【戦国時代】武田信玄って、なんであんなに評価高いの???風林火山の一発屋だけだよね
勝頼の時は信用無さすぎて外交が出来なくなるし、
戦争が強いといっても戦略眼がすごく高いわけではなくて
削れる領土から削っているだけで戦略的に戦争している感じではないし、
戦争が強いという理由は甲斐の国は寄生虫のために米が生産できず頼れるのが
信玄しかいなかったため狂信者になってタヒ兵と化していたから強かっただけと感じた。
内政も甲斐の国に信玄堤という治水を行ったけど、ただでさえ米が生産できない関係で
領民は貧民だったのに信玄堤を作る関係で課税して領民を疲労させているし
信玄の評価として甲斐の国のカリスマ教祖としかイメージが湧かなかった。
結局、信玄の何が凄かったのが教えて
偉い人がそんけーしてるんだから偉いんだろう的な
1位 新田次郎
2位 小幡景憲
3位 徳川家康
ここらへんは不動の順位だろうと思う。
勝頼の時は信玄の時みたいにカリスマで家臣団を纏められないから
家臣団を纏めるために戦争して領土を分捕っていかないといけないし
外交しようにも信玄が裏切りまくっていたせいで信用が無いせいか外交ができないし。
実際、信玄の後を勝頼が跡を継いだのは一門集がすぐに裏切れるように押し付けたという
説もあるし。信玄も勝頼は名前に『信』がないことで分かるように期待してなくて信玄の跡を継げる人物でなかったみたいだし。
ちなみに家康は勝頼を過小評価などしてない。新田次郎も勝頼を悲運の将として描いたが割と有能に描いてる。
勝頼が取れる選択肢が信玄のせいで一気に狭まった感じ。
経済を立て直す余裕が全然ない。
取れる手がほぼ無い状態みたいだし。
信玄自体が甲斐の国を豊かにするために豪族たちが信玄を担ぎ上げて
中央集権にしようとした信虎を追放したという話だし。
あとで検証されたけど実際は江戸時代中期まで甲州金は思い切り徳川幕府を支えてたんだよね。
信玄がタヒんだ頃に枯れたというのは新田次郎が広めてくれた俗説。
国の経済を左右する力はまだ無かったみたい。
金貨の四進制は武田信玄が決めたんだけどね
勝頼が謙信・佐竹と同盟したと言ってもあまり中身のない同盟みたいだし。
前者は運よく立ち直れた、後者は立ち直るチャンスを信長が与えてくれなかった。
そういう差だと思うけど。
長篠の合戦で勝頼が負けた時は膨らんだ風船が限界が来てしぼんだというイメージ。
信玄の時は信玄のカリスマで家臣団を纏めていたからそこまで致命的にならないかったという感じ。
普通の青年じゃ無理。
そのつかの間に穴山を始めとした不平分子を瞬時に粛清し国内の流通や経済を抜本的に立てなおし
周辺諸国全てとの外交を復活させ徐々に武田家が圧倒的有利な国際情勢まで持ち込んだことだろうけど・・・
戦い方があまりに稚拙すぎた。
鉄砲のせいだけで負けたわけでもない。
家臣が言うことを聞いて合戦できたとは全然思わないし。
長篠の戦いは鉄砲のせいというよりもタヒ亡数の多いことから三段撃ちではなくて包囲戦を食らったためという話もあるし。
包囲戦を食らって家臣団を纏めていた重臣が戦タヒしたことが一番痛かったかも。
家臣団の纏まりがあるかないかを判断するのも将器だから
カエサルも家臣団の纏まりが無いため兵士全員に解雇を言い渡した事もあるし
勝てそうな戦いでもあえて放棄した事すらある。
その見定めができてない時点で将の器じゃなかったんだろうと
同じだから解雇なんかしたら北条とか家康・信長に取り入って攻めてくるから解雇しようにもできない。
まあ家臣が言う事聞かないんで出家しちゃった人も居たけどね
俺は毘沙門天じゃ~!とか言って
家臣団も越後を纏めるのは謙信しかいなことを分かったていたみたいだし。
対抗馬もいないから。
甲州金だけでなく翡翠などの宝石も多く獲れ、甲州街道などを通じて関東と関西を繋ぐ裏の大動脈だった。
普通に商都として大きくなる可能性を秘めてた。
その事自体は武田勝頼もハッキリ認識し流通革命自体は既に始めてた。その中心地が韮崎市・新府城。
諏訪大社と善光寺を抱えてたのが滅茶苦茶デカイ。
どうやったって全国から金も人も物もあつまる立地なんだよね。武田家の領土は。
勝頼は信玄が亡くなった時点で諏訪家を復興するのが普通なのに、
罰ゲームの武田家当主になったのか不明。
当然、一癖も二癖もある軍団長たちをまとめる器ではない。
信玄としては自分のやらかしで武田家が滅びるのを予感して盛信を生かすために勝
頼を人柱として指名したのかなと。
ちょうど、真田兄弟の下の弟たちや毛利の三兄弟の下の弟たちがまるっきり語られないように。
