【奈良】小麦の大型品種、飛鳥期に朝鮮半島から伝来?甘樫丘東麓遺跡で出土の小麦の種子「朝鮮半島から粉食文化が日本に伝わった」
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見つかった炭化した小麦の種子。弥生・古墳時代のものより大型とわかった(奈良文化財研究所提供)
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■甘樫丘東麓遺跡で出土、奈文研分析
弥生時代に日本に伝わった小麦が7世紀前半(飛鳥時代)に大型化していたことが、 甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡(明日香村)で出土した小麦の種子を奈良文化財研究所が分析し、判明した。朝鮮半島から大型の品種がもたらされ、粉食する文化が広がった可能性もあるという。不明な部分が多い古代日本での小麦栽培の歴史を考える資料になる。(関口和哉)
■栽培の歴史知る資料
甘樫丘東麓遺跡は、古代の大豪族、蘇我 蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子の邸宅跡との説がある。2011~12年、奈良文化財研究所が発掘調査を実施し、倉庫跡の可能性がある土壌から、7世紀前半の炭化した小麦の種子約190点が出土した。
種子を計測したところ、長さの平均3・94ミリ、幅の平均2・76ミリで、弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した小麦の種子より20~30%、大きかった。
世界各地の遺跡から出土した小麦の大きさは、西アジアやインドなどが大型で、中国東部は小型という特徴がある。弥生・古墳時代の日本の小麦は、中国東部のものと合致している。
その一方、同時期の朝鮮半島のものは大型の特徴があり、甘樫丘東麓遺跡の種子は、その大きさに近い。こうしたことから、同研究所は7世紀前半、朝鮮半島から新品種がもたらされた可能性が高いと推定した。
日本では8世紀になると、小麦が正倉院文書などの文献記録に登場し、粉食されたり、のりに利用されたりしていたことがわかっている。だが、7世紀以前の記録はなく、利用の始まりや栽培の過程は、ほとんどわかっていない。
調査した奈良文化財研究所の庄田慎矢・国際遺跡研究室長は「小麦は雑穀の一つだったが、新品種の伝来で穀物としての重要性が増し、利用が拡大したと考えられる。今後、DNA分析などで、より 精緻せいち なデータを得たい」と話している。
木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)の話「今回の成果から、朝鮮半島を経て粉食文化が日本に伝わったのではないかと考えられる。飛鳥時代は食文化においても大きな変革期であったことを示している」
読売新聞 2021/06/26 05:00
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大陸から日本に運んだだけの運送員じゃね
面白かった
半島には日本から、大陸に逆上陸する形で伝わったと思う。
古代には楽浪郡とかあったし半島は通路としてはろくな国や文化もなく便利だったんじゃないかなあ
小麦は少々寒冷地でも実をつけるし、米よりはるかに可能性がある
>世界各地の遺跡から出土した小麦の大きさは、西アジアやインドなどが大型で、中国東部は小型という特徴がある。弥生・古墳時代の日本の小麦は、中国東部のものと合致している。
その一方、同時期の朝鮮半島のものは大型の特徴があり、甘樫丘東麓遺跡の種子は、その大きさに近い。こうしたことから、同研究所は7世紀前半、朝鮮半島から新品種がもたらされた可能性が高いと推定した。
小麦が寒冷地の作物といのうがそもそも間違いだから。
本来、温暖地の冬作の作物。
地中海方面の、冬場に雨が降り寒くないところが原産地。
日本で小麦の生育がイマイチなのは、冬寒すぎて乾きすぎるから。
寒冷地の夏作の小麦ができたのは、18世紀の中欧で日照特性を失った系統が発見されてたからだよ。
好太王(広開土王)の碑文にも「三韓は倭国の支配下」と記されている。
中国の古文書「隋書」「三国志新羅本記」や「魏志倭人伝」に朝鮮南部は
倭国の支配地となっている。
さらにその先はどうなんだ?
半島は単なる通り道であって、実際はその先の大陸から来たものが大部分だよ
何かそんな印象を受けるよね
朝鮮が教えたという結論ありきで始まってる
学問とは正反対だ
日本には米も麦も朝鮮から来たんだよ
当時の朝鮮は陸稲だった
朝鮮半島で水稲栽培が本格化するのはもっと後の話
つまり水稲栽培は朝鮮半島から南下してきたのではなく、逆に日本から対馬海峡を渡って伝わった
でも農具は朝鮮から南下してるんだよね…
真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。
ここへ日本から行って、様々な文化や文物を手に入れておりました。
つまり朝鮮半島からの伝来というのは当時中国の出先或いは植民地である朝鮮半島北部の楽浪郡からのものということか
朝鮮人が伝えたというよりもその地へ渡った日本人がそこに駐留していた中国人から聞き学んだものというのが正しい
高級品。
江戸時代では贅沢品として百姓が食う事は禁止されていた時期もあった。
麺も一緒に渡来してうどんになった。
そもそも氷河期でシベリアみたいな気候だった朝鮮にはほとんど人が住んでいなかった
これはすでにソウル大学の地層調査であきらかになっている
海水面も今より100m以上低かったので小舟で中国から日本に直接渡れた
日本の渡来人は5000年以上前に中国から直接渡ってきた人たちであり
朝鮮はまったく関係ない
インド→朝鮮半島経由で日本に言葉と共に伝わってきたとかなら面白いのに
インドもちょうどタミル語を話す地域だったとこあたりなんでしょ
品種改良も進んでない当時の米は寒いとこで育ちにくく
中国も長江以南の温暖な地域は米食でも以北は小麦とか食ってたんだわな
そして最近の調査では朝鮮半島なんか一番米が育ちにくい環境とかで
日本よりも後に稲作文化が根付いたという見方が定説になりつつある。
じゃあよ、日本が朝鮮半島に稲作を教えてやったんじゃないかと?
現代でも品種改良された日本の農作物の種子を盗んで平気でいられる韓国見ていると
ご先祖様も同じことしてたんじゃねえかな感じるよな
で、名誉挽回のつもりか今回は小麦が朝鮮半島から伝わったに変えて来たけど
これだって学者さえ真面目に、政治思想を優先することなく、調査すれば
別の真相が明らかになって来るかもな。
韓国の南部、釜山から木浦にかけて旅行したけど日本とそっくりで川も多くて稲作の適地だと思ったけどな
中国南部から朝鮮南部を経て日本に稲作が伝わったと考えるとしっくりくる
古代は朝鮮南部と中部以北では文化的に違いがあったんじゃないかな
中国大陸から朝鮮半島って
川以外何の障害物も無さそうだからな
歩いて簡単に行けそう
日本の関が原みたいに、東西を分け隔てる大きな地理的な障害も無さそうだし、川以外
中国大陸から朝鮮半島へは色々な物が容易に伝わりやすいわな地理的に
7世紀辺りの記述になると急に、「半島から先進的な文化・文物がもたらされた」とかいう話になる
教科書の執筆者や古代の歴史の研究者というのは、知的に障害でも持ってるんだろうか
もしくは、そう書かざるを得ない外的な理由が、何かあるんだろうか
日本に中国から朝鮮半島を経由して
「紙」が伝わった時代だから、
それと関連してるのかもな
それ以前に中国史書には古代中国と倭の接触は少なくとも周にまで遡り夏の遺風が伝わっているとまで記述されているが
そこには半島の関与は出てこないのでルートはさておき直接的な交渉があったと考えるしかない
これらは本邦の進歩的史学者にとっては不都合な記述なのでこの倭は日本とは無関係だと根拠なく強弁して切り捨ててるのが現状
南洋から日本に来て半島に北上したのでは?
東南アジアのイネ自体、北(中国)から南下したもんだが
農作物がいまだに根付かない
山がハゲ山になるのはなぜかというと
彼らは狩猟者だからだ
素戔嗚尊が新羅を嫌って天界から持ち出した草木の種を分け与えなかったからだよ。
おイタが過ぎて天界追放、流刑にしても新羅の土地は酷すぎる、と海を渡って出雲に逃亡したんだよ。
逃亡した先では草木の種を植えまくって倭の島は草木鬱蒼となってんだよ。
もしかしたら今の韓国人よりは優秀・・・でもないか
文化ですらあまり残していないし
正) 大陸の文化が朝鮮半島という通路を通って伝わった
マジでそれ
ただ経由しかしてない上に経由地には伝わってない物もあるよね
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1624977554/
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