【戦国時代】日本最北端の大名、蠣崎・松前藩について知っていること
松前氏について語り合おう
だから魚介や海の特産物等を上手く使って他大名とやりとりしてたんだが
そういえばこれは今の北海道にも変えられてない
と考えるとあるいみ立派な先駆者の仲間だな
いまや北海道は日本有数の米どころですが…
アイヌに対して相当、酷いことしてるんだよね。
>>4
いや、確かに頃は取れなかったけど、
交易などで相当っね豊かな藩だった。
ただし、その裏にはアイヌに対する過酷な収奪があったのだが・・・・
>>17
多分、事実ではないだろうね。
ちなみに武装コンブ商人説やアイヌ説がある。
>>18>>19
そこが日本の変だったとこで
家族や名門の子息が二等兵のような最低の地位で
ガンガン前線に投入されてる。
松前どころか徳川将軍家ゆかりの人物もそうだった。
その海産物の収入が莫大だったらしいじゃないか。
しかし日本は石高本位だからその分は計上しなくてよかった。
>>35
だけど大名だから石高で領土を表現しなきゃならんので、
とりあえず10万石相当、ってことになってたんだっけか。
というか、秋田藩ですら江戸幕府開いたときには太閤検地も終わってないしで、
家康も石高知らなかった、っていうし・・・。
それより北の蝦夷の立場は推して知るべし、かな。
蠣崎か・・・奥羽の戦乱に直接かかわってないからね
ところで武田信広は若狭から来たのかな?
http://ildrag.at.infoseek.co.jp/svh/svh_staffroll_hkn.html
蠣崎、美しき家ですね。
好きです。
この館主は、商人が武士的成長を遂げた者や、
頼朝の奥州征伐時等などに渡海した奥羽の土豪衆、の何れかではないかと
ユメピリカって北海道じゃないっけ?
ユメピリカってコシヒカリより美味しいと思う。
>>354
鎌倉時代とかできるだけタヒ刑は実施せず、蝦夷渡嶋(えぞがわたりしま)への流刑
としていた。罪人を渡嶋に送り届ける任務を執行していたのが蝦夷管領であった
安東氏。
>>353
>>358
>まあ商売では詐欺に加担はしたかもしれぬ
第5代藩主高広の時にアイヌとの交易レートを一方的に3倍にするなど、
交易に関しては強圧的だった。商場知行制では知行を請け負う商人に対して
の監督はまったく機能せず、商人側のやりたい放題。
マジ?
士族なのに?
最後じゃないけど21代当主正廣子爵ですね。
現在はまだ弟の之廣氏が22代目としてご存命の筈。
安東氏とは何年くらい抗争してたんだ?
>>18
陸軍上等兵
どうも蠣崎氏ってのは、安倍、清原、藤原氏から安藤一族へと続く
「浮囚」(大和時代に日本に帰依した蝦夷の一族)の末裔らしいな。
安藤と違うのは、自ら誇ってないこと
どちらにしても信広より前は、よくわからないってことだね
長禄元年(1457)のコシャマイン蜂起の鎮圧かな、
信広が颯爽と登場するのは
根城南部(八戸氏)に破れて蝦夷に敗走したんだよね。
根城南部氏は、同族(武田一族)に対しては攻められる事は有っても、自ら攻め入る様な武将ではない。
蠣崎を攻めた当時は、武田信虎とも親交が有る。義を重んじる根城南部が同族蠣崎を攻めるとは考えられない。
以上の事から、蠣崎の武田一族説は胡散臭い。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matuma_k.html
どうかね。微妙。
>>34
確かに三戸南部(盛岡藩)の系図は胡散臭いな。
しかし南部系図の疑問は本家がどこかって事みたいだから、蠣崎が南部の庶流との資料は信頼できるのでは?
根城南部の1334年からの資料は信頼できるのでは?
蠣崎蔵人が根城南部に破れて蝦夷に敗走した時は、根城南部が宗家。
打ち負かした敵武将の出自を捏造する必要が無いと思う。
「精力付けてください」って歓心を買ってたとか何かで読んだ
どうもオットセイらしいね
本草網目にふれられていた、オットセイの効能を
漢方好きの家康が目に付け、松前慶広に献上を命じたとか
元々小大名が乱立してた場所を一纏めにしてたからじゃないのか?
なかった。アイヌの部族ならいっぱいいたが。
あと江戸中期にはロシアの脅威が出てきた。
江戸時代になると、サンタン交易で借金作ったアイヌから家財奪ったり
アイヌを債務奴隷として連れ去ったりする、サンタン武装商人も関わってくる
道南十二館館主の出自
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~kakibaku/his0202.html
安東氏のことだね
室町期は日の本将軍だし、支配権を認められていた
子爵か…
まあそんなもんじゃないか?特に明治維新のときに功は無かったから。
ちなみに和人で初めて羊蹄山に登ったのは寛政年間の最上徳内とも
だいたい今の上ノ国町と知内町を結ぶラインから南ぐらいかな
東側はもう少し北(今の木古内町とか北斗市南部あたりまで影響力はあったかもしれないけど
九戸の乱を鎮圧しにきた諸将がそうとうビビったってマジ?
確かにそういう記録が残ってますな
原文忘れたけど、一部を現代文化すれば、
「アイヌの撃つ矢に当たったものは軽傷でもタヒなないものはいなかった」
だったかな
長い歴史があるね。
>>76
その天文の講和の内容自体、アイヌを持ち上げる形のものでしたからねぇ
束縛がきつくなったのは蠣崎氏が名実ともに独立した大名となった1590年代以降ですね
>>80
秋田の方には結構行ってたみたいだけどね
安東家から手伝いに来い言われて
このスレももっと盛り上がったんだろうが。
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/12/08(土) 16:38:52 ID:vAQqiA0b
>>時は、根城南部が宗家。
宗家てのは嫡流血統で決まるものだよ
勢力の強弱で決まるものじゃない
根城南部と南部光行の血統関係が定かでないでしょ
細川の宗家は没落してもずっと京兆だよ(忠興の家系ではない)
細川の場合、忠興の家系が本家よりも官位が高い
「ねじれ現象」があったのではなかったか。
>>94
自称若狭武田氏傍流だが、実際は激しく怪しい
実際は南部氏傍流でないかというのが可能性の高い説
どちらにしても武田氏流になるにはなるけど、
南部氏の傍流でしかないなら支流の支流のそのまた支流程度でしかないかと
>>99
武田信広(出自は実際の所不明)は当初蠣崎季繁の客将として花沢館にいたかと思われる
コシャマインの乱の後、安東家の娘と縁組みし、さらに蠣崎季繁の養子になった
当然蠣崎家を継いだ時点で花沢館主だろうねぇ
その後、勝山館建てて移ったけど
兵一人一人も戦慣れしてなさそうで弱そう
安東との結び付きもあり水軍はそれなりに長じていたのではないかな。
あと九戸の乱では弓矢の練度の高さと毒矢を使用していた記録があり、
アイヌと狩猟などの協力や生活圏を巡る鍔ぜり合いをしてきた影響が伺える。
和人化したり混血したりもあったのだろう。
家督を巡る内紛もあったし決して戦いに不慣れでは無かったと思う。
ただ、数を揃えるのは大変だったのではないかな。
蠣崎松前家中で一番有名なのは
新八になっちゃうだろうなw
家士による組織を形成している場合もあるから出馬すれば当選する確率は高いお( ^ω^)
漏れの地元などは田舎だから今でも支配層が明確に分かれているお( ^ω^)
そりゃ、あくまで伊達家の場合の話しでしょ。
松前なんて、北海道ではあまりに小さい存在だし。
松前家がどうとかなんて道内ではよほどの歴史マニアくらいしか知らんぞ。
本家の先代の家長はもう故人になったけど、担ぎ出されて1期だけ市長をやったことがある
大名だったわけではなく千年以上続いている神社やってるので地元では知られてる家
親や本家の人から聞いた話で、まだ昭和の頃ね
出れば当選確実だった当時の市長が急に次期市長選には出ないと引退宣言(全くの私的理由。子供が
難病患ってしまいその介護に専念したいという今では不思議でもなんでもないけど当時だと降板理由に
なっていないとかで大揉めしたらしい)
後継めぐって水面下で市や県の議会与野党巻き込んでgdgdの争いをやってしまって終始がつかなくなった
そこで市長や地元選出国会議員複数(与野党含めてというのが笑えるんだが)が本家に来て出馬依頼
お神輿という表現がまさに当てはまるわなってくらいの1期限定の臨時登板だったそうな
16世紀初頭だけどショヤコウジがいる
蠣崎を攻め立てたものの、例によって偽の講和で誘き出されて惨○されてる
関ヶ原後の島津もそうだもんな。
若狭武田?南部?俘囚?安東?アイヌ?商人?
松前さんからしたら、南部・安東あたりは絶対に名乗りたくなかっただろうね。
アイヌ出身も嫌だろう。
松前の自称する若狭武田説はかなり突飛な気がするけど、
青森の髭が近衛のご落胤を称したのと同じ理屈じゃないかな。
津軽家臣の沼田氏とか若狭武田家臣にもいるんだよなー。
意外と若狭武田系ってありえそうなんだよな。
そういや若狭武田は安芸武田に養子を出してるよね。
間宮林蔵と松浦武四郎は北海道神宮の祭神になってるしな
確か松前側の記録では上洛したさい実季がついてきてくれたとかなんとか。
愛季時代は忠実な家臣として振る舞ってただけに不思議だ。
その頃の安東は家中の混乱を押さえた南部信直の
進攻に晒されていてそれどころではなかったと思うよ。
>>208
ついでに言えば、すでに直接的影響を及ぼせなくなっていた蝦夷地は安東氏にとっては価値が低かったと見るのが自然
当時は係争地になっていた鹿角とかの方が圧倒的に優先度高かったから
であれば、無理に抑えつけるよりは、独立的立場を認めて、友好的関係を続ける方が当時の情勢下であれば利益が大きいともみれる
>>209
松前一帯の郷土料理
誕生時期は明確には不明だったはず
一般に知られるようになったのが昭和に入ってだから松前漬けとして売られたのかもしれんという予想はできなくもないが
>>210
> 無理に抑えつけるよりは、独立的立場を認めて、友好的関係を続ける方が当時の情勢下であれば利益が大きいともみれる
あーそういうことか。すごい納得いった。
確かに直接統治するには本州と何もかも違いすぎる。影響力を持ちながら同盟国にしちゃったほうが賢明なわけか。
慶広のトーチャンも独立をすごく喜んだというから、お互い旨味のある提案だったのね。
>>219
石高や官位ではなく、面積での評価は斬新だ。
現在は陸の孤島、糞田舎。
幕府と松前藩の目を盗む形で、北方交易に手を出してたし。
瀬戸内の河野家が蠣崎家の先祖だとか言う話になってた
なかなか面白かったけどね
>>244
>瀬戸内の河野家が蠣崎家の先祖だとか言う話になってた
フィクションとしては面白いが、史実でその可能性はないと思う。
この人と対談してる司馬さんの短編小説で本物の信広?を○す→
すりかわる→蝦夷へ→コマシャインの戦い→松前氏
みたいのがあったような…
>>251
武装商人説だな。
ごまをすって松前だからもと商人だ。
ラックスマンが通称交渉にやってくるまで函館が本拠地だった
シャクシャインの乱は
本州に同化したエゾ(松前)、同化しないアイヌ、のエゾ・アイヌ地域内乱だな
アイヌが砂金など利権をめぐって○し合い、仲介しようとした松前氏も標的にした内乱
シャクシャイン指揮の、かなりの鉄砲も持った武装アイヌ集団が
まず、一般人(本州人)を大量に○害 (時期の近い島原の乱などに比し、鎮圧は激甘)
※ 少し前の地域状況として
アイヌがニブフを繰返し侵略して、後ろ盾の元王朝がアイヌに懲罰遠征した件
アイヌの侵略は、ニブフで重要な、鷹狩り職人の拉致が目的とも言われてる
また、格差社会アイヌでは、長が多くの妾を独占し、女性を贈答品扱い
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
> 擦文人やアイヌが
> それほど親交関係にないオホーツク人を同化させた方法は、
> まず女性を贈答品として彼らに送ることであった。
オホーツク人の文化(イオマンテの起源など)も、アイヌが同化侵略で吸収してた
> シャクシャインの話
「ウタフが疱瘡で没すると、シャクシャインは松前氏が毒○したとして挙兵。」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shuuzo2/kaisetu_5.htm
≫ ★ 交易船員・鷹師・金堀など合計355人が○される。
****略****
> 北方史史料集成第四巻と『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』と『松前蝦夷一揆聞書』
> によると以下のような
≫ 「松前は我々の絶滅をたくらんでいる。今後の商船の貨物には毒が入っている恐れがある。
≫ 全ウタリは力を合わせ、シャモ(和人)を○し、米・味噌を奪って兵糧にすること。
≫ アイヌモシリ(蝦夷地)から和人を追い出し、我々のモシリを取り戻そう。
≫ 参戦しないコタンはシャモよか先に○す !!」
・デマの扇動・脅迫で挙兵し
・まず民間人(本州人)を狙い百人単位で虐○、と相当な武装テロだ
渡党(蝦夷)が本州化した松前 vs アイヌ の、ある意味異民族同士の内乱だからか
シャクシャインによる、民間の和人虐○
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/esdrc/products/zoku_senjuminzokutoESD.pdf
> 小屋を懸けさせ、くつろき候時分、
> 狄共夜に入りよせ、皆皆○し申由に付……」すなわち寛文9年の蜂起の和人○害は、
> シコツではじまった。
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
> アイヌの鎧、甲冑は基本的に倭人のものと同様で、
> 武器の備えもかなり先進性を帯びており、
> たとえば1669年のシャクシャインの戦いにおいては、 倭人側の相当数の武士が
> アイヌの火縄銃の犠牲になったということがわかっているそうである。
シャクシャインのテロ蜂起>>264に対し
松前は他の藩から武器を借りたが、他のアイヌ各部族は多数の銃で武装してた
アイヌは文字がなく、数が苦手で商売下手
狩猟技術は高いが兵器の発達に呑まれ、ロシアの進出にも追われた
さらにアイヌは格差社会で、酋長が妾として女性を独占し、若者が結婚できず人口減
(見かねた幕府が、妾の数制限でアイヌを助けた)
http://8003.teacup.com/doshin/bbs/5841
> 莫大な富を蓄えた酋長が多くの妾を独占して
> 若者に結婚の機会が与えられないことがアイヌの人口減少の原因だと
> 判断して、酋長がもつ妾の数を三人までに制限しました。
・・・こんな部族集団は、近代以降は大した勢力にはなれない
土地の生産力が低いから、人口抑制のために敢えてやってたんじゃね?
>>267
北海道に農業技術教えた、ルイスベーマー・エドウィンダンら開拓外国人に感謝だな
開拓以前
山菜などの採集は主に女性の役割だが、人食いオオカミの襲撃などで命がけ
ウバユリ(山菜)掘りに行って、大勢の女性がエゾオオカミの大群に襲われ
ほとんど食い○されてしまった惨劇が、アイヌの口述で伝わってる
梅木佳代/口承文芸にあらわれるアイヌのオオカミ観
http://douminzoku.web.fc2.com/kaishi_pdf/10/10-04umeki.pdf
> 3-3-1. 人を襲うオオカミ
> 人を襲うオオカミ「狼から逃れた娘」<資料 12>と
> 「狼の襲撃から危うく難を逃れた女の話」<資料 46>は、
> 酷似した内容のテキストであり、
> 大勢の女性がオオカミの群れに襲われ、食い○された事件が描かれる。
『アイヌ学入門 (講談社現代新書) | 瀬川 拓郎』によれば
渡党とは、北海道南西にいた日本文化をかなり取り入れたアイヌのことらしい
この渡党(和人化したアイヌ)がやがて松前藩を形成する
さらに北の樺太まで植民・領有するべきだった。
勢力図がよくわからん
津軽下北はその後南部系領主や浪岡氏に分割、蝦夷地はそのまま安東系領主が勢力保ったって形。海路で秋田と繋がっていたので特に問題は無かった模様
この時代の大名としては意外と活躍してるんだよな。
>>287
ところが意外と戦っている。
主にアイヌ人相手に。もちろん苦戦の連続ですよ。
他に宗家の檜山安東氏に何回か援軍を出している。
>>297
> 主にアイヌ人相手に。もちろん苦戦の連続ですよ。
松前さんの場合、鉄砲の数が少ないし、城郭は砦レベルの防御力だしで、苦戦するのは仕方ないんだろうな。
>>298
蛎崎氏等の道南の武士たちがアイヌ人に勝てなかった理由は当時の蝦夷地の地勢にあると思う。
当時の蝦夷地は農民なんかまったく居ないから足軽を使った集団戦法が使えない。多分、当時の道南武士は南北朝時代そのままの戦闘方しか知らなかったんではないかな。
しかし、当時の蝦夷地はまったく開拓もされてないから一歩内陸に入ったら湿地か密林。騎馬が活躍できる場所が少ない。
比較的近距離で弓矢の打ち合いということになったろうけど、相手は毒矢を使うのに長けている。
なかなか厳しい状況だよね。鉄砲が普及すれば状況は変わったと思うけど。
>>299
>鉄砲が普及すれば状況は変わったと思うけど。
ひょっとしたら鉄砲を買うカネがなかったのかな?
>>302
多分、金はあったと思う。海産物の交易は今も昔もドル箱。
松前藩は、海産物の交易で設けていた。3万石相当とされていたけど、実際はそれ以上に設けていたらしい。
また300さんが訪ねている志苔館からはコシャマインの戦いの時に埋蔵されたと推定される埋蔵古銭が発掘されてるが、その数なんと38万7千枚。
日本国内で一ヶ所から発見された古銭として今もって最大。
単に北の端っこにいたから鉄砲の知識が伝わらなかったとか。
本州最北の南部家で北信愛が侍100人と鉄砲隊20丁でクーデターを起こした例もあるし伝わらなかったとは考えにくい。
常識的に考えて領内へ入らないようにしたんでしょ。アイヌ人も鉄砲を知れば害獣対策という名目で手に入れたがるだろうし
>>309
> 常識的に考えて領内へ入らないようにしたんでしょ。
鉄砲を持っていなかったとは考えにくいが、記録が残っていないのではなかったか。
江戸時代に
ロシアのコサック兵が、千島列島を武力で制圧したり
レザノフが、軍艦で北方領土を襲撃したのは、、、
松前藩としては応戦して無いかな、、しかもボロ負けだし
>>292
よく分からんがアイヌとの交易が飯の種だから同化されて減ってしまうことが嫌だったのかも。
松前藩は何しろ経済基盤が貧弱すぎてな。
幕府が直轄地にしたのも、基盤の弱さを慮ってだろう。
対露防衛といっても武器も武士も数が揃えられず、下手すりゃアイヌ側が本気出せばアイヌ人にも(単独では)負けかねない程度だし。
何で松前藩は同化政策しなかったんだろう
>>303
蠣崎季広の子・蠣崎慶広の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵された。
これによって秋田氏(旧・安東氏)から名実ともに独立する事になった。天正19年(1591年)、
秀吉の命に応じて九戸政実の乱に多数のアイヌを動員して参陣。秀吉のタヒ後は徳川家康に接近して
慶長4年(1599年)、
姓名をアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで松前慶広に改める。
(ウィキペディア)
「松」は特に誰ということはないようだ。
たとえアイヌが攻めこんできても籠城して、
城内から鉄砲で反撃すれば負けることはなかったと思うんだが。
完全に独占できるならともかく、普通に買い込むだけなら市中にも同じように出回るしアイヌ側も持つようになってしまう
よく西部劇で馬に乗ったインディアン(アメリカ先住民)が描かれてるけど、あいつらが馬に乗り始めたのはヨーロッパ人が大陸に馬を持ち込んでからなんだぜ
>>307
アイヌ側は仮に鉄砲を入手できても、銃弾の補給が続かない。
主筋の安藤氏が鉄砲使い始めたのがせいぜい永禄頃、その頃にはアイヌとは比較的平穏になってる
シャクシャインの頃は松前もそれなりに鉄砲使ってる
九戸の乱の時にわざわざアイヌ弓隊を率いてそれが表看板になるくらいだから鉄砲は重視されていなかったのかもしれず。
シャクシャインの時も南部藩や津軽藩からかなり鉄砲と銃兵を借り受けたという話だし、鉄砲があまりあったとは思えない。
九戸の乱の時に大活躍したらしいアイヌ人の毒矢部隊も色々謎が多い。
長年敵対したはずのアイヌ人をどうやって組織したのか。日本ではあまりいない傭兵だったのか。士分にしてたのか。有力氏族を味方につけていたのか。分からないことは多い。
しかし、アイヌ人相手にぼろ負けという認識は共通なのね。
>>313
>しかし、アイヌ人相手にぼろ負けという認識は共通なのね
コシャマインの戦いの時点で和人の支配地がどれだけあり、1549年の蠣崎季広が行ったアイヌ人との和睦の時点で支配地がどれだけ縮小したのかを見れば誰でも分かりまっせ。
蠣崎季広の和睦内容(夷狄之商舶往還之法度)を知れればさらに。ほぼ不平等条約なので。
コシャマインの戦いしか世に知られていないので誤解する人も多いけど、あれは始まりにすぎない。
松前氏自身はほとんど負けてなくね?
負けたのは他の氏族。松前氏はほとんど尻拭い。
>>321
いや負けてる。
タナサカシ相手に支館の瀬田内館を失陥してる。
そして瀬田内の回復を試みた際は、利別川での戦いに大敗して重臣の工藤佑兼が討たれるなど大損害を被っている。
結局瀬田内と、江差も多分合わせて失ってしまい、それっきり。
そもそも秋月俊幸ってどんな人?
はい、そんなレベルなんで答えられません(>_<)
津軽海峡を封鎖した異国船というタイトルの著書で松前道広がロシアに寝返ったというデマが流れたってあるけどこのときの松前道広って梁川に転封されてるはずだからデマの流れようがなくね?と疑問に思っただけだよ
>>319
マイナー大名だから転封されていたことを当時の人たちの多くが知らなかったということだろう。
つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ?
>>324
> つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ?
他の大名たちや憂国の知識人たちも知っていただろう。
庶民は1万石の大名に関心ないから知らなかっただろ。
蠣崎光広の頃だと思うけど、陰謀によって下ノ国守護と松前守護を滅ぼし、蝦夷地の首領になったという話は本当だろうか。
蠣崎派のアイヌを操って下国氏(下ノ国守護)の館を攻撃させて滅ぼし、
松前守護に対してはアイヌ兵に擬装して松前の館を奇襲して滅ぼした、またはアイヌ人を煽って滅ぼさせたというんだけどなんかの出典があるんでしょうか。
ネットでけっこう転がってる話なんだけど、陰謀論めいて面白い。
松前累系あたりから大体採ってる。
今の史書でもちょこちょこ採用されてる説よ。
>>327
ありがとうございます。ちゃんと典拠があるんですね。
新羅之記録しかまともな文献はないと思いこんでいました。色々あるんですね。
>>323
こういうのとか?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matuma_k.html
>これはアイヌに偽装した光広の軍勢であったとされている
戦国時代にしては器用すぎる気もするが・・・
>>323
>>328
さすがに無理があるやろw
・アイヌのコスプレしたって常識的に考えれば一発でばれる
・松前を落とせるほどの軍勢を隠密に行動させるのは至難の業
松前守護の連中は撫切りにすれば良いとして、 自分の館や松前周辺
の住民は必ず異変に気付く。軍隊レベルの人数の偽装なんて不可能。
そして他の独立の舘主や北海道出入りの商人から主家の桧山安東
氏に注進が行けば反逆として扱われることとなる。
しかし、蠣崎氏が主家から咎めを受けたという話はまったくない。
史実として考えるには無理が多すぎる。
松前守護の館が落城した永正10年の前年に函館周辺の館が皆アイヌ人
の攻撃で落城してるようなので、その勢いに乗ったアイヌ人の攻撃
があったと考えた方が自然ではないか。
>>333
和人兵をアイヌ兵に偽装するのは無理かもしれないけど、裏で函館方面で蜂起してたショヤコウジ兄弟と手を結んでいた可能性はあると思うよ。
武器や兵力の貸与もしていたかもしれない。
蠣崎光広には動機があるのは確か。
それが噂となって正史以外に記録されているとかね。
松前氏が梁川で積極的に治世を行った記録は残されていない。
それは藩政の方針が倹約、粗食を常とし、領民と事を構えないことを第一としたためであり、
松前氏はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけていた。
その努力が実ったのは移封から15年後の文政4年(1821年)であった。
(ウィキペディア)
阿弖流為はアイヌじゃないから。
蝦夷(エミシ)とアイヌは全然ちがう。
若狭武田の末裔のスレがあったとは!
でも松前藩開祖の武田信広の出自はどれくらい信頼できるのかな?
家督争いで単身出奔したあげく、東北で戦い、北海道にまで流れて一家を起こしたって、
大河のネタにもなりうる行動力だわ。
このスレは勉強になる(*^^*)
アイヌ民族に対するイメージが変わった。
おとなしくて争いを嫌うってイメージだったけど、実は精強果敢な面もあったのだな。
武田氏などの日本人側が戦いでかなり負けてることをはじめて知ったよ(@ ̄□ ̄@;)!!
城を落とされまくりじゃない。
ゴールデンカムイでのイメージとは全然結び付かないよ。
ゴールデンカムイはもう明治だし。
左翼学者がアイヌ人等の先住民族の温和さを過度に強調しすぎた側面は
あると思うけどね。
ルイス・フロイスが
「日本国の北にエゾという大国があり、住民は酒を好み、戦いに勇猛にして
日本人ははなはだこれを怖る。彼らは出羽の国の秋田という都市まで時々
やってきて商売をしている。日本人もエゾに行くものがあるが、夷人に
○されることを怖れていてその数は少ない」
なんて書簡をインド総督に報告してるくらいで、往時は勇猛な民族との
評判があったようだ。
他国の地域の蛮族(スキタイとかモンゴルとか)に比べるとはるかに平和的な
民族だったとは思うけど。
>>342
面白いね、その情報(゚ロ゚ノ)
フロイスなら安東愛季の頃か。安東愛季は北海道と密接な関係があったということだね。
下国安東氏は蝦夷地に三つの守護を置いて間接統治してたということらしいけど、
フロイスの情報を見ると、たしかに強い関係を持っていたように思える。
そして、本州まで海を越えてアイヌ民族がやって来てたということも分かる。
それも秋田まで来てたとは凄い行動力、航海技術もそれなりのものがありそうだね。
まあ九州人から聞いた蝦夷の話だし大袈裟になったり曲解があるのはしょうがないんじゃないかな
それでも松前藩の野蛮さに比べればアイヌなんてまだマシなほうだけどな
そもそも中央政府から見れば松前もアイヌも同じ蛮族だし
>>380
松前は官位もっているから蛮族ではないだろ。
遼東の公孫淵みたいなもんか
いや蛮族扱いされてるからシャクシャインの戦い後の処罰も軽かったんだよ
>>345
名門武田氏の出自だろw
武田氏かどうかはともかく内地の武士で
あったことは間違いない。
松前氏はアイヌではないよ。
松前家の家祖とされる武田信広の正体は
蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
思われる。
蠣崎蔵人は南部政経に敗れたあと、自害も討タヒもしていない。蝦夷地に逃れたと南部氏系の史書にも記されている。
蠣崎蔵人が蝦夷地に逃れた後、唐突に武田信広という男が歴史に現れてくるが、時代的にあまりにも符号しすぎている。
武田信広=蠣崎蔵人で間違いない。
いずれにしてもアイヌの血筋ではない。
いや蝦夷地に渡った後に帰化したんだよ
>>348
> 松前家の家祖とされる武田信広の正体は
> 蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
> 思われる。
同意するが、なぜ蠣崎蔵人だと名乗らなかったのか?
