劉禅を含めた劉封・劉永といった劉備の息子達について
孫もOK!
趙雲が阿斗を救いだして、って話。
実は劉備は阿斗を捨てたかったんじゃないかな。
劉備の事だから、阿斗がガキの段階で、暗愚な人間って
判ったんだと思う。
趙雲も空気読めない香具師だな・・・
などと適当に書いてみた。
オレ、昨日、チラシを捨てたら、
落ちましたよって、親切な人が拾ってくれたんだよ
まさか、捨てたと言えないから、礼を言ったけど
劉備はそんな心境だったのか
劉禅が懐帝・・・思公と併せて2つの諡号があるということか・・・
そういえば、献帝も蜀漢から愍帝の諡号を贈られたと聞く。
実はな、劉諶についてのスレを立てたいと思ったことあるんだよ
劉備の子や孫で唯一好きなのが、劉諶
一途というか、やんちゃ坊主って感じでいいじゃん
劉禅とか他の兄弟に「諶、必タヒだな(プ」とか言われていそうなのも愛おしい
ゲームで、諶坊やの能力、エディタ使って高くしたくなっちゃうんだよな
貴重でしょ、劉家でこういう跳ねッかえりの存在は
成都あたりに逃げてきたってのはあるよね?
劉禅の子孫を始め、その他の劉備の子孫は皆○しになったらしい。
劉玄の子孫はいたのか判らんけど。
もしいればその後、ある程度続いたかも知れないね。
皇族なのにポンポン戦に出てる所を見ると
あながち弱くないみたいだね。
軍事能力があるゆえに却って劉備に警戒されたと・・・
>>51
家康の息子たちは、曹操の息子たちと比較してみたら面白INジャマイカ?
信康ー曹昂
秀忠ー曹丕
秀康ー曹彰
忠吉ー曹植
劉禅は家臣次第で名君にも暗君にでもなる素養の持ち主であった。これは陳寿も『白絹の布のような人』と評されている
孔明の独裁政治を許したのも劉禅公の度量の広さであり
孔明もその器の大きさと人徳に先帝の姿を見出し一命を懸けて彼に仕えた
類い希な才能を持ちながら君主の嫉妬によって干されたり消したりされた名臣が居たことを考えると
孔明にとっては自分の才能を十分に発揮出来る、これ以上無い名君に仕えた事となる
特に同腹の兄弟にしては苛酷だったと言うね。
また、孫権も父・孫堅、兄・孫策の地盤を受け継いで、守成型を保ったのは立派。
但し、意外と積極性に欠け、戦下手で部下を処刑することは結構あった。
特に人口不足による倭方面に人口補強を失敗した部下を処刑した。
また、非常に酒好きで老公・張昭と衝突を繰り返したり、
自分の意向に逆らう虞翻を何度も処刑未遂するも、
部下の劉尚(劉繇の子)の諫言の繰り返しで、中断された。
孫権は非常に酒癖の悪い君主だったとか・・・
確かに度量の広さは親父譲りだし、疑わないってのはいいよね
まあ某司馬の人とか乗っ取る奴もいるけどな
多分190年前後。
狡猾なわりに失敗も多いようなw
だからこそ面白い。
狡猾だけど、謀の点に関しては曹操などに劣るわけで。
強いて話題を吹っかけるなら・・・
劉封が鄧禹の末裔の可能性が大であること。
そもそも羅侯の寇氏ってのは、実は鄧氏(寇とは同音)の誤筆。
後漢の安帝によって、餓タヒした鄧隲(鄧禹)と鄧鳳父子の
子孫が高密侯から南陽の羅侯に降格されたのが史実。
ソースは後漢書。
・・・まあ、劉封は鄧芝の親戚でいいと思う。
そういうエピソードないから親戚にしても劉備と後漢王朝ぐらいの遠い親戚だろう
最も信頼してる関羽にケイシュウ防備を任せたわけだが、関羽を諌められる武将がケイシュウに
一人も居なかったのが悔やまれる(馬良やビホウでは関羽を諌められない)
北伐をする際にも公子が居るとなれば、より慎重にケイシュウの防備を高めて
呉に対する警戒もMAXに達しただろうし、場合によっては魏侵攻よりも
公子とケイシュウを守る事が第一義だと考えて無謀な北伐に参加せず
見事にケイシュウを守りきったかもしれない。
劉邦と関羽は仲悪いし劉禅はまだ幼いし
>>96
劉禅も劉封も荊州に置いていってるよ。
でも劉禅は即位時に17歳で劉備が益州を入った時で7,8歳。
意味がないな。
>>97
劉封が関羽の樊城攻めの時に救援の兵を送らなかったのは事実のようであるが、それを以って荊州時代から仲が悪かったとは言えないと思うが?
