【剣豪将軍】室町幕府13代将軍である足利義輝について
家康だって武芸の達人だったんだが、終わってるか?
いやマジな話だけど、義輝について「「将軍が武芸の達人でどうするよ?www」って
下らん殿様趣味みたいにバ○にする人が結構多いんだよね。
でもそういう人でも、武芸の達人だった家康はおろか、
猿楽気狂いで自分を主人公にした謡曲を作らせ、自ら能を舞った秀吉なんかは
特に批判したりしない。
要は、同じことしてても、勝っていれば批判しないし、負けてれば批判する人ってだけの話。
現役の将軍が自分で刀振るう状況が悪いと言ってるんだと思うが
この場合、剣を振るうかどうかは関係ないな。
攻め込まれても刀一つ振るわなかったらそれはそれで叩かれるだろ
大坂城に攻め込まれているのに最後まで出陣せず
刀も振らなかった秀頼は馬○殿扱いだし
どっちのタイプもアリで刀を振るう事が悪いって事は無いな
どっちのタイプでも有能な将軍もそうじゃ無い将軍もいる
三好長慶が将軍に対してかなり融和的だっただけで義輝側が何かしたから将軍家の権威が回復してたって事はない
大河の主役になってないのは不思議
一年引っ張るのは難しいのかな?
タヒに様が曹髦に通じるものがあるんだよな
天皇にも改元の際に無視されるなど室町殿の権威を下げただけの
無能に過ぎんがな。
朝廷はこの時代は改元申請は室町殿の権限だと見なしてる
永禄改元の際は将軍の京不在が長期化していたので
三好からの改元申請をイレギュラーな形で認めただけ
逆に義輝が将軍として在京していた長慶晩年に
三好が再び改元申請した時は朝廷は要請を完全無視して却下している
>>28
1564年の改元なら、あれは三好側ではなく松永側から出されたもの。
この時代の松永久秀は独立して行動していたという説と、
三好家の家臣として、三好家の意向の元に動いていたという説があるから、その説に乗っとれば三好側と言えなくもないが。
他に将軍家の意向の元に動いていたという説もあるが。
>>30
他にも記録だけなら、事件の7日後に書かれた樊噲も及ばないほどの働きを見せて自害という梅仙軒霊超のものや、
御所は黒土となったという御湯殿上日記など無数にあるよ。
というかなぜ日本外史をわざわざ挙げるか解らないな。
あれは信長公記や信長記などの無数の書物の記述を集めて、こうだったであろう歴史を漢文で書いた本で、
各巻末や初めの論の部分を除けば、日本外史には著者のオリジナルな箇所はないよ。まあ全く無いことはないが。
そこは成立時期不明の永禄記や、足利季世記、
後年の軍記物である小瀬甫庵の信長記や後太平記などを挙げて、信憑性を疑うべきところだろう。
ぶっちゃけ派手にタヒんだこと以外はパッとしないよね、この人。
逆に言えば、タヒに様さえ派手で中二受けするなら、
それなりにファンをつくし擁護もしてもらえるってことだけど。
時流が圧倒的に下剋上に追い風で室町的な権力の衰退期に
その伝統勢力の当事者ができることなど当初から限られてるわけで
むしろ誰がなってもパッとしようがない末期の将軍家に生まれて
義輝はいろいろと頑張った方だと思うけどね
京兆家が落ち目の時代に管領になった細川高国や晴元が
なんだかんだと20年以上畿内政権維持したのももっと評価されていい
そらタヒに様は大切よ
松永久秀とかまさにその中二コースで不動の人気獲得だし
本能寺なしで老衰でタヒぬ信長はもはや信長じゃない
三好長慶も最期派手にタヒんでたら
いまより知名度・人気がもっとあったはずたぶん
現実離れしとるというほどでもないが
というか、リアルタイムの記録が、
フロイスの手紙(最初薙刀で、次に剣で戦ってタヒんだ)と
言継卿記(自害した、とだけで戦ったかどうか記載なし)の二つだから、
信憑性って意味では、この二つが一番高い。
あとのは誰がいつ書いたかもわからんようなのか、
日本外史みたいに200年以上後に書かれた小説同然のものだし。
山科言継の記録では、将軍は討ちタヒにしたとある。
戦って自害という記録も大覚寺や信長公記や永禄記にある。
>>31
結果的に義輝○したために義昭擁立した織田が正統性を獲得して
三好滅亡の主要因のひとつになったから、まぁ因果応報ってかんじはする
天正年間に毛利が義昭擁立したときでさえ
まだ西国では鞆ノ浦幕府が「公儀」として信長の「公儀」と対抗できる
それなりの政治的権威があったわけだから
足利将軍家の政治的権威って実にしぶてぇ…ってのが実感だわ
そういう意味では三好による義輝○害は三好にとっても利するところが
なかったし、時期尚早だったとしか思えないわ
実は、北条や徳川と違って 【倒幕】はされなかったしな
足利義昭は1588年まで将軍だったしな
と言うよりも将軍で○されたのはどれくらいいるの?
