印旛の古墳時代の歴史を知りたい奴おる?
景行天皇が鳥見の丘(現在の印西市、栄町、旧沼南町など印旛沼西岸の台地上に比定)に御幸
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ヤマトタケルが東征のために立ち寄る
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応神天皇の御世に神八井耳命の8世孫、初代印波国造・伊都許利命が赴任
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8世紀頃?印波評が設置
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印波郡設置
印波の読みの変遷(いには→いんば)
それだけ中小豪族がひしめいていたからだろうな
麻賀多
鳥見
宗像の3つの神社
これらは印旛圏域にのみ存在すること、領域がほとんど被っていないことから別個の氏族が立てたものと考えられている
麻賀多神社は多氏が立てたと広く知られている(国造一族)
鳥見神社の祭神は饒速日命なので物部系氏族の可能性が高い(東国の物部氏で物部小事が東国を制覇した)
宗像神社の縁起はそれより新しく8世紀以降となる
ただこれは当地の物部系氏族が春日大社から歓進したものと見られている
この界隈でもっとも古い古墳は佐倉の飯郷作1号墳
この周囲一帯には方形周溝墓などが多数存在し(岩名天神前遺跡など)大和王権の影響が及ぶ前から人々の生活が営まれていたことがわかる
飯郷作1号墳前方後円墳の前段階であるともいわれる前方後方墳である
従って3世紀から4世紀にかけて当地の豪族が大和王権に臣従し古墳を造営し始めたと考えられる
公津原古墳群は数百の古墳がありこの界隈では一番大きいので結構な勢力だったと考えられている
このあたり一帯には先述の麻賀多神社が集中することからこの古墳群は多氏(大生部直)、すなわち国造を務めるイツコリの命の一族とその同盟者たちが造営した古墳であると考えられる
印波国造の支配がそこまで及んでいなかったとは考えづらいので力をつけてきた豪族がいたということだろう
そして当地一帯には饒速日命を祀る鳥見神社が分布するのも興味深い
饒速日は広く知られている通り物部系氏族が祖と仰ぐ神なのでこの頃に物部小事(東国の有力物部氏、鎮守府将軍を歴任)を祖とする下総物部氏に連なる一族が入植した可能性が高い
香取海西岸の水利と東国の力をつけてきた物部連の力(常陸国や東北への通り道となる)を背景に印波国造の同盟者となったであろう中小豪族から半独立的な立ち位置を持っていたと思われる
ここはおそらく勢力が分散、離合集散を繰り返していた印波の所謂戦国時代だろう
このころ造営される古墳は小さくしかし数は多い
農業、工業の生産性がそれだけ低く有力者の数も多かった(小競り合いが多く生産性をあげることができなかった)はずなので争いは必至
しかしその時代も7世紀に入るころには終わる
しかしこのころは小規模な前方後円墳や方墳が造営されるのみで有力者の埋葬はなかったとみられる
しかし6世紀末頃から古墳は巨大化する
この二つを造営したのは印波国造の後裔氏族とみられている
なぜそれが出来たのか
おそらくこの時代に印波が統一されたからであろう
580年代に起きた丁未の乱(物部氏と蘇我氏の内乱)により物部守屋の一族が滅んだことは日本史でも習うだろうが
その影響を当然下総の物部達も受けたはず
祖を同じくするとはいえども別系統の物部なので即族滅とはならずとも権力は制限されたはずである
つまり印波国造の後裔氏族が現在の印西市や沼南町一帯をの物部系勢力を傘下に組み入れ印波は平定され香取海の水利権すべてを獲得するに至る
そのために大生部直(国造の後裔氏族)達が巨大古墳を造営出来るだけの力を持った
ざっくりではあるが物部系と多系の印波周辺の勢力図
龍角寺は山田寺と同じ瓦を使っている
そしてその寺は蘇我氏(物部宗家を滅ぼした)と深い関係にある
つまり今まで起きたことを整理するとこうなる
印波国造入植(麻賀多神社創建)→物部系氏族入植(鳥見神社創建)→中小のおびただしい数の古墳が造営→580年代丁未の乱で物部宗家が滅ぶ→今の栄町一帯に巨大古墳が造営される→645年蘇我宗家が中大兄皇子に滅ぼされ東国の物部が盛り返す→国造一族が龍角寺岩古墳を造営し覇権を取る→蘇我氏の血脈である持統天皇が即位→龍角寺造営→国造一族が印波評の長官になる
このことから国造一族は物部系氏族に対抗するために蘇我氏と接近し物部の勢力が衰えたため印波で最有力な一族となり次いで蘇我氏の勢力が衰えたため自分たちが完全に権力を握ったと思われる
印波国造の血脈は今でも麻賀多神社の宮司一族に受け継がれています(境内の石灯篭には宮司一族と同じ苗字の従五位上の官位を持つ人の名前が刻まれていました、江戸時代です)
麻賀多神社の奥宮(イツコリ命が本拠地としたと考えられている場所)の近くには大規模な古墳時代~奈良時代の集落跡が検出されていますので間違いなく国造一族はここを本拠にしたでしょう
そこから物部系を抑え栄町の方面に進出し印波の覇者となり現在に至ります。
物部系氏族は広く知られている通り鹿島、香取の神宮に影響力を持っていました
香取海西岸に物部が入植すると多一族は東北への通り道が限られかつ挟撃される立地でした
物部と多一族の争いがそのまま印旛の歴史というわけです
東名の工事でもたくさん出て埋め戻してる
古墳だらけやで
世田谷の古墳は5世紀~7世紀ごろですね
等々力渓谷の横穴が有名です
物部系はいずこへ消えたのか・・・
引用元: ・印旛の古墳時代の歴史を知りたい奴おる?
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