豊臣秀吉に気に入られた30万石の大名・木村吉清を語れ
50スレ超えたら奇跡
結構哀れな人生ですよね
どっちなんだよw
どっちも正しいなら、どっちが先なんだ?
書状で確認できるのは清久→吉清の改名のみ。
光清なんてどこから出てきた諱なんだろうか…?
実子が同じ諱を名乗ってるのは、何か理由があるのかな?
混同されてたりはないんだろうか?
組織の人的空隙を埋めるため能力以上の役柄を与えられて失敗、転落していくという
木村吉清の場合、この二人と比べると失敗の幅が小さいが故に知名度も低いという悲しさ
仙石秀久並の復活劇?があればまた違ったんだろうけど
ミュラは蛮勇の印象があるだけに同意しかねるけどな。
降将で不相応な禄を得て破綻した人物か。孟達ともまた違うかな。
秀吉が大激怒してこの人を○そうとしたんだよね。
なのに政宗ってこの人を大崎葛西の乱を使って陥れて失脚させてる。
マジで政宗って畜生同然の悪辣さだよね。
息子の清久でしょ
一揆改易後は蒲生の家来になり、蒲生氏郷タヒ後に九州で1万石の大名として復活
そしてすぐタヒんで、息子は関ヶ原で西軍に参加して改易
その後、大坂の陣で討ちタヒに
なのに30万石、仙石秀久といい
この時代の秀吉軍の人材不足感は強いな
能力あれば蒲生みたいに回避してるお( ^ω^)
それは違う。
当時の大崎葛西領は改易された大名の遺臣やその主従が失業し政治的に不安定なだけでなく
超絶不作で大飢饉だったからちょっと煽れば一揆が起きるのはあたり前な状況だった。
木村の能力でどうすることもできない。
蒲生の会津が飢饉だったなんて聞いたことがない。
飢饉で収穫のほとんどない大崎葛西領へ転封させられた政宗が涙目なだけ。
政宗も米沢から転封になったら家臣を抑えられる自信ないし伊達はおしまいだと言ってたくらいだし。
さらに自分で煽った一揆軍に褒美をやると呼び出して大虐○したり卑怯かつ腹黒い政宗の姿を決定的にしちまうしな。
ほんと木村親子は超苦労人だったよな。
父は荒木村重や明智光秀や秀吉や大政所に才を愛されて抜擢され続け
子飼いの清正や小西や織田派閥にいた堀や蒲生の譜代出世ルートと違い
外様なのに実力で同格にのし上がってる。
政宗はヒステリック超金持ちボンボンDQNで嫉妬深く心が狭い陰謀家。
なにしろその陰謀が成功してるからそう呼ばれるわけだからな。
いきなりの大抜擢されるって事は、それなりに優秀な証だろうけど、
大抜擢すぎたんだろうね・・・・
氏郷の与力大名のような格好で10万石程度とかならよかったのに・・・・
蒲生は42万石で木村は30万石。ほぼ同格だしな。
秀吉子飼いや織田派閥にいたわけじゃないのに蒲生や浅野や前田や佐々と同じくらいの評価を得ていた。
お守り役の浅野長政も呆れ果てていたわけだ。
それにもともと秀吉の腹心だから、浅野に監視されるような立場じゃない。
むしろ、東北大名を蒲生とともに監視する役。
関東牽制と奥羽の鎮守として蒲生より先には木村は任されたんだし。
政治家としても少なくとも浅野や大谷と同等な立場だったろ。
それに検地施行ができる行政能力もあるし
福島の城下町を計画したので縄張り設計力もある万能タイプだからこそ
佐々みたいに責任取らされ自刃に追い込まれなかった。
そもそも改易牢人国人達の現地採用禁止命令とかキツすぎる。
大きな武功とか、勇名が高いとかいう話は聞いた事が無い。
じゃなければ実力でのし上がってきた秀吉から高く評価されたりしてないだろう。
評価も無く引き上げて奥羽の鎮護役になったら武功命な秀吉古参の山内一豊らや秀吉子飼いらの武将たちが怒るだろ。
政治的業績に関しては記録が多いのに、軍事的功績だけ旧明智配下だからって伝わって無いってことも無いだろう。
仮に木村吉清の地位で、秀吉の天下統一戦で軍事的功績があったなら、伝わってるはず。
明智時代の武功が伝わらなくても、秀吉時代の武功なら伝わってない方がおかしい。
そういう事も名将としての評判も無いなら、やはり政治能力はあっても、軍事能力はさほどでもないと考えた方が適切。
大将首を取ったり、敵を撃破したり、城を落としたりも。
数年間でこれだけ武功があったら、明智家臣時代にもそれなりの武功があったことも想像できるぐらいには、
武勇は優れていたと思われる。
>>70
なんかいろいろと混同してるね…。
秀頼の唯一の幼なじみと言われ大坂夏の陣で玉砕した木村重成の父は誰だか確定してないよ。
まぁ木村定重やその子の定光と木村吉清はあるいは兄弟か親類同士かも知れないね。
だからその縁で光秀から秀吉に仕えることができた可能性はある。
もし定光の子が重成と仮定すると、
定光は秀次事件に連座して子供まで皆○しにされてるから、
子がなぜ生き残っているのか?
秀頼に殉タヒする理由があるのか?と言う疑問が出てくるね。
木村吉清の子の清久(秀望)は蒲生の下野転封の際に、豊後1万4000石に転封になった父の遺領を継ぎ、
大坂冬の陣では兵を率いて丹波田辺城攻撃に参加後に改易。
夏の陣では大坂城に籠城して戦タヒしてるよ。
まあ織田サラブレット蒲生氏郷並みの評価を父が受けたと思えば、清久には秀頼に殉タヒする理由はあるしね。
同じ最後を遂げた事から、あるいは清久と重成は兄弟なのかも…
当時の南部は津軽奪還を諦めて南に領土を広げることを
画策し実行してた。
>>79
豊臣大名で15万石越える人は、だいたい政治も軍事もできるけど、
どっちも有能ってのは少なくて、優秀な政治家で軍事は一通りできる程度か、
逆に優秀な武将で政治は一通りできる程度っての方が圧倒的に多いよ。
んで、木村吉清は政治は優秀で、軍事はそこそこな人。
抜群の政治能力に比肩するほど、武勇が凄かったわけじゃない。
旧領主たちも呼応した。
その中には南部の謀略によって所領を失った和賀氏もいる。
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1265943880/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません