洋の東西を問わず似たようなエピソードって世界各地で起こるのってなんでだろ??
西洋と東洋で似たようなエピソードがあることに気づいたりしますよね。
そんな例を思いつくままに挙げてみるスレです。
どっちも一部が国の上層部を牛耳っているという噂が流れて…
曹操
・・・船どうしを鎖でつないで大敗北
スペイン無敵艦隊
・・・船どうしを鎖でつないで大敗北
>>3
三國志のエピソードはウソ
火薬がなかった古代には、火力不足であの戦法は無理
ユーラシア幹部で宦官文化が栄えた
極西の西欧と極東の日本でだけ廃れた
不思議な一致と思う
家畜の去勢はユーラシア中央の遊牧民の習慣だからでしょ
徳川家康 「躰は西を睨ませ、立てて埋葬せよ。」
クレマンソー 「ドイツの方角を睨んだまま、立った姿勢で埋葬してもらいたい。」
どちらもご利益はありませんでしたとさ・・・
家康はだいぶ頑張ったと思うで
鰯の頭じゃあるまいしww
仮想敵はいずれ必ず復活してくるから、皆の者備えを怠るな。という政治的遺言なわけよ。
太陽神ラーがセトの乱暴を擁護した際、知恵の神トトにやり込められ、怒って天幕の中に入ってしまう。
そこでトトの案で巫女が裸踊りをしたところ、ラーは機嫌を直して出て来た。
という話をレヴィ・ストロースが書いていたのですが、出典失念。
ラーが猪と化したセトの狼藉に怒って引きこもったのを、ハトホルが裸踊りで出す類話もあります。
どっちも悪いのは上の人だよな。
ロマノス4世と徽宗
ルーセル・ド・バイユールと岳飛
カエサルに対し、占い師は「3月15日まではお気をつけ下さい」と言っていた。
そして3月15日
占い師「3月15日まではお気をつけ下さいと申し上げたでは御座いませんか」
カエサル「もう3月15日は来たではないか。たいしたこともなく」
占い師「まだ3月15日は終わっておりません」
そしてその日、カエサルは暗○されたのであった。
キエフ大公オレグ
自分の愛馬げ原因でタヒぬと予言され、その馬を売り払う。
後に馬の頭蓋骨を見て「タヒんだ馬がなんで己を○せよう」と笑って蹴り飛ばしたところ、中に
潜んでいた毒蛇に噛み○された。
晋の景公
夢に怨霊が現れたので巫を呼び寄せて訊ねたところ「新麦はお召し上がりになれませんでし
ょう」と予言され、重病となる。
この病床で起きたとされるのが所謂「病膏肓に入る」の故事であるが、一旦病は回復したか
と思われ、景公の食膳に新麦が上がる日となり、景公は偽りを言ったとして巫を○した。
しかし新麦を食べようとした時、急に腹が張って厠に駆け込み、そのまま卒したのである。
上杉謙信や徳川綱吉も厠でタヒんでいる。ご用心。
『沙石集』(鎌倉後期の説話集)
南宋で比較的最近あったという話である。
銀の延べ棒を入れた袋を拾った男が居た。男も妻も正直者で、すぐに役所に届け出た。
ところが落とし主は強欲であり、「もっと入っていたはずだから、弁償しろ」と言う。
その様子を見ていた判官は真相を察し、言った。
「数が合わぬのなら、その袋の落とし主は別人であろう。拾った者はこの袋も銀も己の物とし
てよい。落とし主は、自分の落とした袋が出て来るのを待つようにせよ。」
ルーマニアの伝承
ヴラド串刺し公の時代、落し物を私することへの取り締まりが厳しかった。
銀貨の詰まった袋を届け出た男が居たが、落とし主は強欲で、もっと入っていたと主張した。
それを察した串刺し公は(以下略)。
お役所の縦割り
特にアメリカでは治安機関・情報機関が乱立してて,お互い
縄張り意識が激しかった事が同時テロを許す原因とも
なったんだっけか
出る杭は打たれる現象
出しゃばったり目を付けられると叩かれるのは欧米でも
変わらないのね。
『春秋左氏伝』
狄が斉、ついで魯に進入したので、魯軍が戦い、狄の君主であった長狄僑如を虜にした。
その首を矛で突いて処刑し、魯軍を率いていた荘叔は首を門の傍らに埋め、息子に僑如と名づけた。
『元朝秘史』
イェスゲイ・バァトルがタタル族のテムジン・ウゲを虜にして帰ると、息子が生れた。
そこで息子にテムジンと命名した。
『元朝秘史』にはそこまで載っていないが、テムジン・ウゲは処刑されたという。
『佛説鴦掘摩經』ほか
アヒンサという青年はバラモンに師事していたが、師の妻はアヒンサを好きになり、関係を迫る。
師は父、その妻は母であり、なんでそんなことが出来ようかとアヒンサは断る。
断られた妻は逆恨みし、自分の衣服を裂くと、アヒンサに乱暴されたと夫に訴えた。
なお「鴦掘摩(アングリマーラ)」は「指で作った輪」という意味であり、この後師に騙されて○人を
くり返し、被害者の指で輪を作ったことによる名前であるが、出典によっては最初からこの名前で
呼ばれている。
『旧約聖書』
ヤコブの子ヨセフはエジプトでポティファルに親任されるが、その妻に誘惑される。
誘惑を断られた妻は逆に「乱暴された」と夫に訴え、ヨセフは投獄される。
徳川吉宗にたてついて潰された徳川宗春
『呂氏春秋』
伊水のほとりにいた女子が突然孕み、夢で神から「臼から水が出るので、東に走れ。振り返っては為らぬ」
とお告げを受け、近隣に告げて十里走った。
そこで振り返ってしまうと、村は水に覆われており、女子は桑の木に変じてしまった。
うろの中から拾われて養われたのが、殷王朝の功臣伊尹であったという。
『旧約聖書』
ソドムとゴモラが神により焼かれる前、天使がロトの家を訪れ、妻と娘を連れて逃げるよう伝えた。
ロトの妻は禁を犯して町の方を振り返ってしまい、塩の柱に変じた。
『呂氏春秋』の話は、女子を孕ませたのが伊水の神だったのでしょう。
処女懐胎伝説は、中国文献にはよく出て来ます。
・越前の朝倉義景と組んで織田信長と対峙した浅井長政
ギリシャ神話
王女プシューケーは神託により「蝮のような悪人」と結婚することになり、姿の見えない夫と宮殿で生活する。
やって来た二人の姉は妹の裕福な暮らし振りを妬み、夫の正体は大蛇であるから○すように言い、プシュー
ケーは灯火に照らし出した夫が美青年エ○ースであると悟るが、夫は去ってしまう。
プシューケーは姑アフロディーテーから無理難題を押し付けられる。
・穀物をより分けて集めよ←蟻たちが拾い集めてくれた。
・羊の群れから金毛を集めよ←蘆たちが教え、小鳥たちが集めてくれた。
・竜の守る水を汲め←大鷲が汲んでくれた。
御伽草紙『天稚彦草紙』(ベルリン国立博物館蔵)
長者の娘は大蛇の要求で妻となり、御殿で暮らす。夫の皮を切ると中から美青年が現れた。
やって来た二人の姉は妹の裕福な暮らし振りを妬み、開けるなと言われた唐櫃を開けさせてしまう。
夫は帰って来ず、娘は夫が言っていた夕顔の種を植えると、蔓は天まで伸び、天上で再会することが出来た。
娘は舅である鬼から無理難題を押し付けられる。
・数千頭の牛を放牧し、牛舎に入れよ←牛たちが夫の衣の袖と呪文で従ってくれた。
・千石の米を別の倉に移せ←衣の袖と呪文で蟻たちが運んでくれた。
・百足の倉、蛇の倉に各七日入れ←衣の袖と呪文で近づかなかった。
プシュケ&アモールの類話は世界中にありますね。
AT分類の425番、「美女と野獣」も派生ストーリーのひとつだとか。
>>35
「消えた夫を探す」に当たるようですね。
AT分類で類話を探すと、割と早い時期から欧州でも注目されていた「こぶとり爺さん」や、「三枚のお札」、
「天人女房」などがあってきりがないので、割と一致してかつ知名度の低い話を挙げました。
『天稚彦草紙』は古代からある「蛇婿入」と、織姫彦星の一般的な伝説と違うせいか今では忘れられてし
まった「七夕様」を前後で併せた構造になっています。
しかし、これそのものの民話は見当たらない様で、かつこの内容の方がプシューケーの話に似ている。
七夕様
天から女房が降りて来たので、男が羽衣を隠して嫁にする。
子供が生れるが、嫁は子供の歌で羽衣のありかを知って天に帰ってしまう。
(ここまでがよくある天人女房)
男は夕顔の種(ブナなどの場合もある)を植えるなどし、子供とともに天まで行く。
天には嫁と共に舅がおり、色々と難題を押し付けてくるが、嫁の助言で解決する。
しかし最後にしくじってしまい、年に一度しか会えなくなったのが七夕の起こりである。
後半は、欧州に悪魔の娘や母親が助言してくれて助かる類話がありますね。
難題抜きで鬼の母親が匿ってくれる話なら他にも日本にあり、漢訳仏典にもあります。
>>33では省略しましたが、長者の娘も天で一旦鬼の舅に見つからないよう匿われていました。
夕顔の種には「ジャックと豆の木」要素もありますが(ここでも巨人の妻に匿ってもらう)、馬で天に上る場合もあります。
『三河物語』
長篠城が武田勝頼の軍勢に包囲された際、鳥居強右衛門勝商は信長出馬の有無を確認せよ
との命を受けて城を脱出、家康から話を聞いた信長は出馬を確約し、強右衛門は城内に戻って
援軍到来を伝えようとするが、捕えられた。
武田から「磔にして城から見えるように掲げるから、援軍は来ないと言え。知行を遣わすぞ」と言
われた強右衛門は承諾の意を示すが、実際には信長・信忠・家康・信康出馬を伝えた。
怒った武田はそのまま強右衛門を処刑した。
『春秋左氏伝』
楚の荘王が宋を攻めた際、晋は楚に勢いがあるので援軍を出さなかったが、援軍を出すという
使者だけ遣わして士気を上げようとした。
しかし、使者の解揚は捕えられ、荘王から「楼車の上で援軍は来ないと言うように」言われる。
解揚は三度断った後ようやく楼車に上ったが、伝えた言葉は「援軍は来る」であった。
怒った荘王は解揚を処刑しようとしたが「臣たる者は二つの命令を持たぬもの。主君に信を守る
臣があり、臣にタヒに場所があれば本望。利益では動かない」と言われ、釈放した。
1800年、ナポレオンはスイスを通過。現地の村に5万フランもの債務を残していく。
1984年、ミッテラン大統領は返済に代えてメダルと感謝状を送り、決着と相成った。
2010年、ドイツは最後に残っていた7000万ユーロを払い、1919年から続いていた第一次世界
大戦の賠償金を完済した。
1835年、調所笑左衛門広郷は薩摩藩の借金を250年分割払い(元金のみ)とすることを通達。
1872年、明治政府は引き継いでいた債務の無効を宣言し、終結した。
1774年、「浄土真宗」の名称を巡って浄土宗と一向宗で争論となり、判断に苦慮した江戸幕府
は天台宗寛永寺に裁定を依頼。
1789年、ようやく下った裁定は「三万日間判断を保留する」というものであった。
1872年、三万日過ぎたと一向宗は再度裁定を申し立てる。
下された裁定は「真宗」という名称を認めるという折衷案であった。
晋の文公は亡命中、衛を訪れたが衛の文公はあまり丁重にもてなさず、土人に食を求めると
土くれを出す始末であった。
文公は怒って鞭打とうとすると、亡命に随行していた者(諸説あり)が言った。
「天より国土を賜るという瑞兆で御座います」
後年、文公は帰国が叶い、おおいに国威を振るった。
ウィリアム征服王がイングランドに上陸した際、つまづいて両手をついてしまった。
しかし、その場でとりなして言った。
「イングランドの大地を手に入れたぞ!」
http://www2.plala.or.jp/terahakubutu/minzokusanen.htm
三本の矢も世界中にあるんですよね
矢じゃなかったりしますが
董卓
洛陽に入った当初、自前の兵力が歩騎合わせて3000(4000とも)しかなかった。
そこで夜間に兵力を城外に移動させ、朝になると軍旗や鼓と共に新手が堂々と入城したように
見せかけるということを数日おきにくり返したため、都民には大軍勢であるかの様に思われた。
結構面白い話と思われるが、Wikipediaには「調略を用いて自分の軍勢を大軍にみせかけようと
もしている」としか書かれていない。事典なのでしょうがないか。
アイザック・ブロック
米英戦争でデトロイトを包囲した際、インディアン兵を敵の目前で行進させた。
そしてこっそり森に移動させては、また森から出して戦列に加えたので、デトロイトの人間は絶え
間なく軍勢が増えていくように思い、司令官のハルは降伏した。
実際は、デトロイトを攻撃した時点で兵力はアメリカ側の半分であった。
「同じ顔で分かるだろう」と突っ込まれそうな逸話ですが。
かたや西方民、かたやインディアンで「顔なんて憶えていられるか」という偏見があったものかと。
紀元前597年、晋軍は楚軍と戦うが、楚軍の勢いの前に後退。
進軍に使う鼓を打ち鳴らして「先に渡ったものに褒美を与える」と言ったところ、我先に乗船し
ようとして却って混乱してしまい、後から乗ろうとした者は指を切り落とされ、船底に指が散乱
する惨事となり、晋軍は大敗した。
1785年、青ヶ島で火山が噴火。
八丈島から船三艘が救助に向かったが島民100名余りしか救助出来ず、乗り切れない人々が
船端にかけた手を斧で切り落としたという。
東洋でも西洋でも紀元前は戦争の花形だったが
やがて人が直接馬に跨がるスタイルへと変貌
14世紀
日本の武士が集団戦に適応し、馬を下りて戦うようになる。
西欧の騎士が集団戦に適応し、馬を下りて戦うようになる。
騎乗して戦うことが全く無くなったわけではありませんが。
1514年 チャルディラーンの戦い・・・サファーヴィー朝イランの無敵騎馬軍団が、オスマン帝国の鉄砲隊に敗北
1524年 パーニーパットの戦い・・・ローディー朝の無敵戦象軍団が、ムガール帝国バーブルの鉄砲隊に敗北
1575年 長篠の戦い・・・武田勝頼の無敵騎馬軍団が、織田信長の鉄砲隊に敗北
1626年 寧遠の戦い・・・後金ヌルハチの無敵騎馬軍団が、明の袁崇煥の鉄砲隊に敗北
補足すると、4つとも、それまで圧倒的な無双の常勝軍団だったのが、一気に壊滅したという劇的な展開でクリソツ
中世初期の欧州 ゲルマン民族の大移動
中世初期の中国 鮮卑族の大移動
鄢陵の戦い
楚の共王が片目を射られて敗北。共王自身は生存した。
ヘイスティングズの戦い
イングランドのハロルド2世が片目を射られて敗北。
第二次パーニーパットの戦い
スール朝軍の総指揮官へームーが片目を射られて敗北。
18世紀フランス貴族女性
巨大な髪飾りが流行
船形を頭に乗せるなどの奇抜なものも登場
マリー・アントワネットは90センチ長の髪飾りを使っていたとも
18世紀朝鮮貴族女性
巨大な加髢(カチェ=かつら)が流行
過度の重量化による頚椎損傷事故も発生
英祖王代に禁止されるに至り
英祖王の次代の正祖王代にも再度禁止される
>>53
山野さん、以前に巨大髪飾りの件でレスをいただいた者です
やはり洋の東西を問わず類似事例というのはよく出るものですよね
唐代の女性も、極端に髪を盛っていましたね。
船こそ乗せていませんでしたが、かもじで膨らませたようです。
春秋時代に寵愛する女性のかもじにするのに綺麗な髪を無理矢理切らせた君主がいましたが、
髪への執着やそれによる恨みの歴史も深いのでしょう。
唐代の髪の盛り方はこんな感じ?
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/soboku-kobe/20170110/20170110220018.png
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/soboku-kobe/20170110/20170110220215.png
アントワネット専属髪結い師「レオナール・オティエ」の華麗なる技巧
http://www.s-aika.com/fashionhair/upload_images/0_8c02c_714bc911_orig_670x901.jpeg
ブルボン朝の髪の盛り方はこんな感じ?
http://www.s-aika.com/fashionhair/upload_images/default_91f93e0abd4732e29f8666f8aff0f76b.jpg
どちらも妻を追って冥界に行く話でギリシャと日本と離れてるのに酷似している。
フェニキアならインドネシア辺りまでは来てるから
神話が日本に伝わってもおかしくはない
そんな新しい起源とは思えんな
こういうのは絶対石器時代からある筈
フェニキアが広めただけで起源はもっと古いかもしれないぞ
「海幸彦と山幸彦」とほぼ同じ話が、インドネシアの神話にもあるらしいな
東南アジアの神話が日本にも伝わったと見るべきなのか (逆もありうるが、海流の向きからいってそれは無いだろう)
それとも、「人類の集合無意識に神話の原型が共有されている」というような、ユング的な解釈を採るべきか?
是に高木神、「此の矢は、天若日子に賜へりし矢ぞ。」と告りたまひて、即ち諸の神等に示せて詔りたまひけらく、
「或し天若日子、命を誤たず、悪しき神を射つる矢の至りしならば、天若日子に中らざれ。或し邪き心有らば、天若日子此の矢に麻賀礼。」
と云ひて、其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下したまへば、天若日子が朝床に寝し高胸坂に中りてタヒにき。亦其の雉還らざりき。
・・・旧約聖書のノアの箱舟のノアの孫にニムロッド(=ニムロド)がいます。このニムロドはアブラハムに改宗を迫り、アブラハムを火に投げ込むのですが、アブラハムはタヒにませんでした。
ニムロドは猟師で、弓矢が得意だったとされます。これとは別にメソポタミアにはニムロドが神を射抜こうとして、返し矢で胸を貫かれるという説話があります。
アメノワカヒコが胸を射抜かれる話は、このニムロドの話がインドに伝わり日本に来た――とも言われています。
唐代の女性の髪形については、中唐の『簪花仕女図巻』がかなり盛っているのが見られます。
名前の通り、花を飾った姿も含めて壮観。
日本神話と海外の神話の類似に就いては、大体大林太良先生と金関丈夫先生の本に出て来ます。
既出の物以外では、イザナギや昔話『三枚のお札』のような呪的逃走、七人の女子が白鳥や昴に
なったという伝説も伝播ルートも含めて研究されていますね。
因幡の白兎のような話は、インドネシアやアフリカにも見られます。
神話に限らず、昔話自体にかなり東西で共通したものが見られますが。
欧州~日本、場合によっては新大陸も含めて共通した話が複数ありますが、「手無し娘」、「味噌買
い話」、「大工と鬼六」は日欧に類話があって中韓になく、船舶による伝播と見られます。
「白雪姫」は明らかに明治以降の伝播ですが、日本の民俗調査では昭和までに日本の民話として
採集されていますから、ドゴン族に限らず口承の定着は早いのでしょう。
失礼、味噌買い橋です。勿論、欧州の類話では味噌ではありません。
近代に定着した例では、『竹取物語』に類似した話が中国の少数民族に見られましたが、これ
も近代になって日本から伝わった話が定着していたようです。
『竹取物語』はそれ以前にあった話を膨らませて成立したようですが、膨らまされた要素も反映
されており、両者が同一の起源というより、日本の話が影響したと見た方がいい。
どちらも「五本の矢」ですが。
>>65
ジンギスカンの息子は
四名まではわかるけど
もう一人は誰だろ?
コルゲンだと『元朝秘史』じゃなさそうですね
>>67
アランゴアさんの中の人
そもそもおいらが見たのが、
息子に置き換えた創作だったということか、、、
中国では20本の矢の故事だったよね
ttps://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/201-300/0247.html
弥生時代に出現するものの、後に中国文化の影響でそれまであったアクセサリーや筒袖の使用と同様に廃れたようです。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」も3人兄弟の話だったが、じつは4人目の兄弟がいて、そいつが物語の核心を握ってた
小説とはいえ、「現代の神話」ともいわれる巨大な叙事詩
実は似たような話は『大唐西域記』などにもあり、両者が似ていると言う人は、多分他の文献にあまり
触れたことがないのだと思います。
「エンタシス」といい、東洋と西洋の間の伝播、共通性が協調された時代に出来た話。
伊東忠太は偉人ですが、実際はパルテノン神殿と法隆寺の柱に関係はないと言われています。
周りの人間にも脅威を与えるレベル
http://2.bp.blogspot.com/-Gsqvnsqc1uE/VAzHYhoSWiI/AAAAAAAAEz8/MtILGpO_R-4/s1600/ba-obj-9869-0001-pub-large.jpg
「南無阿弥陀仏」とひたすら唱える念仏と、イスラム教のスーフィーが「ラーイラーハイッラッラー」とひたすら唱えるズィクルは似ている
両方とも、ひたすら唱え続けているうちに脳が酸欠状態になり、気持ちよくなってきて法悦の三昧境に入れる
言葉と身体技法で神なり如来なりと一体化する。
世界から解脱して宇宙の摂理である如来と一体になるのが密教。
世界から脱我して宇宙の摂理である一者と一体になるのが新プラトン派
インドとペルシャは近いからな。
お互いに影響を与えあっている。
ペルシャのスーフィズムは、インド哲学の影響を明らかに受けている。
「東西でたまたま似たものが出てきた」というわけではない
ペルシャのスーフィズムはインド哲学の影響があった。
しかしスーフィの発祥地シリアは新プラトン派と融合したキリスト教神秘主義がありこっちがスーフィズムの真のルーツとされる。
スーフィズムでは、アッラーの名をひたすら唱え続け、極限まで信仰を強めることにより、神との一体化を目指す
仏教では、固定観念からの脱却を何よりも重視する
「汝もまた、信仰を捨て去れ」というのがブッダの教え
シリアは、マホメット登場以前はキリスト教だった
キリスト教の修道士の伝統が、スーフィズムに大きな影響を及ぼした
>>81
ピタゴラスが、インドやペルシャを巡って神秘思想をギリシャに持ち帰ったと言われてるんだよなあ
もちろん、謎に包まれた伝説的人物だけに、真偽のほどは何とも言えないが
中国や朝鮮半島にはみられない制度
だからと言ってクレタ島が古代以降歴史の表舞台に出たことはない。
ヴェネチア海洋帝国の植民地として、本国をしのぐ存在感があった
日本の神道とアメリカインディアンの世界観が非常に似てるとアメリカの文化人類学者ポーラ ハーツが指摘してる。
青土社の「アメリカ先住民の宗教」にある。
人類普遍の現象なのか一万年前の日本人とアメリカインディアンの共通の祖先時代からの信仰なのかは分からない。
キリスト教で二千年、仏教で二千五百年の歴史があるから仏教の四倍昔ならあり得ないこともない。
>日本の神道
現在見られるような主張になったのは近世以降、見方によっては戦後になってからなので、
共通した起源があるというより、結果的に似ただけだろうと思います。
「路傍の石ころにも神が宿る」とか言い出したのは、多分戦後になってからでしょう。
律令国家以降の日本における神祇信仰は、対象の由緒を限定して来ましたから。
自然信仰とはむしろ距離を置いていました。
単に自然信仰だから共通しているというのなら、日本に限った話でもありません。
日ユ同祖説などにも言えることですが「似ているから共通の祖がある」と言う場合、似ている
文化というのは現状の比較であり、歴史的な変化を考慮していないことが多いです。
>こういうのは絶対石器時代からある筈
共通する伝承が何時出来たかについては、ミームによる調査がありますね。
ギリシャ神話にもある『美女と野獣』系の話の誕生が4000年前、という結果が出たようです。
ttp://sign.jp/50655513
念仏宗とキリスト教。
念仏は救済者阿弥陀仏一仏崇拝
キリスト教は救世主キリスト一神崇拝。
釈迦仏教は何かを救済目的で崇拝しない。
念仏の人間観は罪悪尽重の凡夫
キリスト教の人間観は原罪に満ちた罪人
釈迦仏教は人間は煩悩に満ちてるが悟りを開けてそこから解放される。
念仏には末法思想がある。
キリスト教には終末思想がある。
釈迦仏教には終末や末法はない。
念仏には極楽と地獄がある。
キリスト教には天国と地獄がある。
釈迦仏教はタヒ後の世界を説かない。
>念仏は救済者阿弥陀仏一仏崇拝
阿弥陀信仰=阿弥陀仏専一ではありません。専修念仏ではそうですが、阿弥陀信仰全体から
見れば例外的なものですし、他の仏の存在を否定しているわけでもありません。
>念仏の人間観は罪悪尽重の凡夫
これも専修念仏、特に浄土真宗ですね。
また、阿弥陀如来に救済されて極楽往生を遂げた後は最終的に悟りを目指すことになります。
>釈迦仏教はタヒ後の世界を説かない。
地獄を含む六道の説は、原始仏典の時点で存在しています。
厳密にはタヒ後転生するので今生きている状態もタヒ後であり、現世も来世も含め輪廻の輪から
抜け出すために涅槃を目指すのが仏教の目的です。
タヒんで転生するので、幽霊というものが存在しないという考えはあります。
そういう場合は、転生前の中有や餓鬼道の状態にあるとして平仄を合わせている。
理論構成ではなく信仰形態が似ていると言ってる。
井筒俊彦も信者の側の信仰心情は念仏とキリスト教は一緒だと指摘してる。
内容で間違っていると思われた点を指摘しただけです。
観想念仏とか色々あるが日本で一般的に念仏というのは南無阿弥陀仏と称名する専修念仏でしょ。
>>106
それは言える。
平安時代の源信あたりならともかく、法然・親鸞から後は、「念仏」といえば、「南無阿弥陀仏とひたすら唱えよ。それ以外のことはやらなくていい。ていうか、やるな」という教え。
イスラム教みたいに他の神仏を排斥するわけではないが、事実上は阿弥陀仏のみの一神教と言ってよいし、極楽往生することがほぼ唯一の目的。
>>106
>南無阿弥陀仏と称名する専修念仏でしょ
称名念仏=専修念仏ではありません。
弥陀の名号を称える称名念仏は教信や空也が初期(9~10世紀)の例として有名ですが、
妻子を持って生活していた教信はさておき、空也は念仏以外も修めています。
『二十五三昧会結衆過去帳』に見える源信を含む僧侶たちも同様です。
専修念仏というのは、末法の世となって従来の修行法では救われなくなったとして、その為
に釈迦が説いて残してくれた教えが阿弥陀如来による救済であるとして、称名念仏をその
手段とし、他の手段を放棄したものです。
もっとも法然の弟子も色々で、密教の要素も完全に放棄されたわけではありませんでしたが。
称名念仏を自身の極楽往生の手段としながらも、他の目的に称名念仏が有効であるという
典拠が見出せないことから、その際には密教を修める場合もありました。
称名念仏だけを選択したのが専修念仏であり、称名念仏が専修念仏という訳ではありません。
>>108で大体合っていますが、ただ法然ら「鎌倉新仏教」の面子は禅宗以外は基本的に中世に
は日本宗教界の脇役であり、ほとんどの場合で民衆信仰も含め「旧仏教」が主役でした。
かの本願寺も戦国時代には天台宗青蓮院の末寺という立場です。
>>110
鎮西派の流れの浄土宗は今でも天台の戒脈を引き聖浄双修とされるがそれでも主要な行は一心専念弥陀名号だ。
本願寺は蓮如当たりから燎原の火の如く全国に専修念仏を広げるがそれ以前から仏光寺などが勢威を持ってた。
仏教界での地位は余り関係無い。
蓮如以前には一遍の時宗が勢威があり高野山が時宗化したほど。
時宗も密教や禅の要素や神祇尊重もあったが信仰形態としてはラジカルな名号至上主義。
信仰形態としての一神教的念仏はもっと早く民間に根付いたと見るべき。
どうも真宗というか宗派の立場から浄土教史をよく学ばれたようですが、日本史としての勉強では
なかった様に見受けられます。情報も古いです。
何と申し上げても納得されないでしょうからもう申し上げませんが。
パゴアス・・・アケメネス朝を乱した宦官/魏忠賢・・・明朝を乱した宦官
メムノン・・・マケドニア軍を水際で防ぐ/袁崇カン・・・後金軍を壁際で防ぐ
アレクサンドロス・・・ペルシアを一気に征服するも短命/順治帝・・・シーナを一気に征服するも短命
ダレイオス・・・最後の皇帝となる/崇テイ帝・・・最後の皇帝となる
ベッソス・・・裏切って王朝を滅ぼす/李自成・・・反乱で王朝を滅ぼす
オクシュアルテス・・・マケドニア軍を受け入れる/呉三桂・・・清軍を受け入れる
ロクサネ・・・上の娘、絶世の美女らしい/陳円円・・・上の妾、絶世の美女らしい
スピタメネス・・・最後まで抵抗する/鄭成功・・・最後まで抵抗する
ペルディッカス・・・幼君の摂政として活躍/ドルゴン・・・幼君の摂政として活躍
李自成は西ローマ滅ぼしたオケアドルにも近いような?
日本に来たカトリックの宣教師がすぐに気が付いた
スイスの神学者カール・バルトも
イエスが存在しないことを除けば
浄土真宗はキリスト教に極めて近い
と言っていた
コーランの教えに回帰せよ!
聖人崇拝を禁止するあたり
キリスト教ルター派に共通する
井筒俊彦が本出してる。
・一族を要職(前者:朝廷の高位高官 後者:ヨーロッパ諸地域の王)に就ける
・一代限りの栄華(前者は本人の存命中に没落。後者は本人のタヒ後,一族が没落)
原始仏典には、六道輪廻の話がいたるところに出てくる。
「輪廻転生を終わらせる」というのが、釈迦の教え。
無いものを終わらせられるはずもないから、この話は当然、輪廻転生は有るということを前提としている。
でも、釈迦にとっては、極楽往生することが目的ではない。
あくまでも、輪廻転生を終わらせるのが目的。
そのためには、極楽往生などにこだわっていては邪魔になる。
だから、タヒ後の世界の話はしない。
認識の粒度によって結論が変わってくるからな
>>117
宗教なんかの場合細かい規定を論じてもあまり意味はない。
フィリピンで熱心なカトリックでも三位一体の基本教義は知らず、神とイエスとマリアが三位一体だと言ったりする。
信じる側の信仰形態の方が重要。
日本の明治維新は1868年。
イタリア統一は1861年。
ドイツ統一は1871年。
アメリカの南北再統一は1865年。
カナダの連邦結成は1867年。
世界の先進国G7のうち、先行した英仏を除き、日独伊+米加の5ヶ国は、ほぼ同時に国民国家としてのスタートを切ったと言ってよい。
「江戸時代の日本人には、国民国家という意識は無かったし、天皇を元首とも思っていなかった。日本・日本というが、それはつい最近になってできた概念」
というのは、左翼がしたり顔でよく言うセリフなのだが、そんなの、当時の世界標準から見て当たり前。
イタリアのカブール首相は南イタリアに無関心で1度も訪問しなかったし、ドイツのヴィルヘルム皇帝は「プロイセン国王」に執着して皇帝即位を嫌がった。
第一次大戦敗戦後のドイツでは、ユダヤ人が国を牛耳っている、みたいな考えが広まりとかいうか。
第二次大戦敗戦後の日本でも他民族が牛耳ろうとしている、みたいなのが言われてるというか。
もし、次の大戦で日本が負けたら、その他民族が大虐○されたとかいい出すのか…
ドイツ、イタリアと日本は新興国民国家で植民地も少なかった。
ナショナリズムを強調して統一国民国家形成に成功したからか三国ともウルトラナショナリズムであるファシズムに走った。
まあ、その通りだけど、イギリスやフランスだって似たようなもんだよ。
ロシアなんか、もっとひどい。
独伊と違って日本は既存の勢力(軍部)がファシズムを主導してたか。
>>127
日本の場合は、軍部のクーデターだったな。
ナチスは、あくまでも選挙で選ばれた政党。
それが、軍部を抑えて独裁体制を敷いた。
>>129
いわゆる日本ファシズムの範疇に入る大川周明、北一輝、権藤成卿、橘孝三郎といった思想家は軍部に食い込み軍人を啓蒙する戦略を取った。
彼らの直接影響下の連中はテロやクーデターで多く追放されたがそれでも影響は強かった。
ファシスト党やナチスは選挙とクーデターの組み合わせで政権を取った。
日本はファシストイタリアやナチスのような一国一党国家主義を目指すべきと新体制運動が起きるがいかにも中途半端な翼賛体制が出来た。
いわゆる「未完のファシズム」だった。
しかしそのウルトラナショナリズムの方向性は一致してた。
>>125
近代民主主義は、イギリス文化だからね
イギリスから離れるほど、導入~定着までの混乱がひどくなる
中核国 イギリス 名誉革命程度
周辺国 フランス 革命、 アメリカ 独立革命
更にその周辺国 ドイツ、イタリア、日本、スペイン ファシズム →反動はあったが今は定着
辺境国 ロシア 中国 共産革命・社会主義的全体主義 →ずっと帝政時代以来の独裁の続き
1933年、ドイツでユダヤ人の著書が焚書された。
日本でも、天皇機関説を右翼が問題視し、「美濃部達吉を処罰せよ」という声が上がった。
そのとき、大臣が国会で、「我が国は、ドイツやイタリアのような国柄とは違うんでして、学者の説を政府が規制するのは無理なのであります」という答弁をした。
それから数年で、日本もドイツやイタリアのような道を進むことになったが、それ以前はかなり違ってたということには留意する必要がある。
それまでの日本は、どちらかといえば英米型の民主主義国だった。
元老、重臣や枢密院、貴族院、軍部が天皇の名の元権勢を振るい民選機関である衆議院を押さえ付けてたのですっきりした英米型民主主義とは言いがたい。
>>133
確かにそうだけど、イギリスだって、20世紀末に労働党のブレア政権が貴族院を大改革して、やっと世襲貴族の議席を大幅に制限することができたという状況
どの国の民主政治も、それぞれに怪しいところがあるのは事実
日本の場合は、建前とはいえ天皇主権で、西園寺公望のような長老が事実上、首相を指名するなど、明らかに民主政治としては不完全だった。
しかし、普通選挙が実施され、しっかりと機能していたのも事実であり、民意を無視することは不可能だった。
それに対して、民主主義の先輩であるイギリスがどうだったかというと、これも現代の価値観からすれば、完全な民主政治じゃなかった。
国王が首相を指名することはなかったが、国王に支持されない人物が首相の座を維持するのは難しかった。
ナチスドイツの攻勢の前に敗北寸前で「降伏か、抗戦か」で国論が割れたときも、「最後は陛下に決めていただこう」ということになった。
1人当たり国民所得は、英米はもちろん独伊よりも大幅に少なかった。
これは間違いない。
なかなかの人物が揃っている
のかなぁ、、、
アメリカ合衆国大統領 トランプ
「アメリカを再び偉大な国にする」
ブラジル連邦共和国大統領 ボルソナーロ
「ブラジルを再び偉大な国に」
フィリピン共和国大統領 マルコス
「フィリピンは再び偉大な国になるであろう」
アメリカにとって利用価値のある情報提供者と思われた事で
命拾いした人達。
石井はゲーレンと言うよりも
メンゲレのほうに近いのではないの?
日本でゲーレンに近いのは児玉とか瀬島隆三とか笹川良一じゃないの?
ただゲーレンは商売には手を出していないけどな。
最近は、中国でさえ少子高齢化による人手不足に悩み、「我が国も、移民の受け入れを検討するよろし」と言い始めている
いずれ、世界的な人手不足により、むしろ移民の奪い合いになる可能性もある
西洋の「ブレムミュアエ」と中国の「形天」って
ほんと発想が同じだな
というかこういう民族が実際いたんじゃないかと
朱子学は仏教の座禅から来た静座と道教の無の思想から来た太極而無極と儒教を総合した総合哲学。
朝鮮バージョンがどう変容したかは知らないが。
朱子学は新プラトン主義に近い。
新プラトン主義はアリストテレス主義とストア派哲学とプラトン主義を総合した総合哲学。
行であるエルゴンが朱子学の静座に相当する。
究極者である一者が朱子学の太極に相当する。
構造はよく似ている。
朱子学を別名究理学と言い物理学が西洋から入って来たときに究理学と訳された。
理を究める事で究極に至ることが出来るという思想は朱子学も新プラトン主義も共通する。
誰だったか?
近代になってから先進国の面子は全く変わってない。例外は日本とアルゼンチンだ。
と言ってる。
日本は発展途上国から先進国に成り、アルゼンチンは先進国から発展途上国になった。
どうも最近日本の先進国としての地位も怪しい感じになって来てるが。
とにかく日本は例外。
ウェーバーはプロテスタントかその影響の強い国が資本主義を発達させるとした。
プロテスタントはイギリス、アメリカ、カナダ、北欧全て、オランダ、ドイツ。
プロテスタントの影響の強い国はベルギーやフランス
イタリアは先進国ではない?
一応先進国だけど半歩遅れた先進国。
北部は一流先進国並だが南部は発展途上国。
愛知県や福岡県などは一流先進国だが
青森県や鳥取県といった地域は後進国
みたいなもんだな
それよりもっとひどい。北部独立を目指す北部同盟が足引っ張る南部を切りたがってる。
明治位まで南部は両シシリー王国とかナポリ王国とかの別の国だった。
トランスヴァール共和国とオレンジ自由国。
白人はどちらもプロテスタントだがイギリスとの間でボーア戦争が
おこらず国家が存続してたら先進国の道を歩んでた?
南アフリカは白人に関しては先進国並と言われていた。
貧困で差別されてた黒人労働者の働きの上にそれが成り立ってたから非難された。
>>211
オーストラリアやニュージーランドみたいな国になった可能性はある
でも、この2国と違って原住民の人口がもともとおおいに
モンゴル人ハーンがキプチャクハーン建国
モンゴル系の共産主義者がソビエト建国
宗教はプロテスタントでもアフリカとかカリブ諸国のような
非白人国だと発展途上なケース多いな・・・
それはそうと
日本の徳川慶喜と旧ソ連のゴルバチョフ
体制の変革と引き換えに体制内にいた人々を困窮へとおいやった
戦士階級でもある支配層が自らに課したルールってところは共通してるけど
命より名を惜しむ
馬に乗れるのがステータスの基準
時代が下ると没落
それに反比例して美化
>>233
この世で最も野蛮な荒くれ者たちが、独特の精神性を持つに至った
ヤクザの任侠美学に近い
共産主義政権発足により中国本土からの富裕層が流れてきた香港
共産主義政権発足によりキューバからの富裕層が流れてきたマイアミ
中世ヨーロッパも、十字軍に関するアラブ側の記録を見れば、信じがたい野蛮さと粗暴さだ
ユーラシアの東端と西端は、この頃までは、後に先進国になるなど想像もできなかった
日本と西欧の封建形態。
祭祀王としての天皇=ローマ教皇
(室町幕府の)将軍=神聖ローマ皇帝
大名=西欧各国の王。
(犬ともいへ畜生ともいへ勝つことが本にて候→タヒぬことと見つけたり)
騎士道も時代で変わったりしたのか?
騎士道ってあくまでもキリスト教の戦士としての理想を説いたもので、
実際そんなん守ってる貴族様なんてほとんどいないイメージ
どこに右の頬を打たれたら左の頬も差し出す聖人君子がいるんだよ
あと、騎士は時代と共に戦場には不要な存在になっていったから、概念だけが存続した感じ
近世の戦場の主役は傭兵で貴族は指揮官クラス、
しかも騎兵の優位性は近代に近づくに連れ後退→消滅したため尚更指揮官が貴族でなければならない必要性はなくなる
国内においては新興階級の成長(イギリスのジェントリなど)によって経済的な優位性すら危うくなる
それでも特権を保有し続ける貴族には革命というお仕置きが待ってて・・・
って感じで貴族は”騎士”という理想像から脱落し、
代わりに近代において社会的責任ある金持ち=紳士が騎士道精神の後継者となる
とはいえ、紳士ってのもイギリスの社会が作り出した虚像のような側面がある
紳士淑女こそが文明人、それ以外はただの野蛮人・低学歴のクズみたいな?
ジェントリが紳士(ジェントルマン)である場合が大半だが、
没落しなかった一部の貴族もその紳士としての役割をイギリス社会で果たしている
騎士道には「貴婦人を守る」という大義名分が必要で、それがどの貴婦人なのかを名指しする必要があった
現代でいえば、「指原莉乃推し」とか、「白石麻衣推し」とか、そういう旗幟を鮮明に掲げる
そういうのってどこからどこまでの範囲であったん?
スコットランドでスカート穿いてバグパイプ吹いてる氏族の連中やヴァイキングの末裔やポーランド・リトアニアのフサリアも同じ風に貴婦人がどうのこうのってやってたんか?
あくまで神への献身・弱者を守るというのが優先で、
主君の命令に納得がいかなければ(自分の心の中の神の声に従って)命令を拒否しても問題はない。
そこら辺が儒教的価値観を含めて形成された江戸時代以降の武士道とは決定的に違う点
Wikipediaによると、宗教的騎士道と道徳的騎士道の他に、ロマン騎士道ってのがあったらしい
ロマン騎士道
3つ目はロマンの騎士道で、フランスのエレノア・アクラエムが作った。彼女は「騎士道とレディのルール」を作った。ここで騎士に「レディ」が重要な役目として登場する。
日本の武士道と最も異なるのがこの「レディ」の存在であるが、騎士はレディを崇拝し、保護し、心の中だけで愛する存在として登場し、レディはそれに対して慈愛を与えるのだ。
良くあるのが主人の騎士の奥方を愛す若き見習騎士。彼は奥方の心を射止めようと努力をするが、これは「心の愛」で満足しなくてはならない。「肉体の愛」は禁じられている。
そして主人は二人の関係を知っておきながら、知らないようによそおう。という構図となる。これが特殊化しミンネとよばれる騎士とレディの愛物語(宮廷愛)と現実もなっていく。
この関係の奇妙な例として、あるトーナメントのエピソードがある。ある騎士はレディとの約束(願掛け)で馬上槍試合に甲冑をつけず、そのレディのドレスを着て闘う事を誓った。
その結果、彼は大けがをするのだが、レディは彼の気持ちを「その試合で騎士がつけていた血だらけとなったドレス」を身にまとい、パーティに出席することで応えた。
ミンネは、「恋愛」とは訳されるものの、独特の宮廷恋愛で、行為であり、感情であり、物証でもある。「高貴なものに対する尊敬」や「奉仕」を意味するものだった。
使用例としては、ある貴婦人の美しさを讃えるために、「あなたにミンネを捧げましょう」という言い方をしたり、貴婦人からの願いで決闘をする際に「ミンネのために戦いましょう」と言ったりする。
騎士はミンネの奉仕をし、貴婦人からはお返しとして、愛情たっぷりの感謝、時には素敵な夜など(*^^*)をいただく。
ゲームというか、一種の駆け引きのようなものさえ感じさせる。洗練された宮廷恋愛の前には、庶民の恋愛など野暮に思えただろう。
武士道はどこでエンジョイすればいいのか分からん。
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