養子を公子にしても中々難しいだろう
関羽を自重させる者、もしくは関羽が一目置かざる得ないものを一つは
ケイシュウに置いとくべきだったと思う。
それは価値が高ければ高いものほど良い。
または政略結婚を蜀主導で進めてケイシュウ防衛軍と南三群及び呉、上庸の間で
お互いが裏切れないように縁戚関係を結び出来得れば嫁とか養子の名義で
呉の重要人物をケイシュウか蜀に引き取れれば良かった。
呉から関羽へ政略結婚の申し出があったのが事実かどうか知らないが
呉から、そういう話がなくとも蜀主導で進めても良いくらいの話だった。
これが事実だとするとさ、その目的のひとつに、「劉備と関羽の離間」は
なかったのかなー、と思ったり。
もし関羽が独断で受けちゃったら、蜀の首脳陣は面白くないだろうし。
長男だよ
昔は居たみたいだけど○されたんじゃないか?
捨てて逃げてるし
義兄弟で愛し合った期間が長すぎたから
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1173198755/l50
夢蜀【むしょく】
三国時代の蜀の後主、劉禅は後世に於いて無能な君主として描写されることが多い。
しかし、そうではないことを示す逸話をここに紹介する
魏に降伏した後、劉禅は蜀を懐かしむ素振りも示さず、酒宴に明け暮れる日々をすごしていた
かつて蜀の臣だった人々はこれを観て甚く悲しんだ
幼少の頃より劉禅の身の回りの世話をしていた宦官のという者が居た
邇杜は宦官にしては気性が激しく、正邪を弁えた人間だいう評判だったが
ある日、いつものように楽しそうに宮女の舞を見ていた劉禅を見かねた邇杜
「殿は蜀が恋しくないのですか」と言った
劉禅は聞こえない振りをした
すると邇杜は宮女を押しのけ、劉禅の目の前まで進み出て大声で怒鳴った
「あなたにとって蜀はなんなのですか!」
劉禅は目を逸らし、やはり何も答えなかった
ついに邇杜は劉禅の胸倉を掴み、涙をながして言うに
「あなたは毎日何もせず、踊りを見て酒を飲むばかり。一体何を考えてらっしゃるのか」
邇杜に向き直った劉禅の目には涙が浮かんでいた
そして彼は一言だけ、こう言ったという
「夢蜀。」と
「私は蜀の夢を見ない夜は一度たりとも無かった。」
劉禅の気持ちを察した邇杜は大いに恥じたという
この逸話はしかし劉禅が蜀を再興しようという野心があると思われる危険があったため、公には伝わっていない。
これ以降、日ごろ何もしていないが心の中に大志を抱くものを「夢蜀」と呼ぶようになった
最近では後半の意味が忘れられ、ただ単に何もしない人間をさすようになり、いまの「無職」になったという
『消された歴史・隠された真実』 李安庸
>>123
劉禅の異母弟。
> 劉永字公壽、先主子、後主庶弟也。
> 章武元年六月、使司徒靖立永為魯王。
> 策曰
> 「小子永、受茲青土。朕承天序、繼統大業。遵脩稽古、建爾國家。封于東土、奄有龜蒙 、世為藩輔。
> 嗚呼、恭朕之詔 。惟彼魯邦、一變適道、風化存焉。人之好德、世茲懿美。
> 王其秉心率禮、綏爾士民、是饗是宜、其戒之哉」
> 建興八年、改封為甘陵王。初、永憎宦人黄皓、皓既信任用事、譖構永于後主、後主稍外永、至不得朝見者十餘年。
> 咸熙元年、永東遷洛陽、拜奉車都尉、封為郷侯。
以上、蜀志劉永伝。
劉禅は46の時の子。
他は不明としか言いようがない。
張飛がうっかり酔っ払って呂布に乗っ取られたときに、
呂布が劉備の妻子と老母を保護させたって書いてあったと思ったが
劉禅は新野時代に生まれてるから、それ以前のは相次ぐ敗走、生々流転の渦中でタヒんでったんだろうね。
趙雲と陳到の立場が変わっていたことだろう。
降伏にキレてクビ切った子供が有名だけど
皇太子はボンクラでとろとろしてるうちに○されたんだよな
劉備の一族ってとことこダメだな
子孫は一人以外全部永嘉の乱で滅亡したし
もしかしたら劉禅は一族で劉備の次に処世術にたけてたのかも
この鄧氏は後漢の建国の鄧禹元勲の子孫にあたる(鄧禹の子供が羅候に任じられている)
家柄としては十分すぎるし荊州にかなりの影響力を持ってた家だったから養子にしたんじゃないか?
鄧芝も鄧禹の子孫らしいが劉備に仕えたのはこの縁ではないかと
結局どっちが本当なんだ・・・・
どっちでも大勢に影響は無いんじゃない?
どっちにしろ後漢の功臣の末裔で荊州の豪族で母方が劉氏だったということに変わりはない
本当ですか?
初めて聞いた
逆に劉禅の怒りを買って以後十数年謁見が許されなかったんだよね。
皇弟ですらこうなってしまうんだから、
諸葛瞻・董厥あたりの末期内政トップ連中がいくら黄皓を嫌っていても、
実際にそれを除く方向に動けなかったのも仕方ないか。
董厥でなくて樊建ね。
三国志を扱ってる本によっちゃ、著者が「劉備の血はみな劉永にいってしまった」と書いてたりもする。
劉禅としちゃ、どうしてもコンプレックスが拭えない、出来の良すぎる弟だったんじゃないかね。
そんな話あったっけ?何伝?
wikipediaなどに書いてある、数多くの…の中の一つっぽいな
よく劉禅の暗愚を示す司馬昭に蜀が懐かしくないか以下略だけど、
読み直すと司馬昭には家臣との会話も逐一盗聴されていた、
ってことじゃないか?ああする以外生きる道はなかったよ…
生き延びただけでも上等。少なくとも武田勝頼や豊臣秀頼よりまし。
盗聴されていたなんて生易しいもんじゃなくて
その家臣が司馬昭のスパイだったんじゃないかな
戦争で滅ぼされると人心を掌握できてないから前王朝の血筋は滅ぼしたほうがいいな
養子を取ってから実子が生まれたんでやっかいになったんだよ。
実子がいるのに養子を取ったんだろ
それ演技の脚色だから。
実際は劉禅誕生の207年より前の髀肉の嘆をかこってた時に
劉備に跡継ぎがいないんで養子を迎えたというのが有力な説。
ちなみに当時の劉備は40を過ぎてた。
蜀滅亡後に河東に移されてるよ。
劉備の場合何でか一族郎党が少なかったから、養子とってでも増やしたかったってとこかと
近世以降みたく概念的な忠義が今一つ信用できない時代のことだし、やっぱり血縁がいちばん信用できたわけで
赤の他人では重要な役目を任せることが難しかったんじゃないでしょうか
曹操なんざ曹一族に加えて夏侯一族がいたし、孫一族は地元豪族みたいなもんだからそうした血族に不足無かったけど
劉備の場合兄弟とか従兄弟がほとんどいないか、出てこない
当時の夏候氏はどんな身分だったの?
夏侯氏はほとんど地方豪族みたいなものだったんじゃないかな?
ひょっとしたら、歴史が変わってた可能性もあるだろ
それとも>224の言う呉夫人って孫権の妹の方?
