幕末・明治を生きた伝説の渡世人(ヤクザ)、清水次郎長について
文政3年~明治26年
駿州清水湊の産
幕末期においては武闘派の博徒として、近隣をのし歩き
一転、明治期に入っては新政府に協力的に公事業等にも従事した。
慶応4年9月、旧幕府軍の軍艦咸臨丸が清水港で攻撃され、
乗員のタヒ骸が海に打ち捨てられていた際、新政府側の目も憚らず
彼らの遺体を堂々と回収、葬ることで大いに侠名を上げた。
言われているが、内容的には子母沢寛の『駿河遊侠伝』の方が
正確だし面白い。
清水一家の勢力圏は東は江戸から西は近江の大津まで。この大津で会津小鉄と衝突する。
聖護院の丑という博徒が大津にいる女の所へ通っていたが仲間には言わなかった。しかし、桶屋の舎弟が会津の侵出と邪推し丑を○す。
親分の小鉄が元気ならよかったが、小鉄は病床にあり清水の○し屋と戦う態勢ではなかった。
若い者頭だったいろはの幸太郎は一家の若い者を抑えると単身大津に乗り込み敵討ちをしたが下獄を余儀なくされた。
いろはが会津の跡目を継げなかったのはこれが原因。
史料上確認できるのは多摩郡神山村(現・東久留目市)に火場所があったという
一点くらい。
ここの親分栄五郎は次郎長一の子分・大政の兄弟分であり、同じく次郎長の盃
を受けた駿州の竹之助を引き連れて、方々の賭場を荒らしまわった。
やがて小金井一家の代貸・陣屋三之助と抗争に発展し、陣屋は入牢、栄五郎は
○されて痛み分けに終わる。
栄五郎の後は「新鍛冶」こと榎本新左衛門が継ぎ、土支田一家を起こした。
清水次郎長とその周辺という増田知哉の本がある。歴史ブームのなかで次郎長の足跡を辿りながら、各地の墓碑や口碑を採集する一種の紀行本。
各地の在野史家を触発しネットワークを繋いだ功績により増田は任侠史の父と呼ばれている。
任侠史の母と呼ばれているのが藤田五郎。増田の墓碑探求を更に進め、最終的には「任侠百年史」という大著を完成させた。
牧之原市の先生も藤田五郎の協力者の一人。向山栄五郎や榎本新左については藤田五郎は関東の親分衆で書いている。
増田知哉氏の仕事は確かにすごい。藤田五郎氏も神様のような存在。
植田憲司氏も同様に偉大。
しかし、こと次郎長に関する限り、今年亡くなった田口英爾氏の果たした
役割は飛びぬけて大きかったと言わざるをえまい。
そう言われれば、梅陰寺に飾ってある荒神山手打ち式の写真の人物に
次郎長子分の相当する銘々の名前がふってあるけど、
田口さんも「あれは全部でたらめ」だと言ってた。同じ次郎長を取り巻く
地域の人たちの間でも齟齬があるんだな、とあの時感じたよ。
侠客研究の世界も結構複雑なんだね
私は「松尾四朗」の研究はもっと評価されていいように思うんだ。
誰も読んでないだろうから、次郎長と武州博徒との関係について少々
次郎長が「兄貴」と慕う博徒に、武州高萩(現埼玉県日高市)の高萩万次郎
がいる。万次郎は当時「関東侠客の神様」という程に信奉され、まず上州の
大前田に次いで、実力、名声とも衆を抜いていた。
武州の他の侠客・小金井小次郎、小川幸八、師岡孫八、田中屋萬五郎なども、
まずこの人を頼み、親しく交際した。
次郎長が万次郎の元を訪れたのは記録によれば、弘化二年、安政五年の二度のことと言われるが、
どちらも役人の目を逃れるための、のっぴきならない旅の途中であった。
そのうちどちらの時ことであるかは不詳ながら、
万次郎宅で開かれた盆の上の勝負で、次郎長は当時売り出し中だった上鈴木村(現・小平市)の博徒、
平親王の平五郎を散々に打ち負かし名をあげた。
平五郎は背中に将門の紋々を入れていたため、「平親王」と恐れられ
かつては小金井小次郎とも大きな出入りを打った古強者である。
ともあれ、万次郎の親類筋に当る高萩の「亀屋」の子孫の家に、次郎長と、なぜか
山岡鉄舟、そして末広亭の写真が今も残っている。一時は万次郎の写真も
存在したが、残念ながら現在は散逸したとのことである。万次郎の
立派な墓石(増田知哉氏が再発見した)は今も変わらず残っている。
黒駒勝蔵、宮島重吉(俊蔵)、大場久八、丹波屋伝兵衛、安東屋辰五郎、小金井小次郎、
などは明治以前の資料に度々名が記されるが、次郎長に関しては明治以前の資料が皆無である。
戸羽山カンが記した寺津治助の脇差を質に入れ、武州無宿金五郎と旅していた次郎長の探索書が
唯一であるが、惜しい事にこの資料の所在が現在ではわからない。
梅岩禅寺には次郎長の墓を始め、大政、増川仙右衛門、それに都田兄弟との戦の前に
フグの毒に当ってタヒんだ子分三人の墓などがある。加えて、若干小さいが、
清水一家を訪れていた際に急病で没した、武州高麗郡双柳の都築竜蔵の墓石が在る。
次郎長が若かりし頃、裸で武州を尋ねた時に六角棒を持って対応した兄弟分、双柳清五郎が竜蔵である。
によれば次郎長 対 勝蔵の戦いで次郎長側が大負けした喧嘩がある。
これは富士川を挟んで次郎長一党と勝蔵一党がぶつかった戦いで、勝蔵側には
宮島年蔵、本市場金七がついたという。
破れた次郎長は大政と共に、命からがら蓼原の何とかいう寺に隠れ、一命をとりとめたとのこと。
次郎長生家を補修 起工式で安全祈願 静岡
(2017/1/10 17:03)静岡新聞SBS
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/317813.html
> 明治期に清水港発展の礎を築いた清水次郎長(1820~93年)の生家
> =静岡市清水区美濃輪町=で10日、補修工事の起工式が行われた。
> 次郎長誕生以前に造られたとされる建物前面の外観を保ちながら耐震補強などを行い、
> 6月末までに完成する見込み。
> 式にはNPO法人「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」をはじめ、
> 寄付をした企業や経済団体の代表者ら約25人が参列した。
> 次郎長の菩提(ぼだい)寺である梅蔭寺(同区南岡町)の住職が法要を営み、工事の安全を願った。
> 生家は木造一部2階建て。現在は次郎長の生涯を紹介する案内施設として使われているが、
> 建物は耐震性が低く、老朽化が進んで雨漏りなども深刻化していた。
> 2015年に民間団体が主催した「あなたの残したい建物コンテスト」で大賞を受賞し、
> コンテストの支援金に加えて企業や市民からの寄付が集まった。
> 総工費は約3300万円。同NPOの牧田充哉理事長は
> 「今後は港周辺のにぎわいづくりに活用する方法を考えていきたい」と意気込んだ。
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/491380.html
次郎長生家、子孫から静岡市に寄贈 20日、贈呈式
(2018/5/18 08:00)
幕末・明治の侠客(きょうかく)で清水港発展の礎を築いた清水次郎長の生家(静岡市清水区)が、
次郎長の子孫から静岡市に寄贈されることになり、20日に贈呈式が行われる。
生家は3月に国登録有形文化財に指定されたばかり。
市の担当者は「市が目指す海洋文化の都市づくりに生かせるよう活用を進めたい」と話している。
生家は江戸末期に建てられた木造一部2階建ての町屋で、
当時の庶民の生活をうかがい知ることができる貴重な建造物。
次郎長が使った道具や資料、写真なども保存されている。
2017年には、保全に取り組むNPO法人「次郎長生家を活かすまちづくりの会」が募金などを集め、
大規模な耐震改修工事を実施した。現在は一般公開されている。
生家は次郎長の子孫が受け継いできたが、高齢になったことなどから管理が難しくなった。
管理に協力するNPO法人地域づくりサポートネットによると、
寄贈を決めた所有者の女性は、市に生家を託すことで
清水の貴重な歴史財産を次世代に残したいと願っているという。
市は今後、NPO法人と連携して活用を進める。
具体的な取り組みとしては、多言語化による外国人観光客の誘致
▽子どもたちが港の歴史を学べる教育の場づくり―などを検討している。
次郎長生家を市に寄付 静岡所有者「地域のお役に」
三月に国の登録有形文化財に登録された、
幕末、明治の侠客(きょうかく)清水次郎長(一八二〇~九三)の生家(静岡市清水区美濃輪町)を、
所有者が静岡市に寄付し、六月から市の施設になる。
今後は市が主体となって観光客の呼び込みや、まちづくりに生かす。
次郎長生家は約二百年前に建築された木造平屋一部二階建ての住宅。
玄関から裏の通りまで突き抜けた通り土間があり、伝統的な町家建築の様式が残っている。
清水次郎長は船頭高木三右衛門の次男として生まれ、
まもなく近くの親類へ養子に出されるまで生家に住んだ。
生家は柱が腐食し、土台も傾き、地震で倒壊するおそれがあったため、
二〇一六~一七年にかけて耐震改修工事がされた。
「国土の歴史的景観に寄与している」として今年三月、登録有形文化財に登録された。
二十日、静岡市清水区島崎町の清水テルサで寄付の贈呈式があった。
次郎長生家の現在の所有者服部千恵子さん(74)や静岡市、市財界の関係者らが出席。
服部さんが目録などを田辺信宏静岡市長に手渡した。
服部さんは「協力してくれたみなさんのおかげで文化財になった。
地域のために役立ててもらえるとうれしい」と話した。
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20180521/CK2018052102000041.html
【元号の風景】(17)明治(1868~1912年)
静岡市・清水港 「敵も味方も同じ仏」次郎長の男気
https://www.sankei.com/life/news/190427/lif1904270017-n1.html
咸臨丸が係留しているとの情報を得た新政府軍の軍艦「富士山丸」など3隻が入港し、いきなり砲撃をはじめた。
副長らは白旗をあげて無抵抗の姿勢をしめしたが、新政府軍の兵士らは甲板上に乗りこむと、
抜刀して斬りかかり、旧幕府軍の兵士をつぎつぎと○害した。
遺体は海に投げすてられた。静岡藩をはじめ、漁民らは仕返しをおそれ、収容しようとはしなかった。
このとき、周囲の反対を押しきり、乗りだしたのが一代の侠客(きょうかく)・清水次郎長(本名・山本長五郎)であった。
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1381613669/
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