【歴史】家康と徳川家臣団、名家自称も実際は出自不明な流れ者の集団か
徳川家の菩提寺、大樹寺(筆者撮影)
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今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、これまでの狸おやじのイメージを覆す、情けない家康を描いた斬新なドラマである。
殿さまである家康は情けないが、その家臣団の団結力はどの戦国大名にも負けない強固なものだった。とはいえ、その譜代の家臣団たちは、絶対服従の織田家や、カリスマに率いられた名門武田家などとは違い、殿さまと家臣の距離感を含めてなんだか怪しげな雰囲気を醸し出している。
■松平氏のルーツ
徳川家康は三河の国衆松平氏の出身である。松平氏は家康の代には落ちぶれていたが、もともとは西三河を代表する有力国衆であった。そして、その先祖は清和源氏新田氏の一族である得川氏で、そこからのちに名字を「松平」から「徳川」に変えたとされている。
しかし、これは自らを権威付けするためのウソで実際の出自はわかっていない。
三河の山中の一武士だった松平氏に婿入りした、流れ者の親氏という人物が松平一族を一躍発展させたものだ。
孫の信光の代には山間の松平郷から岡崎平野に進出、多くの子を各地に配して勢力を広げたが、京の室町幕府とも関係を築き、その弟の益親は京で金融業を営むなど、他の土豪層とは違った活動を見せていたことがわかっている。
■家康の家臣たちのルーツ
主である松平氏が出自不明なため、その譜代の家臣たちの出自もよくわからない。家臣団筆頭の酒井氏は松平氏の分家とされる。ただし、二系統ある酒井氏は、その先祖についての伝承が異なり今一つはっきりしない。
大久保氏は、家伝によると藤原姓で遠祖は下野の名門宇都宮氏の一族。南北朝時代に泰藤が南朝に属して転戦、新田義貞のタヒで越前国から三河国碧海郡上和田(現在の愛知県岡崎市上和田)に来住したというが、これも伝承の域を出ない。
鳥居氏は熊野の鈴木氏の一族で、忠氏が父との不和から三河国渡(現在の愛知県岡崎市渡町)に移り、その17代の孫にあたる忠吉が岡崎城主松平清康に仕えたというが、忠吉以前の鳥居氏の動向ははっきりせず、歴史上に登場したのは忠吉以降のことである。しかも、鳥居氏は通常の武士ではなく、商人としての側面もあった。
そして、家康家臣団に数多くの流れがあった本多氏は、藤原北家の一族で助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称したのが祖というものの、この豊後本多という地がどこにあるかはわからず、豊後からどうして三河に移り住んだのかも不明という謎の一族である。
さらに、石川数正は河内石川氏の子孫というがやはり怪しく、服部半蔵は伊賀の名家服部家の出であるのは間違いないが、なぜか父の代に伊賀を出て三河に住んでいた。
■流れ者の集団
ようするに、みな名家の末裔とはいいながら、実際にはよくわからない他国からの流れ者達である。
そして、やはり流れ者から地元名士の婿に収まった松平氏のもとに集結した、流れ者集団であったことになる。(以下ソース)
5/24(水) 12:20
https://news.yahoo.co.jp/byline/moriokahiroshi/20230524-00341518
信玄にビビって漏らした野郎が神君とか受けるwww
そういうことをちゃんと調べない>>1みたいなのはダメ
足利尊氏が鎌倉幕府を倒幕できたのも三河地方に居た足利一族郎党のおかげで、その関係でここから室町時代に守護大名やら守護代やら代官が全国に散らばってった訳
この記事面白いな
>孫の信光の代には山間の松平郷から岡崎平野に進出、多くの子を各地に配して勢力を広げたが、
>京の室町幕府とも関係を築き、その弟の益親は京で金融業を営むなど、他の土豪層とは違った活動を見せていたことがわかっている。
ここら辺は愛知県内で流通してる地方出版の本とかだと普通に記述されてる話
松平家は奥三河で代々林業を営んできた平民の家系で、林業で財を成し、山を出て金貸しになって、あとはそこに書かれてる通り
新田義貞の子孫というのは完全な創作
そもそも奥三河の更に少し奥の伊那郡左〇辺(さかんべ、今は坂部と当てる)に熊谷貞直という武将が南北朝期に落ち延びてきているが
こっちは本物の新田義貞の隠し子で、母間の実家に預けられて育てられた関係で熊谷を名乗ってるだけ
この貞直の子孫は帰農し、左〇辺に定住して江戸時代には郷士になっている
徳川家が貞直を知らないわけがないから、義貞の子孫を名乗った着想ってここら辺かなと見てるけど
>鳥居氏は熊野の鈴木氏の一族で、忠氏が父との不和から三河国渡(現在の愛知県岡崎市渡町)に移り、
>その17代の孫にあたる忠吉が岡崎城主松平清康に仕えたというが、忠吉以前の鳥居氏の動向ははっきりせず、
>歴史上に登場したのは忠吉以降のことである。しかも、鳥居氏は通常の武士ではなく、商人としての側面もあった。
ここら辺も伊那郡の歴史とリンクしてるな
今出した貞直の代で合っていたと思うが、貞直は日記でこんな事を記してる
この地には誰も住んでおらず、集落がなく、言葉を持たない、赤い髪をした連中だけが、山の中でぽつんと暮らしている、と
伊那郡は南北朝時代まで、天竜川の西岸地域は未開地で、地続きの美濃国側には地名にアイヌ語の名残がある物が見られている為
どうも伊那郡の西岸地域や美濃国には原住民であるアイヌ系の人達が住んでいた可能性があるらしい
で、宗長親王が現在の長野県大鹿村に入った関係で、伊那郡に南朝方の城主格の武将が多数落ち延びてきて
天竜川の西岸地域に落ち延びてきて、家臣らと共に原野を開墾し、開発領主として土着してる
またその関係で、現在の下伊那郡地域で、愛知県境に近い地域は、知名度は低いものの、南北朝時代の合戦場になってる
彼らが武田家の兵役に応じて、足軽の身分で騎馬武者として参加して、三方ヶ原や長篠で戦闘集団で戦ってたらしい
動員された人数は、全員で1000名だったか、騎馬武者が1000名だったかは忘れたが(騎馬の場合、従者が付くので、兵数は約4倍)
彼らは天正年間に武士を続けたい者は飯田城下に出るよう秀吉より御触れが出たのだが
それを拒否して多くの家は帰農した為、江戸時代には完全に農民になって今に至ってる
小牧・長久手の戦いの後、九州征伐の前の1586年初頭に
秀吉は家康討伐を計画してその前線基地となる大垣城に15万人分の兵糧を備蓄したけど
木曽川の流れが大幅に変わるほどの天正大地震でその大垣城は壊滅
秀吉軍が展開予定の美濃・尾張・伊勢地域の城や街の被害も大きくて
もはや家康と戦争どころじゃなくなってしまったからなあ
宇都宮氏を始めとする関八州の戦国武将たちは豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏に付いてまとめて御家断絶の目に遭ったりね
宇都宮は反北条だろ
宇都宮が改易になったのはお家騒動が起きて浅野の養子を後継者にする約束を反故にして
浅野が秀吉に讒言したからだ
明治時代にニセ家系図が流行ったんだろ
あれは先祖が嘘つきだったということに等しい言葉なので使わないほうが好印象
もちろん本物もいるだろうが
ウチも爺ちゃんがしきりに武家を自称していたが
あったとしても偶に戦に駆り出された農民だと思ってる
元いた土地の話聞いたら物見櫓や土塁なんか作ってそうな山だったな
流石にそれはない
そもそも経済力のある家庭が財産を子供達に与えて独立させて、そうして戸数が増えて行ったと考えると
必然的に上流にいて権力を持っている武家の子孫がどんどん増えていく形になる
本家から分かれたばかりの分家は武家の面目を保てるが、分家の分家は分け与える財産は少なくなるし
分家の分家から更に分家すれば、最早、武家としての面目を保てるような土地も財産もないから、庶民として暮らす事になる
多くの人の出自は、この「庶民として暮らす事にな」った庶流の人達だよ
>>272
士族は単に明治時代に制度を作った時点で仕えていた大名家があった者に与えられただけ
武士の家筋だから与えるものではないので、浪人者は武家でも容赦なく平民にされてる
有名どころではっきりしてるのは
井伊直政くらいか
(´・ω・`)
本物の名家の流れで強かったのは
毛利は源義家に軍略を教えた大江匡房、
頼朝家臣の大江広元の末裔
六角、畠山、細川あたりは名門になるんじゃないの?
貧乏な公家とかがアルバイトでやってたり
さすがに松平家の家系図造りは苦労しただろうな
商人の側面ってあるからそこら辺は上手く繋がりを持てそう
相手のメンツ潰さない様に融資とか融通とか
都の貴族騰落表作ってる様なのも中にはいただろ
運と実力はあったってこと。
織田氏は越前国の織田(おた)荘(現福井県越前町の織田地区)にある劔神社の神職系の一族、
または越前守護の斯波氏の家臣で織田が拠点だった豪族が起源とされてて
織田信長自身も認識してる
あいつら当時どうやって覚えてたんやろうな
本多もたいがい多いが
地名やろ
地元民からしたら馴染みのあるフレーズばかり
お前は地元民かもしれんがほとんどの人間は違うだろ
当時も尾張の織田や駿河の今川からすりゃ三河の地名なんか
そんな馴染みないだろうし
○○松平が△△松平と揉めたのを□□松平が仲裁したとか言われてもわけわからん
織田も多いけど松平ほどではない
松潤には家康はムリだった
どう考えても山賊の家系
むっちゃド田舎を本拠地にしていた武士って結構おるような気がするなあ
朽木一族の朽木ってものすごい田舎やし、遠山一族の遠山もど田舎やし、
上杉一族の上杉も田舎やし、足利一族の斯波家なんてなんで陸奥?出羽?の
山奥の斯波(紫波郡)なん?って思ってしまう
山賊なんて
戦時の逃亡敗者ぐらいで
代々続けるなんて不可能
海賊は海域支配して大名になっていったけどな
現代的価値観で見れば松平郷はど田舎だけど
信濃と三河を結ぶ足助街道は古来から林業や塩の道として物流の要所だったんで
足助の鈴木氏とか時代によって土豪や庄屋とか言われた士族が拠点を構えていてそれなりの財力と勢力を持ってたんやで
ど田舎というか
平家落人の隠し村みたいなロケーションやんな
してくるから日本人は気をつけないとね。
こいつらの目的は日本文化の破壊工作ですから。
ムーンだろうがダイサクだろうが
共産主義のなりすましだろうが
その目的は一緒なんです。
冗談抜きで朝鮮とも戦争だから
日本人ならもう朝鮮とは関わるなよ、
薄気味悪いハングルも日本の標識から
追い出すから。
愛知県に1番いなさそうな顔は秀吉
ある程度経ってからは、むしろ成り上がりを明かしたほうが庶民の指示を得られる
それはそうやね
日本の歴史って傍流の家が主流の家に逆襲するパターンが多いな
京の都にいられない傍流の源氏平氏藤原氏などが地方でやりたい放題やって
数百年経ったら主流の家よりも強くなっていた・・・みたいな
他にも歴史に登場しない無名な武士が山ほどいるのに
日本の強さは中間層が厚い所だよな
最後に豊臣裏切っただけじゃん
明智光秀の方がまだマシだわ
棚ぼたで権力掴んだだけ
ただし秀吉タヒ後の権力を掴んだ過程だけは実力だけど
天海の正体は明智光秀という話もある
確かに栃木県日光市に明智平はあるが
日光開山(西暦766年)は今の栃木県真岡市出身である勝道上人だからな
久しく太平の世を築いたんだから良いやん
すぐに出自云々日本人の悪い癖である
俺も似たような意見
徳川家は、真正の平民として、初めて天下を取った家系じゃないかと見てる
林業営んできた純日本人の子孫が天下人になるっていいよね
そしてその事実を受け容れられず、源氏の子孫という事にした日本の血統崇拝には問題があると思ってる
征夷大将軍になりたいのなら強引にでも源氏の系図を作って名乗ればいいというだけ
関白になりたい秀吉は強引に摂家の養子になったしなw
天下人は何でも出来る
天下人だの征夷大将軍だの言っても所詮先祖が同じ、天皇を中心とする国という思想の日本人同士の権力争いだ
だからどいつもこいつも天皇家の権威を否定せずに利用して実質的な権力を握ることしか考えない
はなから自分が天皇に成り代わる気なら源氏だのは関係ない
天皇の血筋を断ち反対する者は粛清して我こそがが天皇だと言えば済む
長尾が上杉を継ぐ、伊勢が後北条を称するみたいな納得する理由が見当たらない
江戸時代、徳川姓を許されたのは将軍家と御三家のみで、
秀康や伊達の婿の家も許されなかった、同じ兄弟なのに家格の違いをつけていた
松平から徳川に変えた理由は何ですかね?
官位貰うためには松平じゃダメだったんすかね?
ありがとうございます。
いま上で初めて知ったけど
得川という男が松平の養子だったんだな
それが家康の祖父?曽祖父?
神官系の松平氏より得川氏の方が新田源氏だったため
そっちを名乗ったということらしい
基本は松平だけど将軍になるためには徳川呼び
こんな感じかな
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685204611/
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