歴史みてると「中臣鎌足」って突然出てきたけど何者なんだよ
お笑いコンビ・すゑひろがりずが3日放送の日本テレビ系「ダウンタウンDX」で、
どんなものも古風な和式で言い換えるネタ・和風変換で、陣内智則を「元藤原氏」と呼び、ネット上を爆笑させている。
https://www.daily.co.jp/gossip/2021/06/05/0014390041.shtml
のちの藤原鎌足
藤原不比等が藤原氏の地位を永続的なものにするために創作した作り話の英雄
聖徳太子も架空の人物である
>>5
聖徳太子が架空の人物だというならば
なぜ日本書紀は偉大な人物の出自を蘇我だらけにしたんだ?
渡来系なのに武士とか
天孫系だから渡来系より古いよ
縄文時代から既にいる
大化の改新までは日本の支配者だったっぽいし
それを簒奪したのが天皇家と藤原家だろ
大王がそれらの力を借りるかわりに領地の私有を認めた
渡来人と大王系統はきっちり分離されてたんだがここに血の交わりを最初に作ったのが藤原氏
そのおかげで天皇の側近となって権力を独占し続けた
藤原不比等は古代日本屈指の天才
厳密に言うと渡来人と天孫は別
この辺りは天孫だから渡ってきたのが縄文とかだから一般的な渡来人より古い
ちなみにその時代の朝鮮半島は南端以外は不毛の地
華中より南から渡ってきた
強いて言うなら
入鹿は悪人じゃなかった
(革新的な政治家だったのに中大兄と中臣に暗○され日本書紀で悪役に)
聖徳太子の実績の半分くらいは蘇我氏(馬子、蝦夷、入鹿)のもの
蘇我氏の手柄を天皇の子である聖徳太子にさせるために改竄
このくらいはやってそう
聖徳太子は父方からも母方からも蘇我の血を受け継いでいる蘇我の子
なぜ蘇我の手柄を蘇我の子へ?
もし仮に蘇我を否定したいならば非蘇我系皇族にすればいいのにしていない
入鹿が○されて大化の改新の時の右大臣は蘇我石川麻呂
そして天智天皇が即位したときの右大臣は蘇我連子
つまり
(説A) 入鹿は本当に悪人なので○されて蘇我自体は悪くないので重臣として続いた
(説B) 入鹿は悪人じゃないけど蘇我氏内の身内争いで○されて勝った側の蘇我が重臣として続いた
事情により時の施政者の都合のいいように書いてあるところはあるが
正しいと思われる記述もある
逆に一見何書いてあるか理解不能のところとかは事実そのままだったりする
滅びていない
蘇我馬子の孫の蘇我石川麻呂が大化の改新の右大臣
蘇我馬子の孫の蘇我連子が天智天皇即位時の右大臣
さらにその右大臣・蘇我連子の娘が藤原不比等の妻
つまり藤原四兄弟のうちの三兄弟の祖父が蘇我連子
ゴート族の大移動が起きた頃だっけ
実在する人物だと思うな
大阪府高槻市の
阿武山古墳にある
阿武山古墳は京都大学の地震観測所の建設中に見つかったんだよね
最終的に埋め戻されたけどその前にX線撮影を行なっていて
金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸であり当時の最高冠位である織冠と判明
そして当時これを授けられた人物は2人しかいない
百済王子の余豊と中臣鎌足である
つまり二人は同一人物ということか
この十三階冠のうち最高位が大織(冠)と小織(冠)なんだけど
日本書紀でこの最高位を与えられた人物が二人しかいない
662年に織冠が百済の王子の豊璋に与えられ
669年に大織冠が中臣鎌足に与えられている
だから>>264の織冠が見つかった阿武山古墳の埋葬者はこの二人のどちらか
前者はちょうど鎌足が日本書紀から長らく消えて代わりに豊璋が活動する時期ですね
だからこういう説も出てきているのだと思います
662年に鎌足(=豊璋)が小織冠を授与される
669年に鎌足(=豊璋)が大織冠を授与される
出世ですね
おまえがバ○だ
日本書紀くらい読め
661年に中大兄皇子(=当時皇太子)は長津宮(=当時白村江の戦いのため臨時遷都中)にて織冠を百済の王子豊璋に授けたとある
そして中大兄皇子は軍兵5千余を率いて豊璋を本国に護り送らせたとある
もちろん日本書紀の謎として
『豊璋が登場する期間はなぜか中臣鎌足が行方不明』
というのがあって二人の同一人物説を唱える人たちが多いのは事実だが
なぜ中臣家は百済の王子を中臣鎌足として中臣家の系図に入れることを許したのかよくわかった
まず推古天皇31年(623年)のところを読むと
新羅が任那を攻撃して任那が新羅の管轄下になってしまったのだが
ここで中臣国子は「任那を取り返して百済につけて保護してもらおう!」と主張している
つまり中臣国子は百済派の人間である
ちなみにここで反百済派が新羅と交渉して返してもらうことが決まり交渉成立したタイミングで
百済派の中臣国子は征新羅大将軍に任命されは新羅へ侵攻してしまうという二重外交で蘇我馬子が悔やんでいる
次にこの百済派の中臣国子の孫である中臣意美麻呂が
鎌足の娘を娶って鎌足の元へ婿養子に入って藤原意美麻呂となっている
鎌足の実子である不比等が幼く未成年であるため鎌足の跡継ぎとなった
つまり以前より百済派の中臣家が百済王子の鎌足と密接な縁戚関係となり
鎌足を中臣家の系図に組み入れることを認めたことが理解できた
全ての辻褄が合っていてマジに蓋然性高いんだな
意外にも中臣氏と百済の関係深いんだな
辻褄が合わないことに気づくと別の可能性を探し始める
それを受け入れるには多少の時間がかかるだけ
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません