征夷大将軍っていつから源氏だけの官位になったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。
本題に戻すと
近現代の後付けじゃね?
江戸時代の文献で
「征夷大将軍は源氏に限る」
って記されているものはあるのかな?
教えてエロいひと!
別にそうと決まったわけではない。
たまたま足利将軍家が源氏の流れを汲んでいて、それが約200年15代と続いたこと、
鎌倉・室町と源氏の将軍が幕府を開いたこと、
これ等を慣例として徳川家康が江戸に幕府を開く権威付けに利用し、それが更なる慣例として積み重なっただけ。
明治以降「征夷大将軍」という官職が廃止されたため、尊氏以降源氏(自称も含め)のみが将軍職を歴任したという結果が残り、征夷大将軍=源氏というイメージが出来た。
ついでにいえば源氏と並び武家の棟梁の家門とされる平氏から征夷大将軍職を担った者がいないのも誤解の原因かな。
また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
織田信長が征夷大将軍にならなかったことについては、三職推任問題のように議論が続けられており定説がある訳ではないが、
少なくとも俗説のように「織田家が平氏の系図を称していたため征夷大将軍にはなれなかった」のではないことは明白である。
豊臣秀吉についての俗説では、征夷大将軍となるために源氏である足利義昭の養子になることを執拗に計ったが失敗したため、
近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。
しかし実際には、秀吉が自ら征夷大将軍就任を断っている事実がある。
また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
徳川家康についての俗説では、征夷大将軍に任命されるに当たって、系図を偽造して清和源氏と称したとされる。
しかしながら実際の家康の目的は、当時称していた藤原氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするため(上述の通り、豊臣秀吉は関白就任にあたって一時藤原氏を称している)である。
その際に家康が源氏を称したのは、かつて織田家が平氏を称していたためそれを避けたからである。
以上が当を得た解釈であり、征夷大将軍就任に巷間で説かれるような制約が存在したとは考えにくく、
源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説は事実に反し誤りであり、源平交代思想も然りである。
多聞院英俊の日記は、同時代史料なんだが、いまいち評価されてないな。
秀吉が正親町帝からの将軍任官提示を断ったと書いているんだがな。
いきさつも大きいんじゃないかな。世良田と得川は同族だし。
家康の「藤原」は、近衛前久に三河守任官の取り次ぎを頼んだ都合からでしょう?
そもそもが、「得川の惣領が二筋に分かれていて、片方が藤姓になって云々」という
無理やりな理屈で「藤原家康」になったということだし。
家綱がタヒんだときにね。
将軍はもはや天皇同様の名誉職で
有力譜代大名が執権や管領のようになって政治を代行することが模索されたが
結局実現しなかった。
源氏長者も補任されたことが、慣例化したからでは?
そもそも、摂政も元々は皇族しかなれなかったのが
いつの間にか藤氏しかなれないと言う慣例ができたわけだし。
徳川家康が足利義満と同じように源氏長者になったことから
征夷大将軍=源氏の慣例を確定化させたわけじゃないかな?
ただ、あくまでも「慣例」なので、例外もありえるわけで
それが豊臣家の関白世襲化や江戸幕府の宮将軍擁立あるわけで。
>>15
1597年に足利義昭が没し、征夷大将軍と源氏氏長者就任に文句を言う人がいなくなったため、
その隙間に家康が入り込んだだけの気がするなあ。
義昭が生きていればその養子になるとか面倒な手続きが必要だった気もするが。
秀吉は近衛家の養子になるなど関白就任に当たって面倒な手続きを取ったが、
家康は誰の養子になることもなく偽の系図を源氏にくっつけるだけで済んだ。
摂政に関しては藤原氏以前に就任した例が一つしかなく(伝説の聖徳太子)、
律令に何の規定もないので、関白同様、ほぼ平安時代に藤原氏が始めた役職に近い気が。
摂政が法的根拠を持つにいたったのは明治時代の皇室典範が初めてで、
このときに初めて皇族限定(皇后や皇太子など)の役職になった。
その後、昭和天皇が皇太子時代に就任した例がある。
ちょっと待てよ。
岡野公彦によれば、足利義満以降も
久我家が源氏長者になってるだろ。足利義昭は
源氏長者にはなっていない。
正直、秀吉がどうしても征夷大将軍になりたいのならば足利義昭の養子にならなくても、
徳川家康みたいに出鱈目系図を用意して源氏を自称すれば済むこと。
近衛前久はこの頃明智光秀に協力したとの噂を立てられ隠居に追い込まれていたが、
娘の近衛前子を秀吉が養女として代わりに入内させてあげるなど、
状況打開のために前久のほうから言い出した可能性すらある。
前久唯一の男子には子がなく、近衛前子が産んだ後陽成天皇の皇子が近衛家を継いでいる。
摂政=関白>太政大臣>征夷大将軍
征夷大将軍自体はそれほど高い官職ではない。
家康は足利義満などの例にならって太政大臣を兼任することで
より高い地位につこうとした(征夷大将軍を辞した後も太政大臣だけを称している)。
江戸時代の将軍でも将軍就任と同時につくのは内大臣じゃなかったか。
すべての将軍が太政大臣を兼任していたわけではない。
家康の太政大臣任官はタヒの直前だ。実質上、贈官と変わらない
当然、将軍職を譲って大御所だった。
数年太政大臣であったのは秀忠だけ。
他の将軍は太政大臣にまでのぼってすらない。
朝廷に対し、もっとも威勢があったのは秀忠かもね。
坂上田村麻呂が征夷大将軍のころ、嵯峨天皇はまだ10歳くらい。
田村麻呂は嵯峨天皇の養子になって源姓を下賜されたんだ。だから、征夷大将軍になれたんだ。
単にその時々の力関係で上下が変わる。
室町時代の摂関は、将軍に伺候し裾を取ったり、将軍の機嫌次第で解官、
追放されたりという立場にあったから、公家社会も含め
将軍>摂関
という序列だね。
将軍自体の序列は摂関>将軍だよ。
将軍だけじゃ序列が低いので左大臣や右大臣などを兼務して
公家との序列のつりあいを合わせているんじゃないか?
そもそもどちらにも序列を規定する根拠が存在していないんだよ。
で、宰相の将軍でも、平気で大臣や摂関を伺候させたり首を飛ばし
ていたのが、室町以降。
源でも足利でも源氏長者に付かない征夷大将軍っていっぱいいる
公家の棟梁が源氏長者
信長は天皇を越えようとしたが
家康は天皇の下のトップを目指したんじゃないか?
>>53
初代山名氏 山名義範は、実は三河生まれだからです
矢田義清(山名義範の実父)
・愛知県西尾市上矢田に本拠を構え、矢田義清と号する
・矢田郷が皇嘉門院領だった縁で、新田義重の娘を室にする
・水島の戦いで戦タヒ、義範は祖父新田義重の養子となり初代山名氏に
蛇足だが、兄弟の義実は、豊田の広沢に移り住んで広沢義実に、義実の息子義季は岡崎の細川に移り住んで初代細川氏に
源氏であればいいってもんではないな。
清和源氏正嫡といえば頼光の系統になるんだろうが、
将軍はやはり鎮守府将軍だった頼信~八幡太郎~頼朝の武門の系譜。
実際、武家政治の仕組みを頼朝が確立したこともあるが。
百歩譲って、義為よりわかれた新田、足利。
結局は足利と新田得川(実際は偽の徳川)が将軍となっている。
佐竹、武田あたりだと弱い。
幕末の源氏長者って誰なの?
江戸幕府歴代将軍は第2代徳川秀忠一人を除いて全員
源氏長者に任命されている。
徳川慶喜の辞官納地まで、慶喜が源氏長者だったはず。
よって、幕末の源氏長者は徳川慶喜ということになる。
ちなみに慶喜が官職を辞した直後、一時期、
源氏で最上位となった久我建通が源氏長者だったともいうが
史料には書かれておらず不明らしい。
なぜ天下人の代名詞のようになったのか、
教えてごじゃれ
電話もメールもないような時代に長距離遠征を行えば
遠征軍の最高司令官がいちいち朝廷のお伺いを立てながら戦うことは物理的に不可能である
だから遠征軍の最高司令官たる征夷大将軍は出陣すれば朝廷に相談せず自分の意思だけで行動できる特権が与えられる
そこで征夷大将軍になって今出陣中ですということにすれば何でも思いのままの事実上の独立政権が作れるから天下人の代名詞となった
よく比較される関白や太政大臣にはこのような特権は存在しない
家康が血統マニアなのは、貴種をサンプル的に収集してることから証明済み。
その上、謙信という著名な実例が同時代にあったわけだから、
同様に源氏の血統を「正統に」乗っ取って、正真正銘の源氏として血筋を残したい、
という考えも、もちろんあっただろう。
(源氏を詐称することで後世を騙せるとは、さすがに全く考えていなかったに違いない。
後世どころか、同時代人でさえ、徳川家が実は源氏などでないことはみんな知っていたはずだから)
吉良、今川はもちろん、足利、斯波の名をもつ家も断絶すれすれで沢山残っていたから、
やろうとさえ思えば簡単な話だったのは確実。
では、なぜそれをしなかったか。
恐らく家康の場合、自分の父祖への恩義、というのがあったのではないかと思う。
例えば吉良に養子に入って吉良家康になった場合には、松平家自体はただの土豪にすぎず、
自分の父や、尊敬していたであろう祖父は、田舎の、どこの馬の骨ともわからぬ小領主に過ぎないわけだからね。
父祖までをも格上げするためには、自分が養子に行ってしまってはダメで、
松平家自体を無理やり格上げする他になかったのだろう。
皇子でありながら、源氏と最初に源姓を賜り、名乗った光源氏=源融に、憧れ、触発されて、桓武平氏や清和源氏と自ら名乗ったと認識してるがね。
春休みになる以前から源氏や安倍氏に関係するスレでとんちんかんなカキコをしてるよ
そんで頼朝で確定みたいなさ。
それに比べて藤原、平氏は臨時に適任者がいればみたいな扱い?
逆に言うと、京の公家からすれば、辺境の蝦夷を狩ってる野蛮な田舎侍の頭に過ぎないのだろうがね・・。
もう藤原氏が退治された後だから、別にならなくてもよかった
ただ義家がなれなかったので、その悲願を果たそうと思っただけ
だが、それが結果的に武家棟梁の政権開始と後世に認識されるようになっただけ
>>159
後鳥羽上皇の乳母で権力のあった卿二位局(藤原兼子)が
後鳥羽の皇子を将軍に迎えてはどうかと北条政子に持ちかけたらしい(愚管抄)。
兼子が持ちかけたのは自分が養子にしていた頼仁親王(源実朝正室の甥)。
しかし、当の後鳥羽上皇が「日本を二分する」と反対しておじゃん。
親王がダメならということで摂関家からもらうことにした。
最初から天皇家→摂関家と朝廷からもらうことばかり考えていたみたいだね。
「室町殿」は極官が太政大臣
摂関になったことはなく公家のトップに立ったことはないよ
「室町殿」の権威そのものが摂関を超越していたということだろ?
摂関が無条件にトップでという前提を立てているけど、そもそも
そういう官位を超越した形での摂関の権威そのものが、実力と
伝統以外に裏付けをもたないもの。
将軍家・武家の力と財力に圧倒され、摂関自身が実質的に家
礼として伺候する状態であり、将軍家の意に反するものは公武
問わず解官・追放される状態だった以上、摂関も含めた公家の
上に立っていたと評せざるを得ないだろうね。
状況が普通になったというな。
それはともかくとして、さすがに執権なり得宗のところに摂関が伺候したり、裾を
取ったりということは起きていないね。
室町将軍のところには年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に
付き従ったり、偏諱を拝領したりというようなことをしているけど。
>>199
任命権・罷免権があっても「権威」とはいえない、
「権威」とは「年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に付き従ったり、偏諱を拝領したり」?
そりゃ、京都にいた室町将軍の特権だわ。
東国にいた江戸幕府将軍に対して摂関は一切そんなことしてないからな。
室町幕府将軍だけが摂関に超越し、江戸幕府将軍は摂関を超越してなかったわけか。
こじつけすぎたな。
北条氏や足利義満はちょっと例外だと思うけどね
源氏も平氏も元は皇室から出た家系で、先祖をさかのぼれば必ず天皇に辿り着く
だから自分達も天皇の血を引く子孫だというマインドを強く持っていたし
それ故に、天皇に対しても公然を牙を剥く事が出来た
誰か昔の王孫ならぬ(=祖先が天皇家につながらない者がいるだろうか)
これ有名な言葉じゃん
承久の乱の時、帝に背けば天罰が下ると言われ、そう言い返したって有名な逸話だけど
義満にしたって、自分を単に武家の棟梁で源氏長者と考えていたわけでなく
自らも天皇の血を引く子孫で、天皇になる権利を有していると考えていた
まあ実際には源氏の血を引かない徳川家には、そんな権利はなかったけどね
坂上田村麻呂は平安時代の人なんだが鎌倉幕府を開く時
にはその役目はあるのかなぞについて。 つまりすでに奥州
は平定されていたのか、頼朝の時に
まだ 蝦夷なぞにも、反攻勢力はあったのか?
「大将軍」という地位に「朝廷の軍事最高司令官」という意味合いがあったので
頼朝はこの称号を欲したと言われている。
尚、頼朝に何の大将軍称号を与えるかは議論されたようで、当初、
頼朝が鎌倉に本拠地を置くことから「征東大将軍」が検討されたが
就任後すぐに滅ぼされた木曽義仲が朝廷から受けた称号であることから
縁起が悪いとして征夷大将軍になったらしい
征夷大将軍は令外の官。
真の武門の最高の官職は、左近衛大将、または、右近衛大将。
でも、これらは、朝廷で務めないといけない官位。
一方、征夷大将軍は、朝廷から離れた場所で、幕府を設置できる。
そう考えると、鎌倉幕府で摂関・皇族将軍がいたこととも矛盾しない。
室町幕府以降と考えると、織田・豊臣がなりかけたことに説明がつかない。
だから、徳川幕府ができてから。それと、家綱のタヒ後、摂関家から将軍を迎える計画があったからそれよりも後。
要は、徳川綱吉以降と考えるのが妥当。それで、じゃあ、なぜ摂家将軍じゃあダメなのかという話になって、「征夷大将軍は源氏に限る!」っていう理屈ができたんではあるまいか?
>>241
>摂関家から将軍を迎える計画があったからそれよりも後
っていう部分だが、軽々に首肯はできない。
藤氏が征夷大将軍として幕府を統治したことがある、というのは
前例としては認識されていたはずで、それが綱吉以降変化したとも思われない。
例えば現在の日本で、女性天皇が皇室の伝統に即してどうなのか?って議論と同じで、
基本的には「天皇は男性がなる」もの。
でも、女性天皇の前例があることも、誰もが知っている。
なので、どうしても女性天皇を作り出したい勢力は、それを前例として主張する。
それと同じだろ。
なので、やはり江戸前期には、「征夷大将軍は基本的に源氏がなるもの」という
認識があったとしても、おかしくはない。
で頼朝が清盛みたいに軍事公卿になった失敗を見て征夷大将軍を家人の棟梁としての名目で拝領したのが始まりだな
坂上田村麻呂は当初は副将軍だったな
>一時河内源氏の嫡流が歴任した
この時代でイメージが定着してしまったとか?
良くも悪くも日本は慣例とか慣習が重んじられる国柄だからね。
藤原摂関家がいい例だよ。
江戸以降の五摂家も藤原の家系だし。
征夷大将軍や鎮守府将軍が源氏というイメージはこの摂関家の例に準えて後世の歴史家が作ったものなんだよね。
そんな決まりはないで終了。
源氏の流れを汲む足利将軍家と源氏を自称した徳川将軍家がそれぞれ15代に亘り世襲したから、それを源氏の独占と勘違いした後世の歴史家が決めつけただけなんよ。
征夷大将軍の資格は
× 特定の源氏のみ。
○ 姓は問わない。無姓の皇族・臣下でも就任可能。
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