大友宗麟です。九州を統一したいのですが、どげえしたらいいですかのう?
どげえしたら島津を倒せるかのう?
よだきい~
70: 2012/08/22(水) 16:22:03.73
立花さんに家督を譲れ。それで大友は安泰だ
立花家って大友家の庶流だっけ
大友の家督を譲ることって実際出来るの?
立花家は大友庶流。
一度断絶するけど、その跡を継いだ道雪、宗茂も大友庶流の生まれ
他の大名や国人と同様統一は目指してなかったと思う
大名権力が強かったという事
中央集権に成功していたんだな
日本人の事だからカトリックともプロテスタントとも違うキリスト教造って
教皇領から異端認定くらいそうなんだけど
こいつの屑ぶりには泣ける
政務を放棄し
昼夜問わず酒色に溺れ
家臣の妻を無理やり娶り
それについて苦言を言う家臣は問答無用で切り○し
武器、火薬欲しさに領民(女、子供)を奴隷としてポルトガル商人に大量に売りさばき
あまりの蛮行にタヒした後、罰っせられると恐れたのか
信じるものは救われるとキリスト教に改宗し、それを領民にも強要
ついでに寺院を焼き払う始末
実際地元の人はこいつのことどう思ってんの?
>>領民(女、子供)を奴隷として
じゃなくて奴隷は敵の領地で得た捕虜や人狩りだろ
それぐらいだったら世界中で行われている事だ
大体女を売っちゃだめなのか?男だったらいくら売ってもいいのか?
フェミニスト
今は男女同権だから
女でも売ることは別にどうでもいい事だな
無論人狩りはだめだがな男でも女でも限らず
思い具足来て戦いに出てたんだろうか
武威によって仕方なく配下になっていた
だからよく反乱起こされた
耳川の十数年後にタヒんじゃうし
キリスト国は無理だね
無理に建ててもアリウス派のように異端認定されるようなキリスト教になるだろう
真面目に信仰していたらしいのは、最晩年だけらしい。
臼杵に移ったときも、主だった宣教師たちは府内に残したままだったしな。
大友家に従っていた国人領主の違いがよくわからない
国人=城持ち土地持ち
家臣=自分の土地と城を持っていない
てイメージある
耳川の戦いではイエズス会士が軍事顧問団よろしく従軍してる。
このとき彼らは西洋甲冑着てなかったっけ?何かで読んだが
よく覚えとらん。
西洋も日本も主力は農民兵とかだから
国人は外様みたいなもの
国人=自分の土地持ってて大友氏に従っている人たち
だと思ってた
その他は国人であって家臣ではないと思ってたということかw
大友城下町に屋敷を構えて出仕している人たち
国人=諸国で従っている大友幕下の領主
豊後に参府して八朔之儀をおこなった人たち
豊後国内だって臼杵やら戸次のような大友一族の有力領主がいれば、
佐伯や小原のような国人領主もいる。
他国にも立花のような大友一族がいれば、蒲池のような国人領主もいる。
一族同士でも裏切ったりすることがあるのがこの時代
家臣か国人かの区分て曖昧だから
陰謀・暗○・一方的な断罪と討伐の中で幼年期を送り当主となり
壮年期まで大勢力に物を言わせてやりたい(簒奪・寝取り)放題
島津に負けると一気に萎縮
一番勢力の伸張した時期が、生涯で一番見苦しい人。
だから、人格を改めるか、勢力伸張なんてしないか、どちらかで生きてほしい。
松平健主演のNHK正月時代劇です。
白石一郎さんの作風は好きだ。
でも実際問題知名度と文壇的地位は遠藤周作のほうが高い。
だけど遠藤周作「王の挽歌」は正月時代劇で使ってしまったので
大分は違う作家に原作を書かせよう・・・と、云うのだろうか?
大河誘致で必タヒになってる市町村は本当に多いのだが
「まず県内で妥当な人物をみつけ、そして誰かに原作を書かせる」
方式が「天地人」で成功してしまったのも、良くない風潮。
>>77
大友宗麟って、キリシタン大名というわくを外してみると
なかなか現代でも通用する広い視野を持っている人物なんだけどなあ。
つまらん偏見がまとわりついていて哀しい。
大内、今川、細川、大友
戦国を生き残れなかった大名への評価が辛いのはしょうがない
>>82
>>81は管領を出した嫡流の京兆家を指しているのだとおもう
藤孝の家はものすごく大雑把に置き換えると、大友における立花のポジションだし
大友は義統がなぁ…
九州から毛利の影響力を削ぎ落とすのが肝要
代々、主だった戦に参戦し討ちタヒにしてる
ところが関ヶ原ではわざわざ宗茂に直接暇乞いしてまで大友家のために…
宗麟の理想なりがあったのか知らんが、戦の前に不和を生んでどうする。
将兵の中には神仏に信心のある者も多かろうに。
耳川で名のある将がどんだけタヒんだことやら。
アレ資料や行動を見ると主導は息子で、本人は好みに作った村で老後を過ごそうとしただけって感じだけど
ここに限らず資料と一般認識がズレてるぽい部分がやたら多いんだよねこの人…
>>113>>114
江戸以降ガンガン評判が下がっていったんじゃってイメージがあるなぁ
江戸時代開始まで大名家が残らず、江戸時代ずっと残った上明治以降は権力中心で大活躍な島津さんの敵役
元が強大な上扱い酷くてもエライ人に睨まれないと、悪役として使いやすかっただろうなーって思う
近年ではキャラ付け優先で宗教キチイメージばっか押されてるし、評判的に色々不遇なのは間違い気がする
>>115
フロイスの日本史読むと確かに日向侵攻での神社仏閣破壊は
宗麟じゃなく義統の指示になってるね。
近年の宗麟のキャラづけはひどくなってる。
とくに漫画でのあつかいがひどい。
某島津マンガで改宗を拒否する庶民を虐○してるけど、
実際の宗麟は強制による改宗はよくない。
自発的にキリスト教を信仰しないと意味がないという考え方の人だったんだけどな。
むしろ庶民人気は凄かったぽい、日本発の病院を含めてこの時代に福祉関連色々やってる上最後がアレだし
江戸前に消えてるのに太平の江戸~激動明治が過ぎても地元人気続いてるのは凄い
>>118
知識量や手腕を見る限り、流石にヤバイって気付いてはいたと思うけど…
おそらく二階崩れの後継ぎ騒動が相当深刻なトラウマになってたんじゃないかね
精神的に多感な時期に、当時の環境含め人生左右する出来事としては強烈すぎる
人身売買は島津の方なんだがな。
大友は銀や硫黄で南蛮商人と取引していたと記録が残っているが、
明治の学者の徳富蘇峰が宗麟は人身売買をしていたのではないかと推測したのが
現代に間違って「人身売買をしていた」と断定の内容で流布してしまった。
守護大名の延長で国人連中の首領ってイメージ
どこも戦国大名もそんなもんだぞ
男の本能そのままに生きた人。
そういう風に思ってた時期が私にもあったのですが、実はそれは戦乱に
明け暮れる現実から逃げていただけのこと。
内面は弱い人間だったのだと思います。
島津から責められてキリスト教に逃げ、秀吉に頼り、難を逃れたものの
結局はお家取り潰し。
でも現代人に通じる人柄であり、私は嫌いじゃない武将の一人。
は、獣にも劣る」と長寿院盛淳が諌める。
蒼天航路の第二形態デブ袁紹みたいに象に乗ったり誇大妄想周囲に振りまいてそう。
家臣の妻を寝取ったとうるさいが、
あれ、原本では、家臣が謀反→謀反を鎮圧→謀反人の妻を屋敷に預かる。
という流れでまったく寝取ったという逸話ではないんだが。
みんな、家臣の妻を奪う→家臣が激怒し挙兵→家臣を斬首。
という逸話だと勘違いしてないか?
ちなみに原文でも屋敷に預かったという感じの表現で、
宗麟が家臣の妻に横恋慕していたという情報はなかったとのこと。
これらは現代の研究家がそういうふうに思いこんで論文に書いたという間違いをおこしたようだ。
オックスフォード・上智大などが、この大友氏を擁護してるんだよね
戦略上当然だろうけど
地元からもさして愛されていない大名だから別にいいんじゃない。
せめて俺くらいは大友宗麟を擁護するよ。
視野が狭いな、民間でも好意的な宗麟研究はやってるよ。
それにたぶん上智大だと思うが宗麟否定の講義をしていた。
ムカつきながら拝聴したけどな。
実際宣教師の強引な布教に苦言を呈して注意しているし、
宣教師が国主権限で家臣達に受洗を厳命してほしいと迫ると、強制はよくないと拒否している。
あなたが思っているような人物では宗麟はない。
おかげでうちの祖先の神社も焼き払われ古文書が消滅してしまった。 筑後の国に有ったんだが。(今は再建されてるが)
>>133
宗麟にまったくないわけでないが焼き討ちは大半は息子の義統統治時代の事件だぞ。
それに寝ぼけたというが、どこが間違っているのか教えてくれよ。
あの書き込みの宗麟の行動は宣教師の記録に残っている逸話だ。
宗麟はそんな事は言わないはずだ。とかの感情論はダメだぞ。
別の所に陣を張ってる間にスキをついて火を放って行った卑怯者。
焼き討ちは二重支配や寺社腐敗解消のためという説がしっくりくるかも
代わりに教会建てまくったというわけでもないし、奥さん(筋金入神道)とも仲良かったみたいだし
調べるほど印象が変わる、実は酷い戦国の南蛮シリーズに巻き込まれた人という印象
あと薩摩の敵役なのが相当逆風っぽいかな
>>136 >焼き討ちは二重支配や寺社腐敗解消のためという説がしっくりくるかも
どこからそんな妄想が湧き出て来るんだ? 数千もの寺社仏閣を焼き払ったんだぞ。
当時の神社や寺は地元密着で庶民の信仰は厚かった。 キリスト教なんて豊後以外は殆ど布教されていなかっただろ。
単にキリスト教を布教するために邪魔なものを焼き払っただけの暴力行為の何物でもない。
自分の領地内だけならまだしも近隣諸国にまで攻め入ったんだぞ。
1579年か、やっぱり宗麟が隠居してからの息子の統治時代の事件じゃん
数千もの焼き討ちとはどこの情報だよって話。
焼き討ちの理由に関しては息子の大友義統が書状に「大きくなった寺社の財産を没収して家臣に分配するため」
とハッキリ書いている
豊後以外は布教されていなって、肥前に宣教師の西日本管区の布教の本部があったんだが
あと、宗麟が寺を建立した経歴があることをどう説明するんだ?
宗りんも悪い気はすんだけど?
北の金親子みたいなもんだろ
よく言われている宗麟が大御所として義統の政治に口出しした2頭政治を始めたのは耳川の敗北以後。
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