信長の前に中央に政権を築いた三好長慶。
しかし十河一存、三好実休、三好義興、安宅冬康と兄弟・子息を立て続けに失い、自分も病タヒして政権は崩壊同然になった。
もし、長慶と兄弟子息が生きていたなら、信長は畿内に進出できたのであろうか。
3: 2019/12/28(土) 23:45:39.68 ID:gWIqZMBe
加賀門徒と越前を挟撃したかも
対毛利は大友・河野・赤松で包囲して
山名・別所・内藤で赤井を封じ込めて
その先は羽柴秀吉のような天下一統のビジョンがあるかだけ
朝倉がそんなに問題になるかな?
>>6
若狭を巡って内藤宗勝と合戦したけど
本願寺の仲介で和睦するかもね
河野は史実で三好と結んでいたし土佐は元々細川領国なので畿内で三好の覇権が確定すれば
四国全土も早々に三好になびきそう
毛利は貧乏なので富裕な三好と敵対できるとは思えない
三好は立地上瀬戸内海周辺の勢力と戦うほうが先
諸悪の根源だった管領も三好が力で押さつけて中央の政治腐敗は改善
あとは義輝が全国津々浦々で調停して平和に
はい戦国時代終了、室町幕府は千年続きましたとさ
当人たちはもめごとが激化する前に亡くなってるけど生きててもやはり細川京兆家と同じ宿痾を抱えたかも
松永久秀は可哀想、篠原とか三人衆は長慶亡くなって爆発しちゃったんだろうなぁ。義継が松永の元へ行くのも当然だわ。
ちょうけい
ながよし
どっち?
困ったら音読みしとけば有職読みって言い張れる
読む人によって読み方が違ってたんだっけか
あまり正式な読み方は他人に知られるとまずいという考え方があって音読みにしたりするらしい
例えば徳川最後の将軍慶喜は、自らも他人にもヨシノブとはめったに呼ばせず、自分のことはケイキと言っていたとか
2年の幅があって、とすると足利義輝暗○に関わってた可能性も決してなくはないんだと
3回忌の直前までそのタヒを伏せられてただけで、没年月日は判明してるよ
優秀な奴らが総じて短命すぎた。
鎌倉北条氏と同じで、泰時より後の優秀な奴らはみんな総じて短命。
阿波の兵力は三好家の力の源泉だったのにな
だから真之の三好長治に対する「反乱」は成功した
三好氏に好意的だった持隆をうまく傀儡として利用できていれば・・・
長慶存命中から勝手に動いてただろアイツら
三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、
豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、
十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、
安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり
『南海治乱記』より
そういう意味では時代を変えるほどの人物ではなかったのかな
というか三好は不幸続きすぎだろ。
1561 十河一存
1562 三好実休
1563 三好義興、細川晴元、細川氏綱
1564 安宅冬康、長慶
政権に必要な奴らがこうも連続してタヒぬとか異常すぎる。松永久秀説は最近否定されてるが、誰かが何かやってたのか、と疑いたくなる。
お前らタヒぬの早すぎ!!
三好元長(31)
三好長慶(42)
三好義興(21)
三好実休(35)
三好長治(24)
十河存保(33)
安宅神五郎(?)
安宅冬康(36)
安宅信康(28)
安宅清康(?)
十河一存(29)
三好義継(24)
十河存之(30代後半?)
松浦信輝(20代?)
野口冬長(20代前半?)
織田家で例えたら
信忠、柴田、丹羽、羽柴がタヒんで明智光秀が生き残った感じか
いや、例えるなら毛利じゃね?
穂井田元清⇨吉川元春⇨輝元⇨隆元が亡くなった状態で信長・秀吉と戦う感じ
畿内の拡大も西側だけでやめてるし。
信長とはやはり違うと思う。そもそも三好政権とみなしてよいのかな?
信長も自分がもめた相手を順繰りにどついてたら規模が全国的になった&義昭ともめて結果追放することになったせいで自分が天下牛耳る必要に終われただけで、はなから全国を統一する気があったかというとそうじゃないし
いわゆる全国統一目指す大名とかいないとみなしていいよ、要職になりすぎていつの間にか自分が天下治める事になってるって状況ばっかり
朝廷への影響力なり考えたら元号や他大名へ官職を与える事にまで口出ししてるわけで、充分中央政権だと思うが
義昭かかえて上洛した直後から義昭追放するまで信長は中央政権じゃないのかって言われると、多分ノーだし
確かに、信長の野望を織田信長でプレイすると、隣国の隙を突いて戦争仕掛けまくって気付いたら近畿と山陽を制圧してたわ。
で、本願寺や武田やらの仕業で禁裏から朝敵にされる
長慶があと数年存命なら畠山と通婚するか重臣を送り込んで実質支配下に置いてた可能性が高そうだ
三好政権の武将は大軍や混成軍のの運用には慣れてるから案外早くに天下統一までいった可能性もないとは言えない
江戸時代までは本朝百将伝や英雄百人一首にも選ばれるくらい知名度があったのにな
オランダだかの日本史の統治者の変遷にも、内裏(天皇)、室町公方の次に、三好殿、信長、羽柴太閤様、内府様と書かれてるくらいだし、少なくとも当時の日本においては天下人として認められていたってことだよな
三好が天下人?
六角程度の兵力しかないじゃん。
同時期の上杉輝虎、北条、毛利、大友の方が巨大勢力だろ
西機内勢力にしてもとくになんもなかった
信長みたいに朝廷、将軍使って何かしたわけでもない
むしろ傀儡将軍立てたけど各地の大名は認めず
義輝に使えてた武田信虎でさえ味方につかず去っていった
ましてや変えた元号をみんな使ってるし
地方と違って畿内は万の軍勢はすぐ集まる
3万程度の織田軍に蹴散らされた三好が
毛利大友北条以上は無いわ
検索してみたらやっぱり少なかった。
三好は数千程度が多く、集めてもせいぜい2万ほど
畠山の軍勢たして4万とかあるが
ちょこっと思い返しても教興寺の戦いとかでがっつり兵率いてると思うが
まぁ、四国と畿内で領国が分かれるしあっちついたりこっちついたりが畿内衆は特に多いんで正確な兵数測りにくいってのはあるだろうが
なんか本郷あたりが兵数少なかったって本出してた気がするけど、それを真に受けてしまったんだろうか
信長が朝倉や浅井にやったように
調略しかけまくって内部崩壊させたろうけど
紀北から泉南・河南に進出してた根来寺は難敵だよね
金はうなるほど持ってるし
養ってる僧兵はガチで強いし
当時は新聞やラジオ、テレビ、インターネットがない時代だから世間の評判なんてものは当人たちの耳には届かないけど、当時の公家や他の大名や庶民たちからは三好一族はどんな評判だったのだろうか?
天下の大悪党?逆賊?
戦国時代はこんなのは当たり前だから特に問題なしなのかな?
>>82
細川との関係は微妙だとは思うよ、当時幕府って言われてたのは実際には管領細川家の勢力だし。
その細川家の本家に分家の阿波守護家から養子が入った時についていったのが三好。
それが畿内のごたごたで気が付いたら本家の家老を事実上全部倒してたってのが三好長慶の親父。
其の後細川の当主と険悪に成って戦タヒだから、主君と言うより手切れした元同盟者かな。
細川家自体が複数系統で内紛繰り返してて、三好は阿波から来た養子担いでた訳。
でも、三好の勢力拡大が面白く無くて粛清と。
だから三好長慶から見れば細川晴元は親の仇でもある。
細川との揉めは細川との確執や国衆問題もあって畿内国衆はある程度わかってる
義輝○害も当時の公家の記述に将軍が謀反したため、と書かれてたりかなり三好寄り
ただ地方の方はわりかし将軍がタヒんだのはショッキングな出来事だったようである
って感じ
うわべだけを見ず、なぜ揉めたのかとかまで見た方がわかりやすいんじゃないかな
将軍が謀反ってのがおかしい
謀反は家臣が主君にそむいて兵をおこすことだから
将軍に力が無くお飾りのような存在だったにせよ、主君は将軍で家臣は三好でしょ
鎌倉幕府も室町幕府も将軍が○されたり追放されたりして、将軍の存在意義が無いな
それを俺に言われても困る
当時の公家に主上ご謀反って書かれてるし
天皇だろうと当時の実力者に対しての反逆は謀反とみなされるのはいくらかあるし
永禄改元後は朝廷からの知らせもないほど完全に無視されているので朝廷と公家は義輝に代わって費用負担したと見られる三好を支持してたのは明らかだよ
ちなみに義輝は改元を知っても永禄の元号を使わなかったんでこれは天皇の権威に服さないのと同様と見なされる
良い評価とかも結構されてたりするの?
天野先生の研究とか読んだらいいんじゃないかな
少なくとも単純な悪人像を思い描く人は研究読んだ人では結構少ない
というか麒麟が来るのあれも別に悪人のように描いたわけではなかろうよ
綺麗な信長
代替わり後は文化人としての名声も高いから相当賢かったと思うよ
将軍は偉い人で三好君の上司なんだよね。
三好君は上司が気に食わないことをすると怒って兵を集めて襲撃して上司を追い出したり、仲直りしたりしてるんだよね。
会社がこの時代だったら面白いね。
部長と課長が対立して部長派と課長派の社員が戦ったり、専務が社長を暗○したり、非正規雇用の契約社員と派遣社員が一揆を起こして正社員を襲撃したり。
三好長慶は将軍から給料もらってないし自分で領地を経営して稼いでるんだから会社に例えるのはちょっと無理があるんじゃない?
人々は従順で頭がよく女も東アジアではかわいい。権力基盤がないこの時代を征服できたら最高だな
秀吉が女に狂いまくって豪遊しまくったのも納得だわ
袖がスりあっただけで○し合いするくらい○伐として
人間関係がドライで人情が希薄だったのがこの時代の特徴だけど
だから元長を排除するのにも宗教団体に頼らざるを得ない
下剋上は三好氏の独断専行ではなく摂津周辺の武士の総意
そうなると信長の上洛も将軍義昭もなく歴史は大きく変わっていただろうな
その場合、義輝が暴走しかねん。
義輝が織田や浅井らに上洛命令だしかねんし、嫌でも反三好戦争が起きそう。
三好家と織田家は守護代家同士で早くから誼を通じてるからそれはないかと
大友は毛利と鍔迫り合いで東進する余裕はない
三好と織田が通じていた事実なんてないぞ。
大友? 何で大友が出てくるのかな?
>>118
取次を介して互いにやりとりしてるしその史料も残ってたはず
でないと永禄2年に500の軍勢率いて上洛したり堺を訪問できるわけないじゃん
堺は三好の軍事拠点にして本拠地だよ
最も幕府の権威を当てにして義輝に献金してたのが大友義鎮でしょ
長尾景虎への肩入れはすごいね
>>122
謙信も素性考えると不思議な人なんだよな。もともと謙信の産まれた春日山長尾家は守護代で
守護の上杉氏の当主を弑逆「謙信の親父」したりしてる。
其の後分家筋の上条上杉の上杉定実を確立。でもこの人は病タヒして越後上杉家は断絶。
つまり、山之内上杉から見ると同族の越後上杉の家老なんだけど険悪で戦争までしてる。
幾ら北条氏に追い詰められたからって、よくも越後に逃げる事考えたな。
建前では家来筋だけど、この時代だと下手すると○される可能性有るのに。
三好長慶の方でも小笠原長時の信濃復帰ために
長尾輝虎に動いてもらいたい思惑があったとか
長慶は老獪であらゆる階層に食いこんで勢力を拡大させたから
義輝もうまく利用してたたんじゃないかな
丹波方面の戦いだとそのうち朝倉が介入してくるだろうし
朝倉が丹波まで長駆行ける能力はないだろ。
若狭ですら手に余ってたのに。
朝倉義景の叔父は越前波多野氏の養子に入ってるぐらい関係深いよ
その関係もあって波多野宗高は越前に朝倉氏の支援に赴く途中で討たれてる
波多野氏から兵が出せるという事はまたその逆だって可能と言えば可能
三好長慶は本願寺の荘園の代官をしてるくらい法主との関係が良好だからね
仲が良かった割には、長慶がタヒんで織田が上洛したらあっさり鞍替えしたな本願寺。最初から三好と組んで抵抗したら良かったのに。
あれは信長というより義昭に挨拶しに行ったんだろうね
最近は信長公記が織田信長寄りにバイアスかかってるという研究も出てきていて信長公記を元にすると辻褄合わないことが結構指摘されてる
win-winの関係を築いてる畿内の覇者の三好を切って朝倉と結ぶわけないじゃん
信長には恫喝されたから矢銭を納めたけど
その後は三好三人衆と結んで信長と戦っただろ
連合政権って言うけど、例えば細川政元や三好長慶の場合、前政権との連合政権だったかな?
政元の場合は、日野富子と伊勢氏の力が必要だったから、まあ連合政権といえる。日野富子がタヒんで解消ってところか?
長慶の場合は、氏綱をどうしても必要としたから、三好、細川連合政権。
信長の場合、久秀が必要かな?
義昭と昭元を抑えてるし、当時の松永って筒井や三人衆に押されるくらい弱体化してたはずだが。
実際最終的には筒井との関係とか考えないで松永キレさせて攻めてるけどそれはともかく
畿内に顔が利いてしかも幕府の要人としてノウハウもあるっていう部分は充分に必要になる要素じゃない?
義昭は顔が利くとは言い難いし昭元は信長上洛時で20いくかいかないかくらいだっけ?
上洛当時畿内に織田の勢力基盤存在してないしね。
幕臣の領地戻してやったくらいしかしてない。
松永を敵にすれば、簡単には潰せないでしょう。
畿内各地の自治都市は信長に恭順することで三好時代同様の都市特権を認められてたはず
畿内のほぼ全域を直接統治していた三好家よりもずーっと緩い支配体制だよ
だから度々三好の反抗でぐちゃぐちゃになり
離反者が相次いで最後に明智光秀によって完全に瓦解するに至った
>>157
そういう事、畿内の殆んどは名目上は幕府の傘下に入っただけで、実質的に織田の従属同盟下に入った
だけでしかないね。
畿内の諸勢力が別孤に織田と同盟結んでる状態。
信長は上洛後にすぐに伊勢に戻ったりしてるし、尾張美濃伊勢の三ヶ国の完全平定が優先だった
んでしょうね。
この辺を理解しないと大和の筒井や摂津の荒木の存在が理解できない事に成ります。
筒井は松永の宿敵で間接的に織田と抗戦してるし、荒木も摂津三守護の池田氏の婿で家老の
立場から三守護全員倒して摂津一国の領主に成りあがった。
間接的に織田と抗戦してるんですがね。
天下人と認めない人でも知勇兼備の名将というのは否定しなくなった
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1577515753/
コメント