田勢力を考えると
4倍以上の国力差があったと考えられる
刀根坂の戦いの頃には義景自身が出陣しても応じない国人衆が出てきたほどで、
朝倉家の国力はかなり疲弊していた
そもそも織田家と朝倉家の間に国力差がありすぎたことが根本的な敗因ではないだろうか
対織田戦の発端は元来言われていた義昭の上洛要請に従わず、ではなく断定できないレベルだけど若狭武田氏への介入問題っぽいんだっけ?
そもそも上洛するよう呼ばれてないとかで
志賀の陣で講和した後も戦い続けてるのもわりかし謎
>>4,5
朝倉討伐は織田家の軍事行動ではなく、
足利幕府としての軍事行動だから
そもそも幕府(義昭)と朝倉家の関係が冷えきっていたのが根本的な原因かと
上洛要請に呼ばれてないし、若狭武田氏介入問題も幕府にとってどれだけ重要な問題だったかというと…
そうすると、最初に義昭が朝倉家を頼った時に動いてくれなかったのを根に持っていたとか
そんなしょうもない理由かもしれない
上洛要請に答えないで若狭侵攻なんてしてれば
誰でも面白くないと思うのでは?
朝倉氏を陥れる為に上洛要請が朝倉氏だけにはなされていなかった的な見方を最近ちょくちょく見かけるけど
上洛要請を受ける事に朝倉土佐守家(北ノ庄氏)が強く反発したという逸話もあることから要請自体はあったのではないかと思う
1544年に織田家と朝倉家が斎藤家挟撃で共闘してから特に織田ー朝倉間では対立らしきものもなかった訳で
上洛直後の信長からすれば特別、朝倉家を敵視する必要性もなかったように思うし取り合えず要請ぐらいはしてたんじゃなかろうか
朝倉氏も若狭国から持ち込まれた訴訟に対して意見は出すが最終的な判断は足利幕府の沙汰を待って対処せよという姿勢を見せており
若狭国を朝倉氏の意のままに牛耳っているような状態とは言えなかったとも思うんだけどどうだろうか
足利家と若狭国の関係性を考えたら朝倉氏もあまり無茶は出来ないという事ぐらいは心得ていたと思うし
朝倉家に逗留していたって話しね
且つ、織田家の上洛に軍を出してないって話
かくまってたのに恨まれちゃたまったもんじゃないっすね
義昭かくまってる時になぜかたまたま当主の嫡男亡くなる不幸まで起きるし
自分の息子も見○しにして別段って感じだし
それは義昭だけでもないけど
義景が織田と殴り合いずっとしてたの、通説みたいな名門が成り上がりを認められないみたいな話じゃなく
義昭義景間のしこりがありそうだなって
「よっしゃスレ立ててレスバトル仕掛けたろ!」みたいな感じでスレ立てたんか
越前という国の魅力を忘れては行けない。
当時京の都より栄えて日ノ本一番の都市を有し、堺港とならぶ敦賀港を有していた土地。
石高以上に相当魅力的な土地であり一乗谷にはすでにガラス工房まであったほど、そんな越前だから信長がどんなことをしても手に入れたいとも思っていたはず。
>>14
信長が必要としていたのは越前ではなく若狭と敦賀では
特に敦賀は日本海側から京に抜けるルートで、
貿易をするにあたって最重要な拠点だった
越前手に入れた時に朝倉の旧臣に任せて、
その後に一揆や一向衆に襲われた時にも無視している。
確かに越前は1国で50万石の大国で商業も栄えているが、
当時の信長にとって必要な土地だったのだろうかは疑問
石高や商業的なものはもちろんだけどそれ以上に越前というブランド価値があったんだろと。
越前を柴田、若狭を丹羽とNo.1と2に治めさせてるし。
徳川幕府時代も結城や松平といった身内だしね。
いや、その前に一度朝倉の旧臣に任せている
それが失敗したから柴田が入ったわけで
敦賀だけは直轄地として自分の参謀格の武藤入れてたもんな
信長の越前侵攻の理由に関してはハッキリとした答えは現状では出ないよ
あの時の様々な状況証拠からどんな説も導き出せるような状態だし
各自が思う説を信じればそれでいい
代官位は置けるかもしれないけど
上洛戦で領地増えたっけか?
