古代山陰道の実態が徐々に明らかに!現代の山陰自動車道より広い道幅、側溝の外側は柳並木
■可能な限り直線的に敷設
「古代山陰道の推定ルートのひとつにある峠の頂部で、ルートに直交する形で『立石(たていし)』のような石を2基発見した」
6月上旬に開かれた「因幡国古代山陰道発掘調査委員会」で、鳥取県埋蔵文化財センターの文化財主事、坂本嘉和さんがこう報告すると、リモートで出席した研究者らが関心を寄せた。
石は高さ1・3~1・6メートルほどで、調査エリアの東端で1基、そこから約3キロ東の調査エリア外でもう1基が確認された。
立石は古代官道の道標として石川県白山市などで発見されている。石の周辺では、「太宰」「筑紫谷」など九州に関係する地名も確認された。
古代山陰道が都から九州に通じる官道だった可能性も踏まえ、坂本さんは「石がいつまでさかのぼるものなのかは不明で、地元の伝承も確認しなければならない。ただ、太宰などの地名とあわせて考えると興味深い」と指摘した。
2基の石を結ぶルートは、平成30年からの調査で判明している山と谷を横断してまっすぐに設けられている古代山陰道ルートの延長線上に位置し、古代官道の大きな特徴である「可能な限り直線的に敷設」に符合する。
…続きはソースで。
https://www.sankei.com/article/20210626-5WMZP4VUSBN4FGBOLYLURROT3M/
2021年6月26日 9時00分
雪対策もあるだろうし
出雲があるからもっと古い道じゃなかろうか
この想像イラストからすると当時の人々は右側通行だったのかな?
https://www.sankei.com/article/20210626-5WMZP4VUSBN4FGBOLYLURROT3M
/photo/2K7GFSQ2D5K2XOFJOGDR6E3KYE/
イズモスゴイタカイ神社とかちょいちょいオーパーツあるなこの辺
現代の山陰道、中国自動車道は
カーブの逆バンクだらけの事故の名所
山(土手)の陰やで
生い茂っとるで
自動車のない律令時代の道路以下なのかよ
時代が新しくなる度に社殿が低くなる不思議
昔は雲太和ニ京三と言われたのにね
昔っていっても平安時代だけど
いつの時代も、予算というヤツは年々減っていくもの、ということだろう。
新潟に立派な道路が敷いてあるのと同じこと
出雲というか、山陰道の場所は記紀に出てくる古くからあるところだね。
今はど田舎の辺境扱いだけど。
丹波はその後3つの国に分けられた。
それくらい大きな国(つまり人口が多い)だったんだろう。
巨大土技術がない時代、米を作るための水が得られる土地が一番有利。
制御に困る大河じゃなくて中小河川があって雪が積もれば一番オトク。
山陰は豪雪地帯だからな。
山陰道の京都部分は今でも9号線で現役だと思うわ
一部は違うかもわからんけど、一番合理的な道。
滋賀県には東山道が出てるが、一部山を切り開く道だったな。
そんな時代よりもっと昔みたいだよ。
所謂官道は白村江の敗戦以降急速に整備が進められた
用途は色々あるが、第一目的は東国精強軍団を畿内或いは九州方面に迅速大量に移送すること
新羅征討のため官道を西上する軍団を大海人皇子側が接収して壬申の乱を有利に戦ったのは有名な話
紀元前のローマ帝国ではすでに石畳の街道が作られていたんだから大して進んでないよ
古代日本に転生してアスファルトの道路を敷いて無双しようw
中国地方だから中国かよw
今では交通情報でしか聞かない
意外に古代の事って全然分かってないんだな
律令国家出来立ての頃は出雲との関係が微妙だったのかもな。
蔑ろには出来ないにしろ畿内より良くは書けない。
亀岡の出雲神社とかも由来わかってないからな
でも多分出雲族の版図だった
『家康百箇条』が示され、このなかに江戸時代の道路政策や道路の種類・
等級に関するものが見えます。
そこには道路の種類ごとの道幅が次のように記されています。
