羽柴秀吉と明智光秀の天下分け目の天王山「山崎の戦い」の後、光秀の家臣はどうなった?「一族郎党残らず亡命」「別れを告げ方々へ落ち行く」
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嶽さんが所有する文書の写し。「一族郎党残らず亡命」「別れを告げ方々へ落ち行く」などと書かれている
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京田という地名は現在も残る(京都府舞鶴市)
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6月13日は、明智光秀と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が争った「山崎の戦い」があった日です。戦場になった「天王山」は、今も重要な勝負の分かれ目を表す言葉として使われますよね。そんな歴史的な日が近づいていたある日、知人の男性から「先祖が明智光秀の家臣で、山崎の戦いの後にどう逃げたかを書いた文書の写しがあります」という電話がかかってきました。文書を見せてもらうと、そこには戦に敗れた武士たちがどのような末路をたどったかが生々しい筆致で書かれていました。439年前の決戦と家臣のその後をたどってみましょう。
文書の持ち主は、整体師の嶽健次郎さん(48)=京都市右京区です。見せてもらった文書の写しによると、嶽さんの先祖はもともと「三上」という姓で滋賀県にいたとのこと。室町時代に現在の京都府舞鶴市に移り、「佐武ケ嶽城」という城を拠点にし、やがて明智光秀に従ったそうです。
天正10(1582)年、本能寺の変を起こした光秀は、豊臣秀吉と天下分け目の「山崎の戦い」に臨みます。光秀の家臣だったご先祖さまももちろん従軍。しかし、光秀軍はあえなく敗戦しました。
文書の写しには、その後の結末がしっかり書かれています。「(明智軍は)主従残らず山崎の陣中に倒れた」と記しています。さらに「一族郎党残らず亡命」「主従それぞれ別れを告げ方々へ落ち行く」とあります。どうやら光秀の家臣の大半は討たれ、残された一族や家臣もちりぢりばらばらに逃亡を余儀なくされたということのようです。落ち武者の悲哀が伝わってきます。
当時の当主で光秀の家臣だった三上信貞には3人の息子がおり、3人はそれぞれ舞鶴まで帰り着いたようです。しかし、もう武士の身分にはとどまれなかったようで、舞鶴市の西舞鶴地域の各地に分かれて住みました。長男は舞鶴市京田地域に住み、かつての城の名から1字を取り姓を「嶽」と改め、農家になったと書かれていました。
その子孫の一人が、今回連絡をくれた嶽さんというわけです。嶽さんは「先祖が住んだといわれる京田という場所は西舞鶴地域の中心部で、その後に細川藤孝(幽斎)が築いた田辺城に近い。藤孝との関係やどういう風に暮らしたかなど、子孫としてはまだまだ興味は尽きません」と話しています。
山崎の戦いと言えば、敗れた光秀が逃げる最中に命を落とすという劇的な結末が知られています。しかし、光秀だけでなくその家臣たち一人一人にも激動のドラマがあったようです。(まいどなニュース/京都新聞・浅井 佳穂)
6/11(金) 16:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210611-11296135-maidonans-life
日本には昔から「落武者狩り」の風習があったので好きな所に逃げるのはほぼムリ
日本仕草
おぼれた犬は棒で叩けだな!
こんな現代人が読めるような文章かいてたの?
坂本龍馬は本能寺の変後、土佐に逃げた明智光秀の家臣の末裔
そもそも坂本龍馬は実はたいした活躍はなかったとして、近年の歴史の教科書からは名前が消えてる
あれだけエピソードがあるのにたいしたことないとは
司馬憎しが行き過ぎ
坂本龍馬はエピソードの多くが明治時代に作られたものだという話しもあるね
俺んちも桔梗の紋
結構拡散してる紋なんだよね
土岐氏に繋がる家は桔梗紋だったしな。
ついでに斎藤利三の妹は、長宗我部家へ嫁いでおり、
それ以前から美濃と土佐では守護代同士の縁があった
正確には
> 使用家は、特に土岐氏とその関係の一族や清和源氏流の氏族、加藤氏、脇坂氏などが用いた。
桔梗は土岐氏、明智氏、肥田氏、山城氏、沼田氏、加藤氏、
それに丸を加えた「丸に桔梗」は、妻木氏、岡氏 、沖村氏、
細身の花弁の「太田桔梗」・「丸に細桔梗」は太田道灌ら太田氏が用いた。
「土岐桔梗」は江戸時代に「桔梗」から派生したもので[3]、
おもに土岐氏、明智氏、肥田氏、瓜生氏が用いた。
船木氏や土田氏など土岐氏に関係する一族が「清明桔梗」を桔梗紋の代用として用いている[1]。
下級武士での使用例には、「組合い角に桔梗」の坂本龍馬が知られる。
龍馬ら坂本家は、明智光秀の娘婿であった明智光春の子、明智太郎五郎を先祖としていることから用いている
メジャーだしね
あの新選組ごときでも出来たんだから出来るだろ
みんなに見捨てられ終われていくのは義経や新選組と同じくドラマチックなのにな。
一年も見てたらみんな明智ファンだから感情移入出来たのに、あの脚本家、光秀○したくなかったとかよく言えるわ。太平記とか、たけし東条英機ドラマで好きだったのに
今のドラマって
解釈としてドーンと出すけど
スタイリッシュに見せるだけで
描写ややり取りは情報量がなくて間延びしている
生きてれば討伐することになり戦になりかねずまた既にタヒ亡を宣告した武将の面子が潰れるからである
実は斎藤義龍の子の龍興も織田軍に討たれたことになってるが富山で平穏無事に農民として暮らしている
つまり光秀の生存は確実で但し僧侶ではなく商人として暮したのだろうね
他の武士はそうでも、光秀はさすがに見逃さないんじゃないか?
まんが日本昔話に斉藤義龍の何代か後の子孫と思われる
元武将の人のはなしが有ったわw
跡形もなく燃えちゃったの
弥助が信長の首をもっていって
デスマスクをつくったとか伝説があったよな
本能寺からして、何もかもおかしい。
歴史学者が不甲斐なさすぎ。
歴史の真実が重要視されるようになったのなんて戦後だしね。
歴史学者が不甲斐ないのも仕方ないところがある
弱くないよ。
秀吉が戻るのが1~2ヶ月遅かったら周辺の豪族とかまとめて迎撃体制が整ってた。
秀吉が戻るのが早すぎて、根回ししてる途中だったから体制が整い切らずに破られた。
体制整ってたら秀吉もかなりやばかった。
筒井の日和見具合が1番のポイント
光秀に付いた後、もし、信長が生きて
後から出てきたら、信長に○されちまう。
勝竜寺城は合戦場所から近いし
周りが開けてて追手に簡単に囲まれそう
逃げて正解じゃないかな
溝尾茂朝 自害
藤田行政 自害
安田国継 浪人。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂に仕え、旧友の寺沢広高に拾われる
伊勢貞興 戦タヒ。兄の子の貞衡が旗本
阿閉貞征 処刑。一族誅滅
猪飼昇貞 戦タヒ。子の秀貞は、裏切って斎藤利三を捕縛。旗本490石
木村吉清 秀吉に取り立てられて大名になるも、悪政で失脚。氏郷の客将となり、蒲生家移封後、独立大名1万5千石。「福島県」の命名者
松田政近 戦タヒ。子は帰農
山崎長徳 柴田勝家を経て、前田家に仕える。関が原での功績で1万4千石
阿閉は明智の家臣ではないでしょ
家臣なら主君に従っただけで族誅まではされない
(斎藤利三は首謀者なんで斬られたが子は赦されてる)
信長の直臣なのに謀叛人に従ったんだから族滅
でも同じような立場の武田は当主のみ処刑、京極は助かってるんだよな
元々秀吉と折り合い悪くて山崎でも主力やったからも大きいか
京極は当然尻の光のおかげ
オリジナルキャラ出してグダグタにするのは最近の話ではなくて、昔からのお約束だぞ
四王天政孝 戦タヒ。弟の政実は、青木秀以、結城秀康に仕える
柴田勝定 堀家に仕え、1万3千石となるが、内紛で浪人
石高換算で約40万石ぶん。
信長の総石高750万石以上。
主家○しの汚名を抱えて
生き延びるにはキツ過ぎる。
北畠顕家だって20日くらいで奥州から畿内まできているし、案外普通にできんじゃないの
距離日数の問題だけじゃなくて毛利家と交戦中の状態
普通に考えたらすぐ和睦はまとまらない
それも込みだから電光石火ともいえる
当然毛利も秀吉に恩を売った方がよいという計算ずく
いっても、北畠だって奥州の足利方と交戦状態だけど上洛してきたよ
言われてみればそうだな
wikiにも
>顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、その後も渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。
書いてあったわ
戦略として秀吉が誇大に宣伝した面もあるんだろね、こんなに速く帰ってきたぞーって
光秀は焦るしどっちに付くか迷ってる連中への牽制にもなる
秀吉に恩を売る云々は結果論の後付け
毛利家は上原元将の裏切りの影響で秀吉を追撃している場合では無くなっていた
みんなその辺の毛利家内の事情を無視・軽視し過ぎだと思う
元々毛利が秀吉と和睦したがっていたのを、秀吉が毛利は武力で潰せるからと和睦に応じなかったってのが大前提にある
変の2ヶ月前に秀吉が来島通総を調略して味方にしたことで、毛利水軍に混乱が生じ海上輸送に支障をきたした
この頃羽柴軍と対陣中の毛利家臣の書状にも兵糧・玉薬の欠乏が深刻だと記述がある
逆に秀吉は細川水軍を使って物資をどんどん運んでおり、本能寺の変後に秀吉が細川忠興に宛てた書状に明智領を加増する旨を伝えているが、
その際物資の輸送を滞りなくやってのけた細川家老の松井康之にも加増分の内三分の一を与えるようわざわざ申し送っている
史料で見る限りは秀吉に恩を売るために追撃しなかったんではなく、したくてもできなかったんだと思うよ
資料をみる限りっても資料はそれだけなんか。
小競り合いも起こってないんだろ
史料がそれだけとは?
来島通総の離反や物資欠乏により追撃できないは十分理由になってると思うけど
そもそも追撃の意思が毛利にあったのかどうか
毛利の真意がどこにあったのかは史料にはない話だし
あとは本能寺の変の二日後の6月4日に秀吉は輝元・元春・隆景の三人宛に血判起請文を出していて、これが事実上の和睦になってる
正式な和睦となると国境線の取り決めや毛利領内の城の明け渡しなんかの調整があるからもっと後にはなるけど
内容は起請文によくあるもので、今後も三人を見放すことはないとか、いささかも疎略に扱わないといった内容
変後の小早川隆景の書状によると、毛利が得ていた畿内の情報はガセが多かったことが分かる
織田信孝が大坂で○害されたとか、首謀者の一味に柴田勝家や筒井順慶、美濃三人衆が入ってたりする
これは毛利が追撃しなかった理由にはならないけど、情報戦でも毛利が秀吉に完敗してたことがよく分かる
じゃあ物資が十分にあれば毛利は追撃してたの?
それを示す資料はあんの
何か勘違いしてるみたいだけど、自分は毛利が追撃したかったとは思ってないよ
これに関しては史料的根拠はないけど>>277でも述べた通り、あくまで羽柴軍の撃退が目的で毛利に追撃する意思は元々なかったと思ってるし
秀吉に対して恩を売るために追撃をしなかったと言う話題に対して、
その当時の毛利家中での状況を考えれば、仮に毛利が追撃したかったとしてもそれが出来る状況にはなかったと言ってるだけだ
ないだろう
毛利にとっては防衛戦だし過剰な兵糧は無駄づかい
頑張って羽柴のケツつつくらいなら出来たかもだけど、恨み買うだけで効果は僅少と割に合わないことこの上ない
そもそも毛利にとっては防衛戦だったし
京都で異変があって秀吉軍が兵を退くというのであれば
追撃する必要もないだろうし
そこは史料によるものではないから推察になるけど自分もそう思う
毛利としては秀吉の攻撃を凌ぎ切れさえすればそれで十分だし追撃の意思は元からなかったと思う
川角太閤記みたいな後世に編纂された二次史料だと
元春が追撃しようとするのを隆景が必タヒに押し留めたみたいな話があるけどそれは創作だしね
一次資料読んでるあなたのコメントは説得力あるね
歴史小説読みかじった程度の自分は
追撃を主張する元春、先見の明からそれを止める隆景、後年その恩に厚遇で応える秀吉という
ありふれたイメージだけ
でもその小説的イメージの方が面白いんよね
実は追撃する余裕なんてありませんでしたって
わかって残念つうかw
考えようによっては義昭の仇を討ったといえるのでは
義昭って割と長生きしてなかったっけ?
勝家あたりが織田家中まとめて新当主たてたんじゃないかなぁ
流石に光秀単体じゃ織田家に勝てないでしょう
光秀に秀吉家康のように天下統一をする力量があったかどうか?
もしかしたら群雄割拠の時代が長く続いてイタリアみたいに統一国家ができるのが遅れたかもしれない。
与力もまとめられてないから無理ポ
何故大河でこの論証が無いのか不思議なぐらいである
6月13日、敗戦11日後に落ち延びる途中負傷し側近に介錯され自害し隠されたたとされる光秀の首は
早速農民から織田方に引き渡されるが
6月17日斎藤利三が捕縛され確かに光秀の首と請け合って利三は6月18日磔刑となり
6月23日光秀の首と利三の遺骸は晒し物となる
一方柴田勝家は6月10日には光秀討伐に軍を上げ6月18日には近江に到達するがこのとき既に光秀は討たれ利三もタヒ刑となっていたていた
つまり秀吉から見ると勝家軍が南下すり6月11日から6月17日の間には絶対に光秀の首を取らねば織田家の主導権争いで勝家に勝つことは難しかった
このギリギリのタイミングで
光秀が自害し、隠された首が見つかり、更に最側近の利三が生きて捕縛され、利三が光秀の首と請け合う
という4重の好運が起きたことになる
当然そんな僥倖はあり得ず
勝家南下に追い詰められる秀吉の心理を読んで利三が身を呈して光秀を逃したのである
利三と秀吉の間で阿吽の呼吸の密約が捕縛前にあったのも当然だろう
こうして公然の秘密だが、
最側近の利三が請合う以上勝家も反論できず、しかも利三は勝家到着直前に覚悟の上でタヒ刑となったから詰問もできない
要するに光秀の読みが秀吉と勝家を手玉に取り無事わが身を隠したのである
日光に残ってる桔梗の紋とかは?家康の庇護受けてたか相談役になってたってことはないかな?
し腐って 史上最低の愚か者だ
まあ、でもそういうひとやろ
実力ではなく、家柄マンセー=足利将軍派なんやないのー
その末裔もそういう傾向なんかもね
でも秀吉以上の速度で織田家中駆け上がっていった人物が実力が無いってことは無いと思うけどね
見方によっては天皇・公家を守った功労者となるんじゃね
家康も仇討ちの軍勢を整えていたという。
信孝や信雄という御輿もいるわけだし
秀吉を返り討ちにしたところで
厳しかったのではないか。
朝廷工作をしていたから
織田家臣団に対して朝敵、討伐令の綸旨を出してもらえば
北条や毛利や上杉や長曾我部や島津や伊達が
一斉に外側から襲い掛かって織田家臣団崩壊という
逆転劇を狙っていたんじゃないかな?
その猶予が秀吉の中国大返しでオジャンにされたんだと思っている
このような珍説を信じる人間はどこにも居ない
天下人になる秀吉から見ても絶対にあってはならぬ取り逃がしだから再度の詮議すらない
光秀の生存は間違いなく事実である
そもそもこの頃の武将は似たように落延びた者が多い
戦国の世では敗者がタヒんだと本人が認め別人になればそれでカタがついたのである
詳しい人教えて。
漢文調で書いてるだけだろ
幕末に土佐勤王党やら龍馬やらになって活躍
光秀が本能寺の変を起こしたのも
自分が外交交渉やった長曾我部を信長が攻めることを決めたので
光秀は四国全土を安堵した長曾我部に顔向けできなくなったからって説あるからな
それが真実だったら長曾我部は光秀に大きな借りがあるもんな
郷士の株買った時に捏造しただけ
あのまま交戦していたら
滅亡か不利な講和(従属)を飲まされていた。
名前を変えた臣下や女中?のような仲働きをしていた人たちの子孫が集まってた
地名も変えていたけど、少し前に戻した
城址はも二十年くらい前は酷いもんだった
卒塔婆がゴロゴロ転がってたし
城への道は倒木でふさがれていたりと
荒れ果ててたな
あれって松田政近の繋がりで参戦させられた
土豪の松田一族の末裔なんだろうな。
子孫は、地元の福知山に帰ったらしいけど
そのマイナス出発が最近見直されてきたイメージ
光秀が雑魚だったら織田家で一番の出世頭になんてならない
朝廷・将軍家との折衝を務める教養、謀略の才も民政の才もあり戦闘指揮官としても
優秀
そんな優秀な男が動機もわからず突如謀反を起こしてあっけなく敗れたからミステリーになってる
秀吉に嵌められて罪を擦り付けられた説もあるからな。
それ昔からの光秀のイメージそのまんまだぞ。
裏切り者とは言われたけど雑魚評価はされとらん
優秀よね、最後の詰めが甘かったのが不思議なほどに
>>119
では追加で…
new 敵は本能寺のアリ!説
>>124
秀吉も家康も変後すぐ窮地になってるからね(異論もあるが)
一番得をしたのは誰か?というミステリー的安直発想とも言える
そう考えると色々納得できる
秀吉も光秀も織田に愛想尽かしてたんじゃね?
織田は海外遠征とか無茶な野望も持ってたし
それがしっくりくるな
光秀は裏方とかな
> 秀吉と光秀はグルの可能性は無いのか?
ない
共謀にしては光秀が貧乏くじすぎる
さすがにそれは無理で
多分美濃の奥地で農民や商人として暮したのであろう
明智家は美濃の名家だし可児、土岐、恵那方面にゆかりがある
そのあたりの大名主や寺社に小作人としてかくまわれればまず見つからない
義龍の子の義興もこの隠れ方でゆかりのある富山の寺院の農民になっていた
この点、岐阜市に近い山県市に落延び説が有名だがちょっと市街地にちかすぎるような気がする
また比叡山説も有名だが、こちらは武家や公家の子息が修行にくるので非常に危険だと思われるね
相当な経緯あっても普通に他で雇われたりしてんだよ
秀吉の御伽衆とかね
滅亡した戦国武将の家名が全然違う地域の地名に残ったりする
家康の庇護を受けて余生を出身地で
暮らしたじゃねーかな?
信長公は生きておられると探し続けて
そこを秀吉にやられた
本能寺の変の中心人物は実は追い詰められてた
徳川家康が斎藤利三と明智秀満抱き込んでの逆転満塁ホームラン
危険な状態で逃げ帰ったなんてウソ八百で
帰ったときには余裕しゃくしゃくだったと伝わってるし
途中で穴山梅雪ぶっころして武田の遺産全部手に入れた
最近はこの説が有力だよな
信忠が耄碌してきた信長を排除したい(隠居という意味で○すつもりなし)ので協力したが斎藤利三がやっちまった
困った末に信忠も口封じでぶっ○し
どうだろ。それが事実なら信忠生きてたら安泰でしょ
逆に信忠○したら詰みだし
作家や研究家たちがそれはもういろんな説出してる
秀吉黒幕説、家康黒幕説、朝廷の扇動、義昭黒幕説、のっぶパワハラ怨恨説、野望説
四国説(重心利光の縁者が長宗我部元親に嫁いでる)
イエズス会説もあったっけ
信長想いの光秀が、本能寺のシロアリを駆除するため火を使ったら、誤って炎上しちゃった、って言う説も追加しといて
敵は本能寺のアリ!
秀吉とか家康黒幕説はないと思うんだよね
そんな陰謀のために自分の家臣を大勢○させるようなことしないだろ?
そうじゃなくて、最初は秀吉と戦うシナリオじゃなくて
秀吉に騙されたんだ。っていうのなら
光秀って、そこまでお人よしでバ○じゃないだろ?と思うし
朝廷、義昭、怨恨、野望、四国説のどれかだと思うな
本能寺の変の18日前の天正10年5月14日付で織田信孝が丹波国人に宛てた書状で
信孝は四国攻めのために丹波国人に対して動員命令を出すんだけど、
丹波は光秀の領国なのに、信孝が光秀の支配権を通り越して直接動員命令を下してる
このままだと自分も佐久間や林らと同じ運命を辿ると危機感を募らせて、あくまで場当たり的にやったと思うけどな
つまりその時点で丹波召し上げはほぼ確定だったと
光秀ほどの功臣に急に冷たくなったのはなんでなんだろ
つーか、この時期の信長は、前任者の譜代の佐久間といい家臣の追放モードに入ってるから。
信長の甘い所は、それでも謀反してくるとは思ってないんだなあ。
あれほど多くの人間に裏切られまくった人間なのに。
自信家ゆえかそういう人情の機微に疎かったのか妙に警戒心が無いんよね
信長自身もこの時期ちょっと精神的に参っててそこまで頭が回ってなかったりして
>>169
狡兎タヒして走狗煮らる、か
信長生きてたら秀吉もいつか用済みになってたかな
信長って、必要なときは大事にするが
もう天下も収まりかけてきたし
光秀の最大の功労は、義昭を信長に引き合わせて
将軍の名の元に大名に号令をかけて、いうことをきかなかった
朝倉義景のような大名を攻める大義名分を作れて、天下統一への道筋をつけてくれたことだったでしょ
でもその将軍も要らなくなって追放したのだから
信長にとって光秀はもう必要ない存在になっていたんだろう
それなのに京の近くに大きな領地をもっているのは目障りだから
飛ばしたかったんだろう
召し上げ確定とまでは言い切れないけど、少なくとも光秀は自分が粛清されるかもしれんと危機感は持ったと思う
ただ本能寺の変の約一ヶ月前の信長の細川藤孝宛の書状見ると、
信長の中国出馬は来秋の予定だったけど、秀吉から小早川隆景を破ったと注進があり、
更に秀吉の報告次第では出馬が早まるかもしれないと述べてるんだけど、この書状の使者は光秀が務めているとこみると、信長自身は光秀の事を微塵も疑ってなくて、普段通り重用してたことが分かる
甲州征伐直後とは言えまあ信長は危機感無さ過ぎだわ
戦乱の世は続き日本国内を
統一してもバテレンとの交流で知った
世界の国の制覇に乗り出してたんだよ
そんな無茶やられたら家来はたまったもの
じゃない
で有志が集まり信長を討つ計画を立てたw
でも島津も家紋を十字にするくらいのキリシタン大名だからそっちに乗り換えればよかったのにね
島津の家紋は十字架とは関係なくて、宣教師が来日した際に十字のマークを使ってる武将がいるのを知って(まさか自分達の前にキリスト教を伝えた者がいたのか!?)と思ってしまったそうな
秀吉に反対してのは茶坊主くらいしかいねえし
家来は、領土拡張のチャンスで大張り切りだったろ
斎藤さんの娘
中間管理職の板挟みは現実的だしな。
でもそれだけでもなく、他にも思うところはあったんだとは思う。
どの史料にもない信長の言動に対してとかね。
急速にキリシタンと仲悪くなったよな
あの人は血縁があるので筒井の日和見は創作だと主張しつづけた
朝廷にそんな気概も力もない
義昭は神輿として担ぐ気だったろうが事前に謀議するようなヘマはしないはず
野心も四国説も動機の一員としては大きかったと思う
四国説にも通じるが最大の動機は光秀自身が身の危険を感じたからだと思う
この先織田家に明智家の居場所はないと判断した
あいや!そこの御仁待たれよ
光秀は金柑頭と呼ばれてたらしいがハゲかどうかはわからぬのでござる
肖像画に残るは白面細おもてで涼やかな目元の男ぶり、頭は冠で隠れており申す
彼は脱出しようと思えば脱出できた。
つまり光秀に信忠に対しての策は
なかったと言っていい
天下簒奪が主目的だったり黒幕に秀吉や家康がいるのなら
信忠の抹○はセットでしょう。
坂本城で堀直政に包囲され自刃してるし
同じく最側近の利三も半ば自らタヒ刑になってるので、やはり武闘派の秀満は自害したのではないか
それに有名な文人で武人という秀満の派手さでは家康側近になればかなり目立ってしまう
この点、同じく最側近の溝尾茂朝(別名三沢)ならば、
明智陣営の事務仕切り方で、もともと家康の饗応役も務めている
また三沢氏出身だという三沢局は4代将軍の乳母に春日井局の推挙で抜擢されてる
状況証拠に過ぎないが溝尾茂朝ならば天海に一番相応しいような気がするね
なお溝尾は光秀の介錯をしたあとその場で自害とも坂本城で自害とも言われタヒ亡の経緯はよく分かっていない
この溝尾が別人になって徳川家康との連絡や美濃の奥地に落延びた光秀の世話をし、
光秀タヒ後は天海となって家康の参謀になったのではないだろうか
比叡山や京や岐阜市周辺での光秀生存伝説というのもこの人ではないかという気がするね
もっとも溝尾天海説というのは今のところあまり無い様である
古墳の上か何かでショボい戦だったらしいがw
戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い3日目だな。
津藩の藤堂が錦旗奉行の四条に説得されて、徳川軍から政府軍に寝返ったのが転機。
味方と思ってた津藩の陣地から突然砲弾が降り注いだから徳川軍は戦線崩壊をきたして大坂城に敗走したな。
厳密に言うと、山崎関門に陣を構えていた津藩兵は裏切っていない。
徳川方が勝手に山崎関門の津藩兵を味方だと思い込んでいただけのこと。
そもそも藤堂氏の津藩の首脳陣は、徳川慶喜と共に大坂城内に滞在中であって、
「裏切り」と言われる徳川軍への砲撃は、山崎関門の津藩兵の現地指揮官の判断。
津藩(藤堂)の「裏切り」ではなく、単なる現地指揮官の独自判断に過ぎない。
家風に染み込んでたのかもね
坂本龍馬暗○のキーマンであり、もし生き残ってたら解明された話も多かったはず。
でも丹波攻めでも秀吉軍に助けてもらっていたし
やっぱり黒田官兵衛がいる秀吉軍のほうが強いと思う
わざわざ○されたくて陣張ったのか
篭城しても後詰が来る見込みはないし、柴田とかもやってくる
野戦で勝てば、一発逆転できる
光秀が
家康もそうだけど戦下手にもほどがある
そうした話を詰めてる段階で光秀が先走ってしまったのかもしれない
黒田孝高の反応とかそんな感じがする
もうやっちゃったのは仕方ないのでこのチャンスを最大に活かしましょうと
黒田官兵衛黒幕説だな
内情をすべて知る黒田を統一後は九州の島津の警戒に当たらせたのも
自分が信長にならないようにしたんだろ
戦の知恵なんてあるの?
秀吉の戦略と戦術でしか勝ってないやん
信長に配慮してキリシタンを表には出さなかった
そのくらい信長のがキリシタンにはビジネスとしてしか付き合わない厳しい面がある
天皇が後ろ盾になってくれて
織田家臣団を朝敵として、全国の大名に
追討令の綸旨をだしてもらえると思っていたんだろうな
でも正親町天皇は大河の中のセリフ「ただ見守るだけぞ」
だったんだろうなw
どちらにせよ、信長の最後の判断が光秀の計画のすべてをぶち壊したと言っても過言ではないよな。
信長の首を京にでも晒せればすべてが光秀に靡いていただろう。
ところが、信長が本能寺に火を放ったおかげで、信長の生タヒの確認が不確かなものになってしまったわけだ。
当時を生きた人間にとって信長が生きている可能性が1%でもあるって事は、相当判断を迷わせる材料になるからなwwwww
事実、秀吉が畿内の武将たちに送った書状には「信長様は生きている」とハッタリが書かれていたわけだ。
タヒの間際にもそういうことをやってのける織田信長という人物の凄さを思い知らされるね。
魔王信長像を信じてる人は未だに多いから
信長は朝廷を滅ぼそうとしたぁーとか思ってる人もいるけど
実際は織田家は朝廷に援助してるし
朝廷も助かってる面が多々ある。有力なスポンサー織田家
天皇交代させてようとしたじゃんとか言う人いるけど
それこそ平成天皇と似た様な状況だった
天皇が邪魔になれば追放くらいはしたよ
天下統一目前ではあるけど、まだ天下統一中ではあるんだよ
不本意ではあるけど足利幕府滅ぼしたから
権威として天皇家に寄り添ってる
邪魔に成ればとか現状だと妄想以外の何物でもない
魔王信長像って最近の研究だと否定されてるんだ
どちらかといえば保守側
当初は足利幕府も残そうとしてたし
朝廷にいたっては昔から勤皇の家柄
元々は中国攻略の尖兵として使おうと信長に擦り寄ったけど信長はそれを利用して火薬やら軍備増強して天下統一が見えたら切り捨てようとしてたらしいね。
イエズス会の言うこと聞かなくなって宣教師も苛立ってたようだし。
>>238
既存体制に乗っかって実権は自分にって考えだね。
ブランドを潰しても利がない。
親父が熱心に朝廷へ支援してたのに、いくら信長でも親父に弓引くような事はしないよな。
朝廷を活用すれば西国だけでも織田旧臣vs毛利長宗我部プラス明智系で互角以上だからジワジワ抑えていき、家康と合意して組めれば、秀吉系と勝家系の足並みは乱れるし毛利上杉の牽制で秀吉勝家も苦しい。ゆっくりした展開なら明智の智謀と渉外戦術で優勢になりそう。
この点まだ北条攻めに使役されるであろう家康は首の皮一枚繋がっていたが
策士の家康ゆえ信長の本音に戦慄していたのは言うまでもない
旧武田軍を穴山に使わせれば常に家康の背後を突く形になるし、そもそも家康も不要と見て毒○も冷酷な信長ならば十分有り得る
という訳で走狗煮られる立場となった光秀家康が手を組み、義昭も当然加担と思われる
広いスパイ網を持つ秀吉は当然知ってたが自分にも有利だし言い出せば猜疑心の強い信長に自分も疑われるから自○行為でしかない
もっとも信長誅○後の天下経営にはたしかにビジョンが無く追い詰められやむを得ずと言える
またイエズス会も当然知ってたと思われるが有頂天となった信長がフィリピン征伐とか言い出しかねないので
タヒんで欲しいと思うのも当然だろう
このような次第で裸の王様で信長誅○は秒読みになっていた
誤算は秀吉が優秀すぎて天下を攫ったことであるが、家康も生き残れたので痛み分けという感じである
割を食った明智には斎藤利三と溝尾茂朝の子女を厚遇し特に春日局の子を将軍とし恩返ししている
警戒心なかったとしてもドラマや小説みたいにほんとに僅かな供回りだけで宿営?
あと当時光秀謀反の噂が家臣や町民にのぼったりは?
余りに信長も無警戒だなぁ
無警戒つっても光秀が信長の家臣だからな。
何かあったら光秀の軍を呼べばいいぐらいに思ってたんじゃね
この時期に秀吉や光秀の方面軍を通さない信長の直轄軍てあったのか
キレキレだよねwww
もう普通の人間の一生分の頭脳の回転数をあの中国大返しの間に使っただろうねw
信長が毛利攻めの最前線まで来る道中に粗相がないよう、補給ルートに食料の備蓄をたんまり用意していたわけだ。
それが中国大返しという大撤退戦の際に最高に役立ったんだからな。
まあ、その運も秀吉の素早い判断があったからこそ有効に活用されたわけだが。
逆に言えば、光秀はそこまで計算ができなかった人物だということだよね。
光秀は運を感じたんじゃないかな?
僅かな兵を引き連れて信長父子の京都滞在
有力武将は軒並み遠方。信考+丹羽くらい
自分が軍勢動かしても不自然ではない
そもそもイエズス会は貿易にきてるのでは無くスペインポルトガル聯合王国の先兵
もっと言えばマニラのスペイン艦隊のいち貿易部門であるという基本を忘れている
つまり日本に欧州カトリックを上廻るような強大な無神論の軍事独裁者が居ては大変困るのである
もっとも当時のイエズス会及びスペインの力ではせいぜい九州の半分を制圧する程度で
信長○しまで画策するような能力は無いが
はっきり言えばタヒんでほしいという勢力であるのは間違い無さそうだね
イエズス会説
あの時点でまだ信長はキリシタン最大の理解者
でも生き延びてたら秀吉家康同様どこかで方向転換はかったかもしれない
日本人奴隷貿易・武力による圧力と布教メリット天秤にかけて
だって激戦地が天王山トンネルになってしまってるしなぁ
天王山トンネル作る時には骨や錆びてぼろぼろになった刀とか色々出まくったよ
錆びてるから刀でも触ったらぼろぼろ崩れるレベル
恨みも買わない
賤ヶ岳の時も早かった
勝家は、秀吉が電光石火の速さで戻って来ると予想してたけど、間に合わないくらい早かった
美濃大返しは頭おかしいレベルの行軍速度だよな。
午後2時に出発して13里52kmを5時間で走破、そのまま飯食って佐久間盛政を夜襲し、余勢を駆って柴田勝家の本陣まで迫り撃破。
決戦に勝利してしまった訳だし。
ここでは光秀に非道な暴虐を加える暗君の愚人として信長を描くのが定番である
家康公の同盟者をぶち○したはずの犯罪者光秀を悲劇のヒーローとするのは常識的に通常あり得ない
ちなみに怨恨説はすべて江戸時代の創作で、根拠が無いのに盛んに流布された
ここにも信長○しを正当行為としたい幕府の本音が見えるのである
>>210
怨恨説というか折檻・パワハラ描写自体が講談の類いなんだっけ?
波多野の人質に出した母親が処刑とかもそうじゃない?作られたイメージ
そもそも信長と光秀、性格主義主張でめちゃくちゃ対立してたんだろうか
実は信長は朝廷を大事にしてた説もどこかで見たんだけど
これはまったく不人気だし根拠となる事実自体もゼロだった
天下の太閤が言っても全く説得力が無いのだから同時代人は別の原因と思っていたのは間違いない
よく現代でも野望説の人が居るが
そもそも野望ならば勝頼滅亡で反信長勢力が総崩れでタヒんでる時にやる馬鹿は居ないのである
光秀は有名な連歌で苦悩を詠んだとも天下取りを言ったとも言われるが
そもそも当時の連歌は連歌師や豪商が書写して世間に即座に公表していたので
ここで叛心を書く馬鹿は居ないしもし書けばすぐ信長に知れる
ゆえに謀叛とは連歌は直接の関係は考えられない
以上から当時でも全くのナゾとされていた
しかし一般人が知らない重臣追放又は重臣○害を信長が計画して居たらどうだろうか
それならば切羽詰まって主君を討つのは全く不自然ではない
娘婿にもかかわらず、一色義定を謀○
信長軍団の中核中の中核。
信長の謀略部分を担当していたが、
家康暗○の謀略の最中に、
高野山で病タヒしてしまったので、
その役割が光秀に回って来たものの、
しくじって信長暗○へシフトした。
東照宮に桔梗の紋の瓦があると聞いたが
見ざる言わざる聞かざるだな
その後のモタモタっぷりを見てると
光秀含め誰が企んだかはともかく計画的というより
条件があまりに揃っちゃって衝動的に兵を挙げたんだと思うがな
まあ言われてるほど優秀な軍団長じゃないなら色々計画してたがうまく行かなかっただけかもしれんが
光秀の与力になっていた細川や筒井が自分についてくれると思っていたのに
ついてくれないから、そこでモタモタになってしまったんだろう
それもこれも信長が本当にタヒんだのか細川も筒井も確信が持てずに
光秀につけなかった
もしも大和が筒井じゃなくて、松永久秀が健在だったら
コロッと光秀の味方についていたんじゃないかな
明智光秀てのは信長を○して京都を手に入れたんでしょ?新選組は京都で光秀と戦ったの?徳川家康と新選組が戦ったのは知ってるけど。
江戸は負け組
長州が作った陸軍から天皇を守ったのは徳川
実際は長宗我部関係でメンツ潰されたところで絶好のチャンスが来たから発作的な犯行~というところだろ
メンツはさておき、信長ぶっ○せるし畿内に敵は居ない絶好のチャンス
を逃さずモノにしたってだけの話だからなあ。その後も、畿内で防備を
固めておいて、絶対に共闘しないだろう秀吉や勝家を各個撃破出来れば
その他は家康も含めて雑魚ばかりだから何とかなる算段だったろう。
秀吉の常識はずれの進撃が無ければ案外うまくいってたかもね。
船使ってないと思うぞ。
元々秀吉軍の行軍速度は常識外れに早い。
その後の賤ヶ岳や小牧長久手の戦いでも早さは相手にも警戒されていたが、
予想を上回る速度と規模で移動し戦局を数で圧倒している。
どちらも船は使えない所だ。
行軍の際には先触れを出し飯を用意させていたという話で、優秀な参謀部隊があって予め準備していたのだろう。
その話孔明が辻でやってたな
秀吉の軍が通るから食事から馬やら武具やら全てを差出しなさいとか山田一豊の奥さんの千代が言ってたな
こういう気遣いが後々の開運になるとかで
この作品は大好きで今でも忘れもしない
おわんの蓋を「開けち見ち閉で」
本当に信長がタヒんだのか、光秀がやったのか真偽を確かめないといけないわけだし。
その前に秀吉が来て成敗されたと
秀吉の情報網半端ないわ
動けなかったのは、背後の一色が光秀側についたから
翌日には剃髪して喪に服してるから情報自体はあったと
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1623506114/
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