伊勢平定は織田家主導で増えたけど
知力武力はもっと高評価でもいい
粘り腰がすごい
朝倉も悩まされた宿痾
一向一揆の勢力としての怖さってある程度の統治期間があって
指導者層の坊官達と一向宗徒達の間にしっかりとした主従関係が出来あがっていないと
そこまで強大なものになりきる前に内部分裂しちゃいがちな面もある
越前を奪った後に各要所に本願寺の坊官達が配置され織田軍の再侵攻に備えたわけだけど
合戦時に本来なら信徒が前面で守りを固めて各指導者達が後方にて指揮という形になるものが
織田軍からの越前再侵攻の際はそのフォーメーションが真逆となるだけでなく内部での諍いまで起こってる
坊官達が残した日記などを見ても信徒が言う事を聞かず自分達よりも各自の惣のリーダーの元に集まってしまい
その結果、門跡本人や大旦那が前線に立たざるを得ないみたいな感じで嘆いている
顕如本人や本願寺教団の教えそのものに対しては従順なんだがそれらに仕える坊官達の指図に従うのは御免だという点が
越前あたりでは加賀や越中などの本願寺教団の教えが長年浸透した地域とは明らかに違う
一向宗の強い地域に攻め入る事は難しいが攻め込んで来られて領土を奪われたとしてもこういった脆さも出てくる
志賀の陣までは朝倉有利だったはずなんだが
その後に秀吉、勝家、長秀あたりが近江に入って奮戦したところで潮目が変わった感じなのだろうか
雪
浅井の配下が裏切ったから遠征軍の朝倉軍は孤立したままで冬を越すのを恐れて撤退。
(これなぜか織田軍の奇襲攻撃により砦奪取とか、朝倉は本当に負けてない戦いがほとんど負けたことにされてるのが多すぎるね。この場合も浅井軍の裏切りであった。)
そしてそこで刀根坂になる。
多分朝倉の唯一?敗北らしい敗北は刀根坂だけだけどここでほぼほぼ壊滅状態にされてる。
いや、刀根坂の開戦前の時点で朝倉はボロボロだったと考えるべきでは
当主の義景自身が出陣しても、ついてこない家臣がいたほどだったし
朝倉家滅亡の原因も刀根坂の敗戦自体ではなく、その後に裏切りが続出したからでしょ
事前に調略が済んでいたともいえるし、義景に家臣がついてこなくなっていたともいえる
刀根坂前はボロボロってほどでもないよ。そこまで大規模な戦事態もないしね。
ただ経済的にという意味では数年に渡って何度もの遠征でキツくなってたのかなぁとは思う。
けどやはり決定的なのは刀根坂での撤退戦の失敗とその撤退の原因になった浅井配下による裏切りでの孤立だと思う。
冬の木の芽越えは想像以上にきついかと、いまの時代ですら通行禁止になるようなところだし。
戦で負けたというよりは経済力で負けたって印象のが強いかと。
再度の出陣に難色示したのも朝倉家からの香典みたいなものが不十分で
そういった点に対する不満もあったらしいからな
小谷防衛戦では恩賞として出せる土地も手に入らんし
経済力考えたら無理な気が
うーん、信玄の西上作戦が始まる前の時点で
前波吉継や富田長繁など大物の離反者が出ているからなぁ
朝倉家の内情は末期の武田家みたいにガタガタだったんじゃないかな
そうすると籠城しても結局離反者続出して滅亡しそう
武田勝頼と同じで義景に滅亡の原因を求める通説はまちがってる
そんな不安要素あったっけ
二大親族の敦賀郡司家(朝倉宗滴の家系・景紀とその子景ミツ・景恒)と大野郡司家(景鏡)がメッチャ仲が悪い
加賀一向一揆鎮圧の大将の座を巡って景ミツと景鏡が争い、景ミツが自刃
さらにその後も景紀と景鏡が席次争いして、その後は顔も合わせないぐらいに犬猿の仲
景鏡は強欲で、主人の義景と権力争い
一族グダグダやで
当人生きてる間はそれで回るけど、亡くなった後問題噴出するでしょこんなん
先月ぐらいに朝倉氏の本スレでも散々話題に出てたしもうええやろ
家中統制や団結力は他の勢力と大差ないと考える人もいていいし
家中バラバラでそこが崩壊の要因へと繋がったと考える人がいてもいい
どっちも見方も正しいでいい
チャンスを2回逃したとあるが
実際には5回以上逃している
信長は放置すれば尾張美濃の大兵力が出せるのが目に見えている
うまく夢の浅井朝倉連合軍で信長を討伐できなかったのが痛い
将軍上洛をさっさとするべきだ
あとは守り
敦賀から今庄までの山は天然の要害なんだから
今川の薩た峠みたいにあっさり越えられたのは痛い
あそこであっさり逃げて平地に追いつめられて信長に脳天パックリさせられたのは弱すぎ
信長包囲網を敷いたのか不味いよな
浅井長政がそれに乗っちゃったから調子こいたんだろな
浅井長政が悪い
50万石しかない朝倉家単体では三好三人衆にも勝つのは難しいのでは
加賀一向一揆もいるし
上洛呼び出しそもそもされてないってのが最近の研究なんよな
包囲網も反義昭同士でゆるく固まろう程度だし
浅井長政みたいなやつ信用したのが悪いのはその通りだろうけども
織田も朝倉も浅井なんかを信用しようとしたのが悪い
光秀謀反のがまだ分かる
織田方につかなかった浅井家はバ○だなぁと思うが
織田ではなく幕府軍と考えれば?
完全に力を失った足利幕府が一時的に復活しただけでしょ
そんなんすぐ潰れると思っても不思議じゃない
扱いが軽んじられてたからじゃね?
実際織田と義昭の利益になる行動とれてたかというと微妙だし
んで裏切りまくりのザ畿内の国人な動きしてるやつだし
まぁそれはあるかもしれん
徳川は遠江・駿河と領土を伸ばすことができたため
織田との同盟が続いたが
浅井は織田に蓋をされた形になったからな
朝倉の領土分けてやるから味方になれ、って言ったらどうなっただろうか
朝倉の若狭侵攻を足利は問題視したわけだしな
伸びようと思ったら、足利、織田、朝倉のいずれかか?
もっとも、朝倉攻めるって選択肢もあるのでは?
長政と織田の手切れ時期だと
織田派
・織田、足利、徳川、武田(援軍は送らずとも同盟中)、松永、三好本家、大阪辺りの国人衆、別所
中立
・本願寺
朝倉派
・朝倉、三好三人衆、六角残党(本領無し、こっそり味方の国人有り)、比叡山
我関せず
・長尾、毛利
志賀の陣になって、本願寺が朝倉派に加わった位
位といっても本願寺の影響が物凄く大きいんだけど
これでよし朝倉派に付くって何気に凄いな
畿内の国人情勢なんて昨日の今日で敵味方ころころ変わるレベルで
自分が軽んじられたから向こうに着くとかも日常茶飯だし
別に凄いとはそんなに
実際織田も足利も何度もピンチに陥ってる
ヒストリアの浅井長政の回で
信長上洛時の過程で意見の相違的なものが生まれたのでは?とか推察してなかったっけ
信長の手紙で浅井のアレはたいした武将じゃねーなみたいに書き記した史料も出てたし
今年の夏ごろに浅井長政が出した安堵状が京都大原の寺で発見されたってこれもNHKでやってたけど
洛北の一部を領してた山本氏は阿閉氏の本家筋にあたるので浅井氏の奥丹波方面への領土拡大ルートもあるにはあった
舞鶴近辺の旧家からも長政の安堵状が出てきたこともあるらしいけど
実は長政は近江守護ではなく魔王の四天王に成りたかった説
天下布武、さすが義兄天下に武をひくのか
はぁー、室町幕府の再興のことだとぉー
あんなの傀儡で滅ぼしとけよ
信長の野望だって、新しき世は信長が作るとか言ってたろ
これが長政離反の真相
長政は思われてるより野心高すぎたってことなるやん
優しいだけの人ってつまらないから!って
まあ長政って思われてるより肖像画も大柄ブ男だしなー
観音寺騒動後の停戦協定破って六角攻めたりあっちついてこっちついてで実に戦国時代の人物らしい行動してるよ
浅井朝倉をみると本当に歴史ってのは勝者に都合よく作られてるんだなぁと思う。
許してもらえるのかどうかはわからんが、タイミング次第だ
そうなってくると義兄を裏切ってきた浅井長政はなんやねんってなるやん
どこまでいっても浅井長政がネックになるやん
共に頭下げようとか言ったら
朝倉殿はそうなんですね朝倉殿の中ではそうなんでしょうね
じゃあ今から徹底抗戦の挑発のために織田方の城に突撃してきますよ
それで朝倉殿の幻想をぶち壊してやりますよ
それでもダメなんですか?
とか言いそう…
それがいつの間にか信長包囲網側の総大将が足利義昭になってる
総大将が逆の勢力に行ってるんだから、朝倉家が裏切るなんて大したことはない
武田の西上で包囲網側に一枚かんだだけぐらいな感じ
いや丹羽長秀に切られた朝倉愛王丸という次男がいたよ
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1602064421/
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越前を下克上で乗っ取った頃から鞍谷御所という斯波氏系の足利一門を抱えてて、追い出された斯波氏本家の家老だった織田氏と足利宗家である義昭とは対立するしかなかったという因縁がある。