最近の教科書では、聖徳太子を「厩戸王(聖徳太子)」と記すようになった。憲政史家の倉山満さんは「聖徳太子像は奈良時代の創作と指摘され、『聖徳太子はいなかった』という大珍説まで広がった。聖徳太子と呼ばれていなかったからと言って、事績を片っ端から否定することは間違っている」という――。
古代史の偉人・聖徳太子が「厩戸皇子」になったワケ
小学生がやりそうな、ひっかけクイズです。
Q 法隆寺を建てたのは誰?
A 聖徳太子!
Q ぶー! 大工さん?
学界って、このレベルの議論を始めるので、タチが悪い。つまんない話をしたので、お口直しに!
昭和を代表する国民的歌手だった三波春夫氏は、「お客様は神様です」というステージ・フレーズでよく知られ、今でも使われます。ちなみに、このフレーズに調子に乗ってクレームをつけてくる客に対しては「他の神様にご迷惑です」と答えるのが接客業界では密かに推奨されているとかいないとか。
それはともかく、歴史研究家の顔も持つ三波春夫氏には、『聖徳太子憲法は生きている』(小学館、一九九八年)という著作があります。たいへん堅い内容の本です。この本では、最終的に偽書であると認定された『聖徳太子五憲法』(小川多左衞門、一七八八年)という書物が研究されています。
偽書・偽文書の研究は難しく、偽物だと言ってもそのすべてが嘘とは限らず、本当の部分だけを抽出して事実を再現する手法なので、極めて高度な技術が求められます。三波氏は『聖徳太子五憲法』を使って、「十七条憲法は八十五条憲法だった」と主張しています。すなわち、太子の残した憲法は、「通蒙・政家・儒士・神職・釈氏」の五つに分かれた合計八十五条憲法だったとのことです。そう言われると、納得のいくことが多々あります。
世紀の大珍説「聖徳太子はいなかった」
十七条憲法は、天皇よりも先に坊さんが来ています。第一条が「和をもって尊しとなし」、第三条に「天皇の勅語には必ず従え」、その前の第二条が「篤く三宝を敬え」で、「仏、法、僧を大事にしろ」です。極めて不自然です。八十五条を解体、一つにまとめた時にこうなったのは仏教界の意向が反映された、との仮説は成り立ちます。
別に仮説であってこれが正解だなどと断定はしませんが、「仏教を信仰する聖徳太子は蘇我馬子と組んで神道を固守する物部氏を滅ぼした」などというイメージだけで語るより、その後も神道家や儒学者が太子から崇拝された日本の歴史を考えると、三波節の方が私には説得力があります。
そして、まったく説得力がないのがこれ。
世紀の大珍説
聖徳太子はいなかった。
この後に「厩戸皇子はいたけどね」と続きます。なんじゃそりゃ。
これが学界を二分する大論争になったのですから、日本古代史学界も落ちたものだなと横目で見ていました。しかし、この説、マトモな人には否定されたので、さすが古代史学界と安堵あんどしたのも確かです。
主唱したのは、中部大学教授(現・名誉教授)の大山誠一氏です。片っ端から聖徳太子の事績を否定し、「厩戸皇子の確実な事績は、斑鳩に住んでいたことと法隆寺を建てたことかもしれない、だけ。いわゆる聖徳太子像は奈良時代にでっちあげられた」と主張しています。あまりの衝撃的な内容に、この人の太子がらみの本を全部読んだのですが、腰が砕けました。結局、それかい?
以下略
2023/11/02 10:00
左翼に嫌われてる偉人なのかな
坂本竜馬が活躍したのは小説の中だけみたいだぞ。
坂本龍馬は偉人でも何でもないただの浪人だったことが判明したからだろ
ややこしいからな
もう一ヶ月に数回改名や官位ついたで変えてるペース
二年も同じのでいたことない
ひでえ扱いだな
根拠は三波春夫の研究だけだし
元記事読んだが取っちらかったなかなかの悪文やな
卑弥呼
坂本龍馬
そのうちみんな教科書から消えそう
とりあえず卑弥呼は中国人が付けた蔑称だから変えてほしい
ソレは仕方ない。
卑弥呼に限らず、古代中国の史書に出てくる異民族の名前や国名は基本的に「賎しい漢字」を当て字する事で「一目で中国人では無い」「中国文化圏の国では無い」と判るようになっている。
むしろ当時の中国人が如何に差別的な民族だったか、そして当時の中国人が「何処まで中国の領土と考えていたか?」を知る上で重要な手掛かりになる。
そもそも卑弥呼が本当にいたかどうかも不明なんだから、今のままにしておいた方が良い。
卑弥呼を火見子という漢字に変えよう、みたいなムーブメント無かったっけ
まあロマンも無くなるかもだけど
ボウジ石という巨大な岩を山の上から数キロm投げて飛ばした
7人の言葉を同時に聞けた
こういうエピソードのせいで胡散臭くなってるんだと思う
そこまで面倒くさい事はいらんよ
高校の世界史で十分
それでウクライナ戦争起きることは予め分かったよ
研究が進めば色々変わるのはしゃーない
マジ?東軍西軍がっつり組み合って戦ったというイメージしかないわ
珍説の類じゃなく一応しっかりした史料がベースになってて、関ヶ原の戦いから二日後に吉川広家が認めた書状が根拠になってる
家康が9月14日に赤坂に着陣したことにより、徳川方の先手衆が青野ヶ原(垂井)に進軍
↓
すると松尾山の小早川秀秋がそれに呼応するかのように裏切りの色を見せた
↓
秀秋の裏切りを察した大垣城の宇喜多秀家や石田三成らは、山中に布陣していた大谷吉継が危ないと見て大垣城を出て関ヶ原方面へ進軍を開始
吉川広家は三成らが佐和山城に退くように見えた
↓
そして三成らを追って東軍も関ヶ原方面へ進軍
三成らは最初から佐和山城に退くつもりだったのなら、なぜ関ヶ原に留まって戦ったのかという疑問は残るが
なるほど確かに追撃戦だな
西軍主力は小早川秀秋と家康らに挟み撃ちにされて佐和山まで退却できなかったとかかね
まあ理由は不明だけど、佐和山まで退きたくとも退けずに関ヶ原に留まらざるを得ない理由があったんだろうな
ただ西軍主力の考えとしては関ヶ原で決戦するつもりは当初なかった可能性は高いな
歴史研究者の間ではされている
それを尊重すればよい
昭和後期の歴史研究者が架空の人物にしようとしてたら
真筆を多方面から出されて架空に出来なかったんだよ
野球選手だった八名信夫なみのびっくりだな。
当時の都は飛鳥
自動車がない時代にどうやって通勤するの?
不可能でしょ
つまり、廐戸皇子は仏教を広めることに必タヒで政治をやってなかった
では誰がやってたのか?
答えは簡単、蘇我氏だ
蘇我氏の優れた政治を全部聖徳太子の功績と捏造したクーデター野郎が藤原氏!
歴史の捏造者としてもっと糾弾されるべきだね
まあ蘇我氏が天皇の息子を○害したのは事実であって
極めて素朴な疑問
なんで突然に厩戸皇子に変えろになったのかさっぱり
どっちでもいいように思うが
聖徳太子はいなかった!って本を真に受けた人たちがクレームつけたから
歴史に夢見すぎ
今現在ガザ地区で何が行われてるのかわからないし
ハマスが悪いのかイスラエルが悪いのかもわからない
そんなもんなのに何百年何千年後に真実なんてわかるわけがない
次は 一万円:徳川家康 五千円:足利尊氏 千円:源頼朝 にして欲しいよ
足利尊氏とかまた荒れそうなネタを
後に名付けられた尊称でしょ。
それより数百年も前の聖徳太子の真実は誰にもわからないな
鎌倉幕府は壇ノ浦の戦いの1185年からに変わったんだっけ?
これは学生時代から俺自身変だと考えてたくらいだからわからなくもない
江戸時代も家康が征夷大将軍になった1603年からじゃなくて関ケ原の戦いの1600年からでしょ?
一貫性を取ると鎌倉時代が1185年になるか江戸時代が1603年からになるかいづれかになる
つかこの前提を報道しない自由かなんか知らんがまず教えなくておかしな話ばかりしてる事に違和感を感じる
何百年前の話で数年の違いに何の意義があるかなんだよな
関ヶ原は何とか食いつないだ薩長と土佐の郷士、幕府側なだけに反旗をとる水戸浪士の反乱に繋がってくことを知ってこそ歴史なのに
あれほど大金感が漂う肖像画は他にない
いや、慶應大学の祖だから
しばらくほとぼりさましてまた慶應大学の祖に戻るよ
それなりに有能レベルくらいだろうと予想w
そもそも太子って蘇我の近親者なんだが
大勢の人が一度に言ったことをすべて理解し、一人ずつに的確な返答したというのは作り話だろうけどな。
語学は堪能だったんだろな。それが、ちょっと変化を加え超人的な話にされた。
豊聡耳命なんて名前を付けられているし。
未開の地に文明をもたらすくらいの大改革やってっからね
インパクトは一人で明治維新やる様なもので
片腕に蘇我馬子がいたとしてもそりゃ疑われるほど功績あるでしょ
日本のその後の政治権力史を見れば、例えば鎌倉幕府で言えば「蘇我宗家=北条氏得宗家」「聖徳太子=摂家将軍・皇族将軍」みたいな関係だと想像した方が、よっぽどしっくり来るのだが?
そんな名前つけるかっていう
「馬子」「蝦夷」「入鹿」、そして「厩戸」
蘇我氏を呼ぶ場合は何故か蔑称が多い。本当の名前ではないのだろう
オレは藤原氏が蘇我氏を呪詛するため、記紀には蔑称のみを残すことを意図したのではないか? と想像しているが
岸田を
増税メガネ
増税クソメガネ
こうやって記録に残すのと同じだな
天皇の諡号を漢風にしたのは藤原不比等の時代。
書紀や古事記を制作する際に考えたんだろな。
別の呼び名があったはず。
隋書に聖徳太子の時代の大王の名を多利思北孤(たりしひこ)と書いている。たしりひこが誰を指すのか諸説あり定かではない。
その中間の記録が無い
聖徳太子と呼んだってええやん
後世に生まれた愛称で呼んでもええやん
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1698930317/
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