治水事業で江戸時代の大坂の水害防止に貢献した豪商、河村瑞賢 現代人も新井白石も評価
■度重なる水害に治水を
江戸時代の延宝年間、畿内はたびたび、激しい水害に襲われた。特に2(1674)年の水害は激しかった。大阪平野の北側を流れる淀川が増水し、下流にかかる橋が次々と流されて、左岸の堤防は決壊、現在の枚方市から大阪市までがすべて水没した。被害は甚大だった。
度重なる水害に対し、新たな治水方針を決めるため、幕府(将軍・徳川綱吉)は天和3(1683)年、若年寄の稲葉正休(まさやす)らを畿内に派遣し、淀川や大和川、その流域河川の調査を行わせている。これに同行したのが、幕府や各大名からの注文を受けて、多くの土木建築事業を手掛けていた瑞賢だった。
瑞賢と親交が深かった儒学者で政治家の新井白石(1657~1725年)はそうした経緯や治水事業を「畿内治河(ちか)記」で詳細につづっている。それによると、実際の調査は瑞賢が中心で、範囲は今の大阪、京都、兵庫、奈良、滋賀の各府県に及び、主要河川を舟で調べている。
「琵琶湖に端を発する淀川は上流から流出する土砂が滞留して、川底が高くなって氾濫する。淀川が海に注ぐところに、九条島があり、河水が島に当たって水勢を弱めることが、上流の土砂堆積の原因になっている」
淀川の河口に蓋をするようにあった三角州の九条島に目をつけた瑞賢は「九条島に水路を開いて、強いままの水勢で淀川が海に流れ込むようにしなければならない」と考えて、治水構想を示した。そして、幕府からの正式な依頼を受け、工事に着手した。
…続きはソースで。
https://www.sankei.com/west/news/210222/wst2102220003-n1.html
2021年2月22日 10時30分
うん
あれなかったら2019年に埼玉および東京東部はウ○コ杉になるとこ
荒川水門が開くの見てたけど、ほぼ被害ゼロだったしな
さいたま市も部落の桜区と南区だけ水没ですんだよ
実際、その20年後に大和川の付け替えが行われて、淀川と合流せず、
大阪湾に流れ込むようにしていますが、かえって、上流の水害が増える結果に
なった。瑞賢の判断はすばらしかったというのが今の位置付けです」
でも大和川付け替えのおかげで河内平野の洪水は減ったじゃないの。
大雨で淀川からの水が大和側に逆流して洪水が起きてたんだから、
河内平野の人達からすれば、この見解は腹立たしく感じるんじゃない?
地元民ですが瑞賢wです
結局水害は西洋の土木技術を導入するまでは続いたと聞いた
俺もヨハネス・デレーケが三川分流をやってやっと治まったとか
聞いたことがある。
木曽三川の治水工事?
日本の井戸時代の最大の治水工事ってやはりこれかな
新淀川もデレーケなんだよね
今だったらあの川幅で真っ直ぐな川なんて作れないよね
薩摩義士の伝説は、後世にかなり盛られたと言われている。
平田靱負らが工事の責任を負って自刃したというのも間違いだとか。
わーくにの近代の治水であるダムは100年も持たずに決壊したのであった
ダムいる?
李氏朝鮮並びに朝鮮通信使に
「将軍のこと日本大君とか呼んでんじゃねーぞカス
日本国王としろ(天皇は皇帝だからな)」
と初めて要求した人物
日本最初の嫌韓厨
元は清和源氏なんで、朝散大夫新井源公と墓碑にある
朝鮮退散させたって意味な
旗本はみんな朝鮮退散役かw
こっちの方がすごいと思う
経済的に日本を一つにしたわけだ
大阪とは違うの?
その残土で出来たのが淡路島
簡単に言うと三重県の超貧しい農家に生まれ
13歳で身一つで江戸に出て
人夫から始めて40歳までに材木商で成功し
その後航路開発と河川治水で抜群の才覚を表し
日本一周航路の開発
大阪と江戸の河川治水で幕府を指揮し
多大な功績を上げた
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1613966332/
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