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十一ヶ国太守とも天性無欲正直の人とも評価された毛利元就と並ぶ謀将・尼子経久ってどうよ

2023年12月18日

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1: 2006/07/24(月) 02:14:49 ID:1nUf16hP
なんとね~おっつぁん話してごせや。まっちょーけんね
81: 2006/11/17(金) 10:50:35 ID:orKv8d8x
>>73-76
晴久は知謀低いイメージあるけど、出雲大社門前町の有力商人を介して
備後北部の国人衆を切り崩しにかかったりと、かなり謀略戦も駆使してる
2: 2006/07/24(月) 02:16:11 ID:LMtGN9u1
戦国最強にして最高にカッコヨスな緒方経久。
4: 2006/07/24(月) 02:22:11 ID:i1bPCKm5
>>2
彼はまさに下克上のなんというかまぁ緒方拳の演技はよかったな
10: 2006/07/24(月) 18:26:09 ID:FbV/AA0z
幸盛は晴久の時代です
幸盛ソバうめぇ
17: 2006/08/05(土) 16:11:15 ID:97PJ/FU2
龍造寺家兼と並んで最強のジジイ
18: 2006/08/13(日) 03:39:14 ID:ucljjphL

伊達植宗も入れてくれ

てか実際どんなことしたん?
戦国前期なんでいまいちわからん

20: 2006/08/14(月) 01:23:03 ID:yM1w81sE

経久とは関係ないが

>>18
何で「稙」を「植」と間違える奴が多いんだろう

21: 2006/08/14(月) 07:55:36 ID:YC+6sRSh

経久とは関係ないが

>>20
何で普通に訂正できない奴が多いんだろう

22: 2006/08/30(水) 22:43:50 ID:Gy22mBXY

尼子経久かー・・
なんで月山富田城の本丸に幸盛の碑なんざ
あるんじゃこんのだらがぁぁぁぁー!!

と本丸に行ったときに思ったね。

23: 2006/09/20(水) 21:54:58 ID:U+fCcSWI
緒形拳さんが演じて、迫力ある戦国大名として、現在の人に知られた。
24: 2006/09/20(水) 22:26:39 ID:KF/PPITk
時代劇チャンネルで、今日は、経久のタヒぬ前に残した策略により毛利元就をあと一歩まで追い詰める回を放送していた。
大河オモシロス
25: 2006/09/20(水) 22:47:02 ID:MIG4ozC+

某「信長の野望」に登場する経久、間違いなく緒形拳に影響はされてるよね
似てはないけど。

やっぱ背景の色は赤がピッタリだな。凄みが増すっていうか、ド迫力

26: 2006/09/20(水) 23:08:30 ID:prHD05uS
雰囲気がなんとなく緒形さんを連想させるよね。
経久テラカッコヨス。しかし元就から混乱返しをくらい混乱しまくり。
27: 2006/09/20(水) 23:48:31 ID:MIG4ozC+

>>26
元就のあれは反則wwwゲームならでは、だな

中国地方は凄いな。他の地方にも知略に長けた武将は沢山いるけど、なんかこう、
中国地方の連中はオーラがドス黒く澱んでいる。竹中とか黒田とかには絶対に無い雰囲気があるよな。
山名宗全、尼子経久、毛利元就、宇喜多直家。これで松永久秀も播磨とかに生まれていれば
完璧だったんだがなw

28: 2006/09/21(木) 00:19:33 ID:Gg9jjIuA
>>27
そう言われると凄みがあるなw
30: 2006/09/21(木) 01:30:40 ID:h8G7eRSN
>>27
なんとなく、何故新政府で長州が政権取り。
中国地方出身の首相が他地方より、圧倒的に多いか解る。
29: 2006/09/21(木) 00:39:11 ID:Z6RYN1hS
敵ながら陶隆房結構好きよ。
あの辞世の句がいい。
31: 2006/09/21(木) 09:58:43 ID:M/PUPP56
革新だと加藤茶ににてるのは秘密
32: 2006/09/21(木) 11:57:03 ID:zb9uObkS

経久って謀が多くて当時最強だったと思う。おそらく元就も経久に学んだんだろう。

66: 2006/11/03(金) 21:06:56 ID:mNum7HE1

>>32
確かに元就殿は
・尼子経久殿
・大内義興殿
という西日本有数の武将の狭間あり、両者から政戦略を間接的に伝授されたということでしょう

私も緒方拳さんの経久殿ははまり役だと思います
以前TVNEWSで経久殿の肖像画を拝見しましたが、とても威厳のある、理知的なお姿でしたよ
月山に山中鹿乃介像がありますが、私的には、経久殿の銅像もあってよいと思いますね

34: 2006/09/22(金) 01:27:10 ID:uakzjznh
残りは黒田孝高、小早川隆景、吉川広家、安国寺恵瓊か
36: 2006/09/22(金) 22:18:33 ID:/J4Cq9gZ
信ヤボ天翔記の中国・九州地方はアツい
37: 2006/09/22(金) 22:29:10 ID:bwD297bD
関が原での毛利秀元の態度さえしっかりしてればなあ・・・。絶対三成勝ってくだらん徳川の時代もなかっただろうに・・・。金吾の馬○はどうでもいいが秀元さえ戦闘に参加していれば西軍の勝ちは間違いなかった。
38: 2006/09/23(土) 00:37:41 ID:+Xm2OgwP
密かに雨月物語にも登場。
39: 2006/09/23(土) 00:54:01 ID:qMsZB7Fz
実際は一休さんみたいな逸話が残ってるお茶目なじいちゃん
40: 2006/09/23(土) 01:49:42 ID:UM4rigow
日蓮宗が好きだったのかね?開板したらしいけど。
あと吉川元春が太平記を丸写ししたならこっちは
伊勢物語を丸写し。(あまりにもギャップがあったんでちょっとウケタww)
在原業平に憧れてたんかね?
41: 2006/09/23(土) 05:33:27 ID:TM8y9DPH
西軍は実際に動いていたのは数万程度らしいから
毛利が加わったところで直接的にはまだ不利だけど
実際に毛利が加わったらかなり情勢変わるよな
42: 2006/09/24(日) 18:31:15 ID:jiaVau4V

歌・絵を嗜み文学にも興味を持ってたとか、何とまあ多趣味な人だよな。
若い頃京都にいたことが大いに作用しているんだろう。

この遺伝子が後進にも伝われば良かったんだが。父譲りの素養があった長男は
若タヒするわ、二男・三男には武骨なイメージしかないわで、悲惨だな

44: 2006/09/28(木) 10:10:42 ID:FXbTHJmJ
>>42
尼子政久を評価しすぎじゃね?
陣中で笛を吹いてるところを射○されるなんて、
文弱にもほどがあるぞ。
今川氏真公とイメージがカブる。
47: 2006/09/28(木) 12:30:53 ID:LHFCr436

>>44
政久は持久戦が得意だったのかね?
兵士の士気を上げるために笛を吹いて鼓舞したり
酒宴をひらいたり、小田原攻めの豊臣家みたいだな。(多少意味が違うが)

それよか自分はなぜ政久があそこまで苦戦していたのにも関わらず
弟たちがあっさり城兵皆○しにできたのかが気になる。
(国久の息子がタヒんだときも、劣勢だった軍を盛り返してるし・・・
誰かがタヒなないと本気が出ないのか、尼子家は)

んで>>44のレスを見てふとこんな事を思った
政久→内政担当
国久→本家の軍事担当
興久→対諸勢力用軍事担当

48: 2006/09/28(木) 17:39:42 ID:PWaRnWkZ
>>44
よく考えると三村家親と同じだな
43: 2006/09/27(水) 02:21:52 ID:Hz2H5wSb
大内も京好きなのに気が合わなかったのね。
46: 2006/09/28(木) 10:57:13 ID:Lx88YJIO
備中出身が最有力だね
51: 2006/10/17(火) 07:14:09 ID:E/1FtR2l
尼子経久、いいねぇ。
信長の野望初めてやった時、毛利さんでやっつけたけど。
53: 2006/10/18(水) 08:14:26 ID:lFig6LYO
緒方拳の経久は鬼のようなかっこよさだったな
56: 2006/10/19(木) 12:26:16 ID:RoYqpGOy
>>53
もう俺の中で尼子経久と言ったら他はもうありえない。
57: 2006/10/19(木) 16:15:26 ID:5Vj1AxRC
>>56
おなじく
62: 2006/10/22(日) 23:27:07 ID:eHlLKipj

>>57
緒方件の経久は、確かによかった。
でもこの武将って他に誰か演じた役者さんているのかな?
ドラマ、映画その他・・・

優秀な武将だけど、やっぱ知名度低いよな

84: 2006/12/28(木) 21:07:56 ID:tUcx9fhY
>>62元就に密かに来た時のやり取りは良かったね。最後、戸を開け放って立ち去ってゆくところも。
54: 2006/10/18(水) 12:15:18 ID:T2HEoHYx
普通に大河で見たいぜ。
若い時代は直人君でも可。
77: 2006/11/11(土) 17:50:21 ID:lHk4BoHE
>>54
同じ役で出演すれば緒形にとって豊臣秀吉以来になるね
緒形秀吉は素晴らしかったなぁ(信長の高橋幸治もよかった)
尼子経久も良かったし、藤原純友も良かった
55: 2006/10/19(木) 02:09:55 ID:jfUMWfLf
緒形拳がこの間徹子の部屋に出てたのに見忘れた・・・orz
ドラえもんと孫の話聞きたかった・・・
58: 2006/10/19(木) 21:10:22 ID:M4BHv/5t
同意だが、流石に緒方拳だけで
若い時代は無理だろうから
難しいところではあるな。
63: 2006/10/23(月) 02:36:57 ID:nsHKdJNh
単体で取り上げるのは、地元のTV局以外難しいだろ。
64: 2006/10/23(月) 10:15:32 ID:wPlruCBp
地元のTV局でさえやってない罠。
空いてる時間は週遅れのアニメと何度も再放送する
王様のレストランとカバチタレだけさ。
67: 2006/11/04(土) 19:29:47 ID:uhnBzsQk
尼子の精鋭の名前なんだっけ?
68: 2006/11/04(土) 19:34:38 ID:OVGZZag8
新宮党じゃなかったけ?
69: 2006/11/04(土) 20:19:50 ID:uhnBzsQk
それだwサンクス
70: 2006/11/07(火) 11:49:42 ID:FPU//uJ3
元就公にとって幸運だったのは経久公と同世代ではなかった事だ
あとは晴久が無能で義久が更に無能だった事か
73: 2006/11/08(水) 09:36:47 ID:0JBlHiMT
>>70
晴久が無能?おまえは何を言ってるんだ?
傑出して優秀ではないが武将としての戦果を
見れば無能なんて言えないはずだが
74: 2006/11/09(木) 02:07:08 ID:ZtiZzXhc
晴久はなんだかんだいって経久時代の体制を
変えた人物だし。(奉行制度は勝久の再興軍まで引き継がれている)
本城がついて来ただけでも評価できるよ。
75: 2006/11/10(金) 20:55:21 ID:ZA6lBBC9

晴久公は猪突猛進が過ぎたのではないか…
新宮党ならいざ知らず、自身がそうでは…
下野守久幸殿の様な思慮深き方の意見をもう少しでも聴かれておられたなら、義久公の代への基盤整備でもなされたかもしれないが…

武田家もそうであったが、やはり先代が偉大過ぎた故であったのか…

76: 2006/11/11(土) 00:20:03 ID:JSLGW/nV
>>75
郡山攻めまでは確かにそのけもあったが、
それ以降はさしたる拙攻は見られない。
大内毛利を追い返したり銀山取ったり。
ただ銀山取ったあたりで毛利と和睦でも
していればまた違う展開があったかもしれんね。
78: 2006/11/12(日) 17:49:30 ID:hVqlf29Y
経久様のことが詳しく書かれたファンサイトとかあったら教えたもれ
79: 2006/11/13(月) 12:10:13 ID:MzK8DNew

つ 陰徳太平記
つ 雲陽軍実記
つ 塵塚物語
つ 尼子史料集
全部ファンサイトじゃない罠w

陰徳太平記では興久謀反が尼子家衰退の原因だと言っているが
塩冶氏が滅ぶとやはりマズイのかね?つか新しく塩冶氏に養子を入れれば
よかったんじゃないかな?

81: 2006/11/17(金) 10:50:35 ID:orKv8d8x
>>79
>新しく塩冶氏に養子を入れれば
いや、明らかに下策だろそれは。
そんな事より、新宮党にくれてやらずに
あの時点で、宗家の直轄にしとけば良かったと思ふ
80: 2006/11/15(水) 18:28:14 ID:r98JdSG4
塩冶氏そのものは大して重要でもない。
それより息子に謀反を起こされること自体、周辺の国人は経久老いたりと見るし
実際はどうあれそう受け止められることだけでも尼子家の影響力低下につながる。
いちど勢力が引き潮と見られてしまると実際はそうではなくても、
周辺がそう信じて動けばそのとおりになってしまう。この辺は今の株式市場と似てるかも。
81: 2006/11/17(金) 10:50:35 ID:orKv8d8x
>>80
>塩冶氏そのものは大して重要でもない。
いや、重要だろあの辺の領地は。なんと言っても斐伊川流域の要所だしさ
83: 2006/12/28(木) 11:17:37 ID:EI/4bkxZ

尼子も大変だな三刀屋という爆弾を抱え込むことになって。
三刀屋もよくあっち行ったりこっち行ったりで潰されなかったな。

最後輝元に潰されたけど。

89: 2007/01/07(日) 23:03:40 ID:oPj+FTLJ
弟で新宮党の尼子久幸もなかなかの人物。
90: 2007/01/14(日) 00:08:07 ID:U8u534Xu
そういえば経久は11カ国の太守になった これが凄いのはわかるのだが実際の直轄地、そして動かせる国及び兵はどの程度だったのかね
九州北部から中国地方西部にかけて領土を広げてた大内のほうが直轄地自体は凄いのか?
91: 2007/01/14(日) 15:40:20 ID:eig2SDNw
守護に任命されるって、結局その国を支配する権利を認められたに過ぎないんだよなぁ
特にこの時代にもなると
92: 2007/01/17(水) 03:44:34 ID:AjR3SZLM

尼子経久が何故「十一カ国の太守」とよばれるようになったか
という小論文があった気がする。
で、たしかこの小論では、江戸時代、毛利元就の肖像に「八カ国の太守」と
讃えて記入された事に、当時の佐々木氏(尼子)の当主が対抗意識を燃やし
尼子経久の肖像に三ヶ国多い「十一カ国の太守」と賛を書かせたのが
始まりとか。

ちなみに尼子家が守護になった国の数は、尼子晴久の「八カ国」が最大

94: 2007/02/03(土) 23:34:10 ID:N/7l8ynt
>>92
八カ国は献金して将軍家に認めて貰ったんだっけ?
95: 2007/02/11(日) 04:16:41 ID:BS3gW6l9

>>94
たぶん、そんな感じ
でも、公認された八カ国の内、出雲・伯耆・隠岐の三ヶ国は完全支配してたし、
美作も9割がた抑えていた。因幡にも結構影響力はあった。
備前・備中は尼子方の国人がそれなりにいたので、
あながちお飾りで守護名乗っていたわけでもない。

問題は備後で、殆ど影響力がなかった。
晴久は、謀略を駆使して三次方面の国人を取り込んだが、
毛利氏・大内氏との軍事衝突に敗れて、結局勢力を伸ばせなかった。

100: 2007/03/24(土) 00:52:11 ID:Ya2Fjd3H
>>92
11ヶ国の太守じゃ、全盛期の山名氏と同格になっちまうもんな。
93: 2007/01/17(水) 18:46:04 ID:iReJnrOL
尼子と大内の戦いって2万とか3万とかの数字がバンバン出てくるから互いに100万石程度の領土があったと見るべきか?
96: 2007/02/13(火) 21:03:21 ID:qAosONav
>>93
中国地方は米以外の副収入がふんだんにあるからねえ
石見銀山・瀬戸内や日本海の海運交易・鉄とかね
97: 2007/02/16(金) 22:20:56 ID:hatF8RH4
>>96
出雲周辺は鉄資源が驚くほど豊富。
伯耆なんかは嘗て日本有数の刀剣生産高を誇っていたぐらい
101: 2007/03/27(火) 09:37:03 ID:Lys7Nzou
>>97
砂鉄を鋼に出来る木炭=森林資源の豊富さにも恵まれてる。
中国山地の分水嶺は随分瀬戸内寄りにあるので雨水はかなりの部分山陰側
に落ちるので、それと砂鉄が結びついた当時の山陰地方は屈指の「重工業」
地帯なんだよ菜。
それを行う資本=銭にも事欠かない商業と鉱業があったし。
99: 2007/03/11(日) 02:25:01 ID:ksZ64/Pq
宇竜浦の事も忘れないであげてください。
鉄の生産より、鉄による舟役が重要であり
石見の銀も権力者が実際に支配をしていたのではなく
商人だがなんだかがそこの銀を大量に採取し
それに莫大な税を掛けていたっていうしね。
106: 2007/05/25(金) 15:13:17 ID:gtK/5ywi
出雲は米の生産は少ないだろうから、いろいろなものが御家を支えたんだね、勉強になります
107: 2007/05/26(土) 01:27:41 ID:IWRavr44

まあ、出雲が日本最大の製鉄地帯になるのは、
松江藩が保護育成しまくった以降の話なんだがな
鉄の価格が下がった時には藩が買い支えて田部家などの鉄師を守り
価格が上がった時には、上納金で利益を得て、全体的にプラスにする構図…
鉧を割る事ができるまでは鉧押し法の生産力は銑押し法の1/2程度だったそうだし
技術の発達で生産能力が上がるまで大変だったみたいね
あと高瀬川の開削とかも、表向き民間でやった事になってるが
実は、松江藩が裏で資金・資材・技術者の全てをまかなっていたり

自由競争で経済がうまくいくなんてのが、いかに呑気な考えかよく分かる

なんだか、スレ違いですまぬが

118: 2007/09/22(土) 15:27:56 ID:rM/8F1xv
十一国に対する影響力はどうだったんだろう?
119: 2007/09/25(火) 21:22:44 ID:7MnqMfK1

そうでもなかったと思うよ。
ちゃんと支配していたかと言うとそうでもないし。
重臣達には岡山とか与えられていたけど実質空知行に
かわりはなかったみたいだし。
どちらかというと切り取り次第と言う感じ。

危ない所(主に他国)は重臣へ、安全な所(完全に掌握している地)は直轄領。
実際11カ国といっても完全に支配できたわけではないと思うよ。

122: 2007/10/10(水) 17:08:07 ID:rYPOhTE8
本当に11カ国持っていたら100万石どころじゃないだろww
123: 2007/10/10(水) 17:13:48 ID:oGz26LwK
でも当時は石高がひくかったんじゃないの。大内からみたら、田舎の僻地になっちゃうし、都にもちととおいし
124: 2007/10/10(水) 23:49:20 ID:UXO55ZIL

山陰地方というと古代~飛鳥以前は出雲大社もあって発展してるイメージがあるが
戦国期になると裏日本ってカンジで地味~なイメージしか湧いてこないな。

125: 2007/10/11(木) 01:12:12 ID:HzmBeWdw

確かに地味だよな。その後も歴史の表舞台にでてこないし。

でも気前よさそうだから、すぐちぎょうふやしてもらえそ。

127: 2007/10/11(木) 16:22:06 ID:5UjKnepV
鉄と銀山と関銭のことも考えてあげなきゃ
130: 2007/12/01(土) 16:13:14 ID:AjrA7A5g
>>127 それでもって尼子は比較的裕福だったんだよね。
128: 2007/10/31(水) 16:30:49 ID:3cBVWtRp
11ヶ国がオーバーだったとすると
経久を持ち上げる必要があったのは 本当に子孫の佐々木氏なのか。
毛利自体だったりして。
242: 2009/07/26(日) 07:14:54 ID:hcvW2n5M

>>128
11カ国といっても完全支配していた国は何カ国かというと・・・

135: 2008/01/15(火) 22:48:43 ID:01hImuzs
興久の乗っ取りを見て小早川を乗っ取ったらしいですぜ?
137: 2008/02/02(土) 15:49:20 ID:cO92y06P
>>135
塩冶は経久の天敵だよね、勢力が弱っていたのかな?
136: 2008/01/17(木) 20:26:23 ID:BUVirh4t
養子で乗っ取りは当時よくある手なのでなんとも言えない
138: 2008/02/06(水) 17:05:07 ID:Wyq+ThOb
勢力は弱まっているとは思えないような。
周りの国人がほぼ尼子方になってしまったがために
ごり押しで直臣を大量につけた興久を送りこまれ、
尼子化したって感じだし。
その興久が反尼子になるなんて思いもよらなかっただろうな。
あそこ一体は反尼子が多そうだし仕方ないといえば仕方ないが。
塩冶は大社と代々縁が続いているし、古志氏とも仲が良いし。
家柄が古いから鰐淵寺とも良好だっただろうし。
139: 2008/02/22(金) 14:30:38 ID:rhltEv02
塩冶判官(忠臣蔵でも有名な)の子孫だよね。
140: 2008/02/23(土) 00:54:19 ID:Rlf0B3ku
違う違う。佐々木道誉の子孫。
塩冶判官は家が断絶してる
145: 2008/03/04(火) 22:15:44 ID:NS7NRYr/
浅井久政は尼子氏の息子らしいけど、近江にも別の尼子氏いたの?
146: 2008/03/05(水) 20:38:13 ID:7mgAneRY
>>145
近江尼子氏
151: 2008/03/28(金) 15:32:36 ID:yok9fjaY
出雲尼子は近江尼子の分家。
153: 2008/04/22(火) 16:16:42 ID:FLzIkM2o
近江尼子は犬上郡に勢力はってたんだね。犬上郡甲良町尼子に尼子館があったようだ。
154: 2008/05/08(木) 17:25:08 ID:hS7Dp1Tk
清定は事績あるけど 持久ってどういう人なんだろうか?
155: 2008/05/18(日) 12:48:52 ID:jPF7A0AG
意外と経久って武闘派なんだな
156: 2008/05/24(土) 12:56:24 ID:xaawKkTK
経久のことを考えると中国を思い出す。
内側の不満を外に吐き散らす為に遠征をする経久とか。
157: 2008/06/06(金) 14:10:34 ID:eevJyYtO
経久の時代は領国という感じではないね。
関銭などは大事にしているが。
158: 2008/06/21(土) 15:05:14 ID:xNEVkueo
国人連合の盟主という感じか、経久
160: 2008/06/30(月) 21:38:09 ID:jlzpEJLF
経久の人物像を掴めるものとしては、長谷川博史氏の「尼子経久論」(『毛利元就と地域社会』)が今は一番だと思う。迅速な機動力の精鋭部隊で集中的に敵のウィークポイントを突く戦術、それで得た勝利喧伝によって周辺に尼子強しと強烈なインパクトを与える戦略。
162: 2008/07/10(木) 10:37:12 ID:7pzhzO6R
>>160
>長谷川博史氏の「尼子経久論」(『毛利元就と地域社会』)
あれはよかったね。
長谷川氏の尼子論は、正直 藤岡氏や米原氏の尼子論より進んでいて面白い。
三氏に尼子ネタで対談させたら凄く面白い記事になるだろうけど、対談した本人達は喧嘩別れしそうだw
161: 2008/07/02(水) 03:12:54 ID:9xMeYvov
仮に経久が100歳以上まで長生きしてたとしても
尼子の未来は暗いな、基盤が脆弱すぎる
167: 2008/07/13(日) 21:06:47 ID:Weo6WcT8

戦時中の体験を引き合いにして自分たちに不利な史料は悉く捨てるのは当たり前で
残った都合のいい史料だけで尼子を語るなんてバ○だ。
というのは覚えてる。
いくらご先祖が中井氏だからって、能義郡土一揆の首謀である中井を持ち上げて
更にそれを再興軍まで引っ張っていてどうかと思った。

森江氏の但馬駐留説に対する長谷川氏の反論読んでみたいな。
国会図書館に行けば読めるかな。

尼子の歴史家で一番冷静なのは、長谷川氏くらいしか思い浮かばないな。

170: 2008/08/07(木) 18:35:55 ID:B2VWy+Rv
経久のイメージって30代の束帯姿か、老年期のどちらかやんな。(信長の野望シリーズみたいな)墨染の自画像は、老齢過ぎるし… 奉納用だから着用してないだろうけど、佐太神社の梶葉前立の兜姿とかもありだと思うけどお目にかかったことがない。
171: 2008/08/13(水) 01:37:11 ID:/dcWMJOC
出雲地方以外では、通好みの範疇に属するであろう尼子経久
172: 2008/08/13(水) 01:38:23 ID:/dcWMJOC
ついでに書き加えると、広瀬町で経久より鹿介がヒーローだというのが解せん
173: 2008/08/14(木) 01:21:57 ID:FJFFnk55
そりゃ判官びいきだろう
174: 2008/08/14(木) 23:04:28 ID:br3pbmFM

あと、戦前の教科書に出てきたから町民としても全国に知られたってのが誇りだったってのも一因かも(中山義秀「三日月の影」?)

ふと、思いだした

175: 2008/08/22(金) 20:19:14 ID:gqq3G/Ms
尼子の地元での知名度は松平治郷や堀尾以下なような気が
176: 2008/08/23(土) 00:11:48 ID:/u8mBvC8
まぁ、実際はそんなもんだろうな
よっぽどの有名人じゃない限り、戦国時代の武将よりも
江戸時代の殿様とかの方が持ち上げられやすい
177: 2008/08/24(日) 09:59:23 ID:B9t2JU0x
伊達政宗の地元だった米沢ですら、上杉鷹山公の町。
伊達や蒲生、上杉等、有為転変のあった会津の地も、今は会津松平氏の国。
なのに広島は今でも毛利の町。熊本も清正の町。福島や浅野、細川が悪い政治をしたわけではないのに。
不思議。
178: 2008/08/24(日) 18:00:15 ID:UYonG2oc
安芸の国事情でいえば毛利が移転したといっても隣国にだからな
福島は短期間だし浅野は江戸期通じて取り立てて善政を敷いたわけでもないし
あとはそうだな
熊本はよくわからないけど広島城を中心とする現在でも広島市の中心地は
毛利が広島城を造ったことにより形成された
それまでは7川の入り乱れる三角州
179: 2008/09/05(金) 15:22:10 ID:ecbeUZF/
大河ドラマだったりしない?
180: 2008/09/05(金) 15:43:15 ID:pkMeJIpz
>>179
地方局制作の2時間ドラマなら…
184: 2008/10/06(月) 15:10:34 ID:33HBwOSw
>>180
それでもいいから見てみたいなあ
181: 2008/09/17(水) 11:51:40 ID:U/OrgZm2
「浅野」ってパッとしないじゃん
長政にしても戦国あまりしらない人だと浅井長政と平気で間違えられたりするから
182: 2008/09/17(水) 12:31:56 ID:U49kr7lW
>>181
華々しい戦勝でのし上がった家じゃ無いだけに、どうしてもな。
188: 2008/10/07(火) 07:42:19 ID:CLGjsvN8

あんなカッコイイ尼子経久はなかった。
歴史好きになったんだよなあ。

緒方さんご冥福を(:人;)

196: 2008/10/07(火) 18:56:21 ID:TDnLmff8

経久ってジジイっていうイメージしか無いんだよな
大河しかり、信長の野望しかり

もっとこう、城を追い出されてからの奇跡の復活とかを取り上げてくれよNHK

218: 2009/01/30(金) 02:58:48 ID:Y5ltAS3J

尼子の一族問題は、どちらかというと仕組みの整備に手が回らなかったことが最大の原因だろうな。
北条なんか典型的だが、当主を頂点とした仕組み、組織をしっかり作ってる。権限に
ほとんどあいまいさがない。

毛利も北条ほどではないにせよ仕組みを作ったけれど、尼子は残念ながら
そこまで手が回らなかった。

221: 2009/02/23(月) 15:35:09 ID:2z0CIf21
守護じゃないけど 守護大名タイプか。
222: 2009/02/28(土) 02:27:42 ID:RHpzkVhX

いや、一時期戦国期守護とか言われていたんだが(司馬遼太郎がこのネタで散々こき下ろした)、
厳密には守護大名タイプですらない。

じゃあ何かと言われると難しいが、室町と戦国の過渡期を利用して勃興した新興勢力。
守護権の利用や国人衆への宣伝・武力による威圧、奉公衆の武力制圧とか、
使える物を全てフル回転させてる感じがする。

223: 2009/03/05(木) 18:10:05 ID:L/A3AV62
随分と不安定な政権だな
224: 2009/03/06(金) 01:39:24 ID:LixUx5z3
そりゃ後世の目から見れば不安定に見えるだろうが、
あの当時はあれはあれでベターな選択だろ。
225: 2009/03/06(金) 06:51:03 ID:UxlE/2SQ
経久がもう少し当主の力を強くできていたらな
褒められたら家宝を惜しげもなく与えるという逸話は
裏を返せばそうやってつなぎとめる必要があったということだろうし
226: 2009/03/06(金) 15:45:44 ID:ttv+FX2I
まあ、経久の頃は国人一揆の延長線上としての戦国大名家の全盛期だからね。
むしろ経久~政久~晴久~義久と普通に当主早タヒにとかナシで行ける方が好ましいと思う。
227: 2009/03/24(火) 15:44:56 ID:BPq6wHiE
政久が先に逝ったのが痛い
228: 2009/04/06(月) 15:54:49 ID:1cl5h2XW
政久のタヒまでは、経久の人生はうまく行き過ぎてるぐらいだから
229: 2009/04/09(木) 01:04:29 ID:qgyhMVB3
むしろ晴久の急タヒするまでの壮絶な人生が圧巻だw
230: 2009/04/20(月) 16:08:10 ID:Xav7C0jp
最期はだいぶ追い詰められてたね。
231: 2009/04/21(火) 10:52:47 ID:Emrs+cR5
追いつめられてたっつーより、一進一退の大激戦だった
石見東部のみならず備前や因幡、備中など全戦線で。
逆にあの状態で互角に渡り合っていた事が凄まじい
232: 2009/05/11(月) 15:29:43 ID:8CD9U7UB
あっと言う間に崩れた訳だ。
233: 2009/05/13(水) 20:05:17 ID:z16u3n8Z
>>232
指揮とってた本人がタヒんだ上に、跡次いだ息子が「前線見○し」という超愚策をとったからな。
そりゃ一瞬で崩れるわ。
234: 2009/05/29(金) 14:23:14 ID:vqZhVd8+
義久君・・・。
236: 2009/06/18(木) 15:15:30 ID:BjCUwj6T
義久は庇う所ないのかな
238: 2009/06/27(土) 15:46:55 ID:pFZpvi9t
>>236
勝久と違って天寿を全うしたことは評価できる
239: 2009/06/27(土) 15:51:51 ID:x7fd7hRg

広瀬町の歴史資料館みたいないところにはいったことがあるな。

その近くに月山があって、登ると富田城の城跡が見られるようだが、
出雲大社にツーリングにいった帰りだったのでそこまで元気はなかった>11年前

244: 2009/08/13(木) 02:15:23 ID:0Vxa1J1g
完全に支配してたのって出雲、、伯キ、隠岐、くらいじゃなかったけ?
石見、安芸、備後、備中、備前、美作、因幡は大半とか半分とかで
播磨はほんの一部だったらしいって何かで読んだ
247: 2009/08/29(土) 09:18:26 ID:oHlwC1nd
東日本の尺度(織田、武田とか)で考えると違和感が出てくる
大内、尼子、毛利、大友
ここらあたりは傘下の国人による間接統治地がかなり多い
248: 2009/09/09(水) 16:07:25 ID:WBeMf/eM
西国が伝統的手法で 織田や武田が革新的手法なんだ。
250: 2009/09/21(月) 10:09:58 ID:n7cBZ8la

尼子はやや旧来のやり方であっても、晴久が割と専制的な政治制度を作ろうとはしてた

結局は急タヒしたから未完成だったし、いかんせん補佐するべき親族が居なかったのも

251: 2009/09/21(月) 11:08:22 ID:/oZ0brEQ
西国と言うか大内尼子毛利の支配領域だと東国のように面を支配することに
こだわらなくても収益が上がるからじゃね?
要は家臣団を養い大兵を運用するだけの金が定期的に確保出来ればいいわけだし
国人層をいちいち滅ぼしていては土地も荒れるし人口も減る
銀山、日本海沿いの津、瀬戸内沿いの津、鉄、木材
252: 2009/09/25(金) 08:17:46 ID:To9ZJOfE