でもあの大河ドラマは酷かった。俺等たった二人しか居ない兄弟で力を合わせて頑張ろうみちな台詞が何度も言われてるが
弟たちが可哀想だろ。長男の信之の庇護下で仲良く暮らしてたのにw
一門集の小山田を頼ったばかりに裏切られて○されるという結果を招いたし運が無さすぎた。
それさえあれば真田家に身を預けて乞食にやつして越後・みちのく方面で生き延びた可能性は十二分にある。
信長って案外、落ち武者狩りが甘くて斉藤やら六角家やらその他の元大名がのうのうと生きてるケース多かったし。
勝頼も真田家は評価していたみたいだが親戚筋である一門集の小山田に保護すると
声かけてもらったら、やっぱり無条件で行っちゃう。
家臣達は勝頼の言うことは聞かないなと思った。
勝頼の取れる手としたら家臣たちを粛正するという手もあったが
粛正すると国がバラバラになるから結果を出し続けるしかなかった。
戦争にずっと勝って領土を分捕って家臣たちに分配する結果を出し続けるという
血を吐き続けるマラソンをするしかなかった。
そら武田家最大の領土になるなと。
ヒトを見る目だけはあったよな。
超大国アメリカを相手に一歩も引かず
国内は粛清で引き締めなんだかんだで政権を維持し続けている。
『トラの皮を被ったキツネ』みたいなものだし。
そのキツネはすげー有能じゃん
なんで勝頼はキツネになれなかったかというお話だし
勝頼に例えたら穴山と小山田を粛清してその土地を公の地として没収するようなものだ。
激しい権力闘争を勝ち抜いて大名になったわけだし
戦国期にはそれが必要な能力の一つだったし。
権力闘争をしようにも本拠地である米が取れない甲斐を治めることが
罰ゲームで甲斐の国を纏めるには信玄みたいにカリスマで纏めるしか手段が無さそう。
一国の宰相とか国主とか総司令官の器ではなかったよな。全然。
せめて自分が無能だと認識し優秀な人間に采を預けるだけの器さえあれば・・・
景勝しかり劉邦しかり。でもヒトの才能や忠誠度を見極める眼力が無いから
結局生き残る術は無かったろうな。
せめて真田をうまく活用できていれば違ったかも。
彼はその点では立派だった。
人望があり兄弟・親戚全員を仲良くまとめあげ
治世家としては目を見張る能力があった。
国主として十分な器はあったが秀吉が強すぎた。相手が悪かったな。
あの時の秀吉はキレキレだったし、相手が悪すぎたと。
景勝の処世術が凄いだけ
上杉が豊臣の家臣になる際、北条だけは滅ぼせと秀吉に直訴していた
氏政は豊臣の家臣になる際、上杉よりも格下にされるのを拒んで滅んだ
人を利用するのが上杉はことごとく巧い
だから幕末まで生き残った
関西から関東までの有力大名の中で生き残ったのは天下人の徳川と上杉だけ
あとは織田を始め、お情けで生き残り
味噌汁を2杯かけてしまったなんて別に悪口にすらならないささいなエピソードだけどな。
むしろ「そんな事しか指摘されないほど優秀な聖人だったんかい!」とツッコミ入れたくなるくらい。
確かに
あれは白装束派だったな
最後はほとんどの家臣から裏切られたし本当に人望が無かったんだろうな。
側近たちと実弟と真田と数えるくらいしか殉じてくれてないし。
カリスマとか魅力が強い人だったら織田に滅ぼされるにしてももっと多くの人が殉タヒしてくれたはず。
豊臣秀次みたいに。
最後はほとんどの家臣から裏切られたし本当に人望が無かったんだろうな。
側近たちと実弟と真田と数えるくらいしか殉じてくれてないし。
カリスマとか魅力が強い人だったら織田に滅ぼされるにしてももっと多くの人が殉タヒしてくれたはず。
豊臣秀次みたいに。
織田も武田のあのみっともない滅び方にはビックリしたと思うよ
家臣団から裏切られるのは順当。
そもそも、諏訪家の人質の子が武田家の後を継ぐこと自体、愛人の子が
後を継ぐと同じだから家臣たちも快く思わないだろうし。
武田家が滅びだ原因は信玄が長男の義信を自害させたことが原因
始皇帝「そ・・そやな」
継体天皇「そやそや!」
武田家特有の性格だから。
家臣たちは甲斐の国を豊かにする人を求めているから勝頼に忠誠を誓うというよりも
甲斐を豊かにしてくれる人だったら誰でもいいと。
まさかの圧勝に一番驚いたのは信長だろうね
それが仇となり3ヶ月後の本能寺の大油断に繋がっている、圧勝はするもんじゃないな
氏政は織田が一瞬で武田を滅ぼしたのにビビりまくり、織田の家臣になろうとしていたが本能寺の変でブッ飛んだ、秀吉の評価は低く上杉に後塵を排した
家康は上杉が豊臣の家臣になったのを必要以上に驚き、秀吉に敵対するのをやめ家臣になる決断をした
徳川と上杉が生き残ったのはその処世術の巧みさ
甲相駿三国同盟はそのプライド高すぎ
結局三国ともダメだった
信忠の実力というより武田家の自爆というイメージ
明らかに敵方である高山・中川・池田を味方につけ明智を滅ぼすや
今度は敵方である勝家の甥、前田、金森たちを味方につけ勝家を滅ぼしてるし。
こういう芸当は勝頼には間違ってもできない。
晩年、ボケて淀君が浮気して子供を作ったことを見破れず
豊臣家の屋台骨である秀次を処刑したのは残念。
どうあがいても信長が政治体制を整えて信長が居なくても代わりの秀吉でも戦略的に勝つことが出来ないし。
時代も悪かったなと。
確かに米穀経済ではなく小判をメインとした貨幣経済を確立し
甲斐善光寺を作り(武田家は本来は浅間山信仰だった)信徒を呼び込む事により
経済を回そうと考えたのはセンスあるが。
商都として考えたら躑躅ヶ崎館を拠点としたのはあまりにセンスが無い。
信長だったら間違いなく真っ先に新府城へ遷都し、その後は諏訪と新府城を中心とした
大物流を作ってたことはほぼ疑いない。
ろくな経済ブレーンを持たなかったんだろうんな。信玄の重臣や政権に大物商人って居ないし。
ぶっちゃけ謙信や氏政や義元よりも経済センス無い気がする。
できないので蛮族経済に走るしかなかったと。
外交も甲斐という国の米が生産できなければ条約無視して他の国に侵略するのはわからないでもない。
ただ、この蛮族経済はカリスマがある信玄だからできた手法で信玄が亡くなれば没落するしかないと。
甲府から多くの古墳が発掘されてる事から明らかになってる。
翡翠と黒曜石の一大産地で石器や宝石の材料として
樺太や小笠原諸島や中国大陸でもその時代の山梨産の石器が発掘されてる。
新潟県糸魚川市で石器へと加工されて広く輸出されてた。
物流として富士川と長良川が異常に役立ってた。
この時代畿内以外は皆田舎だ
「尾張から都までの間は一戦ごとにこちらが強くなる。
上方の敵は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯なことでもすると聞いている。
(『甲陽軍鑑』品第三十九)
江戸時代の講談で信玄有能ってやりまくったから、信玄有能説がイメージとして、日本人の心に刻み込まれている。
> 昔武田信玄は館のみを造つて城を造らなかつた、敵軍が攻めて来た時は国境を城と考へて国境に於て防禦したものである。
> 我日本国民としては此意気がなければいかぬ、これが南京を見て痛感した点である。
出典:北昤吉 述『中支戦線を巡視して : 朝野の猛省を促す : 革新政策の見地より』1938年出版
実は家康でなく徳川義直が描かせたという説がある
https://i.imgur.com/3jamytW.jpg
ネームバリュー的なものも含めて。
遠くの謙信の小田原攻めより、
信玄との対立のほうが北条氏には切迫感があっただろう。
北条氏が甲斐本国への侵入に成功したのって天正9年頃でしょ
それまでは武田氏と対立したらやられる一方
堤作ったり温泉作ったり
諏訪湖の底に黄金の墓が山頂のある地点だけから見えるように作ったなんてすごい技術だろう?
嫌でも実感できるよw
山梨県の地図見ると広いみたいだけど、人間が棲息できる土地なんて
あの中のほんのひとつまみくらいなんだから
いたために、京都の首脳や知識人のあいだで武田信虎の息子・信玄の
名も広く語られたことも大きかったらしい
晴信に生活費付きの隠居の立場に追いやられた武田信虎は、ドラマ
なんかだと以後鬱々と余生を過ごすだけみたいに描かれるけど、
史実では今川義元の紹介もあって京都の名所をめぐり、山科時継・
万里小路惟房・半井驢庵といった錚々たる文化人と親交を持ち、
駿河で暮らしているうちに仕込んだ(笑)娘を嫁がせて権大納言・
菊亭春季の義理の父親になっている
本願寺顕如や足利義輝と親交を持ち、とうとう足利幕府で要人として
抱えられ、その序列は将軍の側近や幕府の重鎮を超えた武人の
トップ扱いだったと記録に残されている
一昔前の「当時京都は荒廃し足利幕府には何の力もなかった」という
駄ボラ・俗説が否定されてきて、京都の重みが再認識されているので
当時武田が「武家筆頭」扱いされていたことが、遠く甲斐にいただけの
信玄の名声に大いに関わったのは想像に難くない
裏切れば、裏切られる。
その事を半ば黙○してたんけだけど、これが勝頼に牙を向いた
信玄だって若いときは同じだったよな
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1520054841/
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