太閤立志伝のようなゲームじゃなくリアルに戦国時代で最強の戦法を挙げてみよう
戦法では、謙信がよく好んだ「車がかり」じゃね?
>>1
>謙信がよく好んだ「車がかり」じゃね?
よく好んだって書いてるけどその実例を第四次川中島の戦い以外で教えてくれ
てか、どう考えても
鉄砲の三段撃ち体勢で敵を威嚇
双方、睨みあった状態で一斉に大砲ぶっ放す
敵は近づきたいが鉄砲の三段撃ちが待っている。
しかたなしに退く。
これを繰り返して敵を城まで追い詰める
後は城を包囲して、ひたすら大砲ぶっ放す
これが最強じゃね?
戦法としては鳥取城の干○し。恐ろしく理にかなってる上に今の歴史を解ってない官僚たちが一番引っ掛かりそうだから
塹壕戦という形で二十世紀まで残っているし、
基礎こそ最良の戦法。
じゃあナチスドイツの電撃戦は先祖かえりなのか。
でも最強は水攻めと言う名のウン子攻め
篭城する兵士が糞をすればするほど肥溜め化し自滅
釣り野伏せって戦術の中では基本中の基本なんだよね
信玄なんかはこういうやり方をしている
睨み合ったまま双方動かない
↓
偶然を装って自軍の馬を数頭放つ
↓
馬は敵陣近くまで逃げて行く
↓
それを味方の雑兵が捕まえに行く
↓
それを見た敵の雑兵も、その馬を捕まえに行く
↓
それを見て味方の雑兵が複数助けに行く
↓
それに対し敵の雑兵もより多くの雑兵が助けに行く
↓
これを何度か繰り返し、徐々に規模が大きくなる
↓
頃合を見て味方が一斉に退却
↓
敵が勢いづいて攻めて来たとこを釣り野伏せ状態に
それじゃだめじゃんw
あれは前列の討たれた身体を押して(盾にして)次列が突撃、それが討たれれば
タヒ体を踏み越えてその次がって言う突撃陣でしょ
よって回転は縦
うろたえまくりながら攻撃態勢整えた椰子からとにかく突撃じゃーってやったのが車がかりのもとって聞いたけど
大いに役立ったと、警察庁官僚OBの佐々淳行らが言っていた
最近の研究で明らかになってきているのは
鶴翼の陣での騎鉄砲による"突撃総射"によるものであると、学者の間で定説になりつつある。
ほら貝の音とともに両翼から騎鉄隊が、一斉に敵の両脇に迂回するように回り込み
一気に敵本陣へ向けて突撃し、一斉射撃するというものである。
これによって、敵本陣の周りの部隊は総崩れとなり配送するしかないと言われている。
大坂の陣の真田隊か良い例である。
佐々成政の末裔か? 彼なら詳しい陣形資料持ってるかもしれんね
横方向に兵を回転させるのは一般的に双胴の陣とか蛇の陣と呼ばれてる物じゃないかと思われる
でもこれは防御陣形らしいので突撃陣の車がかりと見間違う事はない気も駿河
本陣が移動しないで、兵を横機動させるのはできるだろう。
移動は横の一軸のみだから。
本陣が移動しつつそれにあわせて、横にあわせて縦の機動も同時に完璧にしなければならない訳で。
>>29の言うとおり防御用としてなら納得できる、攻撃用・突撃用としてはちょっと・・・
なんでも陸軍中野学校の本によると徳川幕府時代に孫子や孔明の陣形改良資料は幕府打倒勢力に知られないように見つけ次第強制処分したらしい
なんだかなぁ
三好三人衆によるジェットストリームアタックでしょう。
あと大筒水平発射して、バウンド成功した鉄弾
起源は地中海ローマの戦術
キツツキの戦法が最強だろ。
要は読まれてなけりゃいいんだ。
で、言われてる横回転の車係ってのは、円月状態で回転しながら突っ込む感じなの?
前線が釣りながら斜め後ろに流れ、後陣が出るスペースを空ける
→次も同様
→本陣同士がぶつかる
みたいな。
別に回転までしなくても、前線ぶつかった後左右どっちか決めて広がっていきゃ
少数側が敵の本陣目指すには好都合…かな?
守備側は反対側の兵を前線へ回すか後方から回すか迫られる訳だし
判断は後手に回るしね。
兵法でいう所のキツツキ戦法とは本来別物なのだが…
川中島での信玄のキツツキ戦法は単なる講談
あれとは別にちゃんとある
それこそ戦術が必要。
相手を撃つ前に味方撃っちまうな。
これ最強
伏兵 最後は勝つように出来てる武田の軍法
軍略、戦略、兵法、戦法、戦術
すべて似てるようで全くの別物。
中国やヨーロッパ調べても近い戦い方が出てこない
>>53
本陣を囮にするなんて普通の戦条件じゃできない。
第四回川中島の戦いは天候悪く地形が特殊?だったからじゃないかな。
>>53
一隊を分けて攻め掛かってる間に挟撃というのなら「ハンマーと金床」という言葉があります。
ナポレオンななんかがよくやったようです。
ただ、伝承に伝わる啄木鳥は、攻め掛かれば“相手は退くので”その退路を別の一隊で潰す。
というよく分からない戦法なので、それは前例に無いだろうかと思います。
ニ隊に分けたのは本当かもだけど、退路云々のくだりは誤伝じゃないかなぁと思う。
つ[啄木鳥の戦法]なんて大袈裟な名前付けた江戸時代の人もいるのです
織田徳川島津や関ヶ原なんて古代ヨーロッパで使われた陣形だから理解しやすいけど
武田は三方ヶ原以外はさっぱりわからん
左右に兵を分けていたら全て鶴翼の陣と名付ける江戸の人も困った物だが
ステルスにする意味あんの?
>>58
冷静なつっこみ
独特のファランクスで受け止めて、騎兵を側背に回す・・・・
しかしアレクサンドロス大王ってのは戦術もとことん優秀な上に、東方に遠征するだけの
兵站線の構築だとか、戦略面でもズバ抜けている。17世紀ぐらいまでのヨーロッパだったら、
そのまんま通用する気がする。
日テレの『東大落城』が凄く面白かったんだが、
講堂に篭った人らはどうやってたら勝てたんだろうかw
とりあえず車の横付けをさせないような工夫はしなければいけなかったなと思った。
それこそ壕を掘るとかして。
どうみても
日本では大陸の陣形が使えない、と武田信玄も山本勘助も言っている。
大陸基準でみれば、日本の戦法はほとんど機動部隊による戦闘。
日本の戦闘が劣っているといいたかったわけじゃなく、
中華式、或いは欧州式の陣形や戦闘教義は日本の戦闘形式には合わないということを言いたかった。
複雑な地形と封建体制で発達した日本の戦闘は、在地領主率いる結束の固い小部隊が機動戦術でぶつかり合う。
これが日本式戦闘だな。当たらずと言えども遠からず。
明軍と日本軍の戦闘は戦闘思想対決ともいうべき様相を呈していてなかなか面白い。
孫子に具体的な陣形は出てこないし六韜も散集を自在にしろってぐらいで
具体的な陣形は言ってない。
中国人の書いた本にあったが先頭の武士が扇一つ動かすだけで自在に陣形が変化して訳がわからぬまま屠られていったそうだ
そしてまた明軍は自分たちのふがいなさを日本人が戦闘民族だと
主張してすり替えてるだけという不思議。
>>76
もちろん両者とも大陸の戦法を直接は知らないんだが、一応孫子や六韜は信玄や勘助は当時の必須の兵書として知っている。
でも、その通りには行かないぜ!と甲陽軍鑑に書いてある。
そりゃそうだ。隣の村に行くのに山を越えるような日本で戦をしようと思えば、
鶴翼だの井雁行だの、滅多にキレイに陣形作れないと思う。
もっと柔軟性と機動性に富んだ小部隊を地形に応じて配置した方が意味がある。
孫子に具体的な陣形は出てこないし六韜も散集を自在にしろってぐらいで
具体的な陣形は言ってない。
大阪城のトーチカはオランダの影響でそ?
車懸かりの陣なんて言葉ばかり先行して、実際の運用は現実的じゃないだろ。
そもそも戦国時代の組織的な戦術の運用は信長、秀吉、家康がやっと形を創った程度のもの。
それ以前は地域土豪たちの統率力と熟練度の高さ、主君個人のカリスマに頼るところが大きい。
信玄
「唐より日本へわたりたる軍書を見聞きたるばかりにては、人数をくばり、備えを立て、
陣取りをとりしき、境目の城が前などの、よき軍法を定むること、成し難くおぼえたり(甲陽軍鑑品廿五)
勘助
「唐の軍法、一に魚燐、二に鶴翼、三に長蛇、四にエン月、五にホウ矢、六に方円、七に衡ヤク、
八に井雁行、是よきと申しても、日本にては合点仕らず候(甲陽軍鑑品大廿七)」
↑は『孫子(浅野祐一氏)』からの抜粋だけどね。
想像だけど、同じ名称の陣形が日本にあっても、運用は大陸とはかなり違う気がする。
そもそも日本には、戦闘教義と呼べるものがなかったし。
日本の部隊の武装を見ても、かなり小規模の部隊でも一通りは完結した武装を備えたりしているから、
全軍での集団運動はほとんどなかったと思う。
というか、日本国内で戦闘するかぎり、全軍が運動する前に地形や敵の攻撃で
細かく分断されてしまう気がする。
毒矢の一斉射これ最強の戦法
図説 日本戦陣作法事典
同意かな。
日本の合戦はだいたい山城をめぐる攻防がほとんどだし、また山を越えつつ攻撃するには機動力は不可欠かなと。
攻城戦を除いても
関東の両上杉の合戦、姉川、三方原、長篠、関ヶ原等々
大軍を展開できる平地平原でどんぱち多いじゃまいか
捨てがまりもね!!
農具で襲ってくる
トッコー本願寺の戦法が
コワイと思う。
亀甲船は島津義弘軍にフルボッコにされて
李舜臣○されてるから最強では無い。
小石投げは一発必○だよ
通説の車懸かりって有り得ないんだよなぁ。
それが備単位でも軍団単位でも。
何故なら足軽フルマラソン状態になるから。
しかもかき集めた農民にそんな機能的な動きが出来るとも思えないし。
槍同士による戦いを有利にする工夫はあったんだろうか
それとも、部隊の動かし方や配分、訓練、武将の勇猛さ、
これくらいしかなかったのだろうか
例えば槍を使うなら上から叩くのがいいとよく言うけど、
敵が槍を振り上げるのを見てから素早く後退し、
槍のふすまが倒れたところでふすまを足で踏みつけて無力化し、
一方的に槍を突き入れる
そんなようなやりとりなどはあったのだろうか
ここで槍を高く評価している人は戦国時代前期の戦いを踏まえて
論じていて、戦国時代通期のものではないと思いますよ。
槍ふすまの槍は長ければ長いほどよく、その使い方は主力である武士が
攻撃に出るまでの前衛部隊。白兵戦になると自らを守れなくなる鉄砲弓
を防御するため、ただふすまを作るだけではなく一斉に振り下ろして牽制
する。主力である武士団が攻撃に出たらじゃまだから脇にどく。
その手柄も格付けが低いことから、突撃には関与していないと考えられる。
だから戦国時代後期には後衛に転化し人数も減る。
槍隊には2種類あるわけです。上に述べたように横長に分布し前衛となる部隊
と、個々に散会して手柄を競い合う部隊。下は一番槍とかで功名をあげられるが、
上はほとんど手柄に関与しない。
>>126
なるほど、そうすると断言するまではいかないけれども、
槍同士の駆け引きに工夫の余地はほぼなかったと思ってもよいと
槍衾が威嚇や牽制、防御の色が濃いものであることと、
槍部隊に個々で戦うものと壁役のものがあるのは初耳
ためになりますた、ありがとう
統率力が優れていればいるほど、あらゆる状況に対処できるわけや。
よって信玄の戦術が全て最強という事で、このスレ終了。
あらへんけどなあ。
駿河一国をめぐって、あらゆる大国による外交戦などが展開され、それを勝ち抜いた
のを戦功では無いとすればどういうのを戦功と言うのか?
鄭若曾「等潅図編」 日本人の戦法は支那人から胡蝶陣と呼ばれていたようだ
その兵を用うるや善く埋伏し、しばしば巡って我が軍の後ろに出で両面を討ち、
常に寡を以って衆に勝ち、塁を劫かし、華人たやすくその術中に堕つ。
その未だ戦わざるや、団結分散、三々五々にして、一人扇を揮うや伏兵四方に起る。
これを胡蝶陣という。
「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ち振るい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
日本人はよく刀槍を用いる。
我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。
そこで厚鉄を用い全身鎧を作り
この鎧を着た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。
取り敢えず、全身鎧の見本を製造して、
これを試用したが、とてもその重さに堪えられる兵士がおらず、これを廃した。
>>159
>左右にはげしく打ち振るい
ということは、示現流みたいに上から振り下ろすのではなく、
柳生新陰流のように廻し打ちをしていたということか?
介者剣術の時代に正面打ちはまれだよ。示現流もトンボの構えからの
ケサ斬りが基本。ついでにいうと示現流がお留流になるのは関が原より後ね。
まだまだ防御的な使い方する比率が高いからなぁ
まして一発撃つまで早くて二分かかる火縄銃だし
明軍は苦しめられたとなんとかという書物に書かれてた
ってのが一番効果あったんだろうな
成功例は桶狭間ぐらいだろうけど
乗り崩し戦法の応用バージョンじゃないかなぁ と思う
戦国自衛隊(昔の小説)で昔に読んだ記憶によると
自衛隊の輸送用トラックで自動小銃を撃ちまくりながら
戦場を駆け回るものらしい
>>180
車掛りの事三ヶ条
我の備えを立てきりきり廻りていくめぐりめに敵の旗本と我が旗本と打合すると積もりでか
かるを云うなり
車輪のめぐりて行くごとく、あたらずと言う備えなく敵方へかかり行くを車掛りと云う
味方大軍なるか地形さわり多き時は人数を廻すこと自由ならず故に車掛りをなすべからず
あたらずと言う備えがない・・・やっぱりぐるぐる回すのだよ はぁわからん
弓隊の存在もある。本来、武士(もののふと読む)の道は剣術ではなく、武士の姿は流鏑馬のように弓矢を使った”飛び道具”だ。それぞれ名人級の人選で印地隊、
弓隊が編成され、専ら敵方の将校級の狙撃専門に活躍した。これなら格闘技(小具足術と言う)は無く、多少年齢が入っていても足腰さえ丈夫なら出来た。印地打ちなら
合戦で片腕を無くした兵士でも出来るし、そういった兵士を集めて印地隊を作った例もある。鉄砲の伝来で敵方を○傷し、首を取るのが戦国の戦いと言うのは早合点で
敵方の領土の村々を襲い、食料の強奪、降伏した兵士・村々の百姓を人買い商人に売りさばくのが目的だった。少し話はそれたが、関ヶ原では国友鍛冶の造った大砲も
出番があった。でも、弾は和紙に包んだ小石・鉛の玉を発射するだけで爆発するわけでもなく、○傷力は弱い。発射時の轟音が相手方を脅かした。大坂冬の陣では徳川勢が
昼夜となく、大砲を放ち淀殿をはじめ、大阪方を心理的に悩ませた。一度まぐれに徳川勢の放った弾が淀殿の御殿に当たり柱が折れ侍女が1人タヒ亡したことがあり、恐怖に
包まれた淀殿が、徳川に講和をもちかけ、冬の陣は終了。総堀を埋められた大阪城は裸城となり、夏の陣で豊臣は滅亡する。
紙に包んだ小石が着弾時飛び散るんなら○傷力はかなり上がると思う。
最強の武器は経済封鎖じゃないかな
金で隊列を乱すのが目的
個人の覚悟に委ねていたのか、それとも現代軍隊のように徹底的な訓練プログラムみたいなのがあったのか。
戦法ではないけど、士気がなければ戦法も威力発揮しないだろうし。
やはりこの時代はメンタル部分の担当は宗教だったのかな
騎馬鉄砲で車懸かりを仕掛けるって感じの戦術なんだろうかね
一揆相手にそんなことやるだろうか?
いつ頃の文献に載ってるの?
肥後国人一揆は佐々成正が鎮圧できなかったレベルの相手だぜ?
本気で戦わないとだめに決まってる
立花家最高の差し入れ食った直後無敵モードのスーパーマリオに変化した
織田・徳川連合軍砲手による一斉射撃に小便ちびって逃げ出した武田将兵多数
1000丁の火縄銃の一斉射撃はさすがに恐怖だったろうな
敵前逃亡した将兵が多過ぎて戦線が崩れたのが武田の敗因らしいし
それでも9時間粘れて連合軍に大損害を与えた武田も相当なもんだけど
車掛りはテバイの斜線陣と同じものだと思う
ギリシア重装歩兵は盾のない右側からの攻撃に弱かった
だから敵の右翼から血祭りに上げていく陣形が斜線陣
これと同じことを槍足軽でやった奴がいたんだろう
で、この戦術は敵の弱点を突くが味方の弱点は突かせない
先の重装歩兵の例だと右翼は最後まで敵と交戦しない
結果として左翼がぐるりと一周して敵を殲滅してしまう
日本でこれをやった人がいたら車輪を連想する光景だろうね
その為に年貢を納めているんだからな
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193685418/
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