理、永の母は不明
呉氏ではないよ
>>225
孫権の妹の方
弓腰姫とか言われてた人
劉禅ってそもそも家臣のいう事にNOと言えない人だよね。
唯一、自ら決断した事である後宮拡大も、董允が゙反対したらすぐ諦めてるし。
>>232
諸葛亮が病没した時のこと。
李邈は喪に服している劉禅に対して上表し祝賀を述べた。
曰く、「軍権を握り強大な権勢をふるう家臣の存在は国家の害悪であり、今、諸葛亮がタヒんだことは国家にとって幸いである」と。
劉禅は立腹し李邈を獄に下して処刑した。
一見、黄皓らの言に乗って姜維を降格するようなことをしなかった件などから、劉禅は家臣に対して厳しい態度は取らなかったように思えるが実はそうでもない。
もっとも姜維の件は下手に刺激すればどうするかわからんという恐れもあったのかもしれないけどね。
それはともかく、劉禅には上で上げたような面もあるし、若い頃はそれなりに皇帝の気概を持っていたと言っていいと思うよ。
ただ後年は……
諸葛亮が蒋エンに「陛下は善悪の判断が出来ない。君が良く補佐するように」という文面の手紙を出してるからなぁ。
蒋エンならずとも、董允、費イの入れ知恵なんじゃないかと思ってしまう。
>>234
諸葛亮没後も政治の中枢を担ったのは諸葛亮系列の人材だしなあ。
そういう面もないとは言い切れないね。
諸葛亮直系と言っていい董允がタヒに費禕や姜維は外地に。
そういった中でお傍に仕えるのは諸葛亮系列ではあるものの諸葛亮直系とは言いがたい劉禅お気に入りの陳祗。
そしてその陳祗は黄皓と意を通じて劉禅を甘やかす。
人の好さはあるもののダメさが目立ってくる劉禅……
>>235
人を疑い自らの意思を貫く心が決定的に欠けてたんじゃないかと思うんだよね。
・李平(李厳)の謀略による上表を信用して、諸葛亮を召還。
後に諸葛亮が連名で李平を弾劾すると、言われるがままに今度は李平を追放。
→容疑者にされた諸葛亮が少し調べると、李平の裏工作は明らかとなった。
また、一度聞き入れた上奏とは正反対の上奏を何の臆面も無く受け入れている。
どうも劉禅は上奏には真実が書いてあると思い込んでいるのではなかろうか。と思える
しかも、上奏の結果を信用する事で何が起こるかを理解していない。
その上、この事で学ぶことなく、後年は黄皓に騙されている。
・性欲が強く後宮を作ろうとしたが、董允に反対されると即座に諦めた。
→部下に反対されるとNOと言えない。更に、その場では流した事を後になって恨む事がある
・黄皓に、かつて信頼した董允の悪口を吹き込まれると、信用してしまう。
→黄皓によって被害者意識を刺激されると、董允の事を恨み、董允の禁止していた事を行うようになる
・陳祗に忠候の諡号を贈る。
→陳祗は能力や働きぶりはどうあれ、後主には阿諛追従し諫言したことは無い。
・陳祗、黄皓らが言うままに姜維を召還しようとしている
→まるで成長していない。
>>233
まぁ初期は本物の名君なのに治世長いと(ryって例も結構あるし
そこそこの気概がある程度だとどうしてもね。
長い治世を上手くやるために必要な厳しく自己を律する才能はどう見てもない人だし。
太平の世を無難に治めたんだろうか劉禅
あっさりと権限奪われて次代で簒奪されそうw
まあ、実権がほとんどなかったような気がするけどね
問題は劉禅の跡継ぎも揃って似たようなのばっかなのだよな
国の滅亡に憂いてj指圧しただけだし
中国では、一族の出世頭に、一族がまるまるついていくのが普通なのに。
よほど一族内部での評判が悪かったのかなあ。
義勇軍時代に軒並み討ちタヒにとか?
学問のために金を出す叔父さんとかいたみたいなのにな。
だから親戚なんて母方ぐらいしか付き合いがなかったとか
(援助してくれる叔父は母方)
あの時代、見目さえよけりゃ奥さんに身分や出生は関係なかったってこと?
>>264
夏侯氏や曹氏の地元は豫州だから、支配者である豫州牧劉備の腹心と縁組してても別に不思議じゃない
見た目じゃなく、地元の有力者と支配者の腹心ということで縁組したんだよ
劉禅と張飛の娘も、娘が美形だったからではなく、劉備と腹心張飛の子供同士ということでのある意味政略結婚
見た目は特に考慮されなかったと思われる
張氏からしたら、次の世代でも権勢を維持するにはなんといっても皇后や皇太子を自分の家から出したいところだ
娘が二人いるなら二人とも後宮に入れたほうがその可能性が高まるじゃないか
張飛存命時じゃないよね?
姉は劉備が即位し劉禅が皇太子になったと同じころ
その年に張飛自身がタヒんでいるが、一応存命中の話とみていいだろう
関羽亡き後の劉備にとって張飛は一番信頼の置ける人物であり、その娘と皇太子の結婚は劉備と張飛にとっては当然の縁組
それを牽制する意味で猜疑心の強い劉備が仕組んだ縁組かも知れない。
劉備という複雑な人格なら考えられる。
荊州以前の古参などから貴族階級を作りたかったのではないかな。
関羽・張飛・馬超・諸葛亮の一族あたりがちょうどそんな感じで。
皇室の縁戚にして貴族化するしかなかったんだろう
関家は孫が劉禅の娘もらってたっけ
功臣が皇族と姻戚関係を結ぶのは封建制にとって
呼吸するくらい当たり前のことだろう。
そのようにして主家の基盤を固め、臣に栄誉を与える。
名士か否かは直接は関係ない。
ていうか劉備は思い切りわかり易い性格だと思うがな。
世辞でも善人とは言えないが、猜疑心が強いなんて評価は初めて聞いた。
>>278
張裕、劉巴、雍茂、彭????の例がある。
元来は執念深く猜疑心が強烈だったんだと・・・
張祐 占いを事とする(つまり影響力の大きい)人物が繁栄の終わりを予言したり、
君主の人相をあげつらえば敵視されるのは当然。初めは劉備の軽口が原因だが。
劉巴 どこが問題?
雍茂 これは弁護できないね
彭ニョウ 叛乱の意思の表明。是非もなし。
記録自体が少ないせいもあって、総じて見ると一代でのしあがった人物にしては
驚くほど粛清の記録が少ない人物だよ、劉備は。
曹操でも少ないくらいだ。こっちは長年天子を傀儡にして敵も多かっただろうに。
>>282
強いて言えば劉備の皇帝即位に意義を唱え、劉備の不興を買ったこと。
(たしか許靖も該当したっけ・・・)
あとは張飛(素性不明)がある時に、劉巴と付き合いたいと言った。
その時、劉巴は「氏素性もわからん馬の骨とは付き合いたくない」と言った。
あ・・・これは劉備の逆鱗に触れることと関係ないか・・・
>曹操でも少ないくらいだ。こっちは長年天子を傀儡にして敵も多かっただろうに。
官渡決戦の前に、皇帝周辺の連中を軒並み粛清してるじゃん。
・コウメイが活躍できたのは劉禅がコウメイを信頼していたから
・キョウイは正史だと頼りになる人物ではなかった
・降伏後の戯れ事もその時の立場を考えれば優れた対応であった
・魏に潜伏して内部から反乱しようとしていた説
ここらへんの評価から考えると、案外劉禅って愚帝じゃなかったと思うんだがどうだろうか
大将軍になれるほど蜀は腐ってなかったぞ。
ていうか腐敗した王朝ほど有り得ないことだが。
能天気な劉禅を諌めた郤正の逸話もそこへいきつく流れのものなんだろうな。
その後の侮辱的なエピソードも、信じるとすればそういう形で公然と笑いものにしていたのだろう。
劉禅がどこまで危機感を覚えていたか・計算していたかは解らないが。
しかし、信じるとすれば、郤正は司馬昭らに与していたことになってしまうのだが…。
姜維に頼らざるを得なかった代わりに、姜維の暴走に歯止めを掛けられなかったって感じかな
能動的に悪事をした訳では無いのに、酷い評価だよな劉禅。
伊藤誠の祖先か?
お目付け役の董允が生きてる間は悪いこと出来なかっただけ
董允タヒんだら黄皓重用して政治は黄皓の言いなり
その上自分は遊覧ばっかりして宮中の女や楽団増やしまくって遊んでるんだから無能でしょ
降伏後、旧臣に恨まれても政治的野心を持たなかったというのは
よほど立場を弁えているか天然かのどちらかでなければ出来ないこと。
半端に野心や責任感を持ち合わせた凡人なら旧臣の傍迷惑な忠義や
蜀残党を滅ぼしたい政権側の罠に乗っちゃって、政治活動を始めて
九族皆○しの粛清されちゃうところ。
劉禅の上にも兄弟いっぱいいたと思うけど全然載ってない
○○がいたけどこれこれでタヒんだぐらいあっていいと思うんだけど
なお、『晋書』「李密伝」で元蜀の臣下でもある李密は、名臣を信じて成功し、
奸臣を信じて失敗した事を例に出し、劉禅を「斉の桓公に次ぐ」と述べている。
これに従えば、劉禅の配下が管仲に及ばなかったか魏に管仲以上の人物がいたか
蜀も魏も管仲以下のレベルで争って蜀が力負けしたかのどれかかね
諸葛亮時代は前者、姜維北伐は後者ってとこか
確かに晩年はいただけないが、自分を○そうとした管仲を許し、その男に改革を任す度量、
自身で軍を率いて諸国の軍を破って行った軍事力、そのどれもが劉禅には無いものばかりだ
劉禅は桓公の足元にも及ばないだろう
自身は遊びほおけてたが名宰相晏嬰のおかげで国を保つことができた斉の景公と
同等ぐらいが劉禅の評価としては妥当じゃないだろうか
晏嬰のタヒ後、田氏を重用して国を乗っ取られるもとをつくったあたりも
黄皓を重用して国を滅ぼした劉禅と似ている
>>317
まず十中八九内乱が起きる。
【劉封派】・劉備の遺命なら忠実に守る派
・劉封の経験や実力を買っている派
【劉禅派】・「劉」の血縁こそ大義派
・幼く経験の無い劉禅の方が扱い易い、取り入り易い派
その争いに勝ったとしても、諸葛亮の派閥の中でどれだけ発言力を維持できるか。
維持できたとして、諸葛亮より良い結果が出せたかは微妙なところだろう。
諸葛亮タヒ後に、姜維の北伐病を押しとどめつつ費イの暗○を防ぎ、宦官の悪政をバンバン裁き
すり減った国力の回復すると同時に、最悪の外交状態を修正という
スーパーアクロバッティックを成し遂げたらもっと蜀は長持ちしただろうけど。
劉協にもっと優秀な兄がいて、そっちが帝になってたら漢(魏)が三国を統一できたか?
っていうのとあんまり変わらないと思う。
劉封の年齢だと姜維北伐前にタヒんでるんじゃないの?
それに劉封が継いでも孔明は宰相だったろうし、北伐が親征になるくらいじゃない?
劉封の隠された事項
劉封は劉備の実子で、母は後漢28将の寇恂の末裔の寇氏(諱は不詳、『吉川三国志』では「芙蓉姫」、
後に「鴻」に改姓した)であること
諸葛亮の陰謀で、劉封は「嫡長子」→「実子」→「養子」と廃嫡から降格に改竄・捏造され、
陳寿がそのまま「劉備の養子」と記したこと
『蜀書』劉封伝にある「封は長沙郡の劉氏の甥で羅侯の寇氏の子」のからくりとは…
「長沙郡の劉氏の甥」→後漢王朝→臨邑侯→劉備の生家→劉備の実子(『典略』、(『後漢書』斉武王?伝)
「羅侯」→後漢28将の鄧禹の末子の護羌校尉・鄧訓の系統→爵位は羅侯(現在の湖南省岳陽市汨羅県、長沙市の北方)→劉封の妻が鄧氏であること(『後漢書』鄧禹伝)
「寇氏の子」→後漢28将の寇恂の末裔→寇氏は上谷郡昌平県の豪族→劉備の故郷に近い→劉封の母の実家となること(『後漢書』寇恂伝)
鄧芝が劉封の縁戚関係で劉封の妻が鄧芝の従妹あるいは従姪であること、
(劉備の子とされる)安平悼王・劉理が劉封の実子で鄧芝の「外従子」または「外従孫」であること
劉封の諡号が母の姓にちなんだ「寇太子」または「鴻太子」であること(前漢の景帝の長男の劉栄の「栗太子」「臨江閔王」、
後漢の光武帝の長男の劉彊(強)の「郭太子」「東海恭王」と同様である)
冷遇された彭?ら一部の益州軍閥の反乱の未遂事変の真相は、老いた劉備に代わって、劉封の擁立を目論んだこと
劉封の最大の支持・理解者は法正・魏延であること
北伐で魏延が諸葛亮・李厳(李平)・劉?・楊儀らと衝突したのは、劉封のタヒと大いに関係があること
字は「公仲」「公然」と伝わること 爵位は「甘陵王」(『蜀書』劉永伝では劉永の爵位)と伝わること
(230年に子の劉琳が「甘陵王」に封じられたことから始まるという)
王としての諡号が「厲王」と伝わること(すなわち「甘陵厲王」)
子の劉琳は劉備が漢の帝位に即くとはじめは「臨邑侯」に封じられたこと
劉封は劉備の実子で、しかも嫡長子である可能性が濃厚である。
諸葛亮の陰謀で「養子」として改竄された可能性が高い。
同時に劉封は「長沙郡」の出身ではなく、実父とする劉備と同じ「?郡?県」の出身の可能性が高い。
幾ら諸葛亮が法家よりの人間でも、もう漢代の倫理感は儒家に染まりつつあった訳だから、そのモラルに逆らう事は難しいし逆らっても蜀の国家運営は困難だった。
言うまでもなく初期蜀政権とは劉備のカリスマ性に求心力を大きく依存した政権だったからだ。
諸葛亮の権力基盤も劉備の信任篤い臣下としてのものでしかないから、劉備が居なくなれば頗る脆弱なもので、だからこそ劉備没後は漢朝復興を大きく掲げた国家方針を立てなくてはならなかった。
また劉備も諸葛亮の性格や方針も見抜いていたから、実際には即位などしない事も解った上で他の遺臣達に諸葛亮を信頼している事をああ言ってアピールし
自らの没後に諸葛亮が政権運営しやすい様に最後の支援をしてやったと見るべき。
豊臣父子のような嫌疑をあまり聞かないけど、不自然だよね。
劉備、奥さんいっぱいいるのに50くらいで第一子なんて。
小沛で高順に城落とされた時に妻子が捕まったという記述がある。
あと長坂の戦いでの逃亡中に娘が曹操軍に捕まっている。
劉禅は正室甘夫人が初めて生んだ子なので第一嫡子扱い
>>327
甘皇后伝に、「劉備はたびたび正室を失った」と書いてあるから、
放浪している中で子供も何人かタヒんでるんだろう
何度も妻子が敵につかまってるし
成都という環境も悪すぎた
首都と前線とじゃ、あまりにも意識の差が違いすぎる
関東軍の満州撤退時みたいに、非武装宣言しても虐○、略奪、強○みたいなのはないみたいだし
反戦平和主義者から見たらどういう評価なのかな?
さもなければ親父と一緒に降伏するか
経験あったかどうかは無知な俺にはわからんが
凡君の器はあったと思う
西晋の恵帝の方がよほど暗君
劉禅は名君でも良君でもないけど
暗君・昏君というほどでもない
けれど、なぜか中国史上最悪の昏君扱いされてるんだよなあ
酷いのになると、精神障害患ってたんだなんて訳の分からない叩きが平気でまかり通っていたりする
明中期にかけての皇帝に較べたら、劉禅は大人しい位。
ヒャッハーは暴君だから劉禅とはベクトル違うかもしれないが、明の暗君オンパレードの歴史を見れば
「もしかしたら劉禅よりダメだコイツ…何とかしなくちゃ」な気分になる事請け合い。
劉禅何気にすごくね?
平時ならまだしも乱世において曲がりなりにも在位40年だぞ
万暦帝などとは訳が違う
劉禅はまかり間違っても名君・良君に分類はできないんだよな
晩年に黄皓の専横を許したのは否定できんし、そもそも主体的に国政を導いた訳でもないし
でも、暗君と呼べるほど何かをやらかした訳でもないし
正直、蜀漢の幕を引かなければここまで悪し様に言われなかったと思う
そう考えると、運が悪かった、というのが劉禅の評価に相応しいのかもしれん
時期的に姜維の行動は突っ込みどころ満載だから、
変な行動ではないんだけどね
能力があっても足元を突かれるとキツい。
せめて劉備が生きてる内に降っていれば…。
あの時代で70歳近く生きてたんだっけ
すげぇ
享年は
橋玄75、陳寔84、鄭玄74、司馬防71、程昱80、賈詡77、楊彪84
士燮90、鍾繇80、華歆75、董昭81、管寧84、顧雍76、趙儼75
徐邈78、胡昭83、司馬懿72、孫権71、留賛73、呂岱96、盧毓75
王基72、高柔90、陸凱72、辛憲英79、王祥85、司馬孚93、丁固76
拓跋力微104
丁奉は60年近い戦績あるが
百歳は超えてない
70だっけか
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163688618/
ディスカッション
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