結局、秀吉の正室・北政所は淀殿や家康たちに対してどう対応すれば良かったのか?
言われ、仲の悪い甥っ子が勝手に西軍を裏切れば唆したと言われ
軍事的に妨害されて大阪の陣の時に大阪城に行かなければ
豊臣家を見捨てたと言われる。
貧乏くじを引かされがちな北政所はどう動くのがベストだったのでしょうか?
検証するスレです。
淀殿憎しで家康に通じたとか
東軍の黒幕だったとか
興味本位な後世人の勝手な邪推で
別に北政所に責任があるわけじゃないからねえ
まかり間違えば秀頼派として処刑される可能性もあったし
信長からも秀吉からも家康からも大事にされ
良い人生だったと思うのだが
>1
あと、北政所は大阪の役の時に大坂城に入ろうとして家康に止められている。
大坂の役の責任が北政所にない以上、妥当なことだと思うが
>>6
浅野家の養女として秀吉に嫁いだのだから実家は浅野家だよ。
生家が杉原家(後の木下家)。
どちらも大名として残ったのだから大成功だろ。
しかもどちらも大名になれたのは明らかに北政所のおかげ。
そして浅野の方が大きい大名なのは北政所の実家だからだ。
そりゃ違う。木下家定と浅野長政の器量の差が明白だったからでしょ。
北政所がどっちと親しかったって言うと明白に木下家の方だしな。
武功があったのは浅野幸長だよ。
親父は家康の命狙ったってことで江戸に送られとるわ。
長政は戦功ではなく、官僚として有能だったから出世したんだよ。
息子の幸長は武功でさらに家を大きくした。
これについてはいくつか言いたいのだが
まず秀吉が北政所に送った手紙というのは数多く残されているが
基本的に生涯戦に明け暮れて留守がちな秀吉に代わって
政務の代行や朝廷と交渉などを彼女が引きうけていた(これは当時の女性としては
かなり珍しい。ここまで女性が政務に関わると言うのは戦国期にはかなり異例。)
関係上、秀吉の方からかなり気を使ったと言うより、場合によっては遜ったような内容すらある中
秀秋の扱いに関しては秀吉が北政所を叱責しており相当冷遇されていた事が窺える。
事実成人後秀吉の養子や猶子や人質として高台院に育てられた連中と
比較しても1人圧倒的に高台院との接点が少ない。
>>31
>秀吉が北政所を叱責しており相当冷遇されていた事が窺える
秀吉の手紙には北政所が秀秋を冷遇したとはどこにも書かれていない
秀頼誕生前の秀吉は秀秋に対して「5日に1度は爪を切りなさい」と言った
父親まがいの可愛がり方で溺愛しており、北政所は秀吉と同じテンションではなかったというだけだろう。
長生きした勝俊が北政所の庇護を受けて高台寺の傍らに住んだことは事実だが
早世した秀秋が特に北政所との接点が少なかったという事実はない。
事実、秀秋は北政所に育てられている。(勝俊の養育者は北政所ではない)
お前も相当だなww。
あの文面をただのテンションの違いと見るか。
それに足守藩相続問題を見ればいかに北政所
が勝俊に肩入れしてたかわかるだろww。
>>33
だいたい足守藩相続問題のときには秀秋はこの世にいないじゃないか
それと秀秋冷遇に何の関係が?
