3世紀の奈良・纒向(まきむく)遺跡で鉄が使われなかった理由
未だに纒向は全体の5%位しか発掘調査できてないから慌てるようなことはない。
同時代、近隣の唐古鍵遺跡からは出てるので、そのうち出てくるだろうし。
>>4
その淡路の遺構は九州から来た海人族のものだからね
奈良盆地は関係ないよ
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
青銅ちゅーか真鍮やで
今でもそうや
出土するの神鏡やし
北九州の祭祀道具が鉄というのは今の神道とは違う廃絶した宗教という証明
平原遺跡の超大型内行花文鏡「八咫の鏡」がその代表だね。
畿内は後世にそれを真似たというか、九州北部の文化が伝播した=九州北部からの入植者が持ち込んだ。
そして、国が公式に設置した協会が、「アカデミックの学会では、邪馬台国畿内説の根拠とされる物事は、全て、具体的な証拠としては、完全に否定された」という真実を、高校生をはじめとする全国民に向けて放送したのだったね。
書紀にかかれてる6世紀初頭に筑紫に屯所を移したという記述に注目してる
そのころちょうど畿内でも古墳の築造をやめてしまった
つまりそのころに朝鮮半島南部にあった倭の本拠が筑紫に移ってきたことを示唆してるのであろう
つまり九州海人に征服された土地ってこと
そりゃ神武天皇がやってきてるんだから、海人が進出してきてるに決まってるだろ。
つまり畿内は九州北部の海人族により征服された土地。
邇邇芸が住み着いたのは吾田の笠沙岬
つまり神武は隼人の系統のインドネシア系海人族
北九州の海人族だけが海人族ではない。
鉄器が九州北部で作れるようになったのは1C頃だろ
3Cの畿内では鉄器はまだ馴染みが薄いものだったに違いない
そもそも魏より前、後漢の頃光武帝に朝貢した倭奴国は倭国の極南にあると後漢書東夷伝にもある。
倭国の極南=九州南部であるわけだから、初期の九州の4区分で言えば熊襲国であり、その後の7区分で言えば日向国となる。
九州が9区分になった後で言えば薩摩国となる。
中国三国時代よりも前、後漢の頃の倭国の覇者は北九州ではなく南九州の隼人だったわけだが
魏志倭人伝にしても、北九州に邪馬台国があったとして、倭国100国程の国の内の3割しか支配下にないし南から攻められてる。
倭国100国の残り7割が敵対勢力側だが、地の利を生かして帯方郡に朝貢できたに過ぎない。
五斗長垣内遺跡
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された
鉄細片など75点が出土した。
方保田東原遺跡
合計500点以上の鉄が見つかっていて、その多さは全国でも際立った数です。
種類は斧やナイフなどのほか、鎌や釣り針など非常に多彩です。
注目されるのは、製品ではない塊や棒や板状の破片です。
これらは鉄器の素材となった物と考えられます。
出土数は全体の約半分を占めているので、この遺跡ではかなりの規模で
鉄器づくり(鉄鍛冶)が行われていたようです。
西弥護免遺跡
弥生終末期(581点の鉄器、細い針状の鉄滓など)
纏向の矢板を削った鉄器も2週間ほどで溶けたそうです(奥山談)
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1575005602/
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