【朗報】鑑真和上、ついに来日へ! 阿倍仲麻呂が太鼓判「(渡日)いけるやん」
鑑真和上が6度目の渡日を目指していることが23日分かった。阿倍仲麻呂氏がキャンプ地の沖縄で本誌に語った。
鑑真和上は座禅で鍛えた下半身から繰り出される伸びのある読経と変化量の大きい公案が特徴の禅の本格派。
一時「失明」説も浮上していたが、阿倍仲麻呂氏は「なんの問題もない。そもそもあのハゲども(私度僧)とは何もかも(レベルが)ちゃう」と太鼓判を押す。
ただ、1番の問題は今まで5度にわたり条件面で折り合わず渡日が叶っていない点。しかしこの点も「前は弟子が(裏切った)。今回は日本側で船を用意したし(渡日)いけるやん」と問題なしとの考えを示した。
もし来日すれば、初のメジャーの本格派として日本イムの戦力となることは間違いないだろう。
なお仲麻呂氏は「俺も最後は(日本で)な」と記者に対し自らも日本復帰の意欲を滲ませていた。
鑑真和上が乗った第二船は仲麻呂氏の第一船とともに月末にも太宰府入りする予定。
爆笑したわ笑????
なかなかすごい人生だよね
最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。
2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。
再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。
その後、栄叡は病タヒを装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。
しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。
748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。
6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。
そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡がタヒ去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。
753年、遣唐大使の藤原清河らが鑑真のもとに訪れ渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、清河は鑑真の同乗を拒否した。
それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は清河に内密に第二船に鑑真を乗船させた。天平勝宝5年11月16日(ユリウス暦753年12月15日)に四舟が同時に出航する。第一船と第二船は12月21日に阿児奈波嶋(現在の沖縄本島)に到着。
第三船はすでに前日20日に到着していた。第四船は不明。
沖縄に到着した三舟は約半月間滞在、12月6日(ユリウス暦754年1月3日)に南風を得て、第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰嶋(国)(現在の種子島)に向けて就航する。
出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁したが、第二船・第三船はそのまま日本(多禰嶋)を目指した。のち第一船はベトナム北部に漂着。第一船の一行は唐に戻ることとなる。
7日後(七日去)の天平勝宝5年12月12日(ユリウス暦754年1月9日)に益救嶋(現在の屋久島)に到着して鑑真の来日が叶った。
引用元: https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1582508550/
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