明治維新の佐賀の乱、細川家嫡男の身柄を巡る政府軍と旧熊本藩士の間の騒動を新史料で確認
熊本藩筆頭家老だった松井家の日記に記述があるのを、熊本大永青文庫研究センターの今村直樹准教授が発見した。
廃藩置県後に上京した旧藩主・細川護久(もりひさ)の長男で、熊本に残っていた護成(もりしげ)(幼名・建千代(たつちよ)、当時5歳)を鎮台本営のある熊本城に移すよう、鎮台から細川家の熊本本邸に要請があったが、細川家は断り、護成を守ろうと邸宅の周りに約1千人の旧藩士が集まっているという内容。同様の記録は旧藩士のリーダー格で、その後の西南戦争で西郷隆盛軍に参加した池辺吉十郎の日記でも見つかった。
…続きはソースで。
https://www.asahi.com/articles/ASP4Z6254P4ZTIPE00P.html
2021年4月30日 18時48分
スゲえな
明治のはじめは
殿さまがガチで重要人物だった時代
旧大名家を華族にして全員東京に
監禁しなきゃいかんかったはずだわ
西南戦争も島津久光が西郷と仲悪くなかったら危ないところだった
当時の島津久光は、心情的には西郷派だったはずだがな。
あそこで久光が西郷と一緒に挙兵してたら、
西南戦争はまた違った展開だった。(´・ω・`)
この時の久光と西郷の方向性は合っていたが、共に立たなかったのはやはり仲が決定的に悪かったからだろう
戦国時代からの伝統と変わってないのね
こうして始めた中央集権体制と東京一極集中体制をいつまで続けるのかね
もうとっくに限界を迎えてると思うけど
元藩主のお世継ぎのために1000人もの元藩士が集まるってすごいな。
中身は半グレと同じで「下のモンに声掛けろや」って何人かが触れ回れば下っ端はそれに従うしかない
そりゃ殿様から離れたら自分等は何らかの技能があるわけでもなし
時代にもついていけずあっという間に干上がってしまうからね
こういうの食わせていくために殿様の家はあっという間に借金まみれで
没落しようにもできなくてその支払われる宛のない負債で
今の政府で起きてるみたいに額面上は銭があるものの自由に使える動かせる金が無くて大不況
戦争の連続に日本はなった 結局大東亜の敗戦でようやく清算されたけどね
熊本藩は54万石の国持大名だから家臣も多い
幕末四大人斬りは人斬りなぞといわれるだけあって
幕末から維新にかけいて、たくさんの政敵、人士を斬奸したもんだろうが
その最期は人斬りという○人者にふさわしく悲惨なものでしたな。
その中でも河上彦斎の最期ってのはあれはよくわからなくて
まあ明治維新政府内部の粛清なんだろうな。
その意味では思想に殉じたといってもいいかもしれない。
なんせ明治維新の当局者だって好くなからずは尊攘激派であって
人斬りの数は比較的少ないとはいえ、やることはやってる人士多いからね。
幕府から見りゃテロリストみたいな陰謀から実行からやってるのおったからね。
まあそんなこといえば倒幕そのものが大逆謀叛の極みではあろうがさ。
あと、上記とは関係ないが>>1には池辺吉十郎の名前が出ているね。
この人は確か、夏目漱石先生をひきあげた明治のジャーナリスト
池辺三山の親父さんじゃなかったかな?
たしか西南戦役で戦タヒしてたと思うが、どうか。
河上彦斎は時代に利用され、時代に乗り遅れ、時代に切り捨てられた。
人斬りだけど、哀れな奴だよ…(~_~;)
それで思い出したヨタ話だがw まあ歴史上の人物のことだし、
あまり病跡学のようなことは言いたくないが思うところはあってさ。
あの他者他人を斬ることに対する頓着のなさ、
(ウィキペ先生にある勝海舟との人を唐茄子に例えて
邪魔者を斬ることに頓着抵抗のない精神を述懐した問答は典型だ)
時流が変わっても当初の思想である尊王攘夷への頑なさ、
あとは、そう、やたらストイックなところとか、そういうの考えると、
今風に言えばなんだアスペっていうんですか、っぽういところは感じるんだよな。
まあ昔の人間を今の感覚で論ずるのもアレなんだけど
当時においても怖れられると同時に味方からも嫌がられる、
それが維新回天のある意味立役者、剣で身を立てた志士でありながら
勝者の側であるにもかかわらず、ああいう最後につながったんだろうが、
そういうところを感じるところも、あるね。
この時代、熊本はホットスポットだった
神風連の乱
熊本バンド事件
三島由紀夫『奔馬』で読んだわ
池田屋事件で犠牲になった宮部鼎蔵とか、
『るろうに剣心』のモデルにもなった「人斬り」河上彦斎とか、
なにげに、熊本の人もなにげに幕末史に顔をのぞかせるんだけどね…
普通は避難させないか?
黒田を嫌ってるのが細川で、細川を嫌ってるのが黒田
あの二人って似た者同士なのになw
なぜ関係悪化したのだろう
だって黒田さんがお米引越し先に持ってっちゃったから・・・
そっか、黒田も細川も一時期、中津の領主だったな。
黒田の後に入ったのが細川か。
そう。通常転封の際にはその年の収穫は置いていくところ、黒田が福岡に持っていったので後に入った細川が怒った
さすがは、城井一族をだまし討ちで皆○しにした黒田。
やることが汚い。(´・ω・`)
男子がいなかったので、弟が細川侯爵家を継承した。(´・ω・`)
細川は熊本入国の時、加藤家をディスらないように
細心の注意を払ったので、細川のイメージも悪くない
この辺はさすが細川家はスマートだと思う
土佐なんて山内一豊が弾圧やったせいでいまだに長曽我部だろ
とはいえ 加藤家の墓は米沢にあるんだけど
でも加藤神社が熊本場城内にあるんだな
清正公以外のお殿様の名前を答えられる熊本県民は30%いないんじゃないかなってくらい絶対的存在
ちなみに地元では清正公はせいしょこさんと呼ばれる
政府側は到底勝ちようがなかったと言ってる人がいたな
シュガーロードが出来た時、長崎の商人はカステラの原型を開発した
最も長崎でえげつない稼ぎ方をしてたのは主に博多から出張してきた商人だが
一方、佐賀も隣県と言う事で大量の
砂糖を手に入れる事が可能になったが
どうしてよいか分からず、取り敢えず
大量に羊羮を製造しまくった
羊羮って、可愛いね佐賀
羊羹は日持ちするしお茶にも合うんだよ
まあ60~70年後、そういうのに引っ張られて亡国寸前になるんだけど
昭和の軍人で、旧熊本藩士に誰か有名な人はいたかな?
佐賀藩出身の軍人には、名高いあの陸軍中将がいるが…
昭和じゃなくて日露戦争の頃だけど、松永正敏は熊本藩士の出身かな
大活躍と言っていいと思う
「日本はアメリカに勝てない」という研究を、東條英機に報告したのが原因で
南方戦線送りにされたものの寺内寿一に救われた、松前重義も広義の昭和の軍人w
管領細川家とは
ほとんど関係ないぐらい血縁遠い
幽斎は将軍ご落胤節あるけど
細川隆元、隆一郎は細川忠興とガラシャの長男忠隆の系統で
細川忠興とガラシャの息子は忠隆、興秋、忠利の三人で
家督は三男忠利が相続したけど途絶えたので細川忠興の四男立孝の
子孫が継いだんだな
要請したけど断られた、
その後江藤は武士としては異例の晒し首、
西郷は政府の戦って田原坂でタヒ亡。
コイツは坂本龍馬のパシリ程度の書生だったが、坂本がタヒんだあと
なぜか薩長に取り入って出世した、北越戦争では長岡藩家老の河井の
上申書を蹴ったりと尊大な人物。 佐賀の乱も不穏な空気はあったが
乱とまではいかなかった、岩村が尊大な態度でふるまうから佐賀士族は
爆発した。
岩村高俊の佐賀県令への任命は、
佐賀士族に反乱を起こさせるための大久保の謀略だと、
木戸孝允は言ってたそうな。(´・ω・`)
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1619850122/
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