中国史上の謎の事件人物を挙げてみよう
長い中国の歴史上には、真相が謎に包まれた人物や事件がたくさんあります。
そんな、中国史上の謎について語りましょう。
(例) 千戴不決の議(宋朝の太祖趙匡胤のタヒと、弟である太宗趙匡義による帝位継承の真相)
2: 2007/02/02(金) 23:07:32 ID:IZtifpwf0
(一般に「恭」とされるが実は根拠はない。史記・漢書やその注には書かれていない)
彼はまた恵帝の実子ではないと思われがちだが、その根拠もなく、恵帝の実子と思われる
なのに間違いが通用しているのが謎
中国史上の謎と言えば、
・曹魏明帝(曹叡)の父親は本当に文帝(曹丕)なのか
・北魏孝文帝と馮太后の関係は、義理の祖母と孫ではなく、
実の母子だったのではないか
とかもあるな。
>>5
それなら秦始皇帝の出生が一番有名だね
マイナーなところでは漢の昭帝は霍光の子供だって話がある
関連するけど、その曹叡が後継として秘密裏(?)に養子にとっていたという曹芳。
一体だれの子供だったのかねえ?
あと、なんで年上の秦王が立てられなかったんだろうね
曹芳に関しては曹彰の孫という説が有力らしい
なんにしろ前王朝の隠しだねとかどこから拾ったとかではなく皇族ということで異論はないらしい
乾隆帝の出生についても母親が漢族とかいろいろあるらしい
>>7
乾隆帝漢族説は信憑性はほとんどないようだけど、
順治帝出家伝説はどうなんだろう。
そういや明の建文帝も出家伝説みたいなのがあるね。
>>9
格別、仏教信者でもない康熙帝が五台山に何度も行幸しているのが不思議ですね。
建文帝に関しては雲南に逃れて、そこの寺廟に隠棲して正統年間まで生きたという説から
泉州経由で東南アジアに渡航した説まで幅広くありますが、仮に生き延びたとしても
永楽帝の東廠・錦衣衛の追求から免れたのかという反論もあります。
>>10
老子が釈迦になったという『化胡説』が後漢からありますな。
信憑性は始皇帝や魏の明帝より更に怪しいと思うが
確かにそうだな。
老子が実在の人物ではなかったという説もあるみたいだし。
やはり出家したとか。
金庸の武侠小説はこういうネタをよく使うな。
李自成が実は生きていた → 雪山飛狐
順治帝出家 → 鹿鼎記
乾隆帝は実は漢人 → 書剣恩仇録
福康安が乾隆帝の私生児というネタも実際にある伝説みたいだね。
異常なほど寵愛の度合いが深かったからね。
完全にガセ。
異民族でちょっと出来がよかった皇帝を漢人と
言い張るのって伝統的なのか?
雍正帝のタヒも暗○説とかがあるね。
本当は過労タヒみたいなもんだったらしいけど。
実際に伝わる伝説なのかな。
それとも映画や小説のネタなのかな。
「鍾離昧=蒲将軍」説
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%BE%E9%9B%A2%E6%A7
樅公だってあれだけ鮮烈なタヒに様が記録されてるのに本名不明だぜ
六国を滅ぼした秦への恨みから来る中傷の可能性もかなりあると思う。
家臣の何某が自身の妻なり愛人を、皇帝などの時の権力の頂点の人物に
譲ったり、奪われたりした場合、その女との間に出来た子は
必ずと言っていいほど、その出生を疑われる。
基本的によくあるパターンだから、あんまり気にしないで良い。
でも史記に書いてあるとおりなら、始皇帝の母親、いろんな意味で無茶苦茶
だからなぁ~w
あんな母ちゃんなら、出生疑われてもしようがないと思うよ。
お前~それでも皇帝か~お前のとーちゃん(元)商人だ~
いいかげんにしないと本燃やして儒者穴に埋めるぞ!
紅丸って結局何だったんだろうな。
挺撃案は、やっぱり鄭貴妃一派の陰謀なんじゃない?
紅丸案は、泰昌帝がタヒんで誰が得をするか・・・・・・
魏忠賢か!
劉禅の外祖父として、権勢を
ほしいままにしたはずなのに……
未だ姓名不詳なのはなぜなんだ?
一族が同行してたとしても長坂等で脱落していても不思議ではない
そもそも妾だったし、一族は同行してなかったかもしれん
千載不決の疑い
始皇帝が秦の王族の血を引いていないと言う説があるのは、
>歴史上、悪人とされる人物は、悪意を持って書かれことも多く
だけでなく、あんな優秀な人間が単なる王族だと言うだけの
凡庸な人間から生まれるはずがないと言うのも入っていると思うな。
エカテリナ二世も実はプロイセンのフリードリッヒ大王の隠し子だという説もあるらしい。
あれだけの女傑が、あんな凡庸な両親から生まれるわけがないと言う点から。
二人は相当仲が悪かったがね。
平凡な歴史的事実よりおもしろい虚構のほうが民間に流布しやすいからね。
始皇帝に関しては、もしかしたら顔が呂不韋そっくりだったのかも。
誰が見ても「あ、こいつ呂不韋の隠し子じゃねえか!」とか。
劉備軍閥と孫権軍閥とが同盟を結んだとき、
孫権の妹が劉備の嫁になったということだが、
その女人の名前。
つーか、名前が明らかな女性って少ないよな。
日本においてもだけどさ。
>>62
特に漢代以前は、男とも女とも分からないような名前が多かった。
近世以降なら、明らかに女と分かる名前がほとんどになるけど。
特に中国なんて苗字と姉妹の順で呼べば本名なんかわからなくても
十分通じるしな。
>>67
> 李文忠のタヒ因
普通、徐達と劉基も含めないか?
この2人のタヒ因にも疑惑がある。何故に李文忠だけ?
って思ったが、劉基スレで李文忠のみ名前が挙がっていたからかw
朱元璋の周辺は、明確に粛清された分を除いても、
怪しいタヒに方をした奴が多そうw
はっきりしたことは分かっていないし、
野史では、完顔亮に処刑されたなんて説もあるらしいし。
遼の最後の皇帝と一緒に処刑されたなんて話になっているね。
海外に逃げたとかいう噂があって、その真偽を探るために、
それで鄭和の艦隊を派遣したとかいう俗説があるな。
>>84
皇帝に即位する直前ってのがね
あと皇帝の有力候補だった斉王、その弟で呂氏打倒した劉章、劉氏で自分を支持した劉沢、叔父の劉交、呂氏打倒の首謀者陳平がみんな即位から3年以内にタヒんでるのも偶然なんだろうな
明祖からの見舞い品に毒が盛られていたと疑う余地はあるかもしれないが、
むしろ明祖のことだから粛清ということにしたいという願望が反映されて、
そんな話になったのでは、と。
金軍に北方まで連れて行かれる以前は硬骨漢みたいなのに・・・。
秦檜には自分内での行動規範みたいなものがある気がする。
最初は他の主戦派と同じようにどっちかっつーと机上の空論的な論理で徹底抗戦主張してたけど、
実際に金国内に行ったら、これを完全に撃退するなんて無理って現実に気づいて、
宋朝をできるだけ残す方面で動いたとか。
実際宋金戦争が長引いたら、秦檜を売国奴呼ばわりする余裕もないぐらい国土が疲弊してっただろうし。
岳飛の動きは「せっかく和平交渉してるのに、空気嫁DQN」て感じだったろうなと。
俺も和議締結までなら弁護できるんだが
その後はちょっと弁護できない。
>>89でも書いたけどその後の独裁体制を敷いたことが不可解
当然、誰かの意向が影響しているのだろう。
皇帝にとっては、岳飛も秦檜もトカゲの尻尾だよ。
日本の終戦にも似てる気がするんだよね。
あそこで岳飛みたいなヤツが出てきて、上の意思にも従わずに
下を煽って徹底抗戦主張した場合どうなったかと思うと、ちっとは弁護してもいいかなと。
叩く気はないけど、
終戦時の日本とアメリカほどの国力差が宋と金の間にあったかっていうと……。
>>92
そもそも岳飛には、旧帝国陸軍のように天皇の意向すらも曲げる、というほどの権力は
なかったので、そういう対比は愚かしいと思うんだよね。
それに日本の場合、一億総玉砕を提唱しており、また南宋軍とは真逆に負け続けていた。
南宋は曲がりなりにも、河南に食い込むほど勢力を盛り返していたのだから。
それもこれも、各々の局地勝利の賜物なんだろう。
と言っても、金といえども、なにも雲霞のごとき大軍、というわけではなかったんだけどね。
ま、その辺りが両国の最大戦線で折り合いのつくあたりだったのだろう。
皇帝の信任を得て、その黒い部分を担っていたのならば、後々それを有効利用することも
まぁ、政治にかかわる者なら、大なり小なりやるんじゃないのかな。
それほど不可解なこととも思えないけど。弱みを握っちゃえば、より能動的に動きやすいからねぇ。
だからといって、それが為政者の当然あるべき姿、などととは口が腐っても言えないが。
これは諦観で、為政者とはしょせんその程度のもの、ということ。弁護しているわけではないよ。
実は自分は逆に、和議締結までの方が、より弁護できない。する気も無いけど。
宋は徹底した皇帝への集権体制とその支配下での文民統制と言う特色があって
靖康の変の後に高宗がなんだかんだ言ってもある程度の主導権を持っていたのは
そうした意識が文官たちに浸透していたからことが理由だと思う。
実際に金との国境が定まりかけてから南宋の政治責任者たちは
財政的にも軍事的にも中央集権体制を目指す方針を一貫して取っていた。
そんな中でかつて社稷の臣とも言える言動をしていた秦檜が
皇帝を差し置いて独裁するということは非常に理解しがたいと思う。
なるほど。
でもどうだろう。そこまで、高宗の皇帝権力が強化できていたかどうか。
一旦崩壊の憂き目にあった国は、大義や名分や制度よりまずちからが重きをなす場合が多い。
高宗はたしかに、あるていど自ら戦を監督する親征はしても、前線はほとんど
崩壊から各地で抗戦していた衆をもってしている。
制度はどうあれ、人民の意識のなかに、絶対者たる皇帝の重みが若干薄らいでいたとは
思えないだろうか。
神宗の時代でさえも、皇帝の一言が臣下を掣肘できなかったのだから、高宗が自ら
その実力と存在感を示さなければ、皇帝といえども発言力は相対的に低くなるものだ。
それに秦檜は権勢を維持するのに、なかなか周到だったから、根の深いそういうものは
制度上では独裁君主ではあれど、なかなか抑えにくいものじゃないかと。
>>95
皇帝の権威が揺らいでいたのは事実だけれど
当時の最高実力者の趙鼎の政治構想の不採用や
高い評価を得ている李綱と宗澤の防衛構想の失敗の理由が
高宗の許諾を得られなかったという一点にあることは
当時の文官の皇帝に対する意識を象徴しているんじゃないかな。
個人的な憶測ではあるけど文官は武将たちに対する優位を保つ為の
皇帝の必要性というか利用価値を共通の認識として持っていたと思う。
実力伯仲だからこそ戦争が長引くって事だと思うから。
和平と独裁のお陰?で結局モンゴルが出てくるまで、
南宋は金に対して政治的には負けだったけど、文化と経済は結果的に勝ちだったんだよ。
あえて主戦派を切ったという事で意味あるとは思う。奸臣、売国奴って言い切れないと思う。
>>99
売国奴はともかくとして奸臣はあながち間違いではないんでは?
少なくとも公正無私とは正反対なんだし。
結果的には和平は良かったのかも知れんが、
岳飛を無実の罪で謀○しておいて自らはタヒぬまで我が世の春を謳歌したのでは、
後世の批判は免れんだろうよ。
秦檜本人がどう考えていたかは知らんが、
あくまで政治的な信念と理念が基にあって和平を推し進めたのではなく、
自らの利益誘導の政策の結果として和平に利があったと取られても仕方ないんではないかなあ。
>>99
売国奴ってのは、単に講和の条件に、取り返した河南の地を提供したからでしょ。
一応、京師を含む北宋の中心地なわけだし。
日本が中国あたりに攻め込まれて、半ば奪われてしまい、それをいくらか取り返したけど
もう戦争する余力が無くて、講和の条件に取り返した関東一帯を差し出したようなもの?
日本の首都は大阪なりに移って、空前の大繁栄を得た、とかいうシナリオ…w
まぁ、関東出身の人らは、そのときは悔しいだろうね。
そのはけ口を、講和を主導した人物に向ける、とそんなところじゃないの?
あと、その秦檜亡き後は、そういう悪玉にしたて政治宣伝にも利用する、とか。
>>106
侵攻方向など問題だぞ。
>>102は、当時の中国を再現させようとしてるんだ。
だから開封を東京に、臨安府を大阪に見立ててる。
沖縄辺りからの侵攻だと、
首都陥落→第2の首都ともいえる都市での繁栄が、忠実に再現されない。
おそらく、状況が違うとかいった批判を避けたかったんだろ。
つーか、野暮なツッコミなんかに、レスすんなよwww
地理的に考えて、大阪も占領してるだろ、JK
北陸~東北から上陸したら?
侵攻方向など問題ではないだろうが、どういう政治的状況かってことだろ。JK
別に中国でなくてもいい。ロシアでも宇宙人でも(ry
どこまで信憑性のある話なんだ?
独裁の反動であの時代の史書はあること無いこと書かれてるから信じていいものかw
そういえば秦檜は岳飛の子孫を援助してたけど
科挙受ける為の費用とかは出さなかったんだろうなw
明末期の1626(天啓6)年に北京で起こった大規模な爆発事件。2万人以上がタヒ亡したとか。
広島原爆に匹敵するレベルだったらしい。原因は未だに不明。
wiki中国語版に載っていた。
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170411412/
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