【戦国武将に学ぶ】浅井長政、織田か朝倉か?家康に匹敵し得たかもしれない男の「惜しむべき選択」
北近江(滋賀県北部)の戦国大名・浅井(あざい)氏は、初代が亮政(すけまさ)、2代が久政で、長政が3代目です。
亮政のときには独立できていたのですが、久政の代になったとき、南近江の戦国大名・六角氏に押され、それに従属するようになりました。
そのため、久政の子・長政が元服するときには、六角氏の当主・六角義賢(よしかた)の「賢」の1字を与えられ、はじめは賢政と名乗っています。
また結婚に際し、六角義賢の重臣・平井定武の娘を娶(めと)ることになりました。
倍以上の六角勢破り、信長と同盟
これは浅井氏の独立性が否定されたに等しく、賢政、すなわち、後の長政としては屈辱と感じたに違いありません。
久政の家臣の中にも、そうした思いを抱く者が何人かいて、彼らと相談の上、六角氏従属路線の久政を隠居させ、賢政が家督を継ぐことになりました。1559(永禄2)年のことです。
この後、賢政は押し付けられていた「賢」の字を捨て、「長政」と改名するとともに、嫁いできていた平井定武の娘を六角氏側に送り返しています。
浅井長政からの手切れ宣告に怒ったのは、六角義賢です。翌1560年、大軍で北近江に攻め込んできます。「江濃記」は六角軍が2万5000で、守る浅井軍を1万としていますが、実際はどちらも半分くらいだったと思われます。
ただ、いずれにしても軍勢の数では六角方が有利だったようです。
ところが、8月中旬の戦いで、数の少ない浅井軍が六角軍を破っているのです。
その結果、浅井氏は再び独立大名としての立場を取り戻し、その後、織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方が小谷城(滋賀県長浜市)の長政のもとに輿(こし)入れしました。
1568年、信長が足利義昭を擁して上洛(じょうらく)の軍を起こしたとき、長政も軍勢を率いて従軍しています。
六角軍と戦ってきた経験を持つ浅井軍の活躍もあり、六角軍は敗走。信長の上洛に長政は貢献した形で、信長も義弟・長政の働きを高く評価したものと思われます。
5: 2020/04/12(日) 09:06:01.01 ID:6kn6KbRA0
あざい ○
ドヤ顔でこれいう知ったか頭厨房いるけど
どっちか決まってねぇよ
そうなんだお前のおかげで間違い知識仕入れずにすんだ
長政は孫が将軍になってるんだから朝倉に比べればマシだろ
>>9
盃にされたのは嘘。(書かれてない)
箔濃にするのはタヒ者に対する敬意。
信長は酒を飲めない。
↓
【信長公記】
正月朔日、京都隣国の面々等、在岐阜にて、御出仕あり。
おのおの三献にて、召し出だしの御酒あり。
他国衆退出の已後、御馬廻ばかりにて、古今に承り及ぱざる珍奇の御肴出で侯て、又、御酒あり。
去年北国にて討ちとらせられ侯、
一、朝倉左京大夫義景首
一、浅井下野(久政)、首
一、浅井備前(長政)、首
已上三ツ、箔濃にして、公卿に居置き、御肴に出だされ侯て、御酒宴。
おのおの御謡・御遊興。
千々万々、目出たく、御存分に任せられ、御悦びなり。
↑
お正月の宴会の後、身内(馬廻)だけになったタイミングで3将の箔濃が飾られた。
これを肴に喜び歌を歌って踊り大いに楽しんだ。
信長包囲網で苦しめられた3将に敬意を払い、これを弔うと共に戦友達を労った一幕。
信長は長政らに敬意を込めて髑髏盃にしたという俗説は否定されてるよ
浅井長政ら三人は市中で晒し首にされたあげく金箔髑髏にされているし
長政の幼い長男は信長の命令で串刺しの刑にされ関ヶ原に晒されている
伊勢長島は弟を○された恨みが強かったからじゃないかな
信長は意外と身内に甘いし
それもよくデマが流されているけど逆、
長島の一揆勢が降伏をしてから織田軍が突如攻撃を始めて、
それに激昂した一揆勢の逆襲で織田軍は大混乱に陥り前線にいた信長の弟らも討ち取られたのが真相
そのままずっと北近江に居たら、本能寺の変は起こらないかもな
大河で一回松永やってほしいわ
松永みたいな人生は楽しいだろうな
松永は三好長慶唯一人に仕える忠臣て感じだなぁ
同意、ほんと美人だったよな・・・
子供の頃に見た鷲尾いさ子がよかったな
もしかしたら記憶違いかもしれんけど
緒方直人の信長
見上げるほどの長身って設定だった
よりにも寄って、何であんな無能の極みみたいな義景に同調しちゃったのよ
>>24
重臣たちとの協議で信長の京政治が上手く行かないとみての判断だろう
(1) 信長が将軍を差し置いて京政治を独断する気配
(2) (1)により、そのうち将軍を反目しあうことが予想される
(3) (2)により、周辺の大名から攻められ四面楚歌になりかねない
(4) 信長の政治方針から本願寺との全面的な対立が予想される
などなど
朝倉家は難敵の本願寺とも和睦してうまくやっているし
党首の朝倉義景に本願寺と対決する意思もないから
朝倉家についていく方が安全と考えても何も不思議じゃない
当時としては、朝倉家と完全に手切れして信長に味方する方が
「え?、大丈夫なの?、それは危険だろう」となる方が自然だろう
金ケ崎で9割タヒぬ状況で生還した信長のほうがおかしかったってだけやな
>>42
ああ、そうそう、ここで裏切れば十中八九信長を打ち取れるという
状況も信長と手切れして朝倉の味方する大きな材料になったんだろうな
将棋で言えば、この手で圧倒的有利、詰みまで見えてきたという状況かな
まさかの「羽生マジック」ならぬ「信長マジック」で覆されたのは運が悪かったとしか
後世の創作くさい
何した人なのかまるで分からん。
信長の野望で意図的に弱いパラメータで雑魚大名の代名詞的な扱いが浸透してたからな
信長の野望は有名じゃない大名や武将には手厳しいしな
割と頑張ってたのに
隣に住んでる薩人魔シーンのせいで
評価が悲惨な伊東家の悪口はそこまでだ
>>45
そういう話なら神保長職もな
戦国時代最強武将の上杉謙信と対立して何度も攻められながら、
その都度、直接対決を上手くかわして、謙信が引き上げると、
謙信が任命した武将を打ち倒し再び越中攻略を繰り返した名将
富山城址は築城した神保長職を前面に押し出すべきだと思う
観光的に考えるなら立山連峰をメインに据えて
戦国登山家の佐々成正を前面に押し出した方が良いんでない
すまん、その通りですわ
長職の生き様が好きなんだが世間ではマイナーだよなあ
好きなのは解るわ大勢力率いる天才相手に良くやった良将だと思う
年取って自分の限界把握してくるとこういう武将の方が魅力的に見えるよ
凡人が勉強になるのは寧ろ英雄達よりこういう人だと思う
小田氏治とかいう不屈の権化
あの人は謎カリスマのある意味謙信以上の天才だから凡人の勉強にならん
やっぱ猫かわいがってたからじゃね
子孫は五代将軍・綱吉時代に犬奉行で出世したし、動物の恩返し的ななにか
>>82
俺も好きだわ
隣に戦国最強武将がいて何度も大軍率いて攻めてきて
一向一揆という難題もありという最悪の環境でも、
あきらめず、腐らず、心折れず、名城を築き、負けず戦はやらず耐え忍ぶ
今の時代に十分参考になる名将だと思うよ
信玄のように謙信と激突して2倍以上の戦力ながら合戦では引き分け、頼りにしてた弟討ちタヒにのようなこともなく
信長並みの逃げ足で何度も生き延び、謙信撤退後に再び越中攻略できるほどの才知、そして、何度も謙信に追い散らされても
再び越中攻略に味方してくれる家臣や協力者がいる人心掌握、人脈作りの巧みさ
信長の野望で評価低くなる理由が分からん
どうやって数尺の雪が降り積もる真冬の立山越えたのか謎と言うしかない、サラサラ越え
マイナーだけど実は結構息長く色々やってんだよね
応仁の乱前くらいからかなり色々やらかして幕府の討伐軍とか跳ね返してる
楽市楽座を最初にやった人
定頼は足利将軍家の後楯となった名将
>>30
六角氏は近江を本拠地とする佐々木源氏の嫡流(総本家格)
佐々木源氏は鎌倉時代・室町時代に多くの国の守護を務めた名門武家
有名な佐々木道誉は足利尊氏に味方し数か国の守護になる
主な佐々木源氏の戦国大名
・六角氏(佐々木源氏総本家格)
・京極氏(有名な佐々木道誉を輩出した佐々木源氏の総本家格)
・尼子氏(京極氏分家で元京極家臣)
・黒田官兵衛で有名な黒田家(自称?)
