【戦国時代】大谷吉継は関ヶ原で石田三成に味方してたけど、本当の友達なら止めるべきだよね???
自分が業病で余生が短いから一緒にタヒんでやるっていうのはタリバンとかISISの考え方
だからこそ、三成に面と向かって「お前は傲慢で嫌われてるから、毛利と宇喜多を大将に据えろ」して、
関ヶ原では小早川の裏切りを予見して松尾山の麓に陣取って、2000の兵で1万5千の敵を防いでた。
脇坂、赤座、朽木、小川が揃って寝返って、毛利、安国寺の前を吉川が蓋して詰まらせるとまでは思わなかっただろうけど。
止めたけどどうしてもっていうから味方してやったんだぞ
そう思ってる人も少しはいただろうけど大谷吉継はそう思ってなかった
小早川秀秋が関ヶ原直前まで近江で徘徊してる時点で詰んでる
ハーロック乙
たしかに豊臣秀吉が居たから大名になれた借りを豊臣家に持ってる
それならばこそ戦争にならないように武力じゃなくて言葉で運動するべきだった
そりゃそうだわな
個人ならともかく、家背負ってるのにそんな友情()とかで動くわけない
大谷は義に厚い武将みたいな扱いだけど、本来は有能な官僚だからな
冷静に勝算があると思ったから仕掛けたと思う
本当に友情とかあったのなら、監禁してでも止めてるだろ
お前ら止めるだろ?
石田三成のやってることはそういうこと
日本の真珠湾攻撃やイラクのクェート侵攻で入ってはいけない場所に入った結果全世界からフルボッコ
憎い淀君と秀頼を潰したい気持ちは分かるけど
そのあと鋸びきだっけ?
逃げ延びて島津と組んで再戦、とか思ってたのかね
豊臣家に世話になった真面目な石田三成に加勢してやりたかった気持ちはわかる
大谷も疱瘡か何か患って字を書くのも不自由してたので長生き出来ないと踏んでいたのだろう
小早川が裏切ったことが大きな敗因と言われているが実際島津や毛利が前線に出ていれば形勢は変わっていたと思う
その邪魔をする工作をしていたのは吉川晃司のご先祖様だ
彼の動きで歴史は変わったかもしれない
これ豆な
吉川晃司って吉川家の子孫なん?
毛利殿の空弁当=壁
石田は茶のみ坊主からのし上がった成り上がりで場数少なく実戦派からの人望は無い
秀吉の盟友で家康を抑えられる人徳のあった前田利家もタヒんでバランス崩壊した結果家康が台頭
石田一人じゃどうにもならない
毛利輝元も言うまでも無く。
宇喜多クラスに求められたのはそういうことじゃないって言いたいんじゃないの?
西軍は確固たる総大将がおらんかったのがそもそもの敗因かもな
もしも工作していた吉川や小早川が心変わりして予定通り動かなければ、間違いなく負けていただろう
兵の配置的には西軍が東軍を包囲殲滅できる理想の配置だった
今だとさも両陣営とも決戦主義に見えるが思惑いろいろ。火事場泥棒やってた毛利なんかは長びくことのぞんでたろうな。
秀忠も到着してないのに何いってんの
昌幸もこれで余裕勝ちやろって思ってたんだろうな
真田としては、昌幸と長男の信之どっちが残っても家督が残るように動いたってのが正解なんじゃない?西軍が楽勝とは思ってないだろ
それは関ヶ原前の話でしょ
上田城で秀忠足止めした時は流石にこれで西軍勝つだろうと思ったんじゃないかなと
宇喜多秀家に人望とか初めて聞いた、梟雄であった直家とは真逆のおぼっちゃまなだけで家政は放ったらかしで結局家を治める事が出来んかったボンボンやんけア○
五大老に就任したときも30歳ほどの若さ、秀吉の猶子だけで大老職に就いただけ
全く毛利輝元とおなじやな、そんなボンボンにどうやったら人望出来るか教えて欲しいわ
人望というか一定の支配力を持たなければ、1万人も動員できない。数だけ連れてバラバラだった毛利と違って宇喜多の兵は、まとまって出陣している。
これが論より証拠だろ。
むしろ宇喜多旧領に入った小早川は、そうそうに崩壊してるじゃないか。
徳川慶喜は家康に文句言いたかったかもな
毛利の本軍は関ヶ原に2万
吉川は4千、小早川は1万7千だがこのふたりは独立した大名だぞ
宇喜多は一家、毛利は既に三家分家となってるのにわけわからん
前田慶次「一緒にタヒんでやるしかないな」
黒田官兵衛「ファッ!」
直前の上杉征伐に参加してるしな大谷
偉大な男だわ。
こんなんディープインパクトと500万下程度の馬で勝負になる訳が無い
それよな
毛利、前田、宇喜多を合わせてやっと家康の石高になるからな
一見互角に見える関ヶ原も最初から家康の圧勝だったんだよ
毛利がバラバラと言ったのは、戦闘に集中できる状態になっていない意味だ。
西軍の実質の本隊になっていたのは、結局宇喜多軍団だぞ。
石田や大谷なんて兵隊少ないし、毛利は、命かけて戦うような部隊じゃなかったのは、結果の通り。
領地おおけりゃ兵隊動員して戦えるってア○かゲームバ○の発想だな。
命かけて戦う部隊にするには、士気を高めたり支配力が必要なんだよ。
関ヶ原の前に内部分裂した一族が多数あったり、戦場に来ても日より見決め込んだ連中が多数いたのに宇喜多だけ10000人まとめて西軍にたたき込めたんだよー
野戦で決着とか無理だろ家康相手には
輝元は、関ヶ原に出陣してないし決戦のぞんでないだろ。火事場で周辺押さえたがってただけで、家康と真っ向戦う気なんてどこまであったんだ。
島津は、元々家康よりだったが、大阪にいたから周り西軍だからつれてからだけだ。しかも内戦で疲弊してたいした戦力いなかっただろ。
だからやる気なしで、戦闘にまったく参加してなくて逃げる時で新手の部隊だから強かったんだよ。
それが分かってたからこそ不利を承知で友に加勢した命懸けの友誼を理解できんとは情けない
友や主人のために戦タヒした義士
そうじゃなくて小早川が怪しいから牽制してるうちに前に押し出されてたまたま決戦に入った説もあるんだよな。
そう考えるとありゃ鶴翼の陣でもなんでもないな。
石田の賞味期限短そうだから決戦を急ぐだけ急ぐしかなかった気がするけどまあわからんと言ってしまえばそこまで。
だが吉川の密約を知らない上、負ければ領地も命も失うことは若い輝元も知っていたはず
吉川広家の徳川との密約と助命嘆願がなければ毛利家は滅亡していただろう
島津義弘は家康に応じて鳥居元忠の応援に伏見城に入ろうとしたのに入城拒否されたから西軍になびいたのは仕方ない
戦力こそ大したことないが井伊直政とか半○しにしてるし
あのまま方向変えずに家康の本陣に向かったら…とか思ってしまうな
島津の本領安堵は隠居した義久と家康の人間関係のおかげ
違うぞ
家康は琉球、明との交易権が欲しかったからやむを得ず島津の本領を安堵した
義久は明との繋がりが強く、明と連携して領土を拡げようと画策していた
ただ、ア○の義弘のせいで計画が潰れて、本領安堵の為に交易権を家康に渡した
映画『関ヶ原』公開記念・ドラマ『関ヶ原』ブルーレイ予告編 – YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jJ8O8y6KCEM
ブルーレイ化したんだな
大谷「目が見えぬもの同士の誼じゃ、この生命くれてやる受け取れ!」
そこまでいかずとも豊臣家から馬印とお墨付きを賜れば西軍の圧勝だったんだろうけど
その事前工作が失敗に終わっている時点で三成は開戦前から詰んでいる
まあ三成もそれも承知の上で後には引けずに開戦しちゃったんだろうけど
いや根本的に長期戦になるかもって思ってた人がたくさんいたはずだからね。
結果がわかってる僕たち視点なの。ある程度やりあって都合がいい時に講和だなって感じで捉えてたやつは、結構いるでしょ。
真田も力見せつけて握手のつもりだったかもしれないし、そもそも第二次上田合戦って日程的に関ヶ原とほとんど同じ時期じゃなかったっけ?
それでも変わらないから一緒にタヒぬと決めただけの話
7歳の子供を
全 軍 総 大 将
として出陣させてください!
淀君じゃなくても断るだろw
安徳天皇も平家に担がれて海に沈んでる。
現代の価値観では計れないよ
一旦相手と講和を結んで外堀、内堀を埋めてから再び開戦するという他愛もない内容で
秀吉自身も「敵が底抜けのア○じゃない限りこんな攻略法は通用しねーよw」
という気持ちで教えたのだろうけど
まさかそれがまんまと通用するとは夢にも思わなかっただろう
西軍は、家康が大坂を離れた隙を狙って、毛利輝元を大坂城に入れてクーデター起こしたんだよ
しかし輝元は大坂を離れるのを恐れた。自分が離れた後に東軍の誰かが大坂城に入れば逆クーデターになるとわかってるから
しかもそうなったら、毛利は退路が無くなるから
輝元にそんな勇気はない
それより関ヶ原で東西軍がちんたらやってる隙に、北九州や四国の領土を奪うことに精を出したんだよ、ちゃんと史料にある
戦後、家康にいちゃもんつけられて改易寸前までいったのもここを突っ込まれたから
う~んわからないけど
家康は、加藤や福島より相当年寄りだから関ヶ原後あんなに長生き(しかももうろくしてない)ってのがまず想定外って気がするよな。
逆に浅野だの加藤だのは、家康より先にタヒんでいく。
名護屋城梅毒蔓延説ってのが、あって朝鮮出兵の時に名護屋城の娼婦と・・・まあ穴兄弟になりまくりで、それがちょうど関ヶ原~大阪の陣の間の梅毒による豊臣系武将の連続早タヒにと関係あるっての聞いたな。
まあ豊臣家滅亡の遠因は秀吉自身だよな
秀次は自害に追い込むわ
秀頼が生まれるとそれまで跡継ぎ候補だった小早川秀秋を疎んじて養子に出すわ
傾国の美女:淀君なんかを寵愛し
それで北政所に愛想尽かされて、北政所が家康とくっつく隙を作るわ
さらに人望のない三成を重用するわ
三成憎しのあまり敵の家康に加担する清正と正則も重用するわで
豊臣家滅亡は起こるべくして起こった
三成に人望がなかった、というのは関ヶ原直後から400年以上言われてきた先入観かもよ
人望なければ西軍あんなに集まらないし
例えば、三成と清正でも秀吉がタヒぬ前は結構交流がある
対立は秀吉がタヒんだ後に、三成による朝鮮戦役の論功行賞がおもな原因
鎌倉幕府が、元寇の褒章に武士から不満が出て滅亡に向かったように
建武の新政が、鎌倉幕府滅亡の褒章を後醍醐天皇の好みで決めちゃって足利尊氏が決起したように
内戦の原因は常に、論功行賞を巡るいざこざからきてるんだよ
いや、直前まで西軍側にまともな情報が入ってこなかっただけ
とりあえず豊臣方に組みしようと現地へ到着したら
現場の指揮官はお前かよ!!という流れ
豊臣系武将が疲弊し、東国大名が優勢になったのもあるし、武断派と文治派の分裂を招いた。
徳川は、武断派の筆頭の福島なをか散々もちあげながら粛清していくからな。
おそらく忍城を囲んだ堤が崩れたのも
成田方の工作員が堤を削っているところを
反三成派の諸将が見て見ぬ振りをしていたゆえの失敗
これが秀吉直々の工事だったら豊臣方の諸将は必タヒになって堤を壊さぬよう
連日連夜タヒ守に励んでいる
秀頼が生まれる→三成「秀次に謀反の疑いあり」→秀吉「軟禁して切腹させろ」→秀次切腹→鴨川で晒し首+一族の女子供30~40人惨○
頼朝を見逃した平家が滅んだように復讐の芽を摘んだとはいえ豊臣の評判を落としたのは大きいと思う
汚い役回りをさせられた三成のことをよく理解してくれていたのは大谷だったのかもね
利家が生きてりゃ←秀次○してなきゃ→弟生きてりゃ→蜂須賀がもっと長生きしてりゃ
キリがない
大谷程度の小大名が西軍の中枢を担ったんだからそれは、ある意味大出世だろ。本人が望んだと思う人がいてもおかしくない。
加賀前田の兵が関ヶ原に間に合わなかったのは、大谷の策略にはまって遅滞したからと言われている。徳川の覗けば東軍最大勢力の前田の参陣を阻んだだから大谷の功績は、でかいぞ
上田合戦に匹敵する。
まぁ、親友だわな
実際は、北政所も西軍が負けてがっかりしてた書面が残ってるらしいな
あの婆さんが頭なんかやってるからあんなザマになった
普通に武将の後見人いれば腹決めて秀頼出すだろうから西軍負けようないだろな
豊臣の旗に刃向けてくるのは徳川軍以外ないよ
すると秀忠軍と前田軍が到着しちゃうんだよな。どのタイミングの決戦がベストだったか。毛利が望むような長期膠着のシナリオがあったか?
