家康は関ヶ原の時に豊臣を潰していれば、大阪攻めのとき真田幸村とかに苦しめられなかったよね?
加藤、福島、浅野息子をなんとかすれば楽勝
>>1とか>>3のような楽天家でなかったから、家康は泰平の世を築くことができたのだろう。
家康なら、こういうのではないか?
「俺は豊臣恩顧の大名が簡単に豊臣を見限ると思うほど楽天家ではない」
「俺は大坂城が簡単に落とせると思うほど楽天家ではない」
「今秀頼を○してしまえば徳川の世にすんなり移行すると思うほど楽天家ではない」
これを前提にしたからこそ、関ヶ原から豊臣滅亡まで14年もかけた。
家康の寿命ぎりぎりだった。家康はその翌年なくなっているからね。
そんなことすれば黒田官兵衛あたりが大喜びで豊臣恩顧の大名連中をアジりまくっただろう。
関ヶ原どころの騒ぎじゃなくなる。
大坂城をいきなり攻めたら寝返りに遭って負けるのは家康
西軍も東軍も豊臣の為という旗印を掲げてたのに潰すわけないだろ
国民の為といいながら、政権争いしてるジャパンみたいなモンだ。
自民=徳川・民主=石田+西軍豊臣恩顧・公明=東軍豊臣恩顧・共産=?・国民新=?
潰したけどなw
すぐに潰したかどうかという話なのに「潰さない」はないだろw
貴重な観光名所を一つ失った。
豊臣家を潰す事は不可能。正当性もない。
>>11
関ヶ原の戦後処置(含論功行賞)は徳川家だけで行われた。
また全国の金山等の支配も徳川家に移行した
豊臣家は210万石の天下人から65万石の大名に転落した。
正当性の問題じゃないな
征夷大将軍の「補任」は対朝廷問題なだけで豊臣に対する正当性など関係ない。
不可能ではないが、徳川政権の永続性を考えて手順を踏んだということだろう。
(むしろ三成には何の援助もしていないし、対会津用ではあるが家康に大量の軍資金と兵糧米を提供しているぐらいだ。)
あの時点で家康に豊臣家を攻撃する理由が無い。
家康が政権奪取の為に動いた戦争ではなくて、三成方に無理やり家康謀反という
形で嵌められた戦争だからだよ。 いわゆる自衛の形なん。
じゃなかったら普通に潰す。
秀吉からは遺言で京都につめて政権を担当するよう言われてたし、別に無理
から東西戦争なんて起こす必要なかった。
家康も吉川には借りが出来てるから、毛利のことは不問にして恩を売るか
綺麗さっぱり潰してしまうかのどっちかだったな。
輝元がバ○だったが家康の戦後処理は一番恨みが残るやり方だ。
潰すつもりがそうならずに残ったから却って恨みを買うことになったんだろ
関が原の時点での家康の目標は、まず西軍に勝つこと、次に重要なのは東軍
・西軍どちらであっても豊臣恩顧の大名を矢面に立たせて力を弱めるもしくは
潰すこと。この2点で関が原は戦術面・戦略面ともに家康の大勝利。
その余勢を駆って大阪攻めを一気にやる!なんて云ったら東軍に与した豊臣
恩顧の大名が一斉離反していかな徳川家といえど猛り狂う猛犬の処理は一瞬
では出来ないから、一時的にでも全国が再び混乱状態となり、関が原で西軍
敗北ということで政治的には力を失ったとはいえ兵力はほぼ健在な地方の西軍
方大勢力が政治的にも息を吹き返し、家康が拾った関が原での戦略的大勝利の
意味が殆どなくなる。
関が原の勝利を政治に最大限反映させる為には嘘でも一旦矛を収めて論功行賞
をする必要があった。本当は潰したくて潰したくて仕方なかったかもしれないが。
これが我慢強くやれるのが家康の凄いところ。
家康「徳川家の安泰の為には豊臣は潰しておかないと 大義名分があれば攻め込めるのだが秀頼め、なかなかボロを出さんわ」
といいつづけて十四年 しびれを切らした家康はついに何の大義名分もないまま挙兵した
14年も待つぐらいなら配下の忍びを使って長期的に毒○できたと思う
淀殿か秀頼どちらかだけでも暗○しておけばもっと簡単に無力化できたはず
大阪夏の陣では家康が今川義元のようになる可能性もあった
真田幸村をなめすぎてた面もあるし若年世代による旗本弱体化は想像以上にひどかった
家康は危険な橋を渡りすぎ
家康は豊臣恩顧大名の総力を減○すれば徳川の天下になると考えたのだろう。
関ヶ原は俯瞰してみれば豊臣恩顧大名が真っ二つに分かれて○し合い、勢力を半減させてしまったものだった。
これで家康の戦争目的は達した。
だから毛利も必要以上に追い詰めなかったし、島津など「恩顧」でないものも同様。
何よりも関ヶ原のきっかけになった上杉討伐が中止同然になってしまい、当事者の上杉は減封だけで生き残っている。
しかしこれが裏目に出たのが幕末。
上杉は別としても結局薩摩・長州に・・・・・
え~っと。関ヶ原の段階で、家康が確かに最大の実力者ではあったけどね、
公権力ではなかったのですよ。もう「切り取り次第」の戦国時代は終わっていたので、
名目もなしに武力で人を従えるというのは事実上不可能だったのですよ。
もちろん、関ヶ原の本戦に、家康の息子秀忠が率いる徳川主力軍が間に合わなかったため、 東軍の勝利=徳川の勝利とはならなかったことも大きい。
それから15年をかけて、ようやく「もう徳川が公権力であり、豊臣家はそれに従わない一大名だ」 という意識が根付いたので、大坂の陣が成立したわけですわ。
三成も家康も名目上は豊臣家の権威を私物化する悪者を伐つ!って大義名分だったから、あのあと
「よーし、この勢いで大坂も潰しちゃうよー!」
ってなったらそれ完全なる謀叛だよ。
豊臣家を攻める=彼らを敵に回すで
猛烈な反撃を受けて対立する大名へ資金提供を始める
関ヶ原の時点ではまだ秀吉がタヒんでから3年で
合戦に所属していた大名たちも皆秀吉を覚えているし
家康自身も秀頼に「不忠の上杉を成敗します」と豊臣家家臣として出陣しているんだよな
そのことは関ヶ原に勝利しても尚、徳川家が人質にされるかもしれぬのに
秀頼の正室として千姫を差し出さなければならなかったことでもわかる
大坂の役のときは秀吉のタヒから17~18年後
世代交代が進んで秀吉恩顧大名の息子たちが徳川軍の主力
家康だけはあいもかわらず70歳にして尚、徳川軍の総大将として
大坂まで大軍引き連れて出陣してきたが
いなかったのではないかな
実権のない関白にして、お公家さんにするつもりじゃなかったのかな
明智光秀じゃないかと?10年以上たてば誰?
となる。親戚の春日つぼみちゃんとこの頃イチャイチャ。
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1223810433/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません