自分しか知らないだろうっていうぐらい超マイナーな歴史上人物を挙げるスレ
ステファン・ドゥシャン
セルヒア帝国の王で黄金期を築き、皇帝を名乗る
ポール・バラス
フランス革命で恐怖政治に終止符を打つ
しかしその中身は革命を食い物にした悪徳の士
レオポルド2世
極悪人ながらあまりその事実は知られていない
ハーバーとボッシュ(アンモニアの人工合成法の発明者)
これにより大量の化学肥料と爆薬の製造が可能に
20世紀の人口爆発と世界大戦の創出者
>>2
レオポルト2世はスターリンなみにやばい
ベルギーとコンゴという国自体がマイナー
下手すれば高校教科書に載っていそう。
レオポルトってスターリンみたいに人民代議員の97%を粛清したり
20代男性の人口を9分の1になるレベルの虐○や戦争をしたの?
>>3
ハーバーさんに比べてボッシュさんの影の薄さは異常
と思って調べてみましたら、ハーバーさんより超重要人物のうえ
人間的な深みも感じられる逸話などもあり
ちょっとビックリしました
ハーバーさんみたいに一般受けする
派手なエピソードがないと流行らないんでしょうねぇ
灯台受験生ならばその名を全員知ってるんじゃないかな
幕末に年貢率を急にあげたのに反対して立場をわきまえず
一揆の先頭に立ち、座敷牢に入れられ、廃藩置県で解放されるまで10年。
家からは絶縁されたので村民の協力により荒れ地を開墾して住み着き
今に至る。
世界史に残る偉業をなしとげた人物なのにマイナー
偉業を成し遂げた人物は当然有名なわけで
つまり矛盾するから視点によっては有名人が挙がるのは仕方ない
述律皇后
耶律阿保機の皇后。八部大人を抹○して耶律部の独裁を確立したのも、渤海を落したのもすべて皇后の謀略による。
阿保機自身は渤海を落してすぐに崩御しており、大興山脈以西の版図はすべて、皇后が自ら戦陣で馬を駆って平定したもの。
事実上、遼の実質的な建国者である。
ホエルン
夫のイェスゲイ亡きあとボルジギン氏を率いる。
ジャムカを破って覇権を確立した十三翼の戦いもチンギスではなく指揮を執っていたのはホエルン。
睿智蕭皇后
南征軍を起こし澶淵の盟を結び、遼の北宋に対する優越性を確立する。
史書では三軍を統率していたのは睿智蕭皇后だと明記されているのにも関わらず、なぜか教科書では聖宗の功績にされている。
三娘子
アルタン・ハーンの王妃。騎射を得意としアルタン亡きあともトゥメトの首領を率いてオイラート部の覇権を維持し
明からは宣府、大同、甘粛に至るまで20年間、兵を用いる必要がなかったと称される。
女の軍事指導者というのは、どうも学者の女性像からは大きくかけ離れてるらしく
大抵その功績は夫か息子かもしくは最初からなかったこと扱いされることが多い。
シャナクダケト
紀元前2世紀以降、それまで女王が基本的に存在しなかったスーダンには「カンダケ」の称号を持つ
女王たちが相次いで出現したが、その初代に当たる人物。
自らを「ラーの息子」と称し、レリーフには武装して描かれているが、同じカンダケで後にローマと衝突
するアマニレナスも武名で知られた。
『ナショナル・ジオグラフィックス』は世界史上の偉大な女王50人の1人に挙げている。
けっこうな偉人だと思うのですが、スーダンの歴史自体がエジプトのおまけのような扱いを受けている
せいか、某やる夫聖杯戦争スレで初めて知りました。
同じスレで>>10の述律皇后やティン・ヒナンも出ていて、初耳ではなかったものの感心。
ジェべ ジェルメ クビライ スブタイ
いずれも四駿四狗でチンギスハンの優秀な側近
倪瓚(げい・さん)(1301-1374)
字は雲林。元末明初の文人。富裕な家に生まれて仕官せずに風雅を事としていたが、後に
混乱の中で52歳にして故郷を離れ、74歳にして帰郷し、親戚の家に没した。
山水画で後世に名を残した人物であるが、彼ほど渇筆を利用して描いた人物も珍しい。
余白を大胆に使用して空間と水を表現したが、そこに現れたのは水を見て水を欲するほどに
乾いた世界であって、花鳥はおろか人物すらまず描かれることがなかった。
近代日本の文人画家である長井雲坪(タヒ後、夏目漱石が評価)は山水に人物を描き込むこと
を好まず、頼まれれば後姿の人物を一人描いたというが、倪瓚の場合は人物を描いた作品は
一点だけであり、誰も居ないことを指摘されると「この世に人間というものがいたとは知らなか
った」と答えたという逸話が残されている。
文人画家というのは近代に至るまで変わり者が多いが、倪瓚は極度の潔癖症であり、例えば
客が庭にあった桐の木を汚した際には、根元から切らせたという。
孤高の気を漂わせた彼の絵は、絵の境地は真似がたいものであるが、後世惹かれる者が多
く、贋作も筆意に倣った作もおびただしく作られ、影響は現代東洋画にも及んでいる。
国衙軍や後に武士へと発展する軍事貴族が台頭する遠因を作った人物
なのに教科書や概説書では何故かスルーされがち
奇しくも同年新羅で反乱を起こし後三国時代のきっかけを作った哀奴、元宗とは
えらい違いである
バルトロメオ・クリストフォリ
ピアノを発明した人物なんですが
あんまり有名でないような…
http://www.googletop.info/?p=587
3年前に生誕360周年ということで
googleトップページを飾った人
去年1月~3月のNHKラジオ第二放送、芸術その魅力「バッハ一族とその音楽」
でジルバーマンとクリストフォリを並べて取り上げていた。
クリストフォリがピアノ製造を本業にしたのに対し、ジルバーマン弟はオルガン製造の
片手間にピアノに手を出してた程度。
大バッハが使っていたのはこのジルバーマン。
バッハはやたらとピアノには注文を出してたらしいけど現存する曲は結局みあたらず。
>>17
ペドロ・ヌネシュ
この名前からは想像がつかない
彼の名前を冠した器具の発明者とされることもあるが
彼は幅を測る装置は発明しなかった
ちなみに大圏コースについては
もっと昔の人が発見してますね
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%9A%E3%89%E3%AD%E3%BB%E3%8C%E3%8D%E3%B7%E3%A5
16世紀の最も偉大な数学者の一人でポルトガルの大航海時代に重要であった航海技術への貢献で知られる。
等角航法の最初の提案者
ヌネシュの多くの業績は航海術に関するもので、
一定の方角で進む船舶が地球上の2点を結ぶ最短距離である
大圏コースを進むことにならないことを理解した最初の一人である。
しかしながら大圏コースを進むためには常に方向を変えて進まなければならず、
子午線に対して一定の角度で進む等角航法を提案した。
王維(699~759or701~761)
詩人として著名な人物ではあるが、マイナーなのは彼の偉業の内、文人画の祖としての絵画面である。
文人画とは、要は職業画人の絵に対する、文人が詩の素養と書の技能で以て描いた絵を意味する。
王維が詩・書・画の三者(この三者に秀でた人物を三絶と呼ぶ)に秀でていたからこそ可能となった技で
あり、山水画の皴法の一つである披麻皴は、彼の創案にかかるという。
実に器用な人物であり、音楽にも詳しく、どんな曲を演奏しているのか分からない絵を入手した人がいた
時、王維に見せるとたちどころにどの曲のどの場面かを言い当てたという逸話が残されている。
後世、文人画は技量以上に感性と閃きで魅せる絵であると言われたが、技能的にも優れた面を発揮して
「(気韻よりも)技巧に走り過ぎている」と却って批判されたほどであった。
残念ながら、宋代にはまだあったらしい王維の絵は(真作らしき物は)現存しない。
阿倍仲麻呂と懇意にしていたことから、彼が帰国していれば貰った絵を持ち帰って日本国内に伝えていた
可能性もあるが、帰国が叶わなかったのは周知の通り。
同様に絵画面での偉業が知られない人物に、与謝蕪村がいる。
かつては俳人蕪村を知る者が画人蕪村を知らず、画人蕪村を知る者が俳人蕪村を知らぬことがあった。
しかし、今では俳人蕪村の方が著名であろう。文人画を能くし、また俳画を極めた偉人である。
「偉業を成し遂げたのに知名度に繋がっていない」という意味で挙げた。
韓志和
唐の穆宗に仕えたとされる日本人。
鳥の木彫りが得意であったが、内部にカラクリをとりつけると鳥は百尺も飛び上がり、彫ったの
がネコであれば、ネズミやスズメを捕らえてみせたという。
足を踏み入れれば竜の姿が現れるカラクリを披露した際には皇帝を驚かせてしまい、その謝罪
として蜘蛛の集団の細工を披露、これは涼州舞を舞って見せ、勿論ハエも捕らえて見せた。
皇帝は喜んで褒美を下賜したが、それらは人にやってしまった。終わる所を知らずという。
金剛三昧
晩唐の随筆『酉陽雑俎』に、著者の知人として名を挙げられた日本人の僧侶。
中天竺を二度訪問してナーランダー僧院で玄奘三蔵の壁画を見たといい、四川にも足を運んで
いたという話が書かれているが、日本側に記録はなく、伝記は不明である。
霊仙三蔵
興福寺の僧侶で、最澄や空海と共に唐に入り、後に日本でも珍重された『心地観経』の翻訳事業
に参加、皇帝から訳経僧の称号である「三蔵法師」を下賜される。
玄奘が最も有名であるが、同じ称号を持つ僧侶は複数存在する。
しかし、日本人で中国皇帝に認められた三蔵法師は、霊仙だけであった。
最後は名声を妬まれて毒○されたといい、円仁の『入唐求法巡礼行記』に記録が残されている。
奝然(938~1016)
平安中期の僧侶。東大寺に入って華厳宗・三論宗を学び、また真言宗も学んだ。
972年、友人の義蔵と「愛宕山に一大伽藍を建立し、仏法を興隆せしめ、タヒ後は兜卒天に転生
して弥勒菩薩の弟子となり、衆生を救済しよう」という誓いを立てる。
それから11年後、呉越国を経由して宋に入り、太宗に拝謁。
よくネットでここだけコピペされている「宋の太宗が日本では王朝が途絶えていないことを聞い
て嘆息した」という逸話は、この時のことである。
中国(>>0�ではすでに廃れていた『鄭注孝経』等を献上し、紫衣と旅費・物品を与えられて文殊
菩薩の聖地である五台山(清涼山)に巡礼。
巡礼後に都に戻って太宗に再度拝謁すると法済大師の号を授けられ、完成したばかりの勅版
大蔵経5048巻を始めとした経典を下賜されると、帰国の途に就く。
当初は中天竺までの巡礼をも考えていたらしいが、現実不可能と判断されたらしい。
台州で印度から伝来した「生きた釈迦を写した」という像を模刻するよう工匠に依頼、完成した
像を携えて帰国すると、天皇・貴族に歓迎される中、愛宕山に念願の大伽藍建立を企図した。
しかし、延暦寺の反対により頓挫。
東大寺別当に上るものの計画は果たせず、代って没後に弟子が愛宕山下に新寺を建立した。
五台山(清涼山)を意識した寺の号は、五台山清涼寺。
宋の工匠によって手がけられた本尊と共に現存する同寺は、現在浄土宗に属している。
※「哲学ニュース」あたりに転載された際、コメント欄で「当時中国なんてない」と言われた時の
ために述べておくと、四夷に対する「中国」は『詩経』や『呂氏春秋』にも見られる言葉である。
現実的に不可能、の間違いです。失敬。
高岳親王、栄西、明恵らも中天竺行きを計画して果たせませんでした。
明恵に至っては道中の日数まで計算して実現出来なかった。
もっとも明恵が天竺行きを諦めた年には、ヴィクラマシーラ僧院がイスラーム勢力により破壊されており、
その10年前にはナーランダー僧院も破壊されていたので、この時期には就学ではなく聖跡の巡拝が目
的になっていたとはいえ、行っても居づらかったでしょう。
大バッハは草創期の技術未完成のピアノには全く関心が無かった、と言ってた。
ジルバーマンのピアノを複数台所有し、こうしたほうがいい、ああしたほうがいい
と口うるさく注文をしていたことは当時知らなかったのかな。
教科書に載ってるのってイブン・スィーナーぐらいか?
>>25
こういうスレで真っ先に挙げられるのはラマヌジャンでしょうか。
かつては扁鵲と並び称された名医の耆婆(ジーヴァカ、ジーワカ)も今やマイナー偉人。
マキャベリは有名なのに、『実利論』の著者に仮託されたカウティリヤは無名。
学者では初期の進化論者であるウォレス(ウォレス線に名を残す)、感染防止のための手洗い
を主張したゼンメルヴァイスも功績の割に無名。
ゼンメルヴァイスと同時代人のナイチンゲールは、当時の常識通りに包帯を使いまわしていた
ところ、感染したせいでナイチンゲールが来る前に放置されていた頃より兵士がタヒ亡、統計の
結果、自分に問題があることに気付き、新規の包帯を大量に用意する様かけあっています。
1、原因を数字で突き止める 2、自分に問題があったことを認める 3、物資を全力で確保する
これを全部やったところが、ナイチンゲールのナイチンゲールらしい偉業。
運もありますが、ゼンメルヴァイスの中身がナイチンゲールなら、あんな最後は遂げずに済んだ
やもしれず、その辺りが同じ偉人でも知名度を分けたと言えるかも知れません。
子供向けの伝記小説・漫画にするにしても、救いが無さ過ぎる。
今年受験生だったけど他にもかなりいるぞ
イブンルシュドとかイブンバットゥーダとか
センター試験にもラシードゥッディーン出てたし
とよく言われますが、音楽家・インテリの間ではその間も知られており、楽譜が何度も書写されて
いたということですね。
メンデルスゾーンはバッハの「マタイ受難曲」をコンサートに引っ張り出し、自らの指揮で演奏した
が、そもそも過去の曲をコンサートで演奏するという習慣自体が定着していなかったとか。
牧谿
日本限定の中国の偉人、というややこしい人物。
13世紀後半に活躍した禅僧であり、水墨画で名をなしたが、その作品は線を用いない没骨という
描法を用いた物であった。
中国では画の六法といって踏まえるべき六つの要諦が存在していたが、牧谿の作品は穏当に過
ぎ、かつ筆跡による感情表現に乏しかったことから、六法中最も重視された「気韻生動」に欠ける
ところありとし、中国では重んぜられなかった。
ところが、ちょうど禅文化を輸入していた日本では、牧谿の作品がおおいに好まれた。
元々日本では掛軸と言えば仏画・神画の礼拝用であり、観賞用には屏風や絵巻が用いられてい
たのだが、日常生活の万事に仏道を見出す禅宗の影響で、山水や花鳥、禅宗史上の人物の姿
も掛軸で鑑賞されるようになっていた頃であった。
温雅な作風が、画の六法について知られていなかった日本人の好みに合致したのである。
足利将軍家では、夏珪や梁楷と並んで最上級に位置づけられ、模倣する画家が続出した。
ただの後追いではなく、実力も見識もある一流の画家も牧谿の作品を意識した作品を残した。
漫画『へうげもの』には牧谿の作品や名前が何度か登場しているが、主人公古田織部が俵屋宗達
に対し「いまだ牧谿の模倣」と言っていたのは、その影響の甚大さを前提にしている。
全ての画家があからさまに模していたわけではないが、意識するなというのは「永井と富野を連想
させることなくロボットアニメを作り、かつ名作化せよ」というくらいの難題であった。
現在、作品の多くは日本に伝存しており、日本向けに明から贋作も輸出されたと考えられている。
近代日本で最も上手い日本画家である竹内栖鳳(弟子の上村松園や、同時代の横山大観よりも
マイナー)は画室に牧谿の竹雀図の複製を掛けていたが、雀図を得意としていた彼ですら、牧谿
ほどに上手い雀を描くことは容易ではないと、自ら述べていたという。
www.geocities.jp/jiangnankejp03/book/jnihonzo/nihonzo_3-4.htm
>もともと浙江省の人だったが、幼いころ倭冦にさらわれて十年ほど日本に住んでいた。その間、鏤金の技術を習って、「金銀倭花」を彫刻する技をことごとく身につけた。
>帰国してからはその特技を生かして銅器をつくり、世には「仮倭炉」と呼ばれる。
>潘銅のつくった「倭尺」は一見して他と違わないが、中腹を空にして文房具十数点を内蔵している。またハサミは折り畳み式につくられ、当時は珍しいものとされる。
>その他、「銅合子、途利筒、彝炉、花瓶」などは金銀を象眼し、模様を彫り刻み、倭製の本物に勝るとも劣らないほど精巧を極めているという。
国友一貫斎(1778~1840)
江戸後期の銃工。京都新聞の連載小説で主人公を務めたこともあるので、同紙の読者にとってはマイナーでもないか。
ロシアやイギリスの船が日本近海に出没する緊張した時代、西洋の知識を貪欲に吸収し、オランダ製品を調べた上で
改良した空気銃を製作したこと、硝石の不足を懸念しつつロシアの樺太襲撃に悩んでいた幕府の命を受け、鋼鉄製の
弩を製作したこと、銃の製法を公開した上で規格化したことが、武器に関する主な功績である。
空気銃を製作した際、充填する空気から「空気に重量がある」ことに気付いた最初の日本人ともいう。
彼の空気銃は、最終的には20連発が可能な性能となっていた。
また倍率60倍の反射望遠鏡を製作し、月面等のスケッチを残したことから、小惑星の名前にもなっている。
実際に飛ぶような構造ではなかったが、グライダーのような飛行機械の図面も残していた。
スケッチも含め画力も優れていたらしく、彼の肖像画は、彼が自分が描いた鷹が絵から飛び出したという夢を見たので、
絵師の山縣岐鳳に描いて貰った物である。
同時代人の久米通賢(1780~1841)も、空気銃を含む技術者としての成果を出した有能な人物。
1815年に中国の兵書からホイールロック式の銃を考案し、1839年には雷管式の銃も開発している。
しかし、戦後の平和教育の影響か、この二人が「郷土の偉人」とされる場合でも銃器関係は等閑にされている気がします。
今年の『史学雑誌 -回顧と展望-』でお探し下さい。
ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1731~1810)
イギリスの化学者であり、両親とも父が公爵という名門に生まれた。
家柄相応の莫大な遺産を相続しており、英国有数の資産家であったため、引きこもって好きな
研究に熱中することが出来る環境にあった彼は、生涯に多くの重要な発見をした。
水素やアルゴンの発見、シャルルよりも早いシャルルの法則の発見、オームよりも早いオーム
の法則の発見などである。
しかし、極度の人間嫌いであり、人と会っても会話をしない程であったため、彼の研究成果の多
くはタヒ後に発見されたものである(応答は基本的にジェスチャーや筆談)。
とにかく変わり者であり、以下のような逸話が伝えられている。
(仲良くしている夫婦を見て)「あれは何をしているのか?」
(肉は羊しか食べなかったが)「羊は何本脚があるのか?」
(タヒの前に告解僧を呼ぶことを勧められて)「僧とはなんだ?」
係累のジョン・キャヴェンディッシュ(?~1879)も、極端に風変わりな人物であった。
父がタヒぬと十年の歳月と莫大な遺産の一部を費やして屋敷の地下に一大空間を建設、中心に
は100m四方を超える居室があり、一角にはどういう訳か古い髑髏が飾られていた。
主のジョンは常に仮面をつけており、タヒんだ時にも仮面を外させず、そのまま葬られたという。
地下空間からは五十以上の出入り口が伸びており、出しぬけにどこからか現れると使用人たち
に命を下したり、なまけているのを叱責していた。
また地下室から直接馬車を繰り出させてロンドンへ行ったが、その際従者たちは馬車を置き去り
にして一旦立ち去り、また迎えに来なければならなかった。
主がその間どこで何をしているかは誰も知らず、そもそも窓も閉められているので、主が本当に
馬車の中にいるのかすら分からなかったという。
貴族院議員であったが、議会にも顔を出さなかった(こういう人は結構いたらしいが)。
>>35
何処かにも書いたけど
シモン・ステヴィンさんの影の薄さはやばいっすね
後にこの辺りの実験やった人はみんな有名になってる
パクリなんじゃww
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%B7%E3%A2%E3%B3%E3%BB%E3%B9%E3%86%E3%B4%E3%A3%E3%B3
1585年に著した『十進法(オランダ語版、英語版)(蘭: De Thiende, 仏: La Disme)』で十進数による小数の理論を提唱した。
現在、19.178と表す小数を「19?1①7②8」のように表した。
また、ステヴィンは他にも加算や減算を表す+や-のように様々な記号を導入した。
1586年には古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、天文学者、発明家のアルキメデスの研究を発展させ『吊り合いの原理
(オランダ語版、英語版)(蘭: De beghinselen der weeghconst)』を著した。
これには力のベクトル合成の理論、水圧について述べ、てこの原理の証明、
数珠を用いた思考実験により永久運動の不可能と斜面の法則について証明して力の平行四辺形の法則の発見に至った。
なお、『吊り合いの原理』の付録にはステヴィンが行った実験で、
重さが10倍異なる2つの物体を落下させるとほとんど同時に落下すると言う実験結果が示されている。
同年『水の重さの原理(De Beghinselen des Waterwichts)』を著し、
容器の形に関係なく水面は地球の球面と変わらず水の平衡状態に関して力の法則を導いている。
>>35
ちなみにヘンリー・キャヴェンディッシュさんは
日本国の高校の教科書にけっこう載ってるんじゃないかと思うので
あんまりマイナーな感じはしないっすねぇ
実は本人が作っても計算してもなかったというのは驚きでしたがww
数学者の岡潔(1901~1978)も、天才と変人で著名な人物。
突然道端で数式を書き出す、くらいならよくある行動であるが、滔々と喋り出しもした。
ネクタイは締め付けるので嫌い、着物を着ても帯で締め付けるのは嫌い、革靴も嫌い。
天皇陛下の御前に革靴を履いていかせるのに家族が必タヒになったという、5歳下の本田宗一郎
のような逸話がある。
広島で教鞭をとっていたことがあるが、ある日精神を病んで突発的に強盗(複数の中学生から
所持品や自転車を奪う)を働いて外で寝ていたのを逮捕され、療養生活を送ったことがあった。
数学の問題に熱中しすぎたためともいう。療養させてくれたのは、雪の結晶で有名な一つ上の
友人である中谷宇吉郎。
憂国者であり、神代には健康的であった日本人の精神が大陸文化の影響で衰えてしまったとい
う持論を展開していたが、山崎弁栄(これも変人)の思想に帰依した、熱心な仏教徒でもあった。
しかし、大学へ行く途中にあった石の地蔵に石を投げるのが日課であり、当たればそのまま行き、
外れると帰って休講にしてしまっていたという(真偽不明とも)。
ある講演に呼ばれた際には、呼んだ方が待ち合わせ場所を間違えてしまい、相手が間違えてい
ることには気付いたが「正しい側が間違った側に合わせることはない」とそのまま帰ってしまった。
ドラマ化される程の超メジャーな有名人
山野さんも2ちゃん世界史板の歴史に残ろ奇人変人だよねw (これは称賛してるんだよw
山野さんのキャヴェンディッシュで連想したが、
世界史的にかなり著名な割に日本ではほとんど知られていない人物として
トーマス・キャベンディッシュ(Thomas Cavendish 1560-92)の名が挙げられる。
いったい何をした男か?マゼランとドレークに引き続き、史上3番目に世界周航に成功した
航海者である。日本語版のWikipediaには項目すら出来てないが・・・
Why? せめて銅メダルぐらいまでは注目しようよ日本人。
>>42
>Why? せめて銅メダルぐらいまでは注目しようよ日本人。
三番目どころか、二番目に高い自国の山(正解は北岳)すら知られていないでしょうね。
一番と二番より、二番と三番以下の方が近いと言います。
しかし、ドレイクが二番目というのは、本人の功績もあって有名ですね。
キャヴェンディッシュでは、マーガレット・キャヴェンディッシュ(1623?~1673)が、英国では
初めて出版を意図して文章を書いた人だとか。これも偉大かつマイナーでしょう。
女の身で目立つことをして批判されたというのは、時代は違っても世界各地でありえた話。
ドレイクと同時代に活躍したイングランドの探険家がジョン・ディヴィス(1550頃~1605)。
世界を股にかけた末に、なんと日本人との戦闘でタヒんでいる。
鹿児島のベルナルド(?~1557)
日本名不明。フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けて、彼の旅に同行した。
ザビエルが日本を離れても同行し、ザビエルのタヒ後にゴアを経てリスボンに入り、日本人で
最初にヨーロッパに到達、ローマ教皇にも謁見したが、コインブラでタヒ去した。
ネットで検索しても、天正少年使節を「最初にヨーロッパへ行った日本人」と勘違いしている
人がかなり多い。
航海で思い出したので。
ロドリゴ・デ・トリアナ
コロンブスの「アジア航路」探索の航海で使用された三隻の船の内、ピンタ号に乗っていた人物。
初めて陸地を見つけた人物に褒賞を出すと約束していたコロンブスは、ピンタ号の合図の大砲の音
により、「あと三日で陸地が見つからなければ引き返す」という約束は守らなくてもよいことを悟った。
コロンブスが「あと3日」と約束したのは10月10日、発見は11日の午後10時、確認は12日の午前2時。
まさにぎりぎりの所であり、どの道ヨーロッパ人により「新大陸」は「発見」されたであろうが、コロンブ
スが失敗していれば、細かいずれが大きな流れを変えていた可能性もあろう。
アメリカの人工衛星ディスカバーの初名はトリアナであり、同名の競走馬も存在する。
コロンブスたちは「発見」の前に、人工物にしか見えない杖が流れているのを見つけていた。
それで士気が上がったようであるが、まさか流した当人もそれで地元が悲惨な目に遭うとは思うまい。
永久にマイナー扱いになるんだろうなー
生物学者なら
岩崎卓爾
30歳で気象台職員として石垣島に赴任、69歳でタヒぬまで石垣島の自然を研究
イワサキクサゼミなどその名がつけられた生物多数
堀川安市
32歳で台湾へ渡り自然を研究するも
63歳で終戦を迎え財産を失い研究成果も台湾に残したままいち引揚者に
しかしそこから96歳で亡くなるまで長崎の貝類を研究
藤原実方
平安時代中期の貴族。
百人一首の「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」を読んだことで知られる。
あるとき宮中でほかの貴族と口論のすえ、彼の冠を放り投げる。
それを帝に見とがめられ、陸奥の国に左遷されてしまった。
タヒ後にスズメに生まれ変わり、出世できなかったことを恨んで宮中の米を食い荒らしたという。
なんてみみっちい…
天神さんくらい、壮大な祟りをなせないものか
>>51
恋の熱さを灸に喩えたのが面白い歌ですね。
百人一首には上手い歌なのに入っていないという意見もありますが、文屋康秀といい、春道列樹といい、
上手さ(定家基準ということもある)以上に「外せない歌」を入れています。
『源平盛衰記』にある話ですが、タヒ因は道祖神を侮ったことへの神罰というものでした。
出典が同じ話で、物部守屋はタヒ後啄木鳥となって寺をつついたとされています。
当時の鳥の性質の起源に関する伝承を取り込んだものでしょう。
実在する入内雀(ニュウナイスズメ)は、秋になると東北地方から南下するそうです。
なお、喧嘩を売ったとされるのは日記『権記』の記主であり、三蹟でも知られる藤原行成。
父の藤原義孝も百人一首に歌が収録されており(因縁のある右近の歌もある)、日本初の往生伝である
『日本往生極楽記』に往生人として記載される、知る人ぞ知る人物でした。
義孝は兄の挙孝と同日に病タヒして両親を嘆かせていますが、行成は藤原道長と同日にタヒんだせいでほ
とんど注目されたなかったという話があります。
慶滋保胤の『日本往生極楽記』は源信の『往生要集』、源為憲の『法華経賦(現存せず)』と共に宋の有志
宛てに送られたものの、流布はしなかった様ですね。
保胤の父の賀茂忠行は陰陽師で、弟子が安倍晴明。
本レス中、知名度が高いのは晴明と源信くらいなのが残念なことです。
アッラー・ヴェルディハーン
サファヴィー朝のシャー・アッバースの忠実なるグラームの将軍
グラームとはサファヴィ版イエニチェリみたいなもの
アッバースの黄金期を支えた将軍でイスファハーンに彼の建設した橋が残る
この橋はアッラー・ヴェルディハーン橋もしくはスィー・オ・セ橋と呼ばれ
世界で最も美しい橋として知られている
釈迦の妻子
まずヤショーダラーとラーフラ、この二人は有名。
マノーダラー:詳細不明。タヒ別か別居かは不明であるが、釈迦出家時には城内にいなかったらしい。
ゴーパー:美貌で知られた釈迦族の娘であるが、釈迦が成道後に帰還した頃には亡くなっていた。
ウパマナ:釈迦の息子
スナカッタ:釈迦の息子とする説もあるが、釈迦の教えに反逆した人物として知られている。
以上は出典により異なる。とりわけ妻については三人とする複数の文献があるが、名前は一致しないものが多い。
祖父の代に現在のアフガニスタンあたりに移住し、更に本人が中国に移住して鳩摩羅什と問答したという仏駄跋
陀羅は、釈迦の父の子孫であるというが、釈迦の子孫とはされていない。
事実とすれば釈迦の異母弟の子孫であろう。少なくともナンダという人物がおり、本人も妻も美貌であったという。
政治家では緒方竹虎とか
>>58
昔の日本では文天祥は常識的知識だった
文天祥に習って「正気の歌」を自作した人も多い
第二次大戦後になってから文天祥が日本人の常識の範囲から外れた
太平記と同じ
昭和の軍人達が「正気の歌」を信奉してたのがまずかったのだろうな
>>60
>文天祥に習って「正気の歌」を自作した人も多い
藤田東湖の「和文天祥正気歌」は歴史上の「英霊」を謳い上げ、タヒしても護国の鬼となることを述べたもの。
文部省の『国体の本義』にも引用されたもので、靖国神社の「英霊」と典拠と考えられています。
国のために殉じたタヒ者を顕彰することは、儒教の影響下に成立したものと考えるべきでしょう。
謝道清(1210~1283)
宋の理宗の皇后。生まれた時は色が黒く片目が見えなかったが、後宮に入ってから病にかかり、本復すると
同時に色は白くなり、目も見えるようになったという。
賢明な人物で、皇后に立てられてからも皇妃たちに嫉妬することはなかった。
ちょうどモンゴルの脅威が迫る頃であり、理宗は遷都も考えていたが、皇后に諌められて取りやめている。
理宗が60で崩御すると皇太后に、跡を継いだ甥の度宗が35で過度の飲酒により崩御すると太皇太后となり、
恭帝が5歳に過ぎなかった為、摂政を務めた。
その直後、「百雁来たりて宋滅ぶ」という予言の流行していた宋に元将伯顔(バヤン)が襲来。
つまり、百雁=伯顔が襲来したのである。迎撃した宋軍は大敗した。
かくして、宋の運命は謝氏に委ねられる。彼女は三日間江海に祈り、いっそ栄華全てを押し流して空虚にして
欲しいと望んだが、波涛が変わるはずもなく、降伏を決意せざるをえなかった。
国家としての体面に拘る文天祥(謝氏が降伏交渉のため右丞相に任命)の要求を、バヤンは拒絶。
他の宋の臣はただ要求を持ち帰るばかりであった。
「臣妾謝道清」。宋朝最後の太皇太后にして摂政が行った、屈辱的な降伏文書への署名の名義である。
かつての皇帝、皇太后、太皇太后は大都に送られることになった。謝氏は心労で出発が少し遅れたという。
謁見後、元朝から寿眷郡夫人に封ぜられ、74歳で波乱に満ちた生涯を終えた。
イヴァン3世の妻 最後のビザンツ皇帝の姪
フビライの子孫としては最後の元の大ハーンであった、トグス・テムル(天元帝)の次男。
父と兄である天保奴がアリクブケ系のイェスデルに○され、地保奴が洪武帝によって琉球に流された
ことで、フビライ系の皇統は断絶した。
ここでいう「琉球(明代に定着した表記)」は台湾とする説もあるが、沖縄だとすれば沖縄県内でフビラ
イの子孫が続いているのかもしれないという話になる。
なお、大琉球が現在の沖縄、小琉球が現在の台湾を指した言葉である。
歴史上始めて統一インドを事実上実現させた
ジェームズ・プリンセプさんですかねぇ
彼とアショーカ王との関係もおもしろいところです
ジェームズ・プリンセプ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%B8%E3%A7%E3%BC%E3%A0%E3%BA%E3%BB%E3%97%E3%AA%E3%B3%E3%BB%E3%97
ラージャラージャ1世
チョーラ朝の王で南インドを征服し、スリランカへも遠征した
チョーラ朝の偉大な王として知られ、その栄光は戦利品で作られたタンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院に残る
要離
呉王の臣。主が王子慶忌を○めたいが手段が無いと悩んでいた際、刺客に立候補した。
呉王は「かつてわしが六頭立ての馬車で追ったが追いつけず、矢をあるだけ射たが当たらなかった。
お前は剣を振るおうにも持ち上げられず、車に乗ろうにも軾を登りきれぬではないか。なんで刺客が
務まろうぞ。」と言ったが、要離は退かなかった。
「士は勇気のないことを憂うだけで御座います。なんで力の及ばぬことを憂いましょうや。王が誠意を
以てお膳立てをして下さるのであれば、臣は達成して御覧にいれましょう。」
そこで翌朝、要離の要求通りに彼を追放し、妻子を火刑にして灰を揚げた。
要離は衛に亡命していた慶忌の所に駆け込み、信用を得てから「呉王の無道は甚だしいものです。
帰国して王位を奪われるべきでしょう。」と進言、信用した慶忌はこれを受け入れる。
そして帰国途中、要離は大河を渡る船上でやおら剣を抜き、慶忌を刺したのであった。
慶忌は全てを悟ると要離をつかみ、水中に投げ入れて言った。
「汝は天下の国士である。生かして名を成さしめようではないか。」
帰国した要離を呉王は歓迎して国を分け与えようと言ったが、要離はタヒを望んだ。
「妻子を○して不仁。形式とはいえ仕えた主を○して不義。○した相手に救われて恥をかいて、この
三つを得た身で、生きてはおられません。」
遂に自刃して果てた。
以上は『呂氏春秋』によるが、『呉越春秋』によれば、要離を刺客に推挙したのは伍子胥であった。
かつて斉王の使者として呉に赴いた椒丘欣という者がいて、途中で水神を倒して驕り、呉の人々を
あなどる振る舞いがあったが、要離は「馬を失い、御者を失い、片目を失って勇を誇るのか。」と言い、
怒った椒丘欣が報復に赴いたが抵抗もせず「最初に恥をかかされた時に報復せず、堂に入る前に入
ることを伝えず、相手が剣を抜いていないのに自分だけ抜いて勝ち誇った」という三つの不肖を述べ
たので、椒丘欣は「天下の国士」であると讃嘆したという。
>>71
中居屋重兵衛さん
たぶん日本で始めて天井式の水族館をつくった
>>94
めっちゃ今さらですが
訂正ありがとうございました
こういうの調べるの難しいので
ネットのいいところですねぇ
>>148
勿論最後は書籍で確認しないといけませんが、便利になりましたね。
>>150
竹内先生は『寧楽遺文』・『平安遺文』・『鎌倉遺文』で日本史を専攻した人間は(近世・近代史専攻でも学生時代の講義で)
嫌でも耳にする偉人ですね。
長男だけ有名でないのは、柳田國男の兄弟のようなものか。
その長男も立派な人であったという話ですが、有名でないのを気にすることもあった様です。
早世した兄弟以外は、長男が医師・町長、その下が万葉集研究(解釈が自由闊達過ぎたとも言われる)で著名な国文学者、
その下が柳田國男、その下が海軍大佐で民族学者で言語学者、その下が「最後の土佐派絵師」。
長男が「ただの医師で町長」扱いされる弟たちが凄すぎた。
実際は末弟の映丘以後も土佐派で描いた人はいますが、「 」内は映丘の自認したところです。
>>151
「希望」からの撤収ですか。因縁めいていますね。
>キモい名前に強制改名って
王莽、武則天、雍正帝がやっていますね。
いずれも実力者には違いないのですが、生まれながらの皇帝でない個性派は、改名して刷新すること
に拘ってしまうものなのでしょうか。
>>91
の人は、検索するとアニメに出て声もついていましたね。
ゼウクシス
小アジアに生まれ、古代ギリシャ文化圏で活躍した画家。
師のアポロドロスは陰影の技術で知られ、ゼウクシスも本物そっくりの絵を得意としたとされる。
マケドニア王アルケラオス1世は不正な手段で王位に就いたことをプラトンに批判された人物であ
ったが、内政を整備し、都をアイガイよりぺラに移し、多くの文化人を王都に招聘するなど、業績は
名君と言いうる物であった。
ぺラの新宮殿の壁画を描いて名物としたのが、当時高名であった画家のゼウクシスである。
パラシオスもまた高名な画家であったため、後世に二人の画力争いの逸話を生んだ。
ゼウクシスが自分の作品を持参したところ、葡萄の絵であったが、小鳥が下りてきて啄ばもうとした
というくらい迫真の出来であった。
ゼウクシスは勝ち誇り、パラシオスに対し、早く絵に掛けられた布を取るように迫った。
しかし、その布は描かれたものであったという。目を欺かれたゼウクシスの負けであった。
不面目な逸話ではあるが、それでもルネサンス期にはアレクサンドロス大王時代の画家であるニキ
アスと共に讃えられている。
南部アフリカの一部族であったズールー族を南アフリカの大半の部分を支配する一大国家へと導いた指導者である。彼の軍事力と戦略、敵を殲滅し生存者を部族に同化させていく力量は、ズールー族の中でも抜きん出たものがあった
薔薇戦争終結させたのにほとんど教科書触れてなくてかなc
業績を超えてメジャーな存在になってると思うが
ねーちゃん達はあれだけ有名なのに
エドワード6世は教科書乗ってるんや
百年戦争開始させた人物やろ??
ごめん勘違いしとった
ヘンリ8世の息子か
どっちにしても教科書にはでかでか乗っとるわ
古代エジプト第5王朝の宰相。後世賢人として知られたためか、彼と同一人物と思われる名前を
冠した教訓集が、第12王朝や第18王朝でも編纂されている。
わが子に与える教訓という形をとっており、「無教養で卑怯な人と論争して怒ったりせず、彼自身
に任せておけば、彼は自分で自分を追い詰めるだろう(取意)」という教訓は、現代のネット上で
の論争にも通ずるものがある(『戦国策』にも大意として同じような文言があるが)。
勿論、現実における論争にも已然として言いうることである。
他の教訓もいちいち現代に通じるものがあり、人間の生活の変わらなさを実感させてくれる。
アメリカの探検家。第二次世界大戦中に中米で白の都(シウダー・ブランカ)と呼ばれる幻の遺跡を発見したと主張。
遺跡は本人いわく「最盛期には数千人が生活していたであろう」規模の物であった。
遺跡ではかつて奇妙な形をした猿の神が信仰されており、壁にはその姿が彫られ、人身供犠もあったという。
第二次大戦後、場所を明らかにする前に急タヒした。
存在となってしまいましたね。逸話が豊富で面白いのですが。
南海龍公というのは、徳川頼宣のことでしょうか。時代小説では存在感のある人物です。
何かしらたくらんでいたり、仮想歴史系なら幕府相手に挙兵していたりしますが、時代小説自体が今
は昔ほど世間の人気がないので、こちらもマイナーになってしまうのでしょうね。
文春文庫
中野京子と読み解く
名画の謎 陰謀の歴史篇
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163769202
この本、結構マイナーな人物が画題の絵を取り上げてる
耶律迭刺
契丹小字の考案者。遼の耶律阿保機の弟に当たる。並外れた天才で有名だった。
ある時、ウイグルの使者がやって来た。宮中ではあいにくウイグル語を理解できる者が誰もいなかった。耶律阿保機の皇后は迭刺に白羽の矢を立てた。
迭刺は使者からウイグル語を学んだ。恐ろしいことに、わずか20日でウイグル語を完全にマスターしてしまった。発音だけじゃない文法も。こんな生徒がいたら英会話塾は商売上がったりである。
迭刺の更に恐ろしいところは、マスターしたついでに新しい契丹文字を作ればどうかと思いついたことだ。阿保機考案の契丹大字があったけど、いまいち不便だった。ウイグル文字をヒントに片手間で考案したのが契丹小字となった。
ただ、迭刺には欠点があった。この男、謀反大好き人間だったのだ。4回謀反を起こしているが、どういうわけかその度に「迭刺だから仕方ないね」と許されている。
ジョン・スミス
イギリス人のハンターでインディアンの偉大な遺跡を発見した。
と思ったらナマモノでしたか
道祖王(ふなどおう)
奈良時代後期の皇族
聖武上皇の遺勅により、孝謙女帝の皇太子にたてられる。
だが「夜遊びが過ぎる」「国家機密を漏らした」
あげく「聖武帝の喪中に、お仕えの小姓とホモ行為をした」ことなどを理由に廃嫡される
同年、宮中の独裁者だった藤原仲麻呂の排除を画策したクーデター計画が発覚。
道祖王はクーデターの首謀者だった橘奈良麻呂とともに捕えられ、「まどひ」(惑い者)なる名に改名された挙句
棒打ち拷問で打ち○されてしまった。
ホモで廃太子…
不破内親王
奈良時代後期の皇族
聖武天皇の皇女、孝謙女帝とは異母姉妹にあたる。
重祚した孝謙=称徳女帝を「女帝の髪をドクロの中に入れる」というおぞましい方法で呪った咎で
「厨真人厨女」(台所の飯炊き女)なる恥ずかしい名に改名されられたあげく追放
ネット上で相手を「厨房」と呼んで罵る風習は、まさにここに始まった…わけがない。
数年後に許され都に復すが、その10年後に息子が謀反をたくらんだのに連座してまた追放される。
以後の消息は不明。
なお不破内親王の同母姉である井上内親王は、伊勢の斎宮を20年間務めたのちに皇族の白壁王と結婚。
45歳という当時としては超高齢出産で他戸親王を生む。夫の白壁王は天智天皇系、井上内親王は天武天皇系だったわけなので、
他戸親王は壬申の乱以来分裂していた両系統を融合させる期待の星であったわけだ。
ところが白壁王が奈良時代最後の天皇・光仁天皇として即位したのち、井上内親王は天皇を呪ったかどで
他戸親王とともに捕えられ、ほどなく母子ともにタヒ去。
これは山部親王(のちの桓武天皇)の擁立をたくらんだ藤原氏の陰謀らしい。
桓武天皇が弟・早良親王の怨霊に苦しめられた故事は有名だが、同時に井上内親王母子の怨霊にも苦しめられていたらしい。
こうして、怨霊に万全の対策をほどこした平安京へと都は移る。
現在、井上内親王は奈良県五條市の御霊神社で、早良親王とともに祀られている。
彼女が高齢出産したので、高齢出産の守り神だとか
諸星大二郎の漫画で武帝の臣として出ていた
欒大のウィキは日本版無
中文版より英語版のが詳しいな
でも英文から訳したら、登場人物や地名の漢字表記が解らん
ああ、武帝の時代の。最初に『漢書』を読んだ時には、粛清と詐欺だらけの時代で驚いたものです。
丞相だけでも獄タヒが三人、処刑が一人。失敗して責任を問われてタヒんだ者、謀反人は不可勝計。
よく天下統一後の劉邦の時代が酷いと言われますが、意味があまりなさそうでより酷いですよ。
対強弩戦が有名ですが、朝鮮も含め、周辺国がしょっちゅう背いています。徹底的に人望がない。
欒大
前漢の武帝の元鼎四年(紀元前113年)の夏に、楽通侯・上将軍に任ぜられた方士。
翌年になって宝鼎が土中から得られ、水中から馬が出現するという奇瑞が見られた。
これに応じて宝鼎の歌、天馬の歌が作られている(現代の歌以上に政治的・宗教的意味が重い)。
武帝に重用されたらしいが、翌年九月には腰斬の刑に処せられている。
武帝紀にあるのは、これだけですね。
『漢書』郊祀志にもあるようですが、今手元にありません。
以下は『史記』孝武帝本紀参照。
欒大はかつて方術を学び、膠東王の尚方(古代に重要であった音楽を司る官)となった。
膠東王が代替わりすると、子供のなかった先王の正妻は妾の子である現王とそりが合わず、
武帝に取り入るために弟を介して欒大を推薦した。
これより先武帝は方術に凝って李少君なる博学の者を、彼が病タヒすると少翁なる者を重用し
ていたが、詐欺が発覚して処刑しており、後悔していたところであったので、同門の欒大が来
たことを喜んだ。
背が高く美丈夫で、話すことは謀計に富み、大言して疑わぬ人物であったという。
彼は師匠が「丹砂を黄金と化し、黄河の流れをせき止め、不タヒの薬を手に入れ、仙人を降ろ
す」法を知っていたと称し、方術で双六の駒を戦わせ、四個の金印を生み出して信用を得た。
武帝は金印を帯びさせ、五利・天士・地士・大通の四つの将軍号を与えている。
屋敷は広大、家来は仙人、武帝の公主は黄金万斤を持参して降嫁し、車馬珍宝は満ち、貴紳
は争って欒大を宴に招いた。
常に自邸で祭を行い、神はなかなか降りて来なかったが、百鬼はよく使役したという。
後に「師匠を探しに行く」と行って会いもせず、会ったと出鱈目を言ったことが発覚して誅された。
>強弩
匈奴
>家来は仙人
家来は千人
失敬。水中から馬が出現するという信仰は『河童駒引考』参照。
西遊記で竜が三蔵の馬になったり、千一夜物語で海から馬が出て来たりしていますね。
『平家物語』の宇治川の先陣争いで有名な生喰は竜の、磨墨は海驢の子であったと言います。
諸星マンガで欒大がイケメンに描かれていたのは史実だったのか
巫蠱の獄事件の江充と絡ませていたけど時代的には合わないとか
江充さんも漫画だと獄吏上がりだったけど実際のところどうなんだろうねー
漫画では武帝のタヒんだ寵妃を呼び出して信頼を得たという演出にしていた
豊臣秀吉も 果心居士に幻術で過去の女性を呼び出されて警戒したって司馬遼太郎の小説にあったなー
じゃあ東洋西洋問わず幻術使いお願いします
なぜかまだWikipediaに記載がなかったので。
李淳風(602~670)
唐代の人。出生地は岐州。本貫地は太原。父は隋に仕えていたが地位は低く収入も見合わなかったため、
官を捨てて道士となり、自ら黄冠子と号して『老子』に注を加えるなど文才があったという。
淳風も幼い頃から学才に富み、諸書を博捜して倦むことがなく、特に天文・暦算・陰陽の学に精通していた。
貞観の初めに当時の天体観測が北魏の遺風で古くなっていることを奏上し、太宗の命を受けて貞観七年に
銅製で三層構造になった天体観測機「渾天儀」を完成させる。
『晋書』と五代史の天文・律暦・五行志は、淳風が執筆したものである。
また、彗星の尾が、太陽とは反対方向に伸びることを発見した人物でもある。
さて、古代より天文観測と切り離せなかったのが占星術である。当時の中国も例外ではなかった。
太宗の世に「唐三世の後、女主武王が代わって天下をとる」という予言があり、太宗も気にしていた。
後世に中国七大予言書の一つ『蔵頭詩』の作者とされた淳風とのやり取りは、以下の通り。
淳風「すでにその兆しは御座います。その人は陛下の宮中におり、今から三十年以内には天下をとり、唐朝
の子孫を○害してしまいましょう。」
太宗「疑わしい者を、ことごとく○してしまえばどうであろうか。」
淳風「天命は避けがたい者で、王者はタヒなず、ただ無辜の者を○めるばかりになりましょう。また更に三十年
が経てばその者は老い、老いては慈悲を知る様になります。たとえ易姓に至るとも陛下の子孫を甚だしく損な
うことは御座いますまいが、もし○そうとなされば、怨んで厳しくなり、陛下の子孫を残しますまい。」
かくして、太宗は天下をとるという女主を○そうとする計画を止めた。
武則天が周の皇帝として即位するのは、淳風のタヒから二十一年後のことである。
>>106
傅安
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/eclipse/chinese_astronomy.htm
紀元前 52 年に、最初の赤道を導入したのは 耿壽昌である。
その後の後漢 (AD 23 年 – AD 220 年) の時代に、
AD 84 年までに、 天文学者である 傅安 (Fu An) さん と 賈逵 (Jia Kui) は黄道の輪を追加した。
傅安さんの中の人は、中国で黄道ベースで天文観測した最初の中の人らしい。
民間人だったそうなので、板垣さん的な中国人だったのでしょうか
ファンになりそうです、、、
>太宗の世に「唐三世の後、女主武王が代わって天下をとる」という予言があり、太宗も気にしていた。
あ、それ、ほんとの話だったんだ。
中国の大ヒット時代劇「武則天」(武媚娘伝奇)の全96話は、いつも、その予言の話で長孫無忌たちが大騒ぎして、モメにモメ続けるというストーリーだったよ。
李淳風の名は、あれを見れば嫌でも記憶に残る(笑)。
藤原元子 (ふじわらのげんし、もとこ)
平安時代中期の貴族、藤原顕光の長女
当時は摂関政治、外戚政治の天下。
父・顕光も自身の出世を狙い、娘である元子を時の一条帝の女御として入内させた。
一条帝の中宮と言えば定子だが、彼女は兄の伊周が嫉妬に狂って花山法皇を射た事件により没落している
藤原道長の娘である彰子はまだ幼い。
だから元子がいちばんの有望株だ。
父親の期待に応えて妊娠の兆候が表れ、やがて腹も膨れだす。
だが、産み月になっても産気付かない…
そこでお寺で加持祈祷した所がめでたく産気付いたが…
腹から出て来たのはなぜか大量の水…
流産ですらない。
これは日本の記録上、最初の想像妊娠らしい。
以降、元子は懐妊することなく、やがて道長の娘らは続々と皇子を生む
こうして顕光は完全に出世コースを外れましたとさ
彼は道長にバ○にされながらも職務をこなし、ミスをしてはまた馬○にされ、それでも78歳まで生きた。
一方の元子は宮中を出て浮気したり、顕光に勘当されたりそれでも子供を授かったりといろいろあったらしいが、
最期は不明。
段正淳、段正厳
後大理の初代皇帝と2代皇帝。
歴史上の人物としてはマイナーだが中国では武侠小説の主人公として超有名。
この小説の大理国皇帝はレーザービームを発射できる。
クラーラ・ペタッチ Clara Petacci (1912-1945)
イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニの愛人。
ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンの知名度とは比較にならず
ムッソリーニと共に処刑され逆さづりの目にあったことだけで
歴史に名を残しているかわいそうな女性。
リエンツィ
中世ローマの護民官
横暴を極めるローマ貴族と対決、勝利し一時は市民のための政治を勝ち取る。
しかし、その後誇大妄想じみた言動を繰り返し、
次第に支持を失い、
最期は恐怖政治に走り、暴徒化したローマ市民に惨○された。
よく似た名前のサッカー選手(1988~)とは別人。
緻密な建物の描写と、高い空を組み合わせた風景画を専門としていた。
オランダのダ・ヴィンチとも呼ばれるが、これは画家にして発明家でもあったことに由来する。
当時のアムステルダムでは火災が頻発しており(現存する17世紀の建築は二棟のみ)、ヘイデン
により発明された「消防ホースつき消防車」はおおいに珍重され、彼は消防隊長に任命された。
ガラスのランタンに入れられたオイルランプの街灯も彼の発明であり、1668年にアムステルダムの
街を照らすと、19世紀半ばまで使用された(イギリスで1792年にガス灯が発明され、1797年にイギ
リスのマンチェスターで街灯として使用され、次第に欧州各地に広まっていった)。
先月ようやくWikipediaに記事が出来たので、
ソルカン・シラの名を挙げておこうかな
モンゴルの零細な部族に生まれた平凡な男だが、この人物がある日
親切心で行った行為が、13世紀以降のユーラシア大陸の歴史を
根本から書き替えることになってしまった。
まあ、余計なことをしやがってという意見も当然あるだろうが・・・
なるほど、追われるテムジンをかくまってやったのか。
後の西夏に金、宋に高麗
あるいは西のオアシス国家にロシアから見ればまさに
「余計な事しやがって!」だな。
そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、誤解から雇人を○した。そして事の露見を恐れて呂伯奢も○してしまった。
その時に曹操と同行していた陳宮は彼のサイコパスぶりに呆れて、寝入った曹操を○そうとするが、なぜか思いとどまる。
後で思えば「ここで○しておけば…」だな
>そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、誤解から雇人を○した。
>そして事の露見を恐れて呂伯奢も○してしまった。
裴松之は『魏書』・『世語』・『雑記』を引用しており、後二者はあまり信用出来ないとしています。
『魏書』は息子と食客が曹操の馬と持ち物を奪おうとしたので数人を○害して去ったとしており、
『世語』では五人の息子たちは礼儀が備わっていたが曹操は自分を○すつもりかと疑って八人
を○害して去ったといい、『雑記』では食器を用意する音で自分を○すつもりかと疑って○害し
「自分が他人を裏切ろうとも、他人に自分を裏切らせまい」と言ったとなっています。
『魏書』と『世語』によると、呂伯奢は不在であり、○されておりません。
食客もいてそれなりの家でしょうに、馬と持ち物を奪おうとするのも妙な話です。
何かトラブルがあったのは事実でしょうが、いずれにせよ○害人数は数人ないしは八人とされ、
皆○しには至っておりません。曹操の供は『魏書』では数騎であったとされています。
呂家内で曹操の処遇をめぐって意見が分かれ、通報を試みた側が○害されたということかもし
れませんね。○害後も通報されていないなら、生き残った呂家の人間も了承済みでしょう。
『魏史』の同じ箇所に、曹操が一旦拘留されたが役人の判断で釈放されたという記述もあります。
呂家に限らず、当時の情勢について意見は色々あったと思われます。
ただ、『三国志演義』にあるような「豚を○そうとしていたのを誤解して」は嘘でしょう。
「旅客が宿の人間の発言を聞いて自分を害するのだと誤解する話」は世界的に分布しているも
ので、ナバラ王妃マルグリット・ド・ナヴァルが編纂した『エプタメロン』にもあります。
同時代に最古の刊本が出た『三国志演義』も、民話から取り入れたものでしょう。
両者では豚ですが、日本の民話では「はんごろし(おはぎ)と手打ち(蕎麦ないしは饂飩)」のどち
らにしようかと相談するのを旅客が聞いて逃げ出すということになっています。
張治中
超マイナーというほどではないが、日中戦争を引き起こした人物にしては
あまり名前が知られていない。放火犯としても史上屈指の人物である。
シャルル・エミール・レイノー(1844~1918年)
1892年に世界で初めてアニメーション作品を創った人物。
すべてのアニメの原点である記念すべき作品『哀れなピエ○』は
YouTubeで目にすることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=426mqlB-kAY
>>126
テアトル・オプティーク上映できるんすねぇ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/Vase_animation.svg/1280px-Vase_animation.svg.png
これは上映する機能はなさそうです
>>128
こっちのがわかりやすかった、、、
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Vase_animation.gif
見つかった場所をかんちがいしてて探すのに手間取りました
>>126
ぱらぱらマンガの特許取得が開発から
結構遅くてびっくりしましたww
意外と技術的要素がありそうっすねぇ
ルネラルーなど、のちのフランスアニメと、動きや音楽の使い方に共通性がある
アメリカのクネクネした動き、日本のメリハリのある動き
同国人は無意識に継承してるんだろうか
漢の成帝の時代の人物。9歳の少女であった時、大水が来ると聞いて官署の脇の小門を勝手にくぐりぬけ、
未央宮の鉤盾まで入り込んでしまい、そこで初めて発見された。
これは外戚を利用した王莽の簒奪の予兆であると解釈されたこともあり、史書に記録された。
征韓論争、自由民権運動で教科書に必ず載る上にお札にもなったなので
超マイナーとは言い難いが彼が戊辰の役で会津若松を攻略した官軍の参謀(司令官)だった
ことはあまり知られていない
各地を転戦した維新最強の軍人さんだと思うのですが、、、
板垣が口にした台詞には諸説あり、別人の言葉だという説もありますね。
俺はタヒんだツァーリだ!!って言ってたらいつのまにか
民衆が集まり愛されるようになって政府や教会にも厚遇されるようになったみたいな人か
ジャック・クール(1395~1456)
百年戦争時代のフランスに現れた国の財政を預かる大金持ち
Wikipedia先生によると
「ヨーロッパにおいて資本主義が確立する4世紀以上も前の、
最初の資本家としてその名が知られる」
そんな超お大尽なら名前は覚えておいた方がいいですな。
薩長に軍組織を占領されてなければこの人がトップになってただろうな
ペドロ・デ・オルテガ
スペイン人探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの部下。
次々と島を「発見」した上司が、気前よく命名権をくれた部下の中に混じっており、彼は自分が
命名してもよいと言われた島に故郷セビリアの地名をつけた。
「ガダルカナル」と。
なお、この島で砂金が採れたことで、ソロモン王にちなんで諸島はソロモン諸島と命名された。
面積は東京都の倍以上あり、案外大きな島である。
国家としてのソロモン諸島もイスラエル、マケドニア、ハイチ、ハワイ(僅差)よりも広い。
新世界の発見者ブジャルネ
グリーンランドに渡った父とエリクを追ってグリーランドを目指すも
濃霧に阻まれ北風に流され漂流することになる。
幾日も漂流したあと陸地に漂着するが、
そこは噂に聞くグリーンランド特有の氷雪の高山はなく森に囲まれていたとのこと。
ミナミに下り過ぎたと思ったので二日北上したがそこもグリーンランドではなく