中央集権化に成功したとこのが珍しいやねえ

大河元就は大内家(義興@細川俊之)との対比が実に面白う御座いました

253: 2009/10/10(土) 15:43:45 ID:wv2SAS/y
>銀山、日本海沿いの津、瀬戸内沿いの津、鉄、木材
経済面では先進的だよね。
254: 2009/10/11(日) 09:03:04 ID:P8IyUS6Y

>>253
だって石高そのものが低いからね

海に面して良港にめぐまれたという面もあるが

255: 2009/10/26(月) 15:56:44 ID:fMBFGtg2
西国は大陸と結びつき強いから。
256: 2009/11/10(火) 15:04:33 ID:OEbZT7FW
尼子は交易という感じではあまりないが。
258: 2010/01/07(木) 23:23:38 ID:BSssWhC9
>>256
義久の代の物とされる唐物が出土したし、晴久の代では銀山を
確保していたからかなり交易していたはずだよ。
隣の中国が世界中から銀をかき集めている時代だったしね。
もう少し唐物茶碗が出てもおかしくないと思う。
掘ったら出てくると思うんだけどなぁ・・・。
257: 2009/12/31(木) 13:41:42 ID:DfSUZFK1
関銭で潤ってますね。
261: 2010/02/15(月) 16:09:06 ID:GAcqhsGw
弟の久幸の実像って、いまいちわからんくない?史料が乏しいんだろうけど…
史料がそこそこ残ってる、多賀久幸とは別人なんだよね?
262: 2010/02/15(月) 18:38:00 ID:Q0jfdmXz
>>261
多賀久幸は尼子誠久の嫁さん一族だから違うね
270: 2010/12/05(日) 20:45:01 ID:gZ+XEMYn
>>261
尼子氏スレでも言われてたが経久が久幸に
家督を譲るつもりだったって話も怪しいもんだな。
晴久や国久がいるのに若くないであろう弟に家督を譲るメリットも薄い。
271: 2010/12/05(日) 21:31:34 ID:1EWCLNxj
>>261
経久の弟ではなく、弟の子だって話も聞くけど、それも怪しい気がする。
経久と久幸は15歳差だろ?弟がいくつのときの子だよ。
275: 2010/12/12(日) 13:43:55 ID:7umDmLnu
>>271
久幸の生年も怪しくなりそうだけどね
晴久ですら生年が揺らいでいるし吉田郡山城の戦いに参戦するにしては歳を取り過ぎてるような気もするし
264: 2010/06/16(水) 17:03:54 ID:iUG4yIK1
また経久が出る大河やらないかな
265: 2010/06/18(金) 08:48:36 ID:+3ysBRk+
それは大内義隆か経久本人の大河じゃないと
266: 2010/06/18(金) 22:20:42 ID:kYrbY/CA
久幸は、佐々木系図によれば、経久の弟の子になっている。
年齢的なことを考えれば、この方がピッタリくる。
267: 2010/10/02(土) 22:28:28 ID:4oatAeLw
>>266
臆病野州の人だっけ
爺ちゃんの弟に孫がそんなこと言うなんてスゲーと思ってたがそういう事なのか
268: 2010/10/21(木) 12:00:25 ID:fJULm7mq
最近この武将に興味持ったんだけどオヌヌメの書籍ある?
出来れば小説が良いなぁ。
269: 2010/10/27(水) 00:00:34 ID:iNhZWa48

山霧とだけ言っておこう・・・

臆病野州の事なら同名の小説がある、が、あまり・・・うん。

272: 2010/12/05(日) 22:04:24 ID:8+cjEmxG
清定と経久も年齢が離れすぎてるな。
嫡子誕生が48歳って遅すぎないか?
273: 2010/12/06(月) 23:23:46 ID:8EaJWUev

>>272
久幸が経久の「甥」だとすると、久幸の父は経久弟じゃなくて、兄だとか?
兄が早世し、甥が幼かったので経久が跡を継いだとか。
いや完全に妄想だけどさ。でもそれなら久幸が重鎮扱いだったのもわかるかも。

あと、経久のことじゃないのでスレ違いだが、ついでだから尼子家系に関する俺の疑問。
早世したという晴久の長男(義久の兄)の母親って誰?
国久娘とは再婚なんだよな?
で、本によっては義久誕生の前前年ぐらいに最初の妻が病タヒ、その後すぐに再婚て書いてあるけど、
そうしたら長男の母親は前妻ってことになると思うんだけど。
経久としては、興久の件があるから国久娘の子に晴久の跡を継がせたいという意図があったんだよな。
すると、前妻とその息子が都合良くさっさとタヒんでるのって…。

282: 2011/09/03(土) 09:41:30.93 ID:EfpKbpY0
>>272
「嫡子」と言っても、嫡子になるハズだった男児が早世して
文献に残らなかった可能性もある。
274: 2010/12/07(火) 18:26:00 ID:q97oXdm6
正室なんだから前妻も有力国人の娘に違いないんだろうけどな
278: 2010/12/26(日) 23:18:57 ID:T5onlL9V
生年説の情報源自体が怪しいんだが・・・
確か家系図じゃなく別の何かが情報源だったと
長谷川氏の研究書に書いてあった
279: 2011/04/24(日) 11:11:46.24 ID:ke1DYf41
北条早雲みたいに生年が大幅にズレてそうだな
283: 2011/10/02(日) 04:31:20.22 ID:PZFbyfYa
吉川興経も父元経が60歳の時の子らしいからな
資料によっては生年が10年ほど開きがあるがそれでも50歳の時の子だし
284: 2011/12/07(水) 18:21:56.03 ID:HgrI5cMv
庶兄がいたのかもしれないな
287: 2012/01/28(土) 16:52:04.59 ID:S71rUVKl
尼子家の全盛期は晴久の代
289: 2012/08/23(木) 17:48:41.83 ID:5AtM0lgd
新宮党粛清は尼子宗家の権限強化の為だろ
291: 2012/09/02(日) 06:19:07.31 ID:LPD4LmgG
>>289
でも親族衆を一掃したのは長期的にはマイナスだったな
293: 2012/09/05(水) 14:16:13.85 ID:iRcPTVzP
新宮党粛清しても晴久が長生きしてれば問題なかったんだがな
298: 2012/12/09(日) 20:15:18.30 ID:5Xh0CK5L

>>293
晴久に弟が何人かいれば、義久の補佐とかできたんだろうが・・・。

しかし、よく考えたら興久謀反、国久好き放題やらかした挙句粛清と
毛利みたいに親子兄弟協力してってことが想像できないので、
どっちにしろ詰んでる感じだなぁ。
元を正せば経久の頃からの勢力急拡張で地盤強化が遅れたのが祟っている。

300: 2012/12/10(月) 18:55:32.88 ID:fDBK8xOY

>>298
>晴久に弟が何人かいれば、義久の補佐とかできたんだろうが・・・。

それを考えても政久の早世が痛かったな
逆に詮久が兄同様夭折して国久に家督が回ってきてたら尼子の歴史も大きく変わっただろうが

302: 2012/12/15(土) 19:30:39.20 ID:E9BrAq7d

>>300
国久って美作の代官とか任せられていたけど、一揆とか頻発して
内政とか政治力には少々疑問符がつくんだよね。

結局、晴久が美作まで一揆鎮圧に出張ってるし。

294: 2012/09/06(木) 18:03:59.96 ID:P1LhoWLQ
尼子を滅ぼした義久が長生きしたのは皮肉よの~
295: 2012/09/19(水) 11:22:28.15 ID:iu9Ae0by
義久が生きてる以上、勝久の再興は成功しようがなかったな。
正当な尼子家当主は宗家の義久なわけだし、
反勝久の神輿に義久が担ぎ出されたらどうしようもない。
296: 2012/10/22(月) 18:09:40.63 ID:G+upM4O4
尼子という価値がなくなった家を支持したがるかね?
支持したい奴は、毛利から冷遇されてる奴だけでしょ。
義久が対抗馬として出されるほどの事でもないと思う。
結局は毛利対冷遇された尼子旧臣+その他勢力に過ぎないと思う。
299: 2012/12/09(日) 20:23:53.02 ID:5Xh0CK5L

出雲歴史博物館の尼子氏企画展行ってきた。

晴久が鰐渕寺と清水寺の席次争いとか見てると
信ヤボの「ううむ、困った・・・。」っていう顔グラ思い浮かんで吹いたわ。
やっぱり出雲って大社あるし、宗教勢力が他の地方と比べて
強力だったんだろうか。

あとは勝久の大社や日御碕神社への所領安堵状が何度も発せられてて
必タヒに出雲の領主をアピールしているのが悲哀を感じたわ。
神社側からしたら、「こんなもん、ケツ拭く紙にもなりゃしねぇ!w」って
思われてそうだが。

301: 2012/12/14(金) 22:54:01.33 ID:uHjtEhHT
>>299
鰐渕(淵)寺は出雲大社の本寺にあたる寺で、この相論の背景
には、尼子氏は鰐渕寺への統制を強めようとした意図があったみたい。
この件では、清水寺は叡山と結んだり、六角氏の援助を得たりして
いたとのこと。そして、朝廷を通じて三好長慶が介入したりも
しているので、確かに晴久としては頭の痛い問題だったろうw
302: 2012/12/15(土) 19:30:39.20 ID:E9BrAq7d
>>301
出雲大社と鰐渕寺はそんな繋がりがあったんですね。勉強になります。
結局、この争いで後奈良天皇まで関わった挙句、匙投げてるのがなんとも・・・。
しかし、意外なところで三好長慶が関係していて、しかもうまいこと収めている
のなんか、流石としか言いようが無い。
303: 2013/02/07(木) 14:15:23.06 ID:8a/0Gc6L
興久の謀反が成功してたら尼子宗家を乗っ取ってたかも
313: 2013/10/23(水) 14:58:30.16 ID:jtjCr3rZ
>>303 尼子興久はかなりの巨大勢力になっていたようだからね。
三男興久自害の首が送られた際、経久は相当悲しんだようだが。
興久といい国久といい、才も武もあったのだから、晴久と支えあっていれば・・
尼子兄弟的にもこの事件は、結構でかかったんじゃなかろうか。
306: 2013/02/16(土) 14:10:57.48 ID:xasruEcA
船岡山で大内を見捨てず、戦ったのは幕府との関係を重視したから?
307: 2013/03/20(水) 21:37:02.23 ID:lSOBUMwz
周りが「怜悧な悪人」と「慕われる兄貴」で意見分かれてんだが実際どっち?
308: 2013/03/21(木) 18:44:52.77 ID:YeC4SAeh
>>307
宇喜多直家みたいな奴もいるけど、別にその2つの要素を兼ね備えることは不可能ではない
信長や元就だって身内には甘い
309: 2013/03/28(木) 18:19:41.64 ID:igSD+C7R
>>307
「冷辣な悪人」京極関係者
「兄貴」出雲他の京極、武田に圧迫されてる人
314: 2014/01/10(金) 10:34:06.29 ID:U3OU0cbf
尼子家の内輪もめを見てたらそりゃ元就も一族の結束を重視するわな

引用元: https://hello.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153674889/

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