のこりは源頼家と実朝くらいじゃないの?
頼朝は暗○っぽい
>>36
実朝の例があるから否定はしないが
しかし、将軍暗○の疑惑があったり 朝廷を攻撃したりしたのに そんなに非難されない北条執権
信長は義教を悪い将軍の見本と言ってる
>>42の割には同じ
渾名で呼ばれると
大喜びで戦術丸パクリな信長様
どんだけ足利義教が好きだったのやら
転々としてたがな
そんなん庇護先も亡くした南朝残党に比べたらまだマシ。
南朝残党は征夷大将軍じゃないから
水戸黄門のお陰でな。
しかも跡形もないから後腐れもないから。
どんだけ濃い人生だよ
まあ親父の義晴も39歳で病タヒしてる割に語ること腐るほどあるけど
信長はどっちが将軍でも一切遠慮はしなかっただろうし結局衝突はしたであろう
違いといえば信長包囲網を築き上げた弟ほどの調整能力は見られないので割とあっさり追放されたかもしれない
つか剣豪だったという確たる証拠もなしに剣豪将軍とか嘘広めたら駄目だろw
一応、卜伝の直門だったというのは確かだし、
上泉信綱を招いて兵法披露をさせたのもおそらく間違いないから、
剣術好きで、自分でも相応にやってたことは事実だろうな。
あと、最後に自ら戦って討ちタヒにしたのも多分事実。
でもそれだけで剣豪呼ばわりってやっぱ無理があるだろ。
結局、こいつを持て囃してる奴って、事実とか一切興味なくて、
「剣豪将軍」って言葉の響きが好きなだけなんだろうな。
過大評価してるのは中二患ったミーハーとエ○ゲーやりすぎのキモオタだけって時点でもうね
戦って討ちタヒにする前にまず一度逃げようとしてるからなぁ
刀を取り替えながら奮戦し~とかいうのも捏造だから剣豪というにはショボすぎる
当時はこういう場合、逃げるのが普通。
むしろ無謀な戦いを挑んだ無能将軍。
通説では母や家臣に逃げる事を勧められたが、武家の棟梁たる自分が逃げ出しては元も子もないと言って敢えて残ったってことになってるが
まあタヒんだら結局意味ないんだけど
大覚寺義俊の記録では、外から囲みを突破してきた幕臣が、
将軍が一人で馬に乗って東河原に逃げることを勧めてはいる。
しかし将軍は、家臣全員を犠牲にして主君一人が助かるなどあってはならないことだと、
その案をありがたいことだと感じながらも即座に捨て去り、
主従全員での脱出を目指して最後の戦いを開始したとある。
この記録においても、将軍の戦いは脱出を目指したものであり、
一人で馬で駆け抜けるか、主従一体となって戦って血路を切り開くかの方法論の違いにすぎない。
実際、彼らの戦いで何人か脱出できた幕臣もいるようだが、
早足の馬を一人で走らせても、厚い囲みを突破して京都郊外まで脱出できたかどうかは
難しいところだろう。
後年に書かれた後太平記などの軍記物では、
これで最後なので、地獄への道連れに一戦して、一人でも多くの敵を倒そうというような描写だが、
これにも母や家臣に「逃げることを勧められた」とは書いてないようだが。
>>77の「通説」というのは
信長公記などに記された織田信忠の最期と混同しているんじゃないかな。
こいつは何してたんだよw上でも出てたけど土壇場で役に立たないなんちゃって剣術か?