>>348
確かに。
蠣崎蔵人信純、自称は甲斐武田氏の末裔。
武田信義から五代目の末と称す。
武田信広、自称は若狭武田氏の末裔。
武田信賢の三男と称す。
しかし、若狭武田氏の系図に信広らしき人物は見当たらず、松前藩側が伝える父子兄弟の名前、在世年数など付き合わせるとかなり目茶苦茶。
蠣崎蔵人の乱、長禄元年2月に蠣崎城が落城し、蠣崎蔵人信純は蝦夷地に逃れる。
長禄元年5月にコシャマインの乱勃発。
花沢館の蠣崎季繁の客将だった武田信広が侍大将になり初めて歴史に姿を現す。
どうみても同一人物だな。
渡党の子孫かもしれないということなら、アイヌと無縁ではないかもね。
諏訪大明神画詞に曰く、蝦夷には日の本、唐子、渡党の三種あり。
日の本、唐子は言葉が通じない。
渡党は全身に体毛が生えており、言葉は野卑だが、和国の人間と意思の疎通が可能であるという。そして、宇曽利鶴子(ウソリケシ)と萬堂満伊犬(マトウマイン)という二つの島に群居しているともいう。
ウソリケシとは現函館、マトウマインとは現松前のことと思われる。
一説には渡党とはアイヌと和人との混血であるうという。
そして、道南の武士の多くは渡党の子孫とも言われている。
平民の中国人が北海道の産物を高値でも求めるようになってから。
室町時代にはもう相当渡来してたよ。
文献でも東は鵡川(日高地方)、西は余市(小樽近郊)まで和人の集落があったということだ。
考古学の発掘でも余市の大川遺跡から14世紀頃の和人のかなり規模の大きな集落跡が発掘されていて、文献の記述を裏付けている。
和人の墓や住居、大量の伊万里焼やら中国青磁が出土しているようだ。
16世紀以降はなぜか衰退しているので、戦国~江戸時代初期には、一時的に和人が撤退していることは確かだけども。
え?蠣崎って光広の代からずっと蝦夷地にいたんじゃないの?一旦撤退してたの?
松前というアイヌ語の地名の場所を本拠にしていたから松前を名乗ったわけで。
地名を名字にする例はいくらでもあった。
アイヌとの交易を松前藩に独占させてしまったのが諸悪の根源だなあ。
それで市場原理が働かなくなり、圧倒的大手の松前藩側のいいようにされるようになってしまった。
それ以前は個々の商人と商売して高値で買ってくれるところに売り込めたし、
気に入らんなら海を越えて南部や津軽、秋田までも行っていた。
つまり、松前藩の独占交易権を認めてしまった徳川家康が悪い。
津軽海峡は以外と近い。
しかし改めて見ると、武田って"信"の字を持つ奴が多いのか?
武田信玄こと武田春信もそうだが、何かいわれがあるのだろうか。
>>365
甲斐武田氏の初代が信義
>>365
いわゆる通字。武家は先祖から諱を一字受け継ぐ風習がある。武田家は信。
武田家に限らず色んな家がそれぞれの通字を持っている。徳川は家、上杉は憲、毛利は元、伊達は宗など。
ちなみに松前家は多分“広”。宗家の安東家は季。
言われれば公家もそう。
高貴な家柄特有の風習だね。
ただ、通字には例外も多い。代表的なのは武田勝頼とかかな。武田家なのに信がない。
蠣崎・松前とか立派な名前を持っていても実は罪人の子孫だったりするのかな。
顔も身長も服装も言語も全然違うだろ
アイヌも大和民族もやってることは一緒でどっちもどっちなんだよな
小樽方面の洞窟や壁画やストーンサークル
北海道東部から十勝にかけての通称オホーツク文化
函館周辺の中空土偶などが発掘される遺跡群
3者とも類似性は低いらしい
アイヌの生活様式は魏志倭人伝に出てくる倭人そのもの
棲み分けできていたのが片方の人口爆発で片方の居住域が浸食されてしまったんだ
アイヌも元々は本州の住民で北海道には先住民がいたものと思われる
むしろ大陸だろうね
新大陸はかつて繋がってたのが一旦途切れて、コロンブスまでは交流がなかったけど
樺太や北海道は有史以来ずっと本州と行き来があったから、大陸から渡った集団がいたとしてもその後本州経由の方が多数派になってそう
大陸のアイヌと交流があったからね
アイヌを通すというのは建前で完全に松前藩の密貿易でそういう意味ではアイヌを隷属化なんかできない
下に見てたとは思うけど松前城にある城下町の絵なんか見ると日本人もアイヌも仲良く商売してるのがよく分かる
秀吉の朝鮮出兵中に豊臣氏直轄の大名となる
秀吉が大陸の次はお前ら(蝦夷ヶ島)と言ったとか言わなかったとか
家康が幕府を開設すると関ヶ原の前年に松前藩の藩主に
近代武器も大量に入るようになり
このへんを境にアイヌ民族の悲劇が始まる
引用元:http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1152532274/397-
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません