悪評武将でも研究進めば別の顔が見える!大友宗麟・最上義光・大内義興らについて
復元が進む大友氏館跡の庭園遺構=大分市
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190918001918_comm.jpg
日本列島に群雄が割拠した戦国時代。織田信長や豊臣秀吉のほかにも、各地に地域ごとの覇者が誕生した。中にはこれまで必ずしも評判がよくなかった武将もいるが、研究の進展とともに、その再評価が進んでいる。
■遺跡が示す国際感覚 大友宗麟
大分市の国史跡・大友氏遺跡の一画を占める大友氏館跡。ここはかつて… (残り:1703文字/全文:1853文字)
朝日新聞デジタル 2019年9月18日16時30分
https://www.asahi.com/articles/DA3S14183738.html
25: 2019/09/18(水) 17:57:16.67 ID:gZyC+tqc0
宇喜多直家は家臣団には気を遣っていて悪い殿様でもないのに
敵と見なすと当時の道義に反して暗○しまくるから・・・
松永久秀は将軍暗○に関わっている証拠が何一つないのに
噂でそうなっていたとか、なんか遣りそうとか思われているのだよ
>>1
>研究の進展とともに、その再評価が進んでいる。
江戸時代より前については再評価をするのに、
明治時代より後については絶対に評価を
変えない人達がいる。
最上義光の悪評は大体昔やってた伊達政宗のドラマのせい
むしろ伊達政宗の方が農民を腹いせで切り捨てたりしてた愚将
>>3
んなこたないよ
最近、この人は名君なんて言ってるのは
すべからく日教組がらみの連中だ
親戚の家を引っ掻き回して、不満分子を焚き付けて領地拡大のワンパターン
卑劣で汚いのがこの男
因果応報で、タヒんでまもなく家がゴタゴタ、じきにお取り潰しになった
もっとも生前家を潰さず、民にはまずまずの善政を布いた位は認める
>>24 ご当地行って神社仏閣回ってエピソードに触れると印象変わるで
でもま、後継問題での失敗と大領を得てからの外交はお粗末だね
ほっとしちゃったんやろな
江戸時代まで連綿と続いた殿様の地元と違って
15回も殿様が変わって、とびきりの左遷地だったから
悲惨な歴史ばかりで、誇れるものがない
本当のとこ、大概のお寺も確かなことはわかんなくて
何か拠り所を探して自分のとこの正統を主張したい
それに都合が良いのが最上義光しかいないわけよ
それに何でも綺麗事にしたい日教組、教育委員会が乗っかってんの
>>57 本当に15回も殿様が変わってなんてことがあるのかと思って調べたら、事実だと知って驚いた。
しかも前に治めていた藩の石高を下回るケースが多く、山形藩は、江戸幕府治世下での左遷の地みたいな扱い。
現在風に言えば、山形支社長は左遷コースの転勤みたいなものか。
ただ、最初のうちは、鳥居忠政とか保科信之とかもいたわけで
親父が伏見城守った鳥居と会津松平の祖
>>185
最初は幕府も重要拠点との認識があったのだろうけど
保科正之を境に、急速に地位が転落した感じなのね
これ実は、最上義光が見栄を張って本貫地の石高を過剰申告したのが
そもそもの原因だと思ってる
過剰申告に大甘なのは今の税務申告と同じで
確か太閤検地では、ほぼ新潟一県が30万石
当時の最上家はせいぜいその半分くらい?
最大領土が57万石とかいうけど、置賜除いた山形が新潟の倍ってね
保科正之が幕閣に入ってリアルな民力が伝わって
表高に比して実に貧しい土地だと改まったのではないかと
この地域の太閤検地の数字はあてにならないよ。
あれは、出羽一国で30万石とか、明らかに後年の数字と合わない。
新潟の石高はあれでリアルなんじゃないかな
牧野家は7万石くらいだよね
結局、三方領地替えの話があったとき
酒井藩とドッコイで見られてたんだろうから
要は、山形は倍換算と周知されてたと
秋田の20万石とか南部とか考えても可笑しいわ
>>192
越後は、大きいのでは高田藩の15万石があるよ。他には、村上藩が5万、新発田藩が10万石、小さいのでは与板村松黒川三日市糸魚川等、これらで10万を越える。
それと、桑名藩のうち、およそ半分が越後領で、大雑把に計算して約5万、魚沼郡や蒲原郡の一部が会津藩領。それと、新潟近辺は天領。
藩の飛び地や天領が入り組んでいるので、数えるとそんなに小さな数字ではなくなるよ。
それと、久保田藩は、太閤検地の時点で、秋田家小野寺家戸沢家が、それぞれ5~7万石で、いちおう江戸期以後とは辻褄が合う。
また、久保田藩の石髙が確定するのは1640年代のことで、そのときに佐竹が30石以上で申告して幕府に却下されている。
ちなみに、江戸中期以降、盛岡藩と弘前藩で、合わせて30万石。
髙直し前の江戸初期は合わせて15万石だったけど、久保田藩の20万が、それと比べて特段おかしな数字だとは思わないな。
>>56
母ちゃん唆されて、○されかけたからね
これは事実だと思うよ
そのくせ、上杉が攻めてきたら恥も外聞もなく、息子に使いさせて
援軍送ってもらった
関ヶ原の頃は、実質長男が全部裁量して、家督も譲った形跡がある
でなきゃ伊達に頼める筋合いがないから
勝ってから全ての手柄を自分のおかげにすり替えて
最大の功績者である長男を○した
こんな卑怯な人格障害者だよ
いやいや義姫は毒なんて盛って無い説が有力になっているぞ
山形へ帰ったその後も義姫から政宗はお小遣いもらってる手紙もあるし
NHK大河伊達政宗のせいというか
上手く演じすぎた原田芳雄のせいだな
見事に憎ったらしい根暗親父だったわ
最上は甥っ子が父親、弟、従弟家族とかを○したような。
飛騨姉小路家とか弱小すぎてなにも残ってない
恥ずかしいから
さ、さいじょうぎこう
織田、豊臣、徳川のかってな評価
戦国時代を終わらせて平和をつくったとか
鎖国して平和な世にした的な解釈もそうだと思うぴょん
いくらでも他の道筋があったはずだ
昨日の三好長慶は酷かったわ、最初の天下人のこじつけには呆れた
三好政権なる言葉もあるから天下人で間違いない
最初かと言われたら大内はどないなるねんって感じだけど
>>100
大内は副将軍
将軍が戴いた状態での有力閣僚
三好は一時的に将軍追い出した政権のトップ
書籍だと俺が子供のころから割と評価されてたけど
たった一度の失敗で愚将認定されたなんとかとか
悪評は全部嘘、実は忠臣って見たぞ
山形県民が何かと宮城を目の敵にして困ってるんだよ
山形にいた他の兄弟はそれ見てて
親父がタヒんで、次男が後継者になったとき
一斉に反発
次男は怒って、三男の家を根絶やしにしたけど
残りの兄弟に毒○されて
家は紛糾
幕府調停も受け入れず取り潰し
四男が謹慎後、独立する水戸の付け家老として
二万石位の格式で名誉回復するけど
そこに本当の功罪が透けて見える
まあ、最上氏あっての今の山形市(周辺)だから…
少なくても、約650年の都市(商工業の町)としての歴史がある。
北朝方が勝って、その後、室町の文化、安土桃山時代、江戸初期まで、変わらず君臨できた。
周りが南朝(大江氏、伊達氏、その他)だらけだったのに勝ったのが大きい…
今の山口県の大内も同じ。北朝方で勝ったので、その後の時代を謳歌できた。
後から毛利氏(南朝方だった)が来るまでは…
秀次んトコ輿入れしようとして向かう途中とかなんだっけ?
そのまま斬首
京に到着して直ぐに連座し三条河原で斬首され遺体は畜生塚という看板を立てた
ゴミ捨て場に捨てられた。
天下取った徳川に、最上は少々邪魔だろ。庄内経由で畿内と繋がれるしな
知れば知るほど取り潰しは残当
有馬豊氏とか佐竹義重とかを取り上げて欲しい。
教育委員会も戦中派の世代が運営してる頃はまともだった
昭和の頃、山形の歴史って本買って
近代史が一章まるごと人買い、女衒の話でうんざりしたことがある
子間引き、子売り
飢饉や恐慌の頃の左遷地山形の実態だよ
いかに収奪するかは考えても、そこに投資する殿様はいない
今の教育委員会はいかにファンタジーで糊塗するかのお仕事
義光と言えばこの書状だな