「母や家臣に逃げる事を勧められた」というその「通説」が何に書いてあるのかわからないが、
フロイスらの記録によれば、戦いに赴こうとする将軍を母親が抱きしめて止めようとしたが、
将軍は、「自分は、どこかで隠れて腹を切ってタヒのうとは思わない。
最後は雑兵に打たれることになろうとも、戦うことを選ぶ」とあり、
家臣らと戦って脱出することを選択したと記録されている。
永禄記やフロイスの記録では、将軍の母は逃げることを勧めたというよりは、
大将は最後の一兵が討たれるまでそれを見守るべきだ、というもので、
戦わないことを勧めるものだが、逃げることを勧めたわけではないよ。
あれは弟のが賢いというよりは、
安宅冬康を○し、将軍も○した三好三人衆が
織田信長と比べて後の考えが無さ過ぎただけだろう。
もちろん信長とて義昭を討ち取ったり切腹に追いやること自体は造作もないことだし、
その後の展開は、義輝タヒ後の三好三人衆が追い込まれていった展開よりも、はるかに楽なものであったとは思うが。
フロイスの日本史やフロイスの書簡との一致点からか、それを全面的に受け入れて、
フロイスの記述の方を逆に否定する研究者もいるが。
この二人は一応、フロイスの日本史の翻訳者でもあるのだが。
政治能力カリスマともに皆無だし
最期の話は捏造だし
「剣豪じゃなかった」というのはよくわからないな。
落語家じゃなかったとか、弁護士じゃなかったとかいうのならまだ解るのだが。
剣豪や酒豪などの呼び名は、剣や酒が強いというエピソードがある人物に、
他人があとから勝手につけるものだ。
剣豪と呼ばれるために満たせなければならない厳密な条件があるわけでもないので、
>>84が足利義輝のことを剣豪と呼びたければ、
勝手に剣豪と呼んでもどこからも文句は来ないと思うよ。
>>84は足利義輝は剣豪ではなかったと言いたいわけか。
剣豪と呼ばれるための厳密な条件があるわではないから、
この程度のエピソードでは俺は剣豪とは認められないというのなら、
それもやっぱりどこからも文句は来ないと思うよ。
第一、塚原卜伝から剣の技を学んだのは事実なのだから一般人よりは腕は立った筈
義輝が剣で戦って強かったというエピソードを完全に否定するのは難しい。
タヒ去して間もない頃に書かれた書状や、
同時代人たちの複数の記述を全部嘘だと否定するためには、
その記述に矛盾するような別の史料が必要になるが、
義輝が剣で戦って強かったというエピソードを否定するような矛盾する史料が存在しない。
仮にそれらの記録が全部嘘だったとしたら、
義輝のために嘘までついて最期を飾って讃えようとした人間が当時、
異国のバテレンから、仏僧、儒学者、他所の大名家に仕える武将に至るまで
複数いたことになる。
なかには幕府がとっくに滅んだ慶長年間に書かれた軍記物や
寛永年間に林羅山が書いたものまである。
これらを全部嘘だとすれば、
義輝のカリスマが皆無という主張のほうが揺らぐ。
おそらく捏造だろうと否定できるのは、
何本もの刀を次々と取り替えたという足利季世記や永禄記などの軍記物が記すエピソードくらいだが、
これも実際に完全に否定しようとなると、
もしそんな面白い話があったのなら、甫庵が信長記とかに採録したよね、くらいだしなあ。
まあ、この刀を取り替える話は軍記物以外では確認できないと思うので、
自分はそんな同時代の書状や日記類で確認できない話は受け入れないと主張しても大丈夫だろう。
同時代人の記録でフロイスの日本史には、長刀から打刀に持ち替えたという若干近い話はあるが。
江戸時代初期に松永久秀の子孫の松永貞徳が、
義輝などは深夜に路上で刀をふりまわして人を斬り○していただけの悪御所だった、
あんな悪御所のためにタヒんだ人間は一人もいなかったと戴恩記で書いたのも、
義輝=刀で戦って強い将軍
というイメージが当時すでに確立していたことを前提にして言い始めた悪口だろう。
このエピソードも、足利季世記等の刀を取り替えるエピソードと同じで、
もしそんな面白い話があったのなら、同時代人の書状や日記類や、
安土・桃山以降に大量に書かれた軍記物のどれかに収録されただろうという点で
やはり捏造だろうと考えられるものだが、
まあ、これも辻斬りの部分は、完全に否定できる同時代の記録も多分存在しないと思うから、
肯定する同時代の記録も存在しないが、信じたい人は信じても良い話だろう。
剣豪将軍足利義輝は本当に剣豪だったのか?っていうの読んだらカリスマ?ねーよって気分にはなる
とりあえず、こいつが剣豪って言ってる連中は、
剣持たせて強いって話があったら剣豪って考えてるってことでいいのか?
スレ違いだが、日本外史は室町幕府の将軍に、「様」のような敬称をつけたりはしない。
かの大楠公ですら、日本外史は本文では「正成」と呼び捨てにする。
日本外史が、本文で敬意を払うのは、徳川家康の一族と、浅野長政の一族だけ。
「将軍様は伝家の宝刀を数十本」などと書くのは、
足利季世記や永禄記だろう。
江戸時代に編纂された重編応仁記でも、
将軍は「公方」と呼んで、「様」はつけない。
日本外史は、論賛や序論では、
楠氏は「楠公」や「公」と呼んでいるし、
織田信長と豊臣秀吉の二人も、右府、太閤と呼んではいるが、
頼朝、時宗、尊氏らには、そのような扱いはしない。
その剣持たせて強かったって軍記物に書かれている最後が、
信用できるかできないかって話になっているんじゃないかなあ。
実際最近の歴史ゲームとかだと弟の義昭のが優秀だったりするし
誰もが納得できるような確たるソースもなしに最強とか意味不明
剣習ってるだけで剣豪になれるなら剣道部員なんか全員剣豪だわw
ラストの格闘(創作)以外あらゆる権力者の傀儡にされてるだけの義輝の大河とか見たい?
だからといって活躍ねつ造して盛りまくったファンタジー大河とか見たくないわ
阿波公方の義栄と仲悪かったってマジ?
そもそも分家の古河(喜蓮川)が特別待遇だったりと足利家のブランド力が江戸時代にも健全だった割には酷い扱いなんだよね阿波平島家って
逆に最近義昭が評価され始めてるのもよくわかるわ
ひどい歴史の皮肉と言えよう
義晴 25年
義輝 19年
無駄に長い間将軍やってるけど実績はゼロ
逃げ回ってるだけ
これほどの馬○親子はそうそういないだろうな
あまりに逃げ回りすぎて義輝とか正親町天皇からも見限られてるからな
こいつじゃ駄目だと思われたんだろうね
たしか、天皇からは完全に使い物にならんと見做されて無視されてたから慌てて大騒ぎして存在アピールしたんだっけ?
室町幕府の衰退ぶりが伝わってくる
>>121
12歳で将軍になった義輝に何を望んでいるのか…
無力な将軍を支えた政所頭人こそ今で言えば菅官房長官みたいなもの。最後は
三好に寝返って討伐されたけどな。最新の研究では伊勢氏の凋落がそのまま室
町幕府の終焉と見なされている。
堀越公方で傍流なら誰に変えても傍流だろ
実際にやってた事と乖離していくのが面白い
信長の時代まで義輝が生きてたらやっぱり政治できない上に態度ばかりでかくて
信長に鬱陶しがられて追放されるかぶっ○されるかしてたんだろうな
精々薙刀の扱いがうまいってことくらい?
いよいよ剣豪とはいったい・・・
とは言っても、鉄砲も少量ならどうにもならないだろう。ガトリング砲が20-30門あれば
別だが。
最後の大立ち回りは創作
家宝の刀もこいつが集めたものじゃない
免許皆伝も出来てなかった
これじゃ刀のオマケとすら名乗れないじゃないですかやだー
細川半将軍家のほうがマシだな
織田信長の縁で三春秋田の国家老として直系残ったようだからな
細川家がそもそも足利の分家なんだから
足利が直系は残らなかったが傍系は残ったってことだろ
成功してりゃ一端の武将に入れられたかもしれんが。
大したこと何もしてないのに風説ばっか一人歩きしてるよね
嘘も百回言えば本当になるってどっかの言葉思い出すわ
実物はかなりどうでも良さそう
傍系も含めれば
細川最強
細川幕府(足利に勝利)
細川連立政権(自民に勝利)
二度も日本史に衝撃を残した。
ならその細川を傍系に持つ足利の方が上ではないだろうか
生まれてタヒぬほぼ直前まで晴元に利用されっぱなしで終わった
自分の地頭の悪さに足元掬われて自爆しただけだろうが。周りを悪人にすんな
その点同じく暗○された義教なんかは完全に自分が悪人扱いだな
義教治世の前半は善政を試みようとしたがいくら号令かけても
既得権益層の壁にぶつかり挫折して専制に走ったのだが
その後半の政治だけ取り上げて恐怖政治とか言われるのは少し可哀そうな気もする
しかもそれを六角家の家臣に送ってる
よっぽど腹に据えかねてたんだろうな
煮ても焼いても使い物にならなかったから○された→○
19年も将軍の座にいながら何やってたんだよとは思うね
つーか義輝の最後って盛った創作にしたっておかしいとこありすぎだわ
だいたい畳に刀刺して一箇所に留まって戦ったら鉄砲で蜂の巣にされるだけじゃねーか
フィクションにしても適当すぎなんだよなぁ…w
https://www.youtube.com/watch?v=i_ZjUE0aEb8
(32分あたり。)
それもあるけど、急襲されてるのにわざわざ蔵から刀集めて持ってきて更にわざわざそれを床に刺すとか悠長すぎるよな
そんな余裕あったらそもそも○されてねえだろw
後から考えるとあまりにボロボロな創作話だ
自分は逆に刀に囲まれて動きづらくなるだけやんと思った
まー日本外史は小説と言われるくらい創作性強いから実物とかけ離れるのも仕方ない
以前宇喜多秀家主役の舞台やったとこらしいが全く知らん
義輝役の俳優も無名だし原作は捏造200%の宮本昌孝の剣豪将軍義輝って時点で微妙すぎるんだよなあ
もっと史実に沿った話だったら観に行ったのに
中学の学芸会レベルになりそう
経歴詐称したの誰だよ
「永禄の変の時に義輝は天下五剣を持って戦ったんですよ!!」とか言ってたのをガチの歴史ファンに
「その部分の出典どこ?ソースは?」って突っ込まれ「…実は創作要素強めの日本外史が出典でそこにも
天下五剣使ったとは書いてません」って今しがたの自分のツイートと矛盾しまくる発言しててクソ笑った
よく恥ずかしげもなく大嘘噴けるよな。義輝厨のそういう厚顔無恥ないところが大嫌いだわ
歴史知識スカスカのマイナー芸人の話なんぞ一mmも当てにならん事がよく分かるな
見たけど何で史実で所持したソースかけらもない五剣を義輝が所持したみたいに言ってんのこのバ○
しかもその直後に訂正してるしw
息をする世に嘘を吐くなよ・・・五剣ファンとしては義輝ageのためにこじつけられてる感じがして不快だわ
義輝なんかどうでもいいっつうの。どうせ無関係なんだから
だからフィクション系をドヤりながらさも史実のように語るなと・・剣豪将軍なんて宮本昌孝の小説から出た創作ネタなのにねえ
でも盛大なフィクションネタの後に史実ではありませんと注釈してるだけまだマシか
嘘ついて投げっぱなしの阿呆見てると失笑するしかないが
今まで義輝ageのために久秀を極悪人に仕立て上げてきたツケが回った
としか思えん。松永久秀ファンとしちゃざまあとしか言えんし
バサラとかいうゲーム関係なく義輝はダメダメだと思う。
あまりにも無能続きだったからだし足利家好きからもイメージ悪いわ
人生の大半逃げ回ってただけで権力者(爆笑)だし剣豪将軍なんて舌が真っ赤になるくらいの大嘘じゃん
盛れば盛るほど史実から外れて齟齬が出るってみっともないな
義昭はなんだかんだで知名度高いし結果はどうあれ諸大名に根回しして信長包囲網も作り上げたからそこまで無能イメージない
意味不明な過大評価もされていないし、むしろもっと評価されるべき
義輝=活躍の九割が創作。周囲の人物を悪人や暗愚に描くことでしか大物感が出せない雑魚
義昭=クズで小物な兄をよく見せるために無能にされた哀れな弟
こんなイメージ
少なくとも「華やか」という言葉からは程遠い
藤孝が様々な文化や芸術に親しんで人生楽しんだイメージがあるから余計にそう感じる
>>233
足利ラスト3代を主役に大河やったら面白そう
義輝はNHK大河太平記で言う足利貞氏みたいな役回り
証拠に乏しすぎるし免許皆伝の証拠も残ってないんだろ
一番足利義輝に頭が上がらないのは上杉(長尾)だと思うぞw
足利義輝が変な課題気味になったのは間違いなく上杉も一枚噛んでると思う
確か上杉謙信関連だと結構義輝持ち上げてなかったっけ。
まあ実際一番恩恵受けた大名だと思うよ
上杉と大友だな
義輝はゆくゆくは上杉が関東、大友が九州を制圧して、
幕府再興の軍事力になってくれると期待したのだろう
上杉は兎も角、大友が何時迄も義輝の臣下に留まるなんてあり得ないだろう。
普通に松永の二の舞になったと思うが。
上杉博物館で謙信宛ての書状(本物)を2つほど見ました。
長尾平三どのとなっていました。
謙信に期待していたのは間違いないと思います。
真偽はともかく、国宝の上杉本洛中洛外図屏風は、義輝が発注して謙信に送ろうとしていたが、
暗○で中断し、その後それを知った信長があらためて送ったとする説もあるそうです。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1386430670/
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