大海道 6間(約10.8m)
小海道 3間(約5.4m)
横道 2間(約3.6m)
馬道 2間(約3.6m)
歩行路 1間(約1.8m)
捷路 3尺(約90cm)
作業道 3尺(約90cm)
3倍の幅にしてくれていれば
京都…峠…亀岡…渓谷沿い…福知山…渓谷沿い…和田山…山越え…山越え…鳥取…砂浜沿い…松江…出雲…海岸の岩場沿い…海岸から離れて山の中…下関
日本海側が岩場ばかりなので、マトモに道が付けられず、山の中を縫って走るとんでもないルートだよ
重機とダイナマイトが無いと全線9m道路なんて無理、無理
しかも山陰最大の豪雪地帯…村岡町を縦断するんだぜ
山陰道…なんて自慢するほどの道じゃない
だから日本海側は船で運ぶのを主力とした
峠が険しいのはどこでも同じだよ
海岸通りの東海道でも箱根は難所
くつはけわがせ
陰は山の北側、陽は山の南側という意味。
北半球では、太陽が南に昇ることに由来する。
そんなんあるのかw
朝鮮の任那はあくまで経由地で、大元は長江文明を築いた古代中国人が日本人だと思うよ
つ 徐福伝説
一通の車道。狭い。柄悪い。汚い。
この後に衰退するんだけど原因は何だろな、火山噴火でもあったか?
鎌倉初期だったかの長白山の大噴火で日本列島全体が大飢饉に見舞われてるよ
特に東北地方日本海側は火山灰が5~10センチ積もったとされる
渤海国の消滅もこの頃
律令制が変質崩壊する時期に極東アジアの国際情勢は安定化
徴兵による軍団を維持する財源も意味も失われた
桓武天皇の改革
蝦夷征伐などで大変な負担を国民にかけた事と財政難から
ただこれによって朝廷の統制力が大きく下り、地方の治安も悪化
藤原純友や平将門の乱などが起こることになる
その結果、地方の軍事を司る武士が表れる遠因となったという話
整備してもすぐに流されたり飛ばされていくらやってもきりがないし
木や蔦がしつこくてね
うっかり草地なんて歩くとずるっと滑ったり陥没したりと危険だから
やっぱり海辺の砂浜歩くしかなかった
山のなか歩くとそういうのないけど四倍は時間かかる
朝鮮の人狩りや海賊やら山姥が出たりするけど戦闘で勝ったら補給や物々交換交易もできて
毒○にさえ気をつけたらまあラッキー
出雲近辺は安定的長期勢力があったから比較的安定してたけど
それ以外は未開の武装勢力とのいざこざがなあ
二十年くらいで代替わりするからそこでこじらせると
そこは避けるか押しとおるかどっちにするかでまあまた厄介
昔の道は山道だよ、尾根を辿って歩くんだよ
海岸線の道は、河口部の湿地帯と深い河川で横切れ無いから山の中を歩くんだ
京都から姫路とかだと…R372…盆地の縁を回って川沿いの渓谷に沿って篠山へ、篠山からは山裾の渓谷沿いに盆地を通って播州平野へ、一気に加古川へ南下せずに山沿いの足場のしっかりした部分を伝って姫路へ出ていたんだ
大河は一度も横切ってない、上流の浅瀬を渡ってたんだろうな
↗最近知った名前w
覚えたてかよw
応仁の乱の時に山名宗全が西軍総大将で繰り返し出兵して、本国が疲弊してしまった可能性ある
渡来人っていろんなとこから来てるから
朝鮮半島からはそんなに来てない
それが想像以上に沢山来てるのよ
例えば飛鳥方面の古代集落遺跡を発掘すると、結構な頻度で朝鮮式土器やらオンドル付朝鮮式住居跡が見つかるから、すぐに渡来人集落と分かるらしい
そんな場所が数多く見つかっている
別に朝鮮式じゃないだろ
土器や住宅器具はどこでも使う
朝鮮式ウォッカとか朝鮮式麺類などと言うけど
朝鮮以外に元々あるもの
大和朝廷は帰化人を技術を持つ人間として囲い込んで利用してる
他に出さないように住む場所を限定して管理下に置いてる
なので他とハッキリ違う半島様式の生活をしてる場所が複数見つかる
朝廷の方針
よく地方で帰化人が移住してる土地もそれと同様
僻地や、敵対する豪族の居る場所に住まわせて開拓や壁として使ってるわけだ
「どこでも使う」ってあんた・・・
生活用具の外形要素を精緻に系統だてて、発掘品が元々どの地域のどの時代に属するのかを調べるのは考古学の基本中の基本ですよ
長年に渡る考古学者の努力を無駄にするようなことは言わないでくださいw
但馬は新羅人がいた
丹波はよくわからない
若狭越前から先は越族
ソメイヨシノがなかったから。
山の中に道路アトが埋まっている、ソレも律令時代からの道路が眠っているとは思えんのだけどね
道路が出来ると人が住み、集落ができる、そこへ繋がる道も出来る
余裕でクニ傾けちゃうだろ
山陰道が優位にあった頃は日本海沿いの海運が盛んだった頃っしょ
神社か何かがあった場所で特別に立派だったんだと思うが
唐、新羅の倭国侵攻が危惧された時期だから、国が傾く無理を承知で整備したのよ
本土決戦直前の日本みたいな状況だな
少し前までは貴方みたいな考え方が支配的だったけど、近年画期的な発掘が相次いで、古代官道に対する認識はガラリと変わった
思われてたよりずっと立派な道ってのと
尾根を真っ直ぐ9メートルの幅員のスーパーハイウェイを敷くってのとではてんで別の話だからなあ
今回の発見だって3キロ離れた場所に同じ道路の延長であることを示すと思われる立石が見つかったというだけで
その間を9メートル幅員の道が整備された跡が見つかったなんてことではないっしょ
削平されてなけりゃ、いずれ見つかるでしょう
何か所か街道脇の立木が9メートルにもなる箇所がでてきたとして
畿内と北九州を結ぶスーパーハイウェイは見つかんないと思うがなあ
まあ10キロ程度の延伸がある道路遺構が見つかったなら信じるよ
畿内から下関なら瀬戸内海沿いだろ、なにせ雪が降らないから冬でも安心
日本海側へは南北道路で繋がって、日本海沿いの安定した道路は無かったんじゃないかな
現在でも舞鶴がら和田山、鳥取、島根ルートの自動車道が整備中だけど、海岸線は諦めて山の中をトンネルに継ぐトンネルな大工事中
旧海岸線道路で城崎から鳥取へ行った時は、車でも大変だったよ
だから昔は山陽道か中国道で東西の移動、狙い定めて山越えで北上してたんだよ
@ 姫路から生野峠を越えて和田山、から円山川沿いに豊岡、城崎温泉
@ 山崎から戸倉峠越えて鳥取へ
@ 佐用から川沿いに北上して川沿いに下ると鳥取
@ 美作から九十九折で山越え、蒜山高原経由で米子、皆生温泉、、そこから横移動で松江に玉造温泉で出雲大社参り
現場行って山の尾根を10キロほど縦走してみればいいんじゃないかな
もしくは中国地方や四国にわんさか残っている酷道を車で走ってみるのもいいかも
>>101 がwiki引っ張って来てるよに大雑把な構想は立てられて実行に移されはしたんだろうし
30キロほぼまっすぐな道が続いてたらしい場所もあるのかもだが
有力な駅家の周辺はそれなりに構想通りの立派な道をつくれたとして
平地でも大工事なのに尾根沿いに断続的に数百キロもの9メートル幅員のスーパーハイウェイ敷設とかは
現物見せられないとどうにも信じがたい
橋やトンネル作るのは必要だからであって作れないなら通れないし
かといって迂回も厳しい箇所もワンサカあるはずなのだけど
もしかしたらやってやれないことはないのかもだけど人手も金もちょっと想像つかないくらいいりそうだけどな
>>102
中国山地は地図で見るよりずっと懐深いからなあ
まあ大阪方面からならどっちにしても遠いけどもR9や山陰本線の方がまだマシかなあ
一回試しに岡山から鳥取方面への鈍行に乗ったことがあるのだけど
まさに各駅停車で止まりまくって永遠につかない気がして諦めて特急に乗り換えたことがある
常にカネと民意の問題が付いて回る現代と異なり、成立直後の中央集権国家体制の総力を結集した事業だと考えると、直線官道整備も有り得ないことではないと思うけどな
幅広の道を突貫工事で造ることで、政府の威令を地方隅々にまで行き渡らせる効果もあるし
まあ平野部に隣接する丘陵の尾根だけだったらいいんだが
山陰道でなだらかな丘陵なんて部分はそんな続かんし基本山に入らざるを得ない
んで山と山の間に道通すってのはすんげえ大変
駅家の周辺にこんな立派な道作りました凄いでしょってのは有りだと思うし
それまでにあった峠道なんかを整備してちゃんと繋がっている道にもしていったんだろうけど
はっきり言って9メートル幅員を直線で敷くためには低い丘陵の頂上部を切通ししてやったぜなんて甘い話じゃなく
トンネル掘れないなら山ごと削る覚悟いるんじゃね
と偶に酷道ドライブを楽しんだりする自分は考えるがなあ
7~9世紀は我が国に専制権力が存在した稀な時代
現代人から観て狂気の沙汰としか思えない事業も、当時の権力者なら平気で推進したと思う
国と時代は異なるけど、万里の長城なんかはその好例
わざわざ尾根筋の一番険しい場所を選んで延々と壁を拵えてるのを実際に観ると、現代人の言う「合理的判断」が存在しない時代が確かにあったと感じるのだが
やるやらないじゃなく出来ないって言ってるのだが
ちな律令制を固めるにも随分時間を要してるし専制権力っても始皇帝とかのそれとは比べるべくもないかな
まあさきにも言ったが幅員9メートル道の遺構が山中を何十キロも伸びてたら宗旨替えするんで是非見つけてみてください
何を根拠に頑なに出来ないと主張するのか理解不能だが、いずれ明らかになるだろうよ
いや想定されるような山中を実際通ってみて
真っ直ぐな道なんか引きようがないって思えるので
実際あなたも行って10キロほどでいいからクソ広幅員の真っ直ぐな道が引けるもんかどうか体験してみたらってのと
山掘削しながら直進してるようなら仮に緑が復元してようが9メートル幅の痕跡はとっくに分かってそうなもんだと思うが
まあ実物が出たならいくらでも宗旨替えするよ
江戸時代の旧中山道とか木曽地方ではただの細い山道なのに?
朝廷が衰退したのちは維持されずに放置されてただの山野に戻ってる
だけどリンゴ農園とかフルーツ街道やら道の駅なら楽しい道。またドライブしたい
課題は、遠くて不便なことだけ
駅路の幅は約20 m前後、広いところで30 mあり、30里(現在の距離で約16 kmに相当)ごとに官人など駅使の宿泊を供するための設備を有した施設である駅家(うまや)が置かれ、駅馬を常備して公文書などの伝達に利用された。駅路の総延長は約6300 – 6400 kmにもおよび、駅の数は400を上った。
古代の日本では、橋やトンネルをつくる技術がない時代であったため、集落間を結ぶ道は曲がりくねった細道であると一般に考えられているが、七道駅路は中国の隋や唐代の道路制度に倣い、中央の情報をいち早く諸国に伝えるために地形の起伏よりも距離を重視しており、最短距離で結ぶように畿内から放射状に直線的に延びていた[15]。
幅員や直線性については、現在の日本の高速道路のルートに通じるものがあり、発掘調査で30 kmも直線に伸びている区間や、側溝を備えた幅員12 mの直線路が発見されている。
幅9メートルは遠国の規格で本来は12メートルだった。律令制の貴族って本当は凄い働き者で有能なのよね。
運転され、一部は太田まで足を延ばす。そんな異世界があったんだね
飛鳥奈良時代の国家権力の強大さが分かるな
平安時代になると藤原氏の台頭で朝廷の権威は蚕食されて衰退していくからなぁ
大陸や半島との関わりが薄れて、国家意識も低下したということやろ。
奈良時代まではその権力の強さが残ってる
契機はやはり軍団の廃止だろうな
軍事力を国家が放棄した時点で国の統率力が弱まってる
国道も軍団の廃止でほぼ無意味になってるし
古代の大きな転換点だな
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1624766089/
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