江戸幕府が足守藩を勝俊と利房に分藩しようとしたのは木下家弱体化の為とも思われ
それを北政所が兄の長男である勝俊の単独相続に加担したとされるのは
木下家庇護の為で必ずしも勝俊肩入れとは言えない
それに足守藩相続問題で冷遇された可能性があるのは利房であって秀秋ではない
利房は関ヶ原で西軍であったために改易されており江戸幕府が優遇しようとした理由がない
(高台院の関与は不透明)
弱体化って・・・
なんでもかんでも本願寺みたいに二つに割れば良いってもんじゃないぞ。
むしろ数万石にすぎない木下家をわざわざ二つに割ったら幕府に不利な気もするが。
一つ監視すれば良かったのに二つになるわけだし。
結局幕府預かりで取り上げてるんだから徳川の思うつぼ
浅野は秀吉に仕えた最初のとっかかりはねねのお蔭かもしれんが
あとは戦功でのしあがった家だからなあ
浅野長政は関ヶ原では織田秀信が守る岐阜城を攻め落とす戦功をあげた
そのため浅野長政は秀吉時代よりも家康時代のほうが大きな知行を貰っている
>>8
家定が北政所の実兄だな
こっちは足守藩主として残っている
異常
杉本苑子さんの創作
転換されないの?
少なくとも関ヶ原の直前に家康が京都新城の防御機能を壊した事
大津城開城交渉の経緯、家康勝利の報を聞いた北政所が当時の天皇の母の
元に逃げ込んだ事、これだけ揃ってりゃ西軍寄りだった事は確かなのに。
>>18
ねねが大坂城を出たこと、家康の求めに応じて二条城会見に同席したこと
豊臣家滅亡後もねねが秀吉時代からの遺領そのままで(1万7000石)
家康になんら咎められることなく極楽往生したため
家康に近かったのでは?という憶測が消えんのだろ
ちなみにねねは西軍寄りとも言えんのでは
京都新城は無防備で西軍がねねを守っていた事実もなく
家康も豊臣家の城である京都新城の塀や櫓はぶっ壊したが
ねね本人を拘束することはなかった
ねねが准后の邸に避難した際も同行したのは実兄の木下家定のみで他の武将の同行なし
ねねがどちらかの陣営に組していたとは見られない
西軍寄り説は
石田三成の娘を養女にしていたり、
小早川秀秋以外の甥たちの動向はどうだったか
ということもあるかな。
まあ一番大きいのは
関ヶ原の戦いを淀殿対北政所の女の戦いで
無理矢理説明しようとする風潮のせいだろう。
淀殿が西軍方なら北政所は東軍につかないといけないし
淀殿が東軍寄りとなったら北政所は西軍寄りになんなくちゃいけない。
秀秋以外の甥っこはみんな西軍寄りなんだよね。
東軍扱いされてる勝俊と利房も
勝俊は西軍挙兵の翌日に伏見城を出てるし、利房も田辺城攻めに援軍を
送ってる。まあ田辺城攻めは無罪になった武将も多いから
利房もお咎めなしだったが。
ちなみに北政所の兄家定は北政所の警護に専念していたものの
戦後石高こそ同じだが、播磨姫路という良い領地から
足守なんていう田舎に飛ばされてるし、どう見ても北政所東軍説は無理があり過ぎる。
むしろ大野治長が東軍の時点で…って感じだが。
>>23
北政所の甥たち(いずれも兄木下家定の子)
木下勝俊…東軍
木下利房…西軍
木下延俊…東軍
小早川秀秋…西軍だったが東軍に寝返る
甥たちの同行を見て西軍寄りとも言えないよ
大野治長は関ヶ原の前年、家康から暗○計画首謀者のいちゃもんを付けられて
下総国に配流されたため関ヶ原の時には大坂城にいない
地理的に家康に付かないと○されてた
>>24
俺の手持ちの本だとこうなっている。
木下勝俊…東軍。ただし、伏見城を退去したため所領没収。嫁からも離縁される。
木下利房…西軍。改易。
木下延俊…東軍。細川幽斎の娘婿。
木下延貞…不明。当時から秀秋の居候だった?
小早川秀秋…西軍。東軍に寝返る。
木下秀規…西軍。改易。
木下俊定…西軍。改易。
北政所東軍説では秀秋の裏切りは北政所がそそのかしたせいになっていて
北政所西軍説では勝俊の伏見城退去は北政所がそそのかしたせいになっている。
勝俊と北政所は相当親しかったが(これは後の足守藩改易騒動の一件で
証明済み。)秀秋と北政所は相当不仲だぞ。
歴史上の出来事はなんでもかんでも女の戦いにこじつけてしまえばよし
みたいなのはどうにかならんものか
テレビドラマにし易いもんなあ…
てか大名の木下家は江戸期を通してずっと豊臣姓名乗ってたけどな。
捨てることも捨てさせられることもなかった。
秀吉政権下で大名が朝廷から官位を得るときには全部豊臣姓だよ
徳川の基本方針は家康が秀吉にやられたそっくり領地を引っ越す戦略だからな
外様大名がそのまま国入りしても上手くいくとは限らない、騒動が起こればすぐ
取り潰し、家光の時代まではこのやり方
武の時代
奥様は家で暇だったってことかいな。
とされているけど秀頼は自分の子じゃないしね。
あんまり分からないよね。
千五百何年かの途中でばっくれてんじゃないのかね。
秀吉に天下を取らせて自分の仕事はもう終わったもうどうでもいいみたいな。
秀頼は北政所を母同然に敬い、淀は生母とはいえ当時の習慣で「腹は借り物」だったんだが。
北政所の木下家の甥たちは秀秋も含めほとんどが西軍だよ。
清正や正則はすでに疎遠で音信はほとんどなかったらしいし。
逆に淀の妹・江は秀忠の妻、もう一人も京極家で東軍。
淀の愛人と言われた大野も東軍。
なんだかんだで、自分の一族は生き残ってるし、史実どおりが最良の選択だよな。
清正や正則達がねねと親しかったという根拠ってマジで何なんだ?
まあ要するに嫡男上げればよかったんだよ
江戸時代
木下 浅野 杉原 を残した北政所は勝ち
江戸期も木下氏は豊臣姓を名乗れて
木下家定は准三宮
木下勝俊は和歌の大家
赤穂浅野は忠臣蔵で大人気
芸州浅野は広島の大領
もう勝ち過ぎの人気武家
江戸時代、杉原家が木下と名乗っていたので同じ家だし
(秀吉や秀長の子孫は残っていない)
まだ高台院の兄甥である木下家は高台院の傍に晩年まで仕えてたが
浅野なんて秀吉がタヒぬと御用済みとばかりに高台院のところに訪問もしてないし
ただ家康に仕えて生き残っただけの家だろう
京都市
http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC17H55_S6A820C1AA2P00/
すぐ亡くなってるね 暗○かもしれんね
生きてる限り、豊臣恩顧の大名に呼びかけられたら面倒くさいし
>>60
元和元年(1615年)…豊臣宗家滅亡、豊国廟破壊、豊国社廃止
甥の木下利房が足守藩主に取り立てられる
元和3年(1622年)…将軍徳川秀忠が高台院領を増やし1万6923石とする
秀忠がかつて豊臣秀吉の人質に出され大坂城へ行った時
北政所に可愛がられたためという
元和4年(1623年)…木下利房の子・木下利次を養子に迎え、豊臣姓を継がせる
寛永元年(1624年)…タヒ去
豊国廟破壊後寝込んでないしすぐタヒ亡でもないし
北政所の没年齢は諸説あるけど若い頃に結婚して
夫の秀吉がタヒんでから26年間生きてるので寿命かと
北政所の遺骸は高台寺の彼女の像の下にそのまま葬られているらしいが豊国廟へは
入れなかったんだね、再建されているのに。
秀頼の母が彼女だったらやはり大阪城を出たりはしなかったかな?その際は当然秀吉の
遺言も違っただろうけれど。政所が大阪城を出たのは秀吉亡き後の後始末や朝鮮撤退の
メドがついて自分の役割が終わったので単なる世代交代として退出したと思うけれどね。
北政所はちゃんと西軍を勝たせるべく動いた。
ところが、浅野・黒田の輩がその心を読み誤り(黒田は承知の上かな?)、小早川を説き伏せた。
このあたり、近年の研究で明らかにされましたね。
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1403363663/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません