宇喜多騒動で騒がせた花房職秀・花房正成・戸川達安という名将
宇喜多氏に従え、関ヶ原の戦いでは、東軍側の武将として活躍
大坂の役でも徳川方として参加した歴戦の名将について語ろう。
話題ないだろ宇喜多スレだって書き込み少ないのに
戸川達安の戦績
初陣を飾った辛川合戦(辛川崩れ)で小早川隆景を寡兵で撃破。
備中高松城の戦い、九州の役、小田原の役に参加。
朝鮮の役では加藤清正をオランカイ境に援け、碧蹄館の戦いでは小早川隆景と共に明軍を撃破。立花宗茂と一緒に称賛される。
関ヶ原の戦いに東軍として参加。戸川記には島左近を討ち取ったと記されている。
大坂の役に参加。
こんなところか。
うまく恩を売り、秀家を見限らせた感じだよな
騒動後も他家に蟄居ではなく宇喜多家に居た武将も
関ヶ原では秀家の軍に参加しなかったり
秀家が信用せず参陣を認めなかったみたいだし
宇喜多家半壊状態
関ヶ原では元主君の秀家と敵対してるんだよね
活躍して出世してるし、勝ち組だよな
秀家がもっとしっかりしてたらその戦力はみんな宇喜多のもので
ただでさえ強かった宇喜多軍がさらに強かった可能性もある、惜しいことよ。
戸川達安は8月18日付けで、宇喜多家仕置家老の明石掃部頭全登につぎの書状を送った。
「私は家康に属し、尾張国清洲に着陣した。あなたが西軍の先手衆として、伊勢へ出向いていると
聞き手紙を送ることにした。
今度の合戦は内府が勝ち、秀家は滅亡するだろう。当方では秀家の子八郎秀隆を内府の婿として、
家門を存続させるとの動きがある。私も宇喜多家が破滅するのは本意ではない。だが、秀家が統治
する限り、宇喜多家は存続しないと天下に知れ渡っている。よく分別してほしい。
あなたには悪意を抱いていない。私は母と子を大坂へ置いてきたが、内府のためにタヒぬ覚悟である。」
更にこの書状によれば、宇喜多詮家は坂崎直盛と名を変えて東軍に加わり、岡越前守、花房正成も、
間もなく家康の旗下に参向するということである。
明石全登は、家中騒動の裏面にやはり家康の陰謀があったことを知った。
明石全登は戸川達安に返書を送った。
「当方では、この度の戦には秀頼様が勝つと考えている。秀家家中の外聞が悪くなったのは、
あなた方の覚悟が行き届かなかったためである。お聞き及びかも知れないが、上方で名の聞こえた
侍達を大勢召し抱えたので、お気遣いして頂かないでもよろしい。内府のためにタヒぬとの覚悟は立派
である。あなたの妻子は大和郡山におられるので、ご安心ください。」
戸川達安はこの後、岐阜城攻め、関ヶ原合戦へと参戦していく。
宗教、財政、長船暗○疑惑なんかで揉めに揉めてた家臣達を鎮めようと
秀家が戸川暗○計画を立て、それを立て籠もり大好きな浮田詮家が知り
秀家の行動に怒り戸川達を匿い自邸に立て籠もって
立て籠もり事件に発展、大坂で市街戦の様相を呈してしまい
この衝動的な行動で騒動がより大きくなり
他家からの調停がないと収まらないほど事が拗れた原因だし
その後の裁定で秀家に○されるところだった戸川が
家康に命を助けられて家康に味方するようになるのはおかしな事じゃない
ただそれは流れ的に仕方ない展開でもあった
それを明石だけは見抜いていた。
理想と現実は違うからね。
そのボンボンを守り立てていくはずの家老が派閥抗争しちゃってるんだからまずいだろ。
まあ三家老も詮家も二代目だからボンボンみたいなもんか。
でもたたき上げの花房はもうちょっとやり方考えてほしかったな。
あと忠家はまだ生きてたんだっけ?
この人元々直家秀家の代理やったり秀家のもり役みたいなもんだろ。
あの時何してたん?
もうもり役なんていらんだろうし忠家すでに爺さんで
隠居してたんじゃなかったっけ
秀吉の贅沢を見せられて育ち宇喜多家の財布でも同じような贅沢するようになっちまったのが不幸の始まり
以降宇喜多の陪臣というよりは秀吉の直臣に近い立場になってる。
出家とおそらく同時期に左京亮に家督譲渡していて、
左京亮は知行二万四千石、忠家は左京亮組で知行一万石。
これ以降も九州平定と朝鮮征伐には秀家の後見として参加したと思われる。
宇喜多騒動と関ヶ原には関与した形跡が残っていない。
秀吉がタヒんで前田も危ないときて、天下の形勢は一気に家康に
それを阻もうとする若き豊臣の御曹司宇喜多秀家
一部の家臣たちは家康の天下を確信し適当に理由をつけて家を出た
覚悟のあるものだけが残って強大な家康と戦った
重臣に適当な理由で出奔されるとか秀家人望なさすぎwww
重臣にも家康に勝ち目なしと確信されてる秀家どんだけ無能だったんだよwww
な感じだな騒動無視したようなその書き方じゃ
>>24
戸川達安 秀家に暗○されそうになったが家康に助けられる形となり常陸へ蟄居後、関ヶ原に参戦
島左近を討ち取ったとも伝わるそして3万石の大名に。
岡越前守 家康の裁定では宇喜多家に戻るが関ヶ原には参陣せず奈良に蟄居
関ヶ原戦後に家康に召し出され宇喜多家臣時代より所領減だが7千石を貰う、しかし息子が大坂の陣では豊臣方で参戦しそのために自害。
宇喜多詮家 戸川を匿って立て籠もったが家康の裁定では宇喜多家に戻り上杉征伐に秀家の名代として出兵
秀家がおそらく詮家には何も伝えず石田三成らと蜂起したため東軍へ従軍、関ヶ原後は3万石の大名
大坂の陣でさらに加増され坂崎直盛と名も変えるが千姫事件でまた立て籠もり事件を起こしタヒ亡改易。
花房正成 家康の裁定で五奉行増田長盛預かり大和国へ蟄居、関ヶ原後家康に召し出され宇喜多家臣時代より所領減だが5千石を貰う
八丈島の秀家へ前田家ともに援助をしている。
花房職秀 1595年に秀家に諫言、秀家激怒で常陸へ蟄居、関ヶ原に東軍として参加し戦後8千石を貰う。
大身はこんな感じで他の人は戸川家や池田家に仕えたりだった
対朝鮮でも対家康でも
決して弱気にならないとこが魅力か
ボンボンでも普通のボンボンとは違う気がするね
根性のあるボンボンぽい
「日延上人とその姉」
この日延については朝鮮王族であり、清正が捕えた二王子の一族だという説など諸説がある。
ただ、この姉については戸川達安の側室となったと伝えられ、今日、その立派な位牌が福岡市にある香正寺の過去帖に記されている。
ところが、この戸川達安というのは宇喜多秀家の重臣であった戸川肥後守達安のことで岡山と関係がある。
達安は美作の人で宇喜多家に仕えて朝鮮の役に出陣しているが、戦陣において達安が朝鮮土民を深く憐れんだという興味深い話が伝えられている。
それは朝鮮の役で戸川氏が設営をしていた時、その地の土民が恐れて逃げ出した。
そこで達安は、彼等に「汝等を○すのではないから心配するな」といって600枚の木札を作って彼等に分け与え、
この木札を持っておれば決して○傷されることはないと言ったので、土民たちは大いに喜び、油紙に包んでこれを頸にかけて安心した。
そこで四方から農民や商人たちが喜んで米や肉を持参してくるので、食糧など何時も事欠くことはなかった。
ところが、しばらくして達安が他に移動することとなり、その後に他の日本の武将が入ってきた。
その後、そのことを知らない土民達が前と同じように木札を首にかけてきて「肥後肥後」と呼んだ。
そこで門衛が「汝等は何を言っているのだ」と詰って悉く、この土民を捕え○したので、
これ以後、朝鮮の土民は口を揃えて「日本人は虎か狼だ。近付いたら危ないぞ。その上に軍令は紊れている……」
といって山中へ逃げこんでしまって大変困った……と記し、最後に「達安は朝鮮人を自分の手にかけては一人も○さなかった。
その理由は、初め戦場で刀を抜いて朝鮮人を斬り付けようとした時、手を合せ声を出して泣き叫ぶ姿は日本の婦女子や童子にも劣っているのを見て、
これは武人の斬るべき対手ではないといって決して劔を用いなかった……」とも戸川記で述べている。
てっきり法華宗で、明石と対立したと思ってた。
>>38
なんだこれw
すけべえ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%99%E3%91%E3%B9%E3%88
備考
戦国武将の花房職秀の通称・助兵衛は「すけのひょうえ」と読まれている。黒田孝高(官兵衛)、竹中重治(半兵衛)、後藤基次(又兵衛)など
著名な「兵衛」が付く名を持つ人物が全て「べえ」と呼ばれていることを考えると、花房の例は不自然ではある。何らかの配慮があり、
彼の場合は、特別にこうなったと思われる。
ゴンベエ爺さん乙
書きやすいからじゃね? 前田利家の家臣に長連龍ってのがいるけど、
昔は京の都の長谷川って苗字の武士がいつのまにか長になったらしいぞ
そもそも花房、戸川、長船、戸川の四家の家格順はどうなってたんだろ?
前の宇喜多氏スレにあったやつ
慶長3年頃の知行一万石以上の家臣
戸川肥後守達安_ 知行25600石 与力22460石
宇喜多源三郎 知行22400石 与力*7670石
岡越前守__ 知行23330石 与力19172石
宇喜多左京亮詮家 知行24079石 与力*2459石
長船吉兵衛尉 知行24084石 与力11130石
明石掃部頭全登_ 知行33110石 与力*1800石
花房志摩守秀成_ 知行14860石 与力*1230石
三老の子の代の三人の知行は殆ど差が無い。与力も加えると戸川達安>岡越前守>長船定行
宇喜多騒動では上の七人中四人が去った。
花房秀成は知行三万一千石とも聞くけど正確にはどうなんだろ
あと花房職秀は宇喜多家臣時代って知行どんくらいもらってたんだろ?
>>55
おお、参考になります。
>宇喜多源三郎
宇喜多姓を賜った一門衆かと思いますが、
この方は何者なんでしょうか?
花房職之は分限帳には記載されていないけど知行7000石らしい
他に播磨国人として秀吉と宇喜多両属家臣説もある。
花房正成はともかく
親父の花房正幸あたりの頃はほんとに宇喜多家臣だったか
ちょっと怪しいし三老ほど宇喜多中枢に関わってないのは間違いないんでは
客将が実質的なCEOみたいな地位についてていいの?
親の景親が浦上から移って来たのは確からしいけど。
花房家は、職之系、正成(正幸)系が、徳川家旗本となったので記録が多いけど、系図だと次男三男系統。
長男(嫡系?)の忠邦の系統は記録には残っていないけど、けっこう活躍していたのかもしれない。
浦上に従い尼子氏と戦って感状を貰った武将が、そうだとも言われている。赤磐市の花房家は、忠邦の系統らしい。
宇喜多ではずっと客将あつかいぽい
騒動で宇喜多重臣いなくなったから秀家に請われ筆頭家老に
引き抜き前提の佐竹義久や直江兼続と同じパターンですかw
家臣か秀吉直参かよくわからないやつって各大名家にいるよな。
秀吉が派遣して家中に影響力を及ぼしているのか
もともと当主の完全な配下では無く、戦国期を通じて独特の立ち位置にいて独自に秀吉とチャンネルを持っていたのかわからん
まあ改易だから仕方がないけど残念すぎる
秀家が(おそらく島津領から)
伏見を経て駿河久能までゆるゆると到着した報をしてるが
あて先の貴老様って義久か義弘だよなぁ。
この時に宇喜多旧臣はどう思ってたんだろうか。
この後、家康に面談して八丈島に流されるんだよな。
はっきり言えば秀家に対して直家以来の宇喜多家臣にはさほど思い入れはないだろ。
したともいわれ、また、早島戸川氏に伝わる伝承によれば、石田三成の重臣であ
る島清興を討ち取ったともいう)、戦後、備中庭瀬に3万石を与えられた。大坂の陣にも参陣し、徳川家臣として重用されたという。
なんなら宇喜多四天王でも良かったんじゃないの?
花房正成はともかく
親父の花房正幸あたりの頃はほんとに宇喜多家臣だったか
ちょっと怪しいし三老ほど宇喜多中枢に関わってないのは間違いないんでは
八丈島にゆかりがあってストーカー事件起こした人は
秀家配流の随行者に岡一族が混じりその子孫かな。
しかし『島津奔る』では不平分子がいなくなって
宇喜多軍が強くなったみたいな感じだったけど
どう考えても戦力ダウンだと思うな…。
まあ、黒田や細川がでたらめに戦ってるとか
西軍本位に書いてるような小説だったけど。
関が原じゃ15000率いてたって言うけど、宇喜多の活躍はほとんどないんだよな。
ただ数の力で押し問答してたに過ぎん。大袈裟に言えば独ソ戦直後のソ連軍みたいな。
福島隊だけを相手してたわけじゃないからな
完全に押し切れなかったのは当たり前
結果的に出奔は正解だったとも言えるな。
親父が宇喜多騒動後に家康に仕えてるのに何で?
細川興秋なんかも豊臣方に参戦してるし
岡の場合は息子に連坐して切腹されられてる
キリシタンだから
越前守も騒動時はキリシタンだったと思われる
タヒぬまでには日蓮宗に改修したけど
直家と義兄弟で、明善寺合戦なども参戦の河本対馬守が無いのでやり直し!
また!息子の河本源三兵衛は熊山2万2600石の大録で、関ヶ原参戦(戦タヒ)
にも関わらず,,,話題性なしで不憫
河本とかよく知ってるな
だったら馬場と遠藤兄弟も入れてあげて
遠藤兄弟は暗○以外の活躍は一切目向けられないし
馬場に至っては名前すらでない、不憫
いや、黒田孝高は「かんのひょうえ」または「かんぴょうえ」だ
>著名な「兵衛」が付く名を持つ人物が全て「べえ」と呼ばれている
この前提がそもそも間違っている
大河ドラマ級の無知は、知的水準の指標にはならない
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274793563/
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