まぁ、黒田官兵衛が大阪にいれば全てが変わってたろうな。
おじいちゃんだけど、豊臣恩顧の大名からの信頼が1番あっただろうし、
なんせ息子が黒田長政だからな。
でも黒田親子が三成につくわけないか
親父の九州進攻も最近では、家康と連絡とりながらだったと判明しているらしいね。
まだ大谷や島みたいに本戦で戦ってタヒんだやつは、本望だと思うけど端っこの大名で、西軍についた結果、とくに何もしてないのに戦後狩られることになった連中とかほんと惨めだな
本質は豊臣政権内における、代表権を持つ取締役家康と執行役企画室長三成の権力闘争に
武断派と文治派の累積的な確執がミックスしたお家騒動だからね
まあそれでも日本史上最大の内乱には違いないのだけど
実際、大坂の陣近くまでは、豊臣系の武将は、にたびたび大坂を訪れてる。
大阪の陣までは、江戸・大坂の当時の権力は、二頭制って主張する人もいるし、小牧・長久手で秀吉が妥協した時点からすでに二頭制だった主張する人もいる。
その考えからすれば関ヶ原は、決定打でなく中間点に過ぎない。
家康の息子、秀忠も秀康も秀吉からいただいた秀の字をタヒぬまで捨てなかったのも面白い。
ちなみに今上天皇は、家康は、もちろん。石田三成・明智光秀・さらには、秀吉では、ないが、秀吉の姉の血統を受け継いでいる。
血統で見れば、石田・明智・豊臣もある意味滅んでいない。
石田は過小評価されすぎ、大谷は過大評価されすぎ
大谷は脇坂の裏切りを全然しらずにあっさり崩されたからな
実は戦国時代は派閥争いだからな。副社長の徳川と管理部長の石田の戦い。
誰が部長につくんだよと。(笑)
同時代にその家康の天下簒奪見通して除こうとした三成が慧眼だったかはともかく、今になって派閥争いとか言ってるのは馬○だけだよw
家康は信長秀吉時代を通して律儀者で通ってたから秀頼を取り除くようなことまではしないと武断派が信じていたのはわからんではない
実際政務を仕切っていた奉行たちが危機感をもっていたのもわかる
秀吉だって織田家より力を付けたから天下人になったんだから家康が豊臣家より力を付けたなら天下を狙うのは当然
だから石田、大谷、宇喜多以外の大名はのらりくらりと日和見を決め込んでたわけで
1日であんな惨敗するとは思わんかったんだろ
とわかるが、今みたいに情報が発達していない上に日々情勢が変わる混沌とした展開。全体像把握している人間は、誰もいなかったよね。
アレクサンドロス大王曰く「1頭の獅子に率いられた羊の群れは恐ろしいが1頭の羊に率いられた獅子の群れは怖くない」
いくら戦力が揃っていても現場の総指揮が石田三成では開戦前から詰んでいる
五奉行の中でも東軍に与したのは、秀次問題で抹○される寸前だった浅野しかおらず、朝鮮出兵で朝鮮を転戦した主な豊臣系武将で西軍に与したのは、加藤と国境問題など抱えていた小西以外目立ったのがいない。
石田クーデターというより豊臣政権の文治官僚によるクーデターにとれる。ある意味ここは、ここで結束はしていた。
小西行長は、実は家康に近かったんだよ。三成と対立はしてないが昵懇でもない。
三成失脚後には家康の下で黙々と業務こなしてるよ。
小西は加藤との関係で生粋の三成派と思われがちだが、1600年の段階で加藤は家康の不興を買って熊本に謹慎中。
三成のクーデターがなければ家康政権の中で加藤より重宝されてたかもね。
小西は、三成のクーデター時は上方にいたからそのまま西軍に参加したけど、それは島津や長宗我部も同じ。
なのになぜ島津のように許されるどころか、長宗我部のように改易でもなく斬首なのか。それが小西をして安国寺と共に西軍の中心人物と思われる所以だろうな。
個人的推察だけど安国寺は毛利のスケープゴートで、小西は家康の加藤へのご機嫌取りだと思ってる。
加藤は熊本で謹慎してたけど、三成のクーデターによって九州では黒田と共に貴重な味方になった。
関ヶ原が終わっても九州戦線はまだ混沌としてたから、家康としては加藤に頑張ってもらわないといけないわけ。
だから小西を即処刑することで加藤には肥後1国を与える保証をつけた。
そもそも戦さが上手出ない上、所領も狭い文治派が、武断派とやって勝てる要素もなさそうだけど、文治派のが仕掛けたんだよな。
石田は、その気になりゃもっと所領貰えたし、しかもその少ない?所領の半分ぐらいが左近にくれてやってたんだっけ?
そういう意味じゃひたすら戦争やって所領を求めてた武断派の連中よりよっぽどいいやつに見えるけど。
でも上杉征伐で預かった部隊を解散して真田みたいな離脱者をあえて追わず結束を保った東軍
人質おかまいなしで仲のよくない連中で無理矢理拉致同然で編入した西軍じゃ戦う前から勝負は、あったかもな。
それに石田も大谷も関ヶ原じゃ負けたけど400年経過した今でも語り継がれてるんだから完全な勝ち組だよ。
関ヶ原についちゃかなりラッキーマン。
その後は秀頼ヨイショだし本当はいらなかったんじゃないか
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1519553678/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません