河西結心の祖先の戦国武将は武田信玄の軍師山本勘助を誹謗中傷して追放され会津で最期を迎えていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%97%E7%A7%80
南部 宗秀(なんぶ むねひで、生没年不詳)は、
戦国時代の武将で甲斐南部氏10世の当主で南部定秀の子。通称・下野守。
武田氏の家臣で甲斐国南部城主という。子は河西満秀。
宗秀の家系は清和源氏の一流河内源氏の傍系甲斐源氏の流れを汲み、
南部光行の後胤にあたる。
鎌倉時代の武将・南部光行の12代目の後裔を称し、武田信虎・信玄に仕えていた。
戦国時代における甲斐南部氏に関する記録として、
『甲斐国志』では大永3年(1523年)3月13日に「南部某」が鳥坂峠を越え小山城を攻め、
城主の穴山信永が花鳥山に布陣してこれに抗するが、
二宮の常楽寺へ落ち延びて自害したとしている。
『甲陽軍鑑』によれば、天文17年(1548年)乱行(※)を理由に
南部下野守は甲斐国を追放され陸奥国会津まで流浪し、そこで餓タヒしたという。
しかし湯浅常山の『常山紀談』や、松浦鎮信の『武功雑記』などにより、
甲陽軍鑑の内容は「虚妄多き事」と評価されてきた。
宗秀の子の満秀は汚名を着せられた父に憚ったのか、
改姓して河西満秀と名乗っている。
その満秀は甲斐国巨摩郡鏡中条(南アルプス市鏡中条)を支配していたが、
長篠の戦いで主君の勝頼を助けようと、討タヒしたと伝わる。
また、戦国期の武田一門には「南部信登」という人物が確認されている。
信登は「蓮華定院文書坤」に含まれる年未詳10月18日の断簡に
「武田下野守信登」として記載され、
武田姓を名乗る人物であったことが確認されており、
この人物が宗秀に該当すると考えられている。
武田下野守は公家・山科言継の日記である『言継卿記』に、
元亀元年(1570年)3月24日に織田信長のもとに参礼したことが記してある。
当時将軍足利義昭を推戴した織田信長は武田家とも友好的関係にあり、
この「武田下野守」を宗秀(信登)とすれば
上洛して将軍義昭に仕えていた可能性も考えられている。
時代は下り、幕末の桜田門外の変で
水戸の倒幕の浪士から幕府の大老、井伊直弼の乗った籠を守り、
討ちタヒにした河西忠左衛門は武田家滅亡時に井伊直政の赤備えとなった子孫か。
(※)『甲陽軍鑑』によると、
ある日、家臣の石井藤三郎を成敗しようとするも取り逃がしてしまい、
山本勘助の助けで石井を捕える。
自身の失態を棚に上げて手傷を負った勘助を非難し、信玄の不興を買ったという。
歴史好きなら有名やで
未だに信玄の墓の場所すら特定できてないくらいだからな
身代わりに討ちタヒにした忠臣の河西満秀のお父さんか
八木ちゃんの出身地のあたりには複雑な因縁を感じてるのかも
笠井肥後守満秀の墓 新城市出沢字的場田
https://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/shitaragahara/kasai-haka/index.html
天正3年(1575年)5月21日、
長篠設楽原の戦い で
武田軍が出沢の橋詰(現在の 花の木公園)まで敗走して来た時、
旗本笠井肥後守満秀は 武田勝頼 の馬が疲弊したのを知ると
自分の馬を勝頼に勧めてその場を立退かせ、
自らは 「我こそは勝頼」 と名乗って、
織田軍瀧川源右衛門助義と組討ち、
刺違えて戦タヒした(瀧川助義・笠井肥後相討ノ地)。
この笠井肥後守満秀の墓は、龍泉寺 横の道路沿いにある。
河西(かわにし)って読む人多いから
いつも間違ってしまうま
もしかして兵庫県?
源平合戦にも参加してる
場合によっては俺は居なかったかも知れないな
それは山本勘助とは親友だったらしい真田幸隆
2人目の父ちゃんなら血はつながってないな
剣豪ぽくて戦いたくないよねw
引用元: https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1650671850/
ディスカッション
コメント一覧
家の先祖晒して何しとるんじゃ我、こちとら明治まで武家の体裁は維持して居たけど維新の政策で家族が離散してるんじゃぞ。
そもそも親を遡って辿り着いた情報源なのか?
時代背景的に武田と家紋が同じでややこしかったのか知らんが、別の家紋を今だに受け継いでるし、家格的にも武田に仕えているのに同等とかいう他家から取り敢えずこっちに挨拶へ行こうってなる目の上のたん瘤だぞ、甲陽軍鑑で悪く書かれても仕方ない。
最後に満秀さんが親の汚名に憚ったのか云々個人的見解が書かれてるけど、武田家か笠井家の独断か知らんけど笠井家へ養子に出されたと考えるのが自然。
南部宗秀が何処へ行ったかは知らん、宗家の方へ頼りに行って途中で倒れたとか織田信長の下にそれっぽい人物が参礼しに来ただとか上洛して足利将軍に仕えていたとか情報があやふやだから流石に分からん、また民草に紛れて畑でも耕していたかもしれんし。