【京都】「応仁の乱」から京都が復興を遂げた意外な理由、ザビエルも驚いた!「堺の街」の圧倒的経済力
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戦国時代誕生のきっかけとなった「応仁の乱」(1467?77)。日本史上屈指の大乱のダメージから、京都はなぜ大復興を遂げることができたのか??歴史研究家の河合敦氏による新書『繰り返す日本史』より一部抜粋・再構成してお届けする。
◆「京都大復興の立役者」は誰か?
被支配階層が団結によって惣村や寺内町をつくって生活の安全を図り、逃散や土一揆、一向一揆によって己の要求を貫徹した現実を紹介してきた。じつは、商売やもの作りで生活している人々も、室町から戦国時代にかけて同じような状況をつくっていた。
例えば京都である。応仁の乱で京都の中心部は戦場になり、大きな被害を受けた。それを復興させたのは、町衆と呼ばれる豊かな商工業者たちだった。市中には彼らが運営する「町」という自治組織が続々と誕生していった。地方の荘園における惣村と同じように、町衆は町掟(規則)をもうけて自検断(独自の裁判)を行い、町の出入り口には木戸をつくって防御機能を高めた。
町は、さらにいくつか集まって町組となり、町組は町衆から選ばれた代表である月行事によって運営・統括されるという自治体制が京都に誕生した。1500年には、約30年ぶりに祇園会を開催、三十六基の山鉾(やまぼこ)が巡行して京都の再生を世間にアピールした。
ちなみに町衆の多くは日蓮(法華)宗の信者で、互いに信仰で深くつながっており、そうした彼らの団結を法華一揆と呼んだ。
天文元年(1532年)には、一向宗(浄土真宗本願寺派)の拠点だった山科本願寺を焼き打ちし、京都から一向門徒たちを追い出している。
しかし天文5年、比叡山延暦寺の僧兵たちが戦国大名六角氏と結んで京都へ乱入、日蓮宗の寺院をことごとく焼き払い、法華一揆(町衆たち)を京都から追放してしまったのである。この天文法華の乱により、せっかく復興した京都の町は、応仁の乱のとき以上の広い範囲で延焼してしまった。
ただ、この事件から数年後、町衆(日蓮宗門徒)らは京都に舞い戻り、ふたたび町の自治を始めた。だが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を再興したことで、町衆たちの高度な自治は終わりを告げたのである。
高度な自治を行っていた都市としては、和泉国堺が有名である。この町は36人の会合衆(豪商)の合議制によって運営されていた。
堺は古代からの要地で、良港に加え熊野街道が走り、京都にほど近いので中世に飛躍的な発展をとげた。室町時代には、幕府の実力者細川氏と結んだ堺の商人は、日明貿易で大いに稼ぎ、その後は琉球や東南アジアへも積極的に貿易船を出した。
フランシスコ・ザビエルなどは、「堺は日本の最も富める港で、国内の金銀の大部分が集まるところだから、ここに商館(貿易センター)をつくるならポルトガルに大いなる利益をもたらすだろう」と本国に書き送っている。
また、莫大な持参金を携えた堺の豪商の娘が京都の公家さんに嫁ぎ、逆に貧乏公家の子弟が多数、堺の豪商の養子となったという伝承もある。
このように室町時代から戦国時代の堺には、有り余る財力を有する豪商たちがゴロゴロ存在したのだ。彼らは、得た富を来世のために寺院に寄付をしたり、寺社を建てたりした。また、「大坂は食い倒れ、堺は建て倒れ」という語が残るように、屋敷に金をかけて贅をこらした造りにした。
◆堺の街を屈服させた織田信長の凄さ
しかし、一番多く資本を投下したのは、町の防衛に関してであった。ある外国人宣教師は、「堺の街は東洋のベニス(ヴェネチア)のように濠や塀で守られた自治都市である」と述べているが、豪商たちはその財力で町の周囲に深い堀をうがち、傭兵を雇って町の治安を確保したのである。
例えば、堺の豪商である日比屋了慶(ひびや・りょうけい)は、300人の部下に海賊船を撃退させたといわれており、おそらく豪商たちは町全体で数千人の武力を抱えていたと思われる。これは強大な戦国大名に匹敵する数だ。同時に、近隣の戦国大名に金銭を提供し、用心棒のような役割をさせていたらしい。
そんな自由都市「堺」を破壊したのも織田信長だった。上洛して室町幕府を復活させた信長は、堺に対して二万貫の矢銭(軍資金)の提供を求め、要求に従わなければ軍勢を派遣する構えを見せた。
堺の豪商にとっては、これくらいの金額は大金とは言えなかったし、信長の要求に応じることは、これまでの自治政治を放棄し、信長の軍門にくだることを意味した。しかし最終的にかなわないと判断し、堺は信長の直轄領となったのである。
全然情報足りてないな
朝廷が儀式できなくなって四天王寺に助け求めた件が無い
いろいろひけらかしたいだけで
論旨が一貫しない駄文
武器の町だもん
鍛冶屋とかフル回転しただろうし
現代でも武器商売は儲けている
https://img.king.mineo.jp/system/content_comment_images/images/000/000/111/322/fullsize_image.jpg
50~55才のシニアオッサンの仕業だな
つながLANに繋がってる・・・
そして室町幕府
室町幕府は出だしからグダグダだからな
まともな統一政権は秀吉からだよ
新しい発見とかあったらまた色々書き換わるのかな
凡河内が摂津と河内に分かれて、
さらに河内から和泉が分かれた。
堺は摂津、河内、和泉の国境になってた。
堺市に三国ヶ丘という地名があるが、三国の国境で名が付いた
公立の三国ヶ丘高校が、桑田清原PLの時代前後に甲子園出場した
この時の秋の近畿大会では、PLと近大付が普通なら選ばれる成績だったが
高野連の公立贔屓により、近大付を落とし三国ヶ丘を出場させた
摂津と和泉2国の国境だと堺の大小路だった
府立はヶが付かない。
三国丘、春日丘、登美丘
話じゃないか。
多い時は両軍30万ぐらいが集結したと言われてるが
本当にそんなに集まったのかな?
最初はそれなりに大きな戦があったみたいだが、途中からは小競り合いばかり
それでも家屋を焼いたりはしたのだろう
30万と言っても郎党まで含めた数で実際に戦う武士の数はその数分の一だろうな。
ガラクタ茶器をア○みたいな高値で流通させて武士に競って買わせて貧富の差を拡大させるわ。
誰彼構わず武器売りまくるわ。とんでもない奴だったんだぞ。
そのガラクタ茶器の値を意図的に吊り上げてたのが信長とか秀吉だっけ?
体制側の視点では有能だな
鎌倉時代に恩賞不足で没落してるのを学んでガラクタを謁見のパスポートにしたのは凄いぞ
自分が助かるために女子供を見○しにした荒木村重を重用したよな、利休
関東は応仁の乱より前からひっちゃかめっちゃかなんだよね
とんでもないという理由で実現しなかった。
結局、京から遠く離れた肥前国の平戸を拠点とせざるを得なかった。
これは比叡山延暦寺による法華宗への弾圧であった。
当時,荘園からの年貢で何とか経営されていた延暦寺などの旧仏教系大寺院に対し,
新興の法華宗は後藤,本阿弥,茶屋,野本などの有力町衆を中心とする檀家によって運営されていた。
京の町は法華題目で溢れ,特に富裕な西陣の新在家の人々はほとんどが法華宗に帰依しており,
これが天台をはじめとする旧仏教系宗派の脅威となったのである。
延暦寺の弾圧に対して法華宗徒らは町に堀や柵を設けて攻撃に備え,ついに宗教戦争へと発展。
多くの法華宗徒が戦タヒし,上京もその3分の1が焼失した。
しかし乱後の復興は意外に早く,
ちょっと違うよ?w
まず、京都で足利高氏が挙兵してまず六波羅探題を攻める
確かに一向宗の殲滅は印象に残るけど、鎌倉室町の方が軍の機動スケールが大きい気がする。秀吉の中国大返しが霞むぐらい。尊氏なんて九州近畿関東行ったり来たり。
https://www.asahi.com/articles/ASP2872HYP22PPTB00G.html
大坂夏の陣で焼き討ちされてから未だ復興してないと地元の人間が言うくらいだから仕方ない
影でザビエルと呼ばれてる
あの髪型は後世のものでザビエルはあんな髪ではなかったらしい
畿内・五畿(大和、山城、摂津、河内、和泉)のうち
大和(今の奈良県)、河内、和泉が堺県だった
堺県は明治の始め、10年以上続いたみたいだが
大阪側に県庁などの施設が集まり、間に生駒山がある奈良側の人が不便だったので
奈良人の反対があって、大和がそのまま奈良県に落ち着いたと聞いた事がある
生駒山はそんな大して高い山ではないが、大阪と奈良は結構隔離されてしまってる
淀川と大和川付近だけ山がなく、トンネルを貫通させた近鉄奈良線以外の鉄道は
奈良や京都へ行くには2つの川に集中している
国道308は旧奈良街道がベースで、大阪から奈良まで山を最短距離で結んでおり
急激な角度の坂が多く、一部の国道愛好家には酷道と呼ばれてる
今の鉄砲町イオンのあるとこか
明治4年に国境を大和川に変えたので
堺で摂津国住吉郡だったところは和泉国になった
第二次世界大戦の時に京都も5回空襲されてるよ。
京都が他の都市のような大空襲を受けてなかったのは
原爆投下第一目標地(AA)になってて
京都は盆地で原爆実験に適してたので破壊されずにいたが
ヘンリー・スティムソンが京都を破壊したら戦後の占領政策が
上手くいかず、日本はソ連につく恐れがあると反対してたので
原爆投下目標地から一旦、京都は外されて代わりに長崎が追加されて
原爆投下目標地は広島、小倉、新潟、長崎の4都市になった。
当初は京都の梅小路いうところに原爆を投下する予定だった。
マンハッタン計画責任者レズリー・グローヴスは
京都に原爆投下することを諦めてなかった。
本土決戦してたら次は京都だったかな?
原爆だけでなく生物兵器も使用する予定で
攻め込んで来る兵数も、凄い数だったはず
ドイツは首都ベルリン陥落まで戦い、国土は酷い惨状となった
日本はそれ以上となっただろう
途中で米ソの対立が生じ、片方と休戦し無条件降伏はしなくてもよくなり
負けずに済んだかもしれんが
大戦末期の1945年3月、断末魔に喘ぐナチスドイツの無防備非軍事都市で
イギリスサクソン民族の故地古都ドレスデンに、市民大量抹○を目的として
2波に分けて徹底的に多数の重爆撃機と戦闘機で空襲をかけた
米英のことだから、8月15日の降伏がなければ京都や奈良も
大空襲を免れなかった事態も想定できる。
ホント
京都はWW2の戦火を免れた
大戦と限定されれば応仁になるな。第二次では京都人にとっては大したことなかったからな
全国の大名に支援金せびって回ってたくらいなんでしょ?
堺にはそんな気概なんかなく傭兵雇ってただけで商人自身が戦地に赴くなんてやっとらんかったろ
東洋のヴェネチアなんて嘘っぱちもいいとこ
実物を見て感想を述べた当時の人を否定するのか
お前はいったい何者なんだ…
八尾とかにすら届かない
しかもベッドタウンにすぎない
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~syamada/map_syamada/shosen/C110518ComColMap_Osaka.jpg
堺の商人は17世紀後半新田開発に乗り出しそのまま庄屋や百姓になった人々もいた
畿内で色々人々の繋がりがあったようだな
商いの安全、命と財産を守る為にも商いと武装はセットだった
平清盛や初期の源氏も実体は武装商人やし古代から世界中でそのスタイル
堺に縁がある総理大臣
ガチで防衛はするが争いは好まない風土
戦後の日本とそっくり
商いには平和は大切
堺市って輩だらけのイメージ。岸和田と同じぐらいに。
禅宗は武士に人気で町衆には不人気
真言宗や天台宗も修行が大変
真宗はバ○でも犯罪者でも南無阿弥陀仏と唱えれば救われるって宣伝したから
煩悩まみれの百姓から支持をとりつけた
法華は日蓮が蒙古襲来を予言したから、現代でいえば都市部の半端な知識のある人間の支持をとりつけた
現代的に言えばどっちもカルトだけど
王仁さんの子孫と言われている行基、家原寺は今も知恵の文殊さんとして受験生に大人気
堺には当時の仏教施設で民や豪族が瓦を持ち寄り作った土塔も残っている
瓦には当時の民衆や豪族の文字が残されており貴重な史料になっている
堺市は古代から様々な人々を受け入れてきた先進的で寛容な地域
世界遺産の古墳もあるしコロナが落ち着いたら堺や和泉の観光も面白いと思うよ
その中途半端な古さが外国人にも受けるゆえんやろな
奈良とか歴史の知識がないと楽しめん
ヨーロッパなら数年も経たずに他国に侵略されとる
歴史の黄昏の中に消えていき
今は存在しない。
内裏も東寄りになって
崩れたと言うか教科書に載ってる図のような平安京は
想像上の理想的な平安京であって一度も実現したことが無いのよ
西側は最初からずっと過疎ってた
「大阪は堺の人間が育てた」だの大阪市への対抗意識むき出しでウンザリする。
堺を手にしたものは昔は栄えたのかもしれないね
10万貫で10億円らしいから、たったの2億円請求?
屈服させたと言う大義名分が大事
ピンチになったら堺36人衆が合体サカイダーになるんですね
強いはずやわ
富田林寺内町
https://i.imgur.com/gwYto8q.jpeg
https://i.imgur.com/kpcJf6j.jpeg
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1612867251/
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