【室町幕府】第15代将軍である足利義昭ってどうして秀吉に将軍位を譲らなかったの?????
どうしてだろう。
天下人の養父になれば楽隠居できたのに。
秀吉だって脅せばなんとでもなったろうに。
4: 03/11/12 18:19
>>1
義昭は、将軍職でなければ、誰も相手しない。
朝廷(若しくは一部有力公家)は、信長で痛い目にあっていたから、
次の天下人は、朝廷に完全に取り込みたかった。
秀吉は、ぽっと出なので、平清盛みたいに親類縁者がウジャウジャいないので、
取り込むには、打ってつけ。秀吉はそれに乗っかった。
取り込んだつもりの秀吉に完全に乗っ取られたのが実態だけどな。
秀吉時代の摂関家は悲惨だよ。関白にも氏長者にもなれない。
清華家以下の公家衆もほとんど飼い○し。前田玄以あたりにこき使われてる。
関白や太政大臣になった秀吉が格下の「征夷大将軍」なんぞになってどうする?
結局、新たに誰かが将軍になるか、本人が出家しない限りそのままなんだろうね。
但し、もし将軍職を解かれたとしても、官位は高いままなので、出家しない限り、公卿補任からは消えない。
足利家嫡流としてのプライド。
源氏の長者としてのプライド。
将軍としてのプライド。
そして何より自分の立場が理解できてなかった。
義昭は、自分の立場を理解出来ていたからこそ
その唯一の武器である将軍職を手放さなかったんだよ。
足利将軍は追放→流浪→陰謀→復帰→追放の繰り返し。
14代義栄なんか入京すらしてないし。
それより義昭追放後、義助を担いで京に攻め込むぐらいの
大名がいなかったのは寂しい。三好残党と長曾我部では無理か。
毛利輝元に野望があれば義昭を担ぐ・・・しないよなやっぱり。
ホントに野望があってかつ有能ならなんとか大名を利用できただろうし、
野望がないのなら、ただの神輿を分かった上で将軍職を続ける手もあったはず。
(後は暢気に生活を続ける)
中途半端だからどうにもならなかった。
野望がありすぎたんだよ。おとなしく「信長君、今の余は全てキミのお陰」とゴマ刷り続けていたらお飾りとしてもっと京にいられた
最後の将軍
徳川慶喜と足利義昭。
誰が何と言おうと義昭が好きだ。
司馬遼太郎の「最後の将軍」は義昭を描いて欲しかったと
思うのは俺だけでは無いはず。
松本清張が短編で義昭描いてるよ
「陰謀将軍」
秀吉の時代に征夷大将軍=日本のトップという認識があったかどうか疑問。
それまでの将軍を考えてみると、
頼朝=実質東日本だけのトップ、晩年は不遇?
頼家、実朝=実権奪われ最後は暗○。
摂家、宮将軍=ロボット&京都からの人質同然。
尊氏=北朝の象徴? 弟に負けた時期もあった。息子(義栓)も大差なし。
義満=守護のバランスの上とは言え、強いて全国トップといえるのは彼くらい。
但し将軍辞めた後のほうが力があった。
義持、義教=鎌倉と仲悪し。義教は暗○。
以降=悲惨。
現代の征夷大将軍のイメージは、江戸時代に入って朱子学とかの影響で
醸成されたものだと思う。
そりゃそうだろうね ラジオもテレビもないし
外宮のほうが流行ったらしいしな
時に義昭はいつどういう手続きで将軍職を退いたの?
・自分で辞めると申し出た
・出家したので自動的に解職
・後任の将軍が朝廷より任命されたので自動的に解職
・あんたクビと朝廷が宣言した
さぁどれだ!
・タヒんだので自動的に解職
っていうのもありじゃないか?
>>36
>>41
つうか「公卿補任」に出家して引退したって書いてあるから・・・
>>38
武士と僧侶は読めた。「おあむ日記」とかあるから武士の家族も
ある程度読めたはず。
>>42
サンクス。
ところでこのころの将軍とその任命権者である朝廷の関係はどうだったのかね?
例えば朝廷に対し将軍から職務に関する定例報告書をあげたりとか
あるいは直接参内して報告したり指示を受けたりというような義務はあったのかね?
そして将軍に対し朝廷は職務遂行の見かえりとして俸禄のようなものが支給されたりしたのかいね?
将軍が放浪中でも朝廷とは没交渉だったように思われるけどそういうものなんかね?
まぁ事実上放置プレイだったんだろうけどさ。
3割とか・・・根拠なし
そもそも征夷大将軍になる気がなかったからです。
>>23-26
「トップが誰か」云々は関係なくて,中世国家における「公儀」概念の変遷を問題にするべき.
戦国時代の群雄割拠期は,北條や武田といった有力戦国大名がそれぞれの領国内で公儀だった.
これは,それ以前の時代の公儀,すなはち頼朝や義満が「公儀」化したのとは,事情が違ふ.
(もちろん,頼朝や義満も,武家社会の中で「公」と認められるまでには,相当の努力を重ねて
ゐるが).戦国大名の権威志向は,必ずしも現実の実力を伴ふ上位主体である必要は無かったから
ましてや,将軍職を権威のソースとする必要もなかったのである.
秀吉の統一は,戦国期に各地に分裂した「公儀」を再び単一の権力主体に統合せしめたが,
「戦国大名公儀」の時代の後に登場した秀吉には,もはや,かつて頼朝や義満が苦労して「公」
となったのと同じプロセスを踏む必要はなかった.秀吉は,北條討伐の際に,「北條事,近年公儀
を蔑ろにし・・・」などと述べてゐて,この時点で自らを日本唯一の公儀であると自称してゐるの
である.その前年,後陽成天皇を聚楽第によびよせ諸大名に服従を誓はせたのが,秀吉の「公儀」化
に関しては,画期となるイベントではなかっただらうか.
そんなものはした金だと思ったんだろうな・・・・・
秀吉と被差別部落の関係ってのもあるような気がする。
海賊停止令しかり、兵農分離しかり、一向一揆の殲滅しかり、
差別される身分の固定ってみんなあの時代に始まっている。
なぜ秀吉はあそこまで非農業民と農民の分断にこだわったのか。
そりゃあんた、取るに足らない百姓や野武士でも傑物が出て結集したら
侮れないっつうのは自分自身が証明したようなもんだからなぁ。
寺社はある程度信長が潰しておいてくれたので飴をあげれば簡単に懐柔できたしw
守護を束ねるのが室町将軍で、藩主を束ねるのが江戸将軍。
秀吉の時代は守護が意味を成さなくなって、各々が独立した国持大名たるべく
戦っていた時代(の終盤)。
だから、天皇の権威は揺るぎないものとして、自身が関白になって(天皇権代行)、
上洛を命令し、来ない大名をヌッコロシていったんでないの。
自分が関白になる直前にとりあえず信雄を大納言にしてみるあたりが
秀吉らしくて好きだ。
引用元: https://academy2.5ch.net/test/read.cgi/history/1068623865/
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