【一領具足】織田信長が進めた戦国時代の兵農分離【郷士】
本当。だから戦国の世で頭一つ抜きん出た。
武田みたいに農閑期しか戦えない軍隊じゃあ勝てないよ。
完全に兵農分離がなされた後の江戸時代でも、百姓・町人が養子縁組や士分株の購入で武士になることは出来たけど、
一方、中世ヨーロッパでは農民・商人の生まれでも貴族・騎士になることは実際可能だったの?
ローマ帝国だと平民の出から元老院議員や軍団長や属州総督、果ては皇帝にまで成り上がる者までいて、階級の流動性がかなり保たれていたが、
中世ヨーロッパは家柄や血筋によって身分制度がガチガチに固まってるイメージがあるわ。
敗色をみると簡単に逃げ出す。
合戦をみると当たり負けが結構多い。
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。」
それで北条・武田の動員兵力は単独で織田以上出すことが出来るのかw
そんなきちきちに決めなければならないほど織田家は兵に困っていたわけではないw
織田はむしろ遅れていたと主張するのが流行ってるらしいね
実際は後進地域が少しでも周りの勢力に対抗するための必要に迫られた
制度だったんだろう
>>16
信長のやったことは鎌倉室町と変わらぬ旧態依然としたものであり、北条や武田のやったことは
そこからの脱却を明らかに志向した上、近世に引き継がれた。
時代からの脱却を志した側と旧態依然とした慣習の中に安穏としていた側、
どちらが先進的か馬○でも解るだろうに。
北条も武田もその制度や政治、軍制を徳川が参考にしてその手本となり
後世に引き継がれたわけだから、いいものを残せばやはり残るわけだ
信玄みたいに勝つたんびに自分家戻ってたら
時間がいくらあっても足りない。
天下統一のためになによりもスピードを最優先した。
時間を金で解決した…と、見るべきだと思うがな。
信長は土地支配だの知行だのという土臭いのより
ホリエモンのような考えだったと俺は見てる。
スピードを最優先か
信長がわずかの時間の間に大きな勢力になれた理由ってなんなんだろうね
武田の甲府も信虎の代に領内の中心として移転されたもの。
信玄時代に領土が4~5国程になった時もその中心だったので移転の必要がなかった。
信長も他の大名と同様に戦いの度に律儀に岐阜城に戻ってる。
安土も広がった領内の中心地という事で他大名と似た感じの選択地だった。
戦が上手いってのは信長に対する典型的な誤解だな。信長は確かに武闘派だが
ポカやミスが多く決して戦上手とは言えない。
信長の真骨頂は寝技の政略だ。信長の政略の上手さは確かに群雄の中で抜きん出ている。
最後は反乱でタヒんでるし
武田信虎は、常備軍というか金で雇った用兵集団・新参の召抱え集団を
持っていたよ。
「御意の足衆」と呼ばれていたとか。
もっともこれは、二代続けて内紛で、軍の主力(最も戦闘力の高い)が
消耗していての止むを得ない処置だったみたいだが。
普通やらないからね
傭兵を大量動員して戦い続けたなんてのは
応仁の乱でもあるわけで
別に特別な発想ではない
むしろ農兵を大量動員し始めたことが
戦乱の世を一気に進展させ戦国大名が生まれていった
むしろモンゴル帝国などと同じで
あえて征服地の制度をそのまま残すことで統治コストを減らしたことにある
戦国時代に常備軍ってのはないな。
兵農分離での効果は、
1.年貢納入責任者を絞り込むことで、それ以外の農民なら農繁期でも徴兵&長期出兵しやすくなった
2.武士階級を農業から切り離し、領地経営や政務従事、守衛業務等に専念させることで、
やはり農繁期の出兵がしやすくなった
ってとこだろう。
2を以て常備軍とは言えない。
備における武士階級の割合はたかが知れてるからな。
分割相続を禁止し、家臣の嫡男以外の者を小姓衆として召抱え、
親衛隊を組織するぐらいのことは可能だろうが、
常備「軍」と呼べるほど大規模なものではないし、
それは兵農分離前でもそれなりに可能だし。
そもそも「兵農分離」という現象は江戸期のもので戦国時代には起きていない
戦国時代は「兵農一致」だ
まあ大きく出てきたのは戦後だろうな。一種の進歩主義的な歴史観に
ぴったりマッチした。
実態は畿内は人口が多いから他の大名と変わらぬ軍役でも、より多くの人間が集められた、
ってだけの話だな。
信長の軍役制度はむしろ、あの当時ですら制度として遅れておる。
>>38
>一種の進歩主義的な歴史観にぴったりマッチした。
もう少し詳しく、具体的に。
>>39
進歩主義史観ってのは「歴史の段階的進歩を先取りしたものが勝つ」って思想。
なので信長の拡大には何か「進歩」があるはずだってことになり、その思想に合わせて
後から理由付けされたのが「兵農分離」
信長が中世から近世への転換だったという「思い込み」
歴史が転換した以上それには進歩的(あるいは革命的な)思想があったはずだという「思い込み」
それらの思い込みが作った魔法のキーワードが「兵農分離」だよ。
兵農分離と言ってれば詳細な研究をすること無く戦国をストーリーとして語れるわけだからな。
使わないに越したことない。
身分制度面や現象としてはともかく軍制としては兵農分離はいずれタヒ語になるんじゃないか
「お前どれくらい出すの?」「やる気あんの?」
ということでやる夫は規定以上につれてくるし
やらない夫は少なめということで全体的には収支トントンなんじゃねえの
広域指揮官単位では明智軍法など関東中部大名に近い感じではやっている
ある面、部下任せともいえるがサボれば佐久間みたいに追放される
明智軍法はほぼ確実に江戸期に製作されたものだよ。
確かにそれっぽいけど根拠はどんな感じなんだ?
領地の石高換算してないのに石高で軍役計算してるしな、アレ。
島津・伊達・鍋島あたりの家は幕末まで戦国期に近い体制を維持してる
>>94
>城下町への武士集住を徹底せず地方地行を続けた場合を兵農未分離と仮定するなら
仮定がおかしい。
兵農未分離のポイントは、第一に職業だろ。
そもそも戦国時代を通じて百姓は戦闘に参加しないのが基本だしな。
農村から軍役で徴集されるのは軍夫・人夫といった非戦闘員。
農村にあって武士の下に組織される戦闘員である足軽などは在村給人という身分であり、百姓ではない。
彼らは百姓とは違い、戦力となる代わりに年貢や賦役の一部を免除されていた。
天正19年の身分統制令なら、朝鮮の役の頃の話ですよね
あれは身分制の確立というより(外征のための)武家奉公人を確保するために出された、のでは?
当時は長宗我部家では(外征負担から逃れるため)一領具足からの離脱が起こったり
軍役のメリットがなくなってきた時代の法令ですし、織田家の話とはまた別かと
つか織田家後期では、強大化による相対的な軍役負担軽減によって足軽衆の城下居住が起こった、わけで
(秀吉の大返しでは姫路城下に配下足軽衆の家族がいましたよね?)
それは兵農分離と呼んでかまわないと思いますが
>織田領国では明確な軍役規定がされていた武田・北条・上杉などと違い
>軍役人数をどれだけ集めるかは、家臣の裁量に任されていた事
ソレは単に信長は、総兵士数増加が必須だった他の戦国大名とは違う事情だった”だけ”なのでは?
(それに対し北条も武田も軍役拡大に熱心で、それ故記録も多く残るわけで)
西欧でも傭兵雇用になれば傭兵隊長に全額渡す方式になり(室町期の足軽衆も同じ形態)
王の配下への細かい徴兵への言及はほぼなくなりますし
明確な規定が必要がないだけで(記録がないから)織田家の軍制が遅れていたとは言い難い、と考えます
(ここらは色々見解の相違がありうるところと思いますが、逆に傭兵に大きく依存してた可能性もあるのでは)
つか(西欧を参考にすると)「全兵士数の確実な把握」が必須になるのは直接雇用の場合(賃金)で
傭兵団が主流の場合はそう問題にならない気がしますが……
つか、これと「兵農分離」との関係がいまいちわからないです
というか「”近世的”兵農分離」という言葉をちょっと詳しく定義ご教授していただけると……
いや、信長本人が「なるべくたくさん」とか軍役指示出してるわけですよ。信長の軍役指示は明らかに「できるだけ多く」を志向しており、
貴方の言うような感じではないのですが、貴方は信長本人の指示すら否定して、何を主張されたいのかよくわからないのですが。
傭兵団とかいってますけど、正直それが存在している、それを雇用している、といった関連の書状や裏付けとなる資料が無い限り、
それは貴方の空想に留まるのではないでしょうか。西欧では没落貴族や現役貴族をはじめとした階層が主な傭兵隊長や傭兵組織の供給源となっておりましたし、
スイスやドイツの兵士達が傭兵稼業を専門に行う、といった感じで供給源になってたりしてます。
当時のイタリア諸都市などにも軍事を厭う傾向があった、という下地も見逃せません。正直な話、日本戦国時代とは何から何まで別の価値観のもとで構築された制度なんですよ、
西欧の傭兵制度って。貴方の言う傭兵団、とやらは一体何を資料とされておられるのか、
その兵士の供給源はどこだったのか、その指導者や構成組織はどういった人々だったのか、裏付けとなる資料はなんなのか、といった点がすっぽ抜けているように思えます。
旗本先手組から分かるように時代遅れとは思えない
平安初期なら村々から兵を募るとかは
あったけど、武士の時代からは完全に
戦闘要員は専門職が担うことになった
から、そもそも兵農分離は武士の誕生と
共に当たり前だったのだろうな
ポエニ戦争
兵農分離がハンニバルで
市民兵が大スキピオ
最終的に大スキピオの勝ち
ローマは戦争に勝ち
共和制が衰退し、傭兵部隊にクーデターを起こされ
帝政に移る
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267337010/
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