室町時代の大事件・織田信長の乱について語ろう
なぜ背き失敗したのかなど語れ。
―織田信長総合スレ―
幕府に反抗し、敗れ去りし者たち。
なぜ背き失敗したのかなど語れ。
そもそも実際の信長は、幕府に反抗してないし背いてないが、
ここのスレは今後、どうやって話を進めていくんだ?
ファンタジーの世界で遊ぼうよってこと?
> 大河で信長を演じた役者
左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。
> ・太閤記(1965年 演者:高橋幸治)
遊郭を逃し、
> ・天と地と(1969年 演者:杉良太郎)
勇敢さを持てず
> ・国盗り物語(1973年 演者:高橋英樹)
要素・有資格が成らず増えず
> ・黄金の日日(1978年 演者:高橋幸治)
愛情のすべてを表さず、青いまま
>>1 (続き)
> 大河で信長を演じた役者
左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。
> ・おんな太閤記(1981年 演者:藤岡弘)
生みの親を知れず
> ・徳川家康(1983年 演者:役所広司)
父親を知れず
> ・武田信玄(1988年 演者:石橋凌)
(生みの親の種類で、武田真眩(甲府)の人の川の人間である武田信玄)=ぶどう農家の次男を知れず
> ・春日局 (1989年 演者:藤岡弘)
ホテル経営も知らず
> 大河で信長を演じた役者
左側のタヌキがどうこうで欠席の多い長男は、お父さんに、おじさんに、その場を
委譲し、「所場」だったわけで。
> ・信長 KING OF ZIPANGU(1992年 演者:緒形直人)
日本を知らず
> ・秀吉(1996年 演者:渡哲也)
日の本人を知れず
> ・利家とまつ~加賀百万石物語~(2002年 演者:反町隆史)
子供の部類を知れず
> ・功名が辻(2006年 演者:舘ひろし)
男女愛を知れず
> ・風林火山(2007年 演者:佐久間二郎)
友情を知れず
> ・天地人(2009年 演者:吉川晃司)
舶来のルートも知れず
> ・江~姫たちの戦国~(2011年 演者:豊川悦司)
愛の不毛者(15男の左側)が優勝したのも知らず
将軍・足利義栄を暗○、その跡継ぎを追放、
比叡山を焼き、坊主も焼き○す
天下の大罪を三つも犯し、その強運を手放した。
自分が京都で焼かれてしまったんだな。
因果応報なり。
日本史学会を真っ向から否定ですかw
永正4年(1507年)永正の錯乱
永正6年(1509年)両細川の乱
享禄4年(1531年)大物崩れ
天文元年(1532年)天文の錯乱
天文5年 (1536年)天文法華の乱
天文18年(1549年)江口の戦い
天文20年(1551年)大寧寺の変
永禄8年 (1565年)永禄の変
文明8年(1476年)長尾景春の乱
長享元年(1487年)長享の乱
永正4年(1507年)永正の乱
( ^ω^)
両方とも天下取る意思なんてなし。
だからこそ評価が高いんだよ。
逆賊を圧倒した歴戦の兵。
忠実で最強の幕臣が二人。
甲斐勢や越後勢、中国勢は敗れてしまったが、
九州勢こそ最後かつ最強の足利軍。
場合によっては信長が京都から、駆逐される可能性まである。
1521年 細川高国、足利義稙を追放し足利義晴(足利義澄の子)を将軍に迎える。
1526年 細川晴元(澄元の子)・足利義維を奉ずる柳本賢治と細川高国の戦いが始まる。柳本賢治、京周辺を制圧する。
1530年 柳本賢治、暗○される。
1531年 播磨の浦上村宗と細川高国が天王寺に戦タヒ、細川晴元が政権を握る。
1543年 細川氏綱、高国跡目と称し細川晴元と戦う。
1547年 三好長慶、細川晴元から離反し氏綱方となる。
1548年 三好長慶、細川晴元・足利義晴を追放する。
1552年 三好長慶、足利義藤(足利義輝)と和す。
1564年 三好長慶タヒ去。
1565年 足利義輝、三好三人衆に暗○される。
1566年 三好三人衆と松永久秀が対立し、畿内各地で抗争。
その歴史を踏まえて、家康や家光は徳川将軍の権威と実力を高めることに
注力したんだろうね。
永禄6年か天正13年のどちらかといえるのでは?
永禄6年(1563年)細川晴元タヒ去(事実上の京兆家終焉)
永禄6年(1563年)細川氏綱タヒ去(高国系京兆家断絶)
永禄8年(1565年)細川昭元(晴元の子)が足利義栄政権下の管領に就任
元亀3年?(1572年)昭元、信長に降伏?
天正13年?(1585年)昭元、秀吉に降伏?
文禄元年(1592年)細川昭元タヒ去
慶長20年(1615年)細川元勝(昭元の子)が大阪の陣で破れ所領没収
文安6年(1449年):(義教の子)足利義政(後援;畠山持国、山名宗全、日野重子)
文明5年(1473年):(義政の子)足利義尚(後援;山名宗全、日野富子)
(義教の子)足利義視(後援;細川勝元)
延徳2年(1490年):(義視の子)足利義材(後援;足利義視、日野富子)
明応10年(1494年):(政知の子)足利義澄(後援;細川政元・澄元、日野富子、伊勢貞宗)
永正5年(1508年):(義視の子)足利義材(後援;大内義興、細川高国)
大永元年(1521年):(義澄の子)足利義晴(後援;細川高国、六角定頼)
(義澄の子)足利義維(後援;細川晴元、三好元長)
天文15年(1546年):(義晴の子)足利義輝(後援;細川晴元、六角定頼)
永禄11年(1568年):(義維の子)足利義栄(後援;足利義維、三好三人衆、松永久秀)
永禄11年(1568年):(義晴の子)足利義昭(後援;織田信長)
俺なら畿内に本拠地を移すんだけどな
ちょっと違う。
細川本家である京兆家の本拠地は摂津・丹波。
その跡目を養子が争ったのが両細川の乱
澄元、晴元親子(阿波細川家)vs高国、氏綱親子(野州細川家)
野州細川家は基盤が弱いから大内義興を頼ったのに対し、
阿波細川家は敗れても阿波から再起できた。
ついでに言うと領主(守護)が畿内に傾倒すると、領国の守護代が強くなる。
斯波、吉良、土岐が没落したのはこれが理由。
なるほど
それにしても信長は前者の轍を踏むまいとしたのか
つぶさに失敗例を研究したのか知らんが
尾張・美濃を掌握しながも畿内にも地盤を固めたあたりは流石だな
畿内に地盤なんか固めてないと思うが?
逆に、関白も将軍も貰わなかったのは、畿内より先に、武家の地方軍閥の制圧を最優先にしたかったからじゃね?
畿内どころか近江を固めるのに四苦八苦してたね。
しかし信長は何度も岐阜に逃げ帰っているけれど、
あまり遠くないから良かったと思う。
あの頃は京都でさえ信長の庭みたいなもんだろ
妙に多芸なのは気になるけど。
ー嘉吉元年(1441年);赤松満祐、6代目将軍義教を○害、足利義尊を擁立する
ー享徳3年(1455年);足利成氏、7代目将軍義政に対して反乱(享徳の乱)
○文正元年(1466年);山名宗全、7代目将軍義政に背き軍事上洛(御霊合戦)
ー応仁元年(1467年);細川勝元、足利義視を奉じ東軍を形成(応仁の乱)
ー長享元年(1487年);六角高頼、8代目将軍義尚に対して反乱(鈎の陣)
ー延徳3年(1491年);六角高頼、9代目将軍義材(=義稙)に対して反乱(延徳の乱)
○明応2年(1493年);細川政元、足利義澄を奉じ上洛、前将軍を廃止(明応の政変)
「両細川の乱」
ー永正4年(1507年);細川政元が暗○され、細川澄元が跡を継ぐ(永正の錯乱)
○永正5年(1508年);大内義興、足利義稙を奉じ上洛、10代目将軍義澄、澄元は近江へ
ー永正6年(1509年);三好之長、足利義澄を奉じ上洛するが敗退(如意ケ嶽の戦い)
ー永正8年(1511年);三好之長、足利義澄を奉じ上洛するが細川高国に敗退(船岡山合戦)
ー永正17年(1520年);三好之長、足利義澄の遺児を奉じ上洛するが戦タヒ
ー永正18年(1521年);細川高国、11代目将軍足利義稙に対して反乱、義稙は阿波へ
ー大永元年(1521年);細川高国、足利義澄の遺児、義晴を擁立
○大永七年(1527年);三好元長、足利義維を奉じ上洛、12代目将軍義晴、高国は近江へ
○大永七年(1527年);朝倉宗滴、足利義晴を奉じ上洛、足利義維は堺へ(高国と連携)
○大永八年(1528年);三好元長、足利義維を奉じ上洛、12代目将軍義晴、高国は近江へ
○享禄三年(1530年);浦上村宗、足利義晴を奉じ上洛(高国と連携)
○享禄4年(1531年);三好元長、堺公方・足利義維を奉じ上洛、将軍義晴は近江へ(大物崩れ)
「享禄・天文の乱、天文法華の乱」
○享禄5年(1532年);細川晴元、堺公方・足利義維に対して反乱、三好元長を○害(飯盛城の戦い)
ー天文元年(1532年);六角定頼、足利義晴を奉じ上洛、晴元と和睦
ー天文2年(1533年);細川晴元、一向衆に破れ、阿波に逃れる
ー天文4年(1535年);細川晴元、六角定頼と結び一向衆を鎮圧(享禄・天文の乱)
ー天文5年(1536年);細川晴元、六角定頼と結び法華衆を鎮圧(天文法華の乱)
こうやって見ると大内義興って凄まじいね。
絶頂期の細川家を分裂させ、将軍を挿げ替え、三好を敗退させてる。
ー天文11年(1542年);細川晴元、木沢長政を○害(太平寺の戦い)
ー天文12年(1543年);細川氏綱、足利義晴と通じ挙兵、義晴は京を追われ近江へ
ー天文17年(1548年);六角定頼、足利義晴の子・義輝を奉じ上洛、晴元と和睦
○天文18年(1549年);三好長慶、13代目将軍義輝と晴元に対し反乱(江口の戦い)
ー天文21年(1552年);六角義賢、足利義輝を奉じ上洛、長慶と和睦
ー天文22年(1553年);三好長慶、13代目将軍義輝に対して反乱、義輝は近江へ
ー永禄元年(1558年);六角義賢、足利義輝を奉じ上洛、長慶と和睦
○永禄8年(1565年);松永久秀、足利義栄を奉じ、13代目将軍義輝を暗○
○永禄8年(1565年);三好三人衆、松永久秀を政権から排除
「織田信長の乱」
○永禄11年(1568年);織田信長、足利義昭を奉じ上洛、14代目将軍義栄を暗○
ー永禄12年(1571年);織田信長、15代目将軍義昭に対して反乱(9箇条の掟書)
ー元亀元年(1570年);朝倉義景、織田信長を破り、15代目将軍義昭がこれを調停
ー元亀3年(1572年);武田信玄、足利義昭と通じ、織田信長を破る
ー元亀3年(1572年);織田信長、15代目将軍義昭に対して反乱、義昭は河内、紀伊より鞆へ
ー天正4年(1576年);毛利輝元、足利義昭を奉じ、織田信長を破る
ー天正5年(1577年);上杉謙信、足利義昭を奉じ、織田信長を破る
ー天正10年(1582年);明智光秀(義昭の旧臣)、織田信長を破り自害させる
「室町幕府の終焉」
ー天正11年(1583年);柴田勝家、足利義昭の上洛を支持
○天正15年(1587年);羽柴秀吉(太政大臣)、15代目将軍義昭と会見
ー天正16年(1588年);足利義昭、将軍職を辞し出家(室町幕府消滅)
氏名:
電話番号:
織田信長: ←織田信長の欄
後1588年までは秀吉関係も「秀吉主家裏切り主家の内訂を起こす」とか。
有力者の援護によって実権を保ってたというわけで。
> 有力者の援護によって実権を保ってたというわけで。
それを実権がないというのですよ。
・今川氏:三河国吉良荘(足利氏)
・吉良氏:三河国今川荘(足利氏)
・一色氏:三河の吉良荘一色(足利氏)
・細川氏:三河国額田郡細川(足利氏)
・・三好氏:阿波国三好郡(甲斐源氏)
・斯波氏:陸奥国斯波郡(足利氏)
・・朝倉氏:但馬国朝倉
・・織田氏:越前国織田庄
・畠山氏:武蔵国男衾郡畠山郷(桓武平氏)
・山名氏:上野国多胡郡山名(新田氏)
・赤松氏:播磨国播磨作用庄赤松村(村上源氏)
・・浦上氏:播磨国揖保郡浦上郷
・佐々木氏:近江国蒲生郡佐々木庄
・・京極氏:京都京極高辻(佐々木氏)
・・六角氏:京都六角(佐々木氏)
・土岐氏:美濃国土岐郡土岐郷(清和源氏)
・・明智氏:美濃国明智庄(土岐氏)
・伊勢氏:伊勢国(伊勢平氏)
・大内氏:周防国
・上杉氏:京都綾部上杉
・・長尾氏:相模国鎌倉郡長尾庄(桓武平氏)
・武田氏:常陸国那珂郡武田郷(清和源氏)
・佐竹氏:常陸国久慈郡佐竹郷(清和源氏)
二人はよく似てる。
逆賊を討とうと各国の幕府忠義の士が立ち上がるのは当然
指揮官としての能力は低いかもしれない
●織田信広 天正2年(1574年) 長島一向一揆戦で戦タヒ
●織田信勝 弘治3年(1557年) 信長により暗○
○織田信包 慶長19年(1614年) 病タヒ
●織田信治 元亀元年(1570年) 浅井・朝倉に攻められ戦タヒ (弟疑問説あり)
●織田信時 弘治2年(1556年) 信勝派に攻められ自害 (信長暗○説あり)
●織田信興 元亀元年(1570年) 長島一向一揆戦で戦タヒ
●織田秀孝 弘治元年(1555年) 叔父の信次により射○ (信勝派説あり)
●織田秀成 天正2年(1574年) 長島一向一揆戦で戦タヒ (弟疑問説あり)
○織田信照 慶長15年(1610年) 病タヒ
○織田長益 元和7年(1622年) 病タヒ
●織田長利 天正10年(1582年) 本能寺で戦タヒ
反乱続きだし光秀に○されなくても別の奴に○されて終わってただろうし
播磨の赤松則房などなど室町の名族を家臣に組み込んでいるね
ついでにいえば、信長の乱信長の乱は、本人タヒ後に秀吉に受け継がれるあたり、大内家を倒した陶⇒毛利による中国支配と似ている。
最終的に室町幕府が滅亡(将軍でなくなる)するのは、いつだっけ。秀吉が毛利を配下にいれても確か将軍職のままで、
秀吉は養子になろうとしたみたいだから、正式な室町幕府消滅(将軍不在)は何年だ?
それまでは将軍のままであった。幕府は実質的には壊滅していたけど
亡命政府という体裁はあったのでここまで長い 乱 と考えてもよい
明応の政変
両細川の乱
三好一族の乱
織田信長の乱
すっきりして分り易いな。
確かに信長は将軍を追放したり天皇を排除しようとしたりと、
政治を混乱させていたと思う。
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1315491365/
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