これ見た後の義光の反応が大いに気になる
(天正13年)8月27日付伊達政宗書状 最上義光宛
急度以脚力申届候、仍今日廿七日、先達申候ツ小手森之要害、(昨日)取廻及近陳ニ候処ニ、通路者相留候得共、十日廿日者、彼要害先以相抱可申候様ニ見当申候間、自身乗寄、相手之鉄砲八千丁あまり相懸、則とりつけ候間、落城申候、
尤城主ヲ為始、大備身類共相添五百余人討捕、其外女童申ニおよはつ、犬訖なて切ニ為成候条、以上千百余人きらせ申候、
因之に二時計か内に、一新城、一木こり山、一かち内館、一ひたち館、一小手森相添、五ヶ所属手裏候、四ヶ所者自落申候、
大備居館小浜より前ニ者、敵地一ヶ所も無之候、拙子名理も候哉与存候、此上者須加河訖打出、関東中も手安候、万々期後音候、恐々謹言、
追啓、定而当世之ならひにて、是をも偽とおほし候へく候、世上より其隠、不可有之候、以上
八月廿七日
政宗
山形殿
>>158
>相手之鉄砲八千丁あまり相懸
どっちが鉄砲8000丁も撃ったんだ
それにしてもそんなに鉄砲を所有してたのか
>>163
鉄砲八千丁は籠城側だな
ただ一次史料とは言え敵の数や討ち取った人数は往々にして誇張されて伝えられる事が多いから注意が必要
前にこの文書を適当に自分で訳したのも貼っとくよ
急ぎ飛脚でお知らせします。今日27日先だって申し上げた通り、小手森の要害を取り巻き敵陣に近づいたところ、
通り路は封鎖されており、10日や20日はこの要害は持ち堪えると見ていましたが、私自身(政宗)が城に乗り懸けると、敵は八千丁の鉄砲で応戦し、こちらもまた城に取りかかると、すぐさま落城しました。
城主をはじめ、大内備前守(定綱)の親類衆ら500名余りを討ち捕らえました。その他に女・子供は言うに及ばず、犬まで撫で切りにしました。つごう1100名以上を斬りました。
このため四時間余りの内に、新城、木こり山、かち内館、ひたち館、小手森城の五ヶ所を手中に収め、四ヶ所は自ら瓦解しました。
これで大内の居館である小浜の前線には、陣地が一ヶ所も無くなりました。拙者もこのやり様には満足しております。
この上はこの勢いで須加河(須賀川)まで打ち出せば、関東も容易く手に入るでしょう。
それではまたの機会に。恐々謹言。
追伸
今の世のならいで、先ほど私が申し上げたことをきっと嘘だとお思いでしょうが、世にこの真実を隠すことはできないでしょう。以上
斯波家を分家して最上を名乗り
以降、屯田みたいな形で分家相続を繰り返した結果
血縁の最も濃い分家は、鼻くそみたいな領地、
それも川向こうは敵の全線基地みたいな中野家であったと
その鼻くそ分家からガキの時、養子に来たのが義光の親父
本家の家臣やら初期分家の大領主から受けが良いわけがない
義光を廃嫡するならそれなりの代わりが不可欠だった
これで俺の書き込みは終了
しつこくてごめんなさい
常日頃の思案で思わず冗長になりました
義光は他の分家からも~を
親父義守は以下に訂正
最上家は家史について、今のご当主もほとんどご存知ありません
ひとつは、家存続に当時の幕閣が異例の介入までされたのに
その意を違えて、改易にまで至った経緯故
またひとつは、いかに戦国とは言え骨肉相克があまりに激しくい故
さらに累代の大立者である義光にとって、とりわけこの親父、兄弟との乱こそは生前から最大の禁忌としただろうこと
こうした事情から、外聞が憚られ埋められたものと推測してます
幕府成立の頃は、最上家は東の藤堂家のような位置付けだったとおもうんですがね
ついでに最上家と似ている例を一つ
武田信玄家
親に廃嫡されかかって、その親を押し込め(追い出し)
嫡男を○し、結局じきに家が滅ぶことになると
こういうのが盆地気質なのかもね
山形の大手企業でも廃嫡とか結構あるかもよ
あるいは息子にぼだされたとかさ
なにしろ資料皆無で城の復元さえままならないわけだから
可能性は否定はできないだろうけど、
それなら一旦赦免されて地位も保全されたわけだろうから
むしろそこにコミットした資料が残ってるはずと思う
中野義時が実在して、義光は成敗したからタブー化
文献資料が当時、残らなかったのだと推察してるけど
世嗣は別としてそれ以外はそんなに待遇に違いがあるわけではないよ。
最上家の頃はまだ表高は決まってなくて、後年の緒藩の表髙を足してみたら、旧最上領は55万石でしたという話。
その内訳で最上本家の石高はすげー少ないけど
>>201
庄内藩が17万
新庄藩が8万
天童藩が2万
で、山形近辺は天領や飛び地が多いのでよく分からないのだが、例えば鳥居家や保科家の頃の20万石と同じくらいと見積もると、合わせておおよそ47万かな。
で、由利郡もごちゃごちゃしているのだけど、本荘藩矢島藩亀田藩でだいたい5万。
そんなに突飛な数字ではなくなるね。
むしろ大河の独眼竜正宗でしか知らないニワカが勝手に悪いイメージ抱いてんじゃないのか
>>211
領土拡大の過程で争った相手の周辺を唆して暗○するパターンが多かったので、どうしても暗いイメージが付きまとうね。
敵対者達のうち、暗○や討タヒでタヒんだ相手の名前を挙げると、
白鳥長久、上山満兼、寒河江高基、大宝寺義氏・義興、細川直元、東根頼景、矢島満安…
タヒ体の山な訳ですわ。
武力では大した成果ないよね
関ヶ原前後だけ、人が変わったみたいな瞬間があるのは
全て長男の功績だったと思ってる
関ヶ原の後の伊達政宗の書状でも政宗は義康のことべた褒めしてるよね
慶長出羽合戦の時に庄内が無事に済んたのは俺と義康の働きあってのことだ
これが義光ならこうスムーズにはいかなかったって皮肉も交えることもしっかり忘れてないのは流石だ
当然家中もそういう雰囲気になって
もともと猜疑心の塊みたいな義光は
疑心暗鬼に駈られるままに
戦勝報告、祝辞言上にかこつけて単身で上洛
あたかも家康の指図みたいなアリバイ作って
長男を抹○したと
それで周囲が収まるはずもなく、後の没落に直結したわけだ
別に暗○や相手を打ち倒したなんて戦国では良くあった話
政宗なんて相手の城で皆○し何回もしてるし親戚と戦してるし
親父の件は涙話みたいになってるけども
畠山利用して予め鉄砲隊用意して暗○じゃないかと話になってるし
>>218
上杉討伐で山形へ集結していた出羽の領主は撤収命令出て国へ帰ってから上杉が総力戦で攻め混んで来たのだから最上だけでは太刀打ちできないから
ほとんどの城から山形まで撤退命令出してたし
政宗が本当に二井宿峠まで来たからか知らんけど
兼続を牽制するには良い状況で関ヶ原大敗で上杉撤退したから勝てたけど
福島攻めも手抜き南部領を狙って一揆煽って策略したから領地増えなかったんでしょ
長男10万石もらったじゃん
少ないかも知れないけど妾腹に国持大名格なんだから
御の字でしょう
お家騒動でも潰されなかったし
>>235
伊達の場合、降伏または滅亡した周辺勢力の去就を確認するとこんな感じになる。
大内定綱、片平親綱、岩城政隆、白川義親、石川昭光、猪苗代盛国、長沼盛秀、金上盛実
→ 伊達家に降伏する等して仙台藩士に
石川光昌 → 緒勢力を転々として、最終的に相馬中村藩士
阿南姫(二階堂家当主) → 伊達家に引き取られる
須田盛秀(二階堂家家臣) → 須賀川落城後佐竹氏に逃亡して秋田藩士
大崎義直 → 子孫が仙台藩に仕官
蘆名盛重 → 佐竹氏に逃亡して秋田藩士
二本松義綱 → 会津に逃亡して蘆名氏に○害される
タヒ者の名前を探そうとすると、支城の城主クラスまで辿らないとなかなか出てこない。
小手森城や桃生郡深谷の件はかなりインパクトがあるし、和賀忠親のようなのもあるけど、
あれらは例外的な対処だったら目立っているだけだと思う。
上杉の主力は伊達や徳川警戒して動いてないよ
最上に攻め込んだのは直江と直江の組下武将
最上義光は常にヒャッハーしている感じだからな。
>>221
政宗の曾祖父がガチクズなだけだぞ
ガチクズ稙宗の遺産をヒャッハーしたのが正宗
最上本家の石高なんてゴミクズレベルから ご飯が食べられるレベルになったんだぞ
ってだけで悪評武将は言い過ぎ
(´・ω・`)
奥州は中央からしたらほぼどうでもいいってのをいいところなのを一番上手いことやったのが政宗ってだけだわ
会津くらいまでならともかくその北は落ち着いてくれたらどうでも良かっただろ
空気読めない九戸とかはやられたけど本人としては中央に歯向かったとかもどれだけ理解してたのやら
まあ、津軽は賢かった。南部は良くわからんうちに押さえ込まれながら現状維持
南部は、奥州仕置のどさくさにまぎれて南の小勢力達を上手いこと取り込んだ。
あいつらは案外抜け目がない。
引用元: http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1568796171/
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コメント一覧
222: 2019/09/20(金) 03:39:14.18 ID:pv061w7f0
>>221
政宗の曾祖父がガチクズなだけだぞ
ガチクズ稙宗の遺産をヒャッハーしたのが正宗
これ勘違いしてる奴多いけど当主死去による代替わりなどで政宗どころか輝宗の頃には稙宗の遺産なんかとっくになくなっててカオスになっていたのが南奥州
なので小勢力が好き勝手して政宗も佐竹義重も対応に四苦八苦していた