【毎日】伊達政宗が小田原征伐で秀吉に死に装束で謁見の逸話 加賀藩の古文書による裏付けはなかったか
秀吉から何度も小田原攻めへの参戦を求められていた政宗は1590年、ようやく意を決して小田原に赴く。遅参したことでタヒを覚悟した政宗はタヒに装束で秀吉との謁見に臨んだという逸話はあまりに有名で、過去のNHK大河ドラマなどで何度も登場している。
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https://mainichi.jp/articles/20220404/k00/00m/040/102000c
2022年4月4日 15時00分
梵天丸も
かくありたい(´・ω・`)
伊達政宗は戦国武将の中じゃ殆ど最後まで生きていたから
あることないこと自慢して歩いてたんだよな
勝海舟のようなにおいがする
戦国大名としては遅く生まれ過ぎだな
成人した頃には大勢が決していた
伊達が早く生まれたとしても最上のオジキに勝てんやろ
政宗の持ち上げ過ぎもお腹一杯だけどそれ以上に持ち上げ過ぎなのが真田信繁
真田信繁は曲がりなりにも大坂の陣に参戦してるからな
過大評価が過ぎるのは間違いなく坂本龍馬
前田利家が仲介して記録もしてたからめちゃくちゃ関係ある
ねねと淀も別に仲悪くなかった
源為朝は弓矢で船を撃沈した
巴御前はダブルヘッドロックで騎馬武者2名の首を締め飛ばした
そういうのがいいのだ
そしたら首都は仙台やったんやろか
10年では無理じゃね?
信長がほとんど趨勢決めてるでしょ
戦下手政治駄目外交くその政宗がどうやったら天下取れると思うの
片倉過労タヒするやろ
無理やで。
北条が強いので西に行けない。
最上が強いから東北統一すら厳しい。
武田上杉と大して変わらん。
中国史や西欧史だって探せばたくさんあるのに日本史に絞るのがウザイ
そりゃ自国の歴史に関することが多くなるの当たり前だろ
ただ、何かしらトラブルはあったらしく、出家はした模様
織田信長は若い頃グレてないし、別に皇位簒奪も狙ってないなど
どんどんドラマチックな部分が消えていく
信長がうつけ言われたのも仏前に抹香投げつけたのもほんまやん
後世の創作
信長公記に記述あるんですが
それは首巻と呼ばれる物の記述
桶狭間の戦いの年が間違っていたり
現存する信長公記原本にはその首巻がついていない
後世に誰かが付け足したと言われる物
> 『信長公記』(しんちょうこうき)とは、戦国大名・織田信長の一代記。
戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。
『信長記』とも呼ばれる。
著者は信長旧臣の太田牛一。
原本は江戸時代初期に成立した[1]。全16巻。
米沢藩上杉氏旧蔵本である個人蔵10冊本の内題が「しんちやうき」なので「しんちょうき」と読まれていたと考えられている[2][3]。
> 自筆本である池田本には15巻にまとめた旨が記載されており、首巻は本編と別物と見られている[5]。
>牛一が奥書で「故意に削除したものはなく、創作もしていない。これが偽りであれば神罰を受けるであろう」と記しているように[5]、
著述姿勢は真摯であり、年月日を記して編年的にまとめられ、一部錯綜が認められる箇所もみられるが、
文書上から確認される事跡を正確に記しているため、史料としての信頼が高く[6]、
研究者の間でも信憑性は他の軍記物と一線を画していると評価されており、一次史料に準じた評価を受けている[7]
↑
↓
『甫庵信長記』←これはやばい
他の人も言ってるが信長公記首巻は太田牛一自筆の原本が存在していないことや、
1巻~15巻までは1冊1年ペースの編年体なのに、首巻は信長生誕の1534年~上洛前までの1567年の出来事を1冊でまとめてあり、
編年体でもないことから信憑性の低さを指摘されてる
ただ現状信長上洛までの史料は極めて少ないし、上洛前の信長に関するエピソードは首巻ベースで紹介されることが多いな
あんな敵を作る性格では、当時の二本松、芦名、二階堂、田村、相馬、岩城、大崎、葛西から攻められて早タヒにしてただろうな。
てか政宗って有能扱いされてるけど、
畿内含めて織田が伸びてきて、
中国は毛利、四国は長宗我部、南九州に島津、北九州に大友、って時期に、
ろくろくコメも取れなかった東東北の覇権をとりつつあっただけの人なんで、
東北じゃなかったら潰されてるよ
地方政権だから手が回ってないの
甲信越の上杉でも、石山本願寺の加賀でも、
北陸の浅井朝倉でもない地域で、
「みちのおく」だったからな
今みたいにコメどころになるのは品種改良して冷害に強いコメができた戦後の話
冷害食らって昭和初期に宮沢賢治のグスコーブドリになってるから
んなこと言ったら
信長だって尾張の2大貿易港押さえた親父のもとに生まれてなかったらどうなってたかわからんし
信玄だって親父が甲斐一国を手中に収めた後からスタート
家康だって今川の庇護、織田の同盟がない場所からスタートだったらどうなったか
立地の運は言い出したら話にならないよ
それに比べれば伊達はまだマシなほう
三大過大評価された戦国武将
・加藤清正
・前田慶次
・伊達政宗
ハイレベルな戦国武将の名の中でも一番
まあ後世に美化されても仕方ないね
かっこいいか?
実際は戦国期から幕末まで人気あったのはこの人達
島津義弘
立花宗茂
真田信繁
伊達政宗とか実際はめちゃくちゃ評価低いよ
ゲス野郎とか日本一の卑怯者とか書かれてる
恐らくは大坂の陣での神保家への仕打ちで敵味方のどちらからも非難された
幕末の頃は知らんけど政宗の頃は「だて」じゃなくて「いだて」だったんでしょ?
う~ん……
政宗は筆まめだけあって戦国武将の中では秀吉に次いで書状の数が多い
現在書状の写しも含めて知られてる政宗の書状は約4500通(秀吉は7000通)ある
4500通もあって未だにちょくちょく新発見の書状も見つかるが、残念ながら目に穴のあいた書状は一通もないし創作だろうな
逆に堂々と嘘をついて逃れたと見ることもできる
本物に穴を開けてるのは創作だろうがそれ自体が政宗の口から出たものではないとは言い切れない
あの時代に勝手に外国に使者送ってるのは事実なのだしタヒ装束や花押ハッタリあっても不思議ではない
だからこそ信じられてきたのだろうけど
ローマやスペインに使節団を派遣することやその時使用する船の建造も逐一家康の許可を得てるよ
そういうエピソードが信じられてきたのは、基本的には江戸時代以降の編纂物に拠るところが大きい
まあ関ヶ原の時の南部領での岩崎一揆を例に挙げると、政宗が煽動してるんじゃないかってのは当時も噂になってて、
実際政宗が井伊直政に宛てた書状にも
「南部一揆は政宗が密かに煽動したと家康様へ告げ口する者がいると聞きましたが、本当に迷惑しています。
どうして私がこの一揆に関わるようなことがあるでしょうか」
と弁明してるし、政宗が周りから要注意人物としてマークされてたのも事実だけどね
後世そういった政宗の人物像に、面白おかしくいかにも政宗らしい創作を加味したものが伝わってきたんだろう
謁見が終了して2時間後の午の刻(正午)に政宗が伊達成実に宛てた書状が現存してる
国元で心配しながら待つ家臣たちに少しでも早く謁見が無事済んだ吉報を届けたいという政宗の心情が読み取れる
(天正18年)1590年6月9日付伊達成実宛伊達政宗書状(宮城県図書館所蔵文書)
今日9日巳の刻(午前10時)関白様に出仕し、全て思うように事が済んだ事は言うまでもない。
関白様直々に懇ろに対応して頂いたことは言葉にも出来ない。ここまで丁寧に対応して頂けるとは夢にも思わなかった。
さて明日10日は茶の湯のお誘いがあり、12日には帰国できるであろう。
奥州54郡の仕置も大方整い、皆が満足のいく結果になったと思う。
この書状の写しを取って、諸将にも届け知らせるように。急ぎの件なので早々に処理するように。
あの時点の伊達の領土は、今の福島県大半と宮城県や山形県の一部程度で
しかも、制圧したばかりの地も多く
東北の大部分は豊臣方、関東にも佐竹ら豊臣方の勢力割とあるから
仮に伊達が救援に向かっても、内と外から攻められて大勢に影響はないよな
伊達が東北地方全部+渡島半島、北条が関東地方全部+伊豆を領有してても
徳川が寝返らない限り、きついわ
籠城戦をやるからには後詰めが必要
伊達の本心は知らんけど、北条としては籠城戦をやる理由付けとして後詰めは伊達だからって勝手に押し付けたのかもしれないけど
やっぱ氏政が調子こいたよなw 5代1世紀の統治実績、謙信信玄を退けた小田原城っていう驕りがあったかな
特に逸話は見世物小屋の創作したストーリーが一人歩きしてるだけだろw
可能性は低いが完全に脚色ではないも捨てきれないってことか
逸話になる背景はあるだろうね
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1649221616/
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