足利幕府では外様でありながら重要な地位にあった
弓矢の達人
お市の息子は○してないと思うぞ
○された嫡男は年齢からしてお市の子供じゃない
お市の子らしき人は出家させてるし
近江に知行地はなかったら石田とか藤堂みたいな家臣も手に入らなかったかもね
袁紹みたいだな
>>49
朝倉義景は戦国大名としては普通より上くらいだろう。ポンコツってことはないと思う
戦上手な一族を上手くまとめて、強敵の本願寺とも和睦して上手くやってた
天下を牛耳ろうなんて野望は全く抱いていなかったが、当時としては普通
信長との戦いでは一貫して自分の領地が守れればそれでいいという態度だったのが
徒となって信長を京から追い払う好機を逸してしまったが、信長が1枚も2枚も上手だっただけだろう
朝廷からの和睦要請が来れば受けるのが当時の常識だし
朝倉義景は常識人で謀略家じゃなかっただけ
俺もポンコツとは思わんがどうなんじゃろうな
信玄なんかも旧体制の常識代表と言っても良いと思うが
もし比叡山の件が信玄だったら和睦に応じたか甚だ疑問
>>74
信玄なら比叡山の件では和睦など応じないだろう
思いっきり全軍突撃させて京もろとも信長を葬ってるだろう
信玄は旧体制の常識代表と言っても朝倉義景のようないい人じゃないしな
信玄は政治的には朝倉義景より数段優秀だし、信長の和睦などあてにならんことはすぐわかる
朝廷による和睦要請なんて名目上で、実際は信長の意思だと見抜き、のちに反故にされることも見抜くはず
朝倉義景はアメリカ人に言わせればナイスガイ
武田信玄はアメリカ人に言わせればタフガイ
この違いは競争社会ではでかい
織田信長は比叡山焼き討ちの後に天台座主の覚恕法親王を捕らえるよう命令していて
覚恕法親王は武田信玄を頼って亡命している
その後に信玄は天台座主沙門(弟子)を名乗り信長に書状を出して、信長が名乗ったのが仏教の天敵とされる第六天魔王
亡びるのって姉川の3年後とかだよね
よくもった なかなかの能力あったみたいだが
信長に土下座して助かる可能性なかったのかな
許してくれなかった?
>>50
信長は許すつもりだったらしい
しかし、浅井長政は最期まで戦う意思を示し
信長の降伏勧告を拒絶した
信長は何度も降伏した相手を皆○しにしているから
浅井が降伏勧告に乗ったところで本当に命を安堵したのかは疑問
ノッブは降参してくるやつには超甘い
信長は伊勢長島とかおつやの方の岩村城とかで
降参を受け入れたと伝えてから騙し討ちで虐○している
信勝も許してる。
松永秀久も許してるし、長政も許してる(聞き入れず切腹)。
荒木村重も許したが、荒木がお詫びに岐阜に行く途中、家臣の高山右近に話したら
「殿、そんなの信じられませんよ」と言われて謀反を決意したんだよな
経験豊富な指揮官があまり自軍に居なかったのも理由の一つだろな
実際信長が直接指揮取ってた稲葉山城攻め時代は大して重用されてない
武将の人材が不足していたからだと推測されている
あと林秀貞は24年も前の謀反を突如蒸し返され信長に追放されている
美濃攻略までの10年くらい冷飯食らいにされてる
最初遠藤の助言聞き入れず信長○さなかった時点で戦国武将としてはきつかった
安国寺の評価も先見の明とかじゃなく当時みんなそう思ってたとか
>>54
だろうな、武力による強引な天下統一なんて出来るわけないという常識があったのかも
似たような政治家の足利義教は武力による強力な独裁政治をしてたが暗○されたし
大内義興は大軍率いて京に攻め込み幕府政治を牛耳ったが、そのうち四面楚歌になり撤退
細川氏も傀儡将軍で幕府政治を牛耳ったが、家臣に権力を奪い取られて衰退
細川氏から権力を奪い取って幕府政治を牛耳った三好氏も空中分解状態
どれもこれも上手く行ってなかった状況で
管領家の家臣の分家の出の信長がそれを成功させるなんて
誰も思ってなかったろう
家康としたら当初は今川家からの完全独立が最優先課題だから
信長とは敵対できないし、そのうち信長が意外にも上手くやってるのを
見て、迂闊に裏切れない相手と思えてきたという感じだろうと思う
最初の信長挟撃で仕留められなかったのが結果として悔やまれるね
あのワンチャンしかなかったわけだ
>>59
もう一度チャンスがあったけどね
比叡山延暦寺の協力で朝倉・浅井の総力を挙げた3万の大軍で
比叡山に陣取り、四面楚歌で動けない信長を京で葬る準備が出来ていたことがあった
実際に信長を打ち漏らしたとしても織田軍に大打撃を与え京から追い出し、反織田連合の盟主になれるチャンスが
しかし、信長はすかさず朝倉・浅井軍が動き出す前に朝廷に泣きつき勅命講和にこぎつけ
常識人の朝倉義景は「朝家隆盛の恩為」と返書し和睦に応じ、京を巻き込み灰燼に帰す総攻撃を中止した
なんとか最大の危機を免れた信長は朝倉・浅井に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちし
和睦を反故にして朝倉・浅井に対しては浅井氏に攻撃を集中させ泥沼の消耗戦に引き込んだ
そして朝倉・浅井の命運は尽きた
松永久秀「駄目」
宇喜多直家「絶対。」
長政はなぜ信長が金ヶ崎(敦賀)に居る時点で裏切ったんだろう
情報漏れたら明らかに京に逃げられるだろ
つーか実際、簡単に漏れてるし
一乗谷まで乗り込ませてれば完璧に殲滅できたのに
やっぱ知力は低かったんかな
>>73
長政独裁ならともかく、重臣たちとの話し合いで決めるわけだから
一乗谷まで何もしなければ間に合わない
戦国時代の大名家は極一部の例外を除いて重臣たちとの協議で政治を行っている
戦ともなれば当然、重臣たちの納得が必要。もちろん浅井家も例外じゃない
手柄をたてなきゃ離縁、改易
邪魔になれば離縁、改易
同じだと思うぜ
あくまで朝倉六角攻め専用機
京都の護衛を一緒にやるんだが喧嘩が絶えなくて苦労してたとの手紙もある。
朝倉に付くとなった時の家臣の喜びは半端なかったと思うよ。
で、信長京都入りしてから信長の中の長政評価がかなり下って無能扱いしてる。
長政の方は領土欲がないから積極的戦争なんてやりたくもないから仕方ない。
裏切りというか、信長の朝倉侵攻も約束違反だし決起は致し方ない。
朝倉はそのヒエラルキーの名門でおすし
信長賢いね
柴田勝家も越前赴任数年で豊臣に滅ぼされる
織田家臣で明治まで続いた加賀の前田は異例
戦国武将はさ、
軍事的才能、人心掌握術、領地の多寡以前に
つまり器量以前に巡り合わせ(運)だと思うんだよね
出世する前に誰と親しかったか/反目していたか、まあ人脈ということなんだろうが
そこがその後の行動をかなり左右すると思う、信長は例外だろうけど
であるからして、チーマー時代から信長と付き合いがあった前田利家=リンゴ・スター説(林修説)は正しいな
信長→光秀→秀吉→家康と目まぐるしく変わる政権を上手く渡って行ける武将ではなかっただろうね浅井長政は
分かる
でも上杉景勝みたいな信長時代は滅亡寸前までいったのが秀吉期にうまく息吹き返して江戸時代まで(減転封されたとはいえ)生き延びたのみると
運命ってのは分からんもんだなとは思う
領国の運営という重圧から逃れられて長生きした人もいるから
人間万事塞翁が馬とはこういうことなんだろうな
>>97
宇喜多秀家は悲惨だったと思うぞ
豊臣政権の貴公子としてブイブイ言わせてた若者時代から
一転、離れ小島に流され、元妻の実家のわずかな援助でかすかすの生活だったそうだし
今川氏真は大好きな蹴鞠だけで生きていけるようになったわけだから
お気楽な人生に切り替わってよかったのかもしれんけどな
主君と家臣が逆転しながらも家康捕まえて昔話に興じ、家康の方が迷惑だったという
教えて
>>113
三女の江が豊臣秀勝との間に完子を。完子は九条家に嫁ぐ。
その後、徳川秀忠の正室となり家光と和子を産む。和子は後水尾天皇に嫁ぎ明正天皇
を産む。
その後、徳川・九条家の子孫は結婚しその娘の九条節子は大正天皇と結婚。
いろいろ抜けているので誰か補足ヨロ
赤松とか吉良とかそういった足利時代の名門が内訌で没落しまくったのが戦国時代の背景とはいえ、なんか悲しいな
そういう意味じゃ少弐氏なんて歴代当主が討ちタヒにしまくって没落していったある意味力だしきった結果だって言えるんでしょうか?
老将が戦タヒしたのを賢政ら浅井軍が奮い立って、油断してる六角軍に全軍突撃して打ち破ったとか
本に書いてあったな、戦国つながりだと一昨日、長束正家のお墓の近く通ったわ。
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1586649054/
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