さらに三日北上したがやっぱり目的地と違ってたらしい。
その後に西風に送られてグリーンランドに辿り着く。
グリーンランドに辿り着いたブジャルネの話を聞いた赤いエリクの息子
ライフ・エリクソンは興味を惹かれ、ブジャルネの船を買い求め
聞いた話に従い陸地に辿りつき、そこをヴィンランドと名づけた、、、
>>147
ウンベルト・ノビレ
初めて北極点に到達した立役者
彼の能力なくして北極点に到達できたとは思えないだけに
マイナーかと思いますね
ジャンヌ・ダルクと並んで、国を救ったが国に裏切られて身を滅ぼした
かわいそうな被害者の例として挙げられていた。
実際はかなり脂ぎった野心家のような気もするんだが・・・
竹内理三 東大名誉教授
竹内理三の二男 東大名誉教授
竹内理三の三男 東大名誉教授
二代三人東大名誉教授
竹内理三って名前なのに東大理三でなく東大文三を受けたんだねw
山野さんのガダルカナルで思い出したが・・・
18世紀末のフランス海軍軍人ジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデック。
南太平洋の各地を巡る航海の途上で没したこの人物は、『日本沈没』に登場した
深海潜水艇や、某アニメでネモ船長が派手なドンパチを繰り広げた海溝にその
名前を残している。
かの海軍大佐が指揮を取っていたフリゲートの艦名がEspérance号だったのだが、
後世、ガダルカナル島から日本軍の生残兵が撤収した場所、エスペランス岬は
希望を意味するこのフランスの艦名から名付けられたらしい。
ヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌス
16世紀のオランダのトンデモ論者。アムステルダムの医師。
1580年、古代エジプトの祭司が使用していた宗教言語はオランダ語だという珍説を提唱した。
ただし、この前後の時代の古代エジプトに関する議論は現代から見ればどこも奇矯なものが多い
ので、近代の邪馬台国エジプト説ほどネタにすべきものではないかもしれない。
かのニュートンは、ギザの三大ピラミッドを紀元前9世紀の物としている。
東アジアでも、現代でこそ紀元前7~5世紀頃とされている釈迦の誕生年は、かつては紀元前11世
紀とされていた(周の昭王の20年、24年、26年など)。
※モーリス・ポープ『古代文字の世界』ではベカヌスの発表を1580年のこととするが、ウンベルト・エ
ーコ『もうすぐ絶滅するという神の書物について』では、没年を1572年とする。
どちらが間違えたものか、あるいはタヒ後の1580年になって発表されたものかは不明。
※昭王の在位した時代・期間については諸説あり、『竹書紀年』は在位期間を19年とする。
チャールズ・ピアッツィ・スミス
この人の息子でスコットランドの王立天文台長をつとめた
ピラミッド・インチの発見者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%A6%E3%A3%E3%AA%E3%A2%E3%A0%E3%BB%E3%98%E3%B3%E3%AA%E3%BC%E3%BB%E3%B9%E3%9F%E3%B9
父ちゃんの経歴をウィキペディアさんから抜粋
その第2巻はベッドフォード・カタログとして知られ、スミスの観測した1600あまりの二重星、星雲が収録された。1845年に王立天文学会ゴールドメダルを受賞した。
また、1854年には、地中海における海域測量の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られた[1]。
月の海スミス海は、スミスの功績を称えて命名された。
息子のチャールズ・ピアッツィ・スミスも天文学者となった。
チャールズは子午線弧の測量に参加し
カナリア諸島のテネリフェ島で天体観測を行った。
そしてその後、ピラミッド研究家としてその筋で有名に、、、
「神は自身のの根源的な単位がユダヤの建築家によってエジプトのピラミッドに組み込まれよう配慮され、
それはイギリス人がこの単位を大英帝国単位系に含まれるようにする目的であった」
という主張は多くの人の心を捉えて放さない、、、
どうしてこうなったww
チャーンド・ビービー
インド中西部に存在したイスラーム国家アフマドナガル王国の摂政を務めた女性。
1591年、ムガル帝国皇帝アクバルは各国に遣使したが、アフマドナガル王国は15頭の象と僅かな織物・宝石を
返礼としたに過ぎず、服従の意無しと判断したアクバルは7万の兵と別働隊を派遣する。
これに対し、チャーンド・ビービーは抗戦し、ビジャープル王国とゴルコンダ王国はアフマドナガル王国に援軍を
派遣、カーンデーシュ王国も蔭ながら支援したことで、1596年、アクバルは攻略を諦め、和議を結ぶ。
アクバルは幼王バハードゥールの地位を認め、バハードゥールはアクバルの宗主権を認め、宝石や象を貢納し、
ベラール州を割譲することで収まった。
しかし、その後の宮廷闘争でチャーンド・ビービーの権勢は低下。1597年、再び戦争へと突入する。
野戦ではムガル帝国が勝利した物の、追撃能力を喪失した辛勝であった。
当初は西北からの敵性勢力の侵攻を恐れていたアクバルは動かずにいたが、西北が安全と見るや親征を開始。
1600年、アフマドナガルの要塞は陥落し、チャーンド・ビービーは戦タヒ。バハードゥールは捕えられたのであった。
鄭相如
唐の玄宗に仕え、詩書画に通じた三絶と賞賛された鄭虔に師事していた人物。
鄭虔は最初軽く見ていたが、鄭相如は自分に予知能力があると称し、開元が三十年で改元すること、
それから十五年後に戦乱が起き、賊が皇帝を称し、鄭虔が賊から官職を授かって汚名を蒙るので身
を慎むべきであることを言い、自身は官に就いてから三年後に亡くなること、その場所も述べた。
三年後、予知の通りに鄭相如はタヒに、後に鄭虔は大燕皇帝を称した安禄山に仕えることとなったが、
鄭相如の言葉を胸に身を慎み、同じく画に優れていた張通・王維と共に権力者であった崔円の屋敷
のために壁画を描いたこともあって、乱の平定後もタヒを免れることが出来たという。
『太平公記』にも同じような話があるが、史実として承服し難い点が多い。
楽安公主
北斉の暴君文宣帝高洋の姪にあたる。旦那とうまくやってるかと叔父に聞かれた公主は「旦那はいい人ですが、姑は嫌いです」と答えてしまう。
怒り狂った文宣帝は姑を連行すると酔った勢いで自ら斬り○した。更に、遺体を川にぶちこんで弔いすら禁止する。さすがアル中である。
公主はさすがに動揺した。旦那は何事もなかったかのように公主を大切にした。このままいくのかと思われたのだが…。
北斉はあっけなく滅んだ。公主は突然捕らえられ庭先に連行された。憎悪に煮えたぎった旦那と一族が睨みつけてくる。
公主は必タヒに命乞いをしたが許されなかった。姑を讒言した悪嫁と糾弾され、旦那に斬り○されてしまったのだった。
口は災いの元とはこの事であった。○人癖のあるアル中皇帝に言ったらどうなるか分かってただろうに…。
当時の価値観を思えば、妻も相手が暴君でなかったとしても姑への不満を公言すべきではありませんでしたが、
夫と一門もおよそ大丈夫と言える人物ではありませんね。
忠と孝のどちらを優先させるかは一大問題でしたが、忠を優先させて孝を抑えたというのならまだしも、これでは
忠もなくただ命惜しさに孝を放棄したというに過ぎません。
一度よしとした以上、数年経って状況が変化してからまた罪の問うのは信も疑われます。
柳夫人
唐の太宗に仕えていた兵部尚書任瓌の妻。
非常に嫉妬深い性格であり、夫が太宗から授かった二人の宮女に薬品をかけ、禿げさせてしまった。
これを知った太宗は夫人を召喚、金の酒壺に入れた酒を指して言った。
「これを飲めばタヒぬ。お前の夫は朕の三品の臣であり、宮女たちは朕の使わした者である。今後妬か
ねばよし、妬くというのならただちにこの酒を飲むのだ。」
しかし、夫人は怯まなかった。
「私と夫は元服以来の夫婦であり、共に糟糠を口にして今日に至った仲で御座います。上意とは申せ
他に女を蓄えるのが当然とされるのであれば、タヒんだ方がましで御座います。」
しかし、酒に毒は入っておらず、酩酊していた夫人は夜になって目を覚ました。
夫人を反省させようとした太宗は逆に夫人に感銘を受け、宮女二人は別宅に住まわせたという。
朱元璋も嫉妬深い妻の話を聞き、こちらは文字通り料理してやったという逸話がありますね。
父・弟と共に書の才能に優れ、意識も高く、玄宗・粛宗の時代に技芸に優れた人物を挙げる
翰林院に属した人物。
同時代の書が見た目ばかりの派手なものになっていると批判し、古法に帰ることを主張し、
自らを誇ったが、その書は宋代にはすでに真蹟が見られなくなっていた様である。
書のみならず画の蒐集でも知られ、弟と共に後世に鑑蔵印が伝わった。
書そのものは現存しないものの、論書の著作は複数現存している。
カール・ハインツ・ブリュンゲル(1908-1999)
フランスで活躍したロケットの設計技術者。フランス初の
人工衛星を打ち上げたディアマンロケットも、衛星打ち上
げで世界一のシェアを得たアリアンロケットも、この人物
が設計したロケットがベースになっている。
彼の手になるロケットによってフランスは衛星打ち上げ
ビジネスという一大産業を得たわけで、その功績は本来
国をあげて顕彰すべきレベルだが、実際にはほとんど無視
というか、そんな人は居なかった扱いで、フランス語版
ウィキペディアには彼の記事すら存在しない。
旧敵国のドイツ出身で、V2ロケットの開発に参加したと
いう前歴ではあるのだが、それにしても・・・
劉チョウ
(チョウの字は金偏に長)
五代十国時代、現在の広東省付近にあった南漢国の最後の皇帝
極端に猜疑心が強く、忠臣を疑って次々と誅○した
あげく「普通の男子は子孫を作り、その子孫を大切にするから信用できない。子孫を作れない者なら忠義を尽くすだろう」
との考えのもと、宦官を重用、有能な人材がいればわざわざ去勢してから登用したため、朝廷はほぼ宦官で占められた。
おかげで、当時の南漢の成人男子のうち1割が去勢者だったという。
このような状況で人心は離反するなか、北宋の趙匡胤の攻撃を受ける。
信頼していた宦官にも財産を持ち逃げされ、南漢は滅亡。
劉チョウは捕えられ、北宋の開封に連行された。
そんなある日、趙匡胤は劉チョウに酒を下賜する。
かつて何人もの家臣を毒酒で誅○してきた劉チョウは自身の運命を予感し、声を上げて泣いた。
趙匡胤は笑いながらその酒を飲み干し、劉チョウは大いに恥じたということだ。
南唐の後主である李煜の后であった、大司徒周宗の娘である姉妹。
姉がまず后となり、妹がソロラト婚で結ばれたため、大周后・小周后と呼ばれる。
大周后(936~964)は19歳で輿入れし、李煜の即位後に国后に立てられた。
夫の李煜は政治的才能はなく、放蕩好きであったが、文芸・書・画・音楽に優れた才能を発揮
した人物であり、その李煜に寵愛された大周后も琵琶の演奏に優れ、玄宗が楊貴妃のために
作って散逸していた「霓裳羽衣曲」の楽譜の残欠を入手、復元している。
病床にあった時、4歳の息子が仏前(李煜は熱心な仏教信者であった)で遊んでいた所に猫が
来て瑠璃の灯篭を倒し、そのショックで病んでタヒんでしまったことを嘆き、そのためか大周后も
李煜の献身的な看病むなしくタヒんでしまう。29歳であった。
李煜は自ら誄を作って石に刻ませ、大周后の愛用の琵琶「金屑檀槽琵琶」を副葬品とし、自ら
を「鰥夫煜」と称するほどの嘆きようであったという。
小周后(?~978)はその妹であり、968年に国后に立てられた。
しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、次々と口実を設けては臣従していた国々を併呑
しており、皇帝を国主、皇后を国后と称してへりくだっていた南唐も例外ではなかった。
李煜が開封への出頭を拒否したことで、宋は出兵。南方に位置してかつて南唐に大敗してい
た呉越も侵攻したことで、975年、すでに国号すら廃して江南と称していた南唐は滅亡する。
>>169
2ちゃんねるが始まったころは「李煜」の字が文字化けしたんだっけなー
>>174
創業の皇帝のなかで、宋太祖は漢光武帝とならんで戦い以外で人の命を奪うことをしなかった
>しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、
実際に画を描いていたのは弟の趙匡義だがな
劉邦と同様に趙匡胤もただの神輿
せめいた命名である)、小周后は鄭国夫人となった。
その後、小周后は時折太祖の後宮に呼び出された。入れば数日は帰って来なかった。
帰って来ると大声で泣いて李煜を責める声が外まで聞こえ、李煜は身をもじって逃げていた。
978年、李煜が亡くなる。一説に、旧臣に対して故郷を懐かしみ、降伏に繋がる判断をしたこと
を悔いた発言を漏らし、それをとがめた太祖に毒○されたのだという。
牽機薬という、機織のように体を何度も折り曲げて苦しんでタヒぬという猛毒であった。
小周后は同年に没した。李煜のタヒの悲しみに耐え切れなかったためという。
李煜の生れた日とタヒんだ日は同じ七夕の日で、太祖から誕生祝に賜った酒が毒入りであった。
呉越の後主である銭弘俶も、やはり8月24日に生れて同日にタヒんでいる。
こちらも、太祖から誕生祝に賜った酒を飲んでのタヒであった。
趙匡胤は976年に崩御しているので、太宗趙匡義だね
つまり北宋の太祖は人格者、太宗は簒奪者ということでおけ?
「千載不決の議」はさすがに酒の飲み過ぎによる脳溢血だろうけど
両社とも超メジャーな人物
唐代の人。無類の双六好きであり、常に双六盤を放すことが無かった。
乗っていた船が海に沈んだ際、右手に板を、左手に双六盤をとり、口にサイコロを入れて漂流。
二日間漂流して岸についたが、それまでずっと双六盤もサイコロも放さずにいた。
ただ、それだけで歴史に名を残した人物。
朱友恭の呪い
朱友恭は唐を滅ぼした朱全忠の養子である。本名は李彦威という。
武勇に優れ実力はあるのだが、性格に問題があった。嫉妬深い性格だった。義父の実子に嫉妬するあまり誣告して窮地に追い込んだこともある。
そんな朱友恭は義父の命令で皇帝の監視役となった。喜び勇む朱友恭。義父が皇帝を弑逆する謀議にも加担した。
しかし、これは朱友恭を陥れる罠だった。義父は嫉妬深い朱友恭を疎んじていたのだった。朱友恭は李彦威に戻されたうえで、皇帝○しの罪を全部押し付けられた。
処刑される際、朱友恭は髪を振り乱し鬼気迫る表情で絶叫した。「義父上は俺を捨て駒にして、天下の誹りを回避しようとしたのだ。鬼神よ! いかんせん、このような行為をして、朱家の子孫が存続すると思うのか?」と。
それからというもの、朱全忠は皇帝になれたものの次々と不幸に見舞われた。一族も不幸に見舞われた。そして朱全忠の一族はあっけなく滅んだのだ。
まるで、朱友恭の呪いにかかったかのように…。
チャンドラ・ボース
海の向こうの電波を受信して活躍
>>229
洞窟住まいの人攫いとは本格的ですな、、、
>>187>>225
ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース
https://choi-clip.com/jagadish-chandra-bose
イギリス統治下のベンガル行政区マイメンシン生まれ、カルカッタのセントザビエルカレッジ卒業。
大西洋横断無線電信の立役者
植物の精密観察を実施
始めて半導体をデバイス化
偉業が多すぐるので彼のコメントと電波の話だけコピペしておきます。
起源を主張する方に聞かせてあげたい名言を
「人類にとって重要なのは発明であり、発明者ではない」
http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/intercomp/wireless/cohoherermucuy.htm
1901年12月にマルコーニは大西洋横断無線通信に成功します。
この快挙に対してマルコーニは世界中から祝福されましたが、
この大西洋横断無線電信の実験で信号を受信することができたのは水銀コヒーラであるとされていますが、
この水銀コヒーラ(ボースのコヒーラ参照)の真の発明者はマルコーニではなく、
インドのボース(Jagadish Chandra Bose)であることはマルコーニが亡くなるまで隠されていました。
(中略)
25年後マルコーニの助手をしていたMr.Vivianはマルコーニの伝記にマルコーニは水銀コヒーラをただ使用しただけであると明確に記載しました。
1998に英国の歴史家V.J.Pillipsによって正確な調査がなされマルコーニがボースの発明を盗んだことが確認され公表されました。
(中略)
従って、1901年12月に大西洋横断無線電信(英国ポルジュ(Poldhu、Cornwall)からセント・ジョーンズ(St. John’s Newfoundland)の近くのシグナルヒル( Signal Hill)(地図参照)
約2000マイル)にマルコーニが使用した水銀コヒーラはボースの発明によるものであったといえます。
イスマーイール1世
16世紀初頭にイランで成立したイスラム教シーア派の国家サファヴィー朝の建国者。
超マイナーどころか、世界史上メジャーな人物だが、後世に与えた影響を鑑みると、不当に低い知名度に置かれている。
1487年、アルダビールで神秘主義教団の教主の子として生まれた。
西欧人が少年時のイスマーイール1世と謁見した時、「邪悪なほどに美しい」と言ったと言われ、幼少の頃から智勇に優れていた。
14歳で即位!して、37歳の若さでタヒ去。
歴史家アーノルド・トインビーは大著「歴史の研究」で、シャー・イスマイールのことを、「レーニンに匹敵する歴史的破壊力を持った人物」と述べている。
タヒに体だったシーア派を再興し、イスラム世界を事実上2つに割た当事者。
Remy Jullienne
フランスのスタントカーのドライバー
いすゞ「ジェミニ」のCM
https://www.youtube.com/watch?v=GE5cnDPnn6k
チャールズ・サンダース・パース
彼の偉大さをウィキペディア先生から抽出していく
とりあえずカーネル・サンダースのほうが有名かと思います、、、
生涯
プラグマティズムの創始者として知られる。
「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる。
8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。
1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与
1867年のアメリカ芸術科学アカデミーでパースは、
すでに1847年にブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。
学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダーの『論理の代数についての講義』に引き継がれ、
さらにラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。
ちなみに彼の発見は
論文や著作を完成させられないという特殊能力のため
ほとんど発表されなかったらしいww
カントール、デデキントと有名人が並びます
>>191
数学
パースの純粋数学における研究は
数論、線型代数学、トポロジー、リスティンク数、射影幾何学、四色問題、集合論、ブール代数、そして連続体の研究に及ぶ。
応用分野としては経済数学、地図の投影法、確率論、統計学などを研究した。
数学における発見
パースは基礎数学や形式論理学でいくつもの重要な発見をしているが、そのほとんどはタヒ後まで評価されることはなかった。
1860年には、無限数の基数演算を提案した[14]。これはゲオルク・カントールの超限数の研究の前であり(カントールが博士論文を完成させたのは1867年である)、
ベルナルト・ボルツァーノの『無限の逆説』(Paradoxien des Unendlichen;1851)へのアクセスがない状態で書かれている。
1881年の「数の論理について」で、パースは自然数算術の公理化を提示した[15]。
これはリヒャルト・デデキントとジュゼッペ・ペアノによる公理化の数年前である。
またこの同じ論文においてパースは、デデキントよりも前に、今日で言うデデキント有限性に相当する有限集合の定義を初めて与えている。
これは、「その真部分集合との間に単射対応が存在する集合」という無限集合の重要な形式的定義(デデキント無限)を含意している。
>>191
形式論理学における発見
1880-1881年には、否定論理和のfunctional completeness(en:Functional completeness)を示した[35]。
これはヘンリー・M・シェファー(en:Henry M. Sheffer)の研究の33年前である。
1885年の「論理代数について」で、パースは一階の量化と二階の量化を区別した[36]。
またこの同じ論文において彼は初めての公理的集合論として読めるものを提示しているが、
これはエルンスト・ツェルメロの研究の20年以上前である。
1890年代後半までには、述語論理の図表的記法である存在グラフを開発していた。
特殊科学における発見
1886年にはブール演算が電子回路によって実現され得ることに気付いていた[64]。
これはこんにちのコンピュータに代表されるディジタル回路と呼ばれる電子回路の応用そのものと言える発想であり、
日本の中嶋章やクロード・シャノンによる成果の50年以上も前である。
解説動画で見たけどヘンリー・キャヴェンディッシュもそうだったみたいね
ラファイエットの義兄で、共にアメリカ独立戦争の戦場を渡り歩き、
フランス革命では封建制度の廃止を一番に主張したかっこいい青年貴族。
そんなに活躍したのに、なぜだか歴史書の上で影が薄い・・・
テキサァァァァスタワー乱射事件の犯人だけどイギリスの特殊部隊のSWET設立の原因になったからある意味偉人
セミョン・デジニョフ
ベーリング海峡を発見した人
記録に残る中で最初なのに影薄レベルは高い気がしますね、、、
>>197
ベーリング海挟んで対岸のスワードもええんちゃう。
アラスカ買った国務長官
アラスカ買収について「スワードの冷蔵庫と嘲笑された」と書く歴史書もあるが、
冷蔵に天然の氷を使うしかなかった当時は、冷蔵設備の整った倉庫というのは
成長株の産業であり、実際はスワードに対する賛辞であったのではなかろうか。
>>205
ランダルマ廃仏王きたー!いいとこつくなぁ
確かにそう思うとソンチェンガンポは有名人か…(;´Д`)
>>206
何それ初めて聞いた。
なるほど経済背景を知らないと賛辞も皮肉に見えてしまうわけか。
ベーリング海峡のロシア側なのか
初めて知ったわ
江戸幕府が北方に巨大な帝国が存在すると気が付いたのは彼が来たからだし、
元祖黒船はペリーじゃなくシュパンベルクなのに、一般的知名度ゼロでかわいそう。
ソンチェンガンポ
かこのスレにちょうど良いんじゃね?
偉業の割に知られなさすぎ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ソンツェン・ガンポ
チベット史自体がまず一般的に知られていなすぎだがソンツェンガンポぐらいなら吐蕃の国名とセットで憶える基礎教養レベルだろう
それより吐蕃帝国をぶっ壊した末代のランダルマこそ超マイナーなのではないか?
レオポルト・インフェルト
ユダヤ系ポーランド人の理論物理学者
アインシュタインの弟子にして共同研究者
アインシュタインとの共著『物理学はいかに創られたか』は
数式は頭が受け付けないけれど相対性理論をかじりたいという
文系の人に優しいロングセラーな入門書
アルトゥール・シェルビウス
発明家。
第二次世界大戦の行方を左右する重要な機器を開発し
アメリカで特許も取得しこれからというとこで
行く末を見届けることなく1929年にタヒ亡した。
第二次世界大戦で活躍した暗号機の発明者が
馬車の事故でタヒ亡したというギャップがよく話題に上がる
そういえば、暗号解読というとチューリングさんばっかり話題に上って
パープル解読を主導したウィリアム・フレデリック・フリードマンさんの中の人は
日本語のウィキペディアすらないのか、、、
韓王信
よく韓信と混同されるが別人
最後は匈奴に寝返って漢と戦った
卑弥弓呼(ひみここ)
邪馬台国と敵対する狗奴国の王
名前は卑弥呼と名前がそっくりさんだがこちらは男王である
朱元帥
1359年に沙劉、関先生ら共に20万の兵を率いて高麗に乱入
李成桂を筆頭とする高麗軍にわりとあっさり撃退されて以降は生タヒ不詳
同じく紅巾の賊である朱元璋とはおそらく面識はない
青梅駅と青海駅なみのまぎらわしさですなw
慕容帰
後燕の平州刺史。遠縁だが勇猛果敢で名高い慕容一族である。402年、高句麗に攻め込まれた慕容帰は信じられない行動に出た。
なんと、根拠の宿軍城を放棄して敵前逃亡してしまったのだった。本当にあの慕容一族なのかと疑いたくなるほどのへっぽこである。
主君は暴君で有名な慕容熙。妃のタヒを泣かなかった官吏を処刑したというとんでもない逸話が残っている。しかし、慕容帰が処罰された形跡は無い。
敵前逃亡をやらかした慕容帰はこのまま歴史から消えるのかと思われたのだが…。歴史は慕容帰を見放さなかった。
後燕がクーデターで倒れて馮跋の北燕になった。後燕の皇族は慕容熙が始末したかクーデターで処刑したかされた。冗談抜きで後燕の祭祀をやる人間がいなくなってしまった。
困り果てた馮跋は慕容帰に目をつけた。敵前逃亡をやらかしたへっぽこな慕容帰なら担がれる心配がないと。
処刑されると泣いて震える慕容帰に馮跋は命じた。遼東公に封じられて慕容一族並びに後燕の祭祀をやるようにと。
かくして、へっぽこは身を助けたのであった。
バスティーユ襲撃で重要な役割を果たした後もヴェルサイユ行進、9月虐○などフランス革命の
大事件に関わった人物にも関わらず、少なくとも日本ではあまり知られていない
チャールズ・プロテウス・スタインメッツ
ドワーフの魔法使いで
人類に電力の扱い方を伝える
いま電気を思う存分使えるのは
彼のおかげかもしれません、、、
>>216
この写真の真ん中にいる白い人がドワーフで
その愉快な仲間達ということらしい、、、
クエーカーの奴隷制度廃止運動家「恐れ知らず」のベンジャミン・レイ(1682年 – 1759年)
奴隷所有者とみれば誰彼かまわず食って掛かり、ついには奴隷所有者の子供を誘拐して
おまえはそれと同じことをしているのだと主張した。
ジャンルが違いますが、>>216のドワーフで連想しました。
https://www.bbc.com/news/uk-england-essex-42640782
身長4フィートの頑固なトラブルメーカーで洞窟を住まいにしたというから本格的。
ジョン・ミッチェル(John Michell、1724年 12月25日 ? 1793年4月21日)
イギリスの18世紀の科学者で
ブラックホールの存在を最初に予言した。
ミッチェル氏は「見えない」ブラックホールを発見するためには
互いの周りを回っている二重連星のような動き方をしているのに
星が片方しか見えない天体を探せば良いよ~という事まで提案した。
当時の観測技術が到底及ばないことを平然と言う。すごいですよね。
この場合重要なのは天文学の知識ではない。
物理学の知識を天文学に敷衍したのだよ、ワトソン君。
ブラックホールがあるはず、という説を提唱したわけじゃなくて
「もし凄く重い星があったらその星の光は重力で出てこれないから見えないよね」
という事を言ってたという話だよ
具体的なサイズを見積もっているので
天文学的には
レーマーの光速度
ブラッドレーの光行差
この辺りを利用している可能性はありますね
あとカーマルーパとか
ルキアノス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%AB%E3%AD%E3%A2%E3%8E%E3%B9
ルキアノス(サモサタのルキアノス、
ルーキアーノス、 Lucianos, Lucianus, Lucinus, 英語ではLucian of Samosata(ルシアン),
120年乃至125年頃 – 180年以後)はギリシャ語で執筆したシリア人の風刺作家である。
月旅行SF小説を執筆しました。記録にも残るホントの話です。
懐疑主義を唱えデカルトとともにスコラ哲学を堀崩していく。
更に快楽主義者で唯物論的原子論者だったエピクロスを再発見する。
経験論者で合理論者のデカルトと対立したが彼の経験論はロックなどに受け継がれイギリス経験論の元になる。
ニュートンの原子モデルもガッサンディのそれによるなど科学への寄与も高い。
モンゴル側では何故か妖術師シドルグと記録されている
末主シドルグは得意の妖術でモンゴル軍を散々苦しめたとある
妖術師と記録が残ってる皇帝はこの人ぐらいでは?
ファン・リンスホーテン
歴史の行方すら左右した
おそらく史上最高の産業スパイ
1861年、それまで知られていなかった超巨大大陸を発見した。
コロンブス?アメリカ?あんな小物、目じゃないっすよ。
wikiでは、プレートテクトニクスで説明されてるけれど
将来的には、地球膨張説に軍配があがるかも
ヴェーゲナーが類似商品のパンゲア大陸を発見する50年も前なんだな。
パイオニアすぎる・・・
おいらは最初パンゲアかと思ったんですが
むしろヴェゲナーさんの中の人が
パンゲアを発明していたことの方に驚きましたね
クリスチャン・J・トムセン
彼は大学の学位もなかったが27歳という若さで
石器時代と青銅器時代と鉄器時代の
3つも時代を発見した
フランス海軍の軍人・探検家。最終階級は少将。
大発見!と本国に報告した南の大陸は、2000万年前に海に沈んでいました(泣)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ケルゲレン海台#ケルゲレン微小大陸
フランス語版のWikipedia見たら、
このひと「はんべんごろう」さんとの共謀が疑われてたんだなww
清教徒革命でクロムウェル軍と戦ったルパート王子の愛犬は
神通力を持つ魔犬と恐れられていた。
その勇猛さから狂人騎士と称えられたイケメンの王子と、
ラップランドの魔女の化身と敵に恐れられた愛犬のボーイ。
なんだかライトノベルの設定みたいだぞ・・・
吉蔵 きちぞう 549年 – 623年
ふつうの田舎のお百姓のような名前だが、三論宗を大成し
その学識の広さで隋・唐時代の皇帝に尊崇された高僧である。
日本への影響も大きく、聖徳太子が著したという『三経義疏』は
吉蔵の著作との類似が多いとされる。
フョードル・アプラクシン
ピョートル大帝とは子供の頃からおもちゃの船の海戦ごっこで遊んだ友人同士。
長じては海軍元帥に任じられ、お雇い外国人を率いて本物のロシア海軍を創設した。
ハンゲの海戦(1714年)における勝利は、バルト海の制海権をもたらし
ロシアがスウェーデンを抑えて大国に成長するきっかけとなった。
ルイス・フィリペ
ポルトガル国王。
即位の際すでに重傷を負っておりほどなく崩御。
在位期間20分。ギネスブック認定。
ハインツ・ハイドリヒ
ユダヤ人虐○を実行した兄とは
正反対に偽物のビザを発行して
ユダヤ人を救出した功績は
オスカー・シンドラーや杉原千畝に
匹敵しうる
もう一方がしっかりした常識人
けっこうあるねこのパターン
セプティミウス・セウェルス
軍人皇帝の最初の皇帝はマクシミヌスだが、ローマ初の軍人皇帝はこいつ
軍人皇帝時代の最初がマクシミヌス
セウェルス朝の始祖がマイナーとな……
タイフサ Tay Fusa
倭寇のリーダーでおそらく日本人。
1582年、フィリピンのルソン島北部カガヤンにおいて
スペイン艦隊と交戦するも大敗を喫して追い払われた。
・・・なお、以上は英語版ウィキペディアの情報であって、
私としては必ずしもこれを信じているわけでは・・・ ┐(´∀`)┌
https://en.wikipedia.org/wiki/1582_Cagayan_battles
テレマンのアリア
https://www.youtube.com/watch?v=KzY7Mgz0eXo
バロックの名曲
テレマンのアリアはもっと評価されるべし
テレマンの曲はポピュラリティーがあり過ぎて評価低い
逆にハイドンは通好み過ぎる
バイエル教則本は日本では超有名だが世界では割とマイナー
英語wikiだとReferencesを除く本文はたったの6行しかなく、たぶん日本人が書いた
オーストリア北部ザンクト・ラーデグント村の農夫。
来年2月公開の映画で多くの人がその名を知ることになる。
https://www.youtube.com/watch?v=LF9ry_JGQg0
アルプスの風景が綺麗だな
成漢の昭文帝李寿
先帝の幽公李期を廃して即位した
占い師から「皇帝になっても数年しか保てない」と予言されたが、「それでも構わない」と答えた逸話がある
かの暴君・石虎を真似た政治を行ったり、武帝李雄の子孫を皆○しにしたりとやりたい放題やった
そんな李寿だが、在位中は幽公の執拗な祟りと幻覚に悩まされていた
最期は、幽公に許しを乞いながら祟られ狂うという凄惨なタヒに様だったという
その在位期間はたったの5年
占い師の予言は見事命中したのだった
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