【南北朝時代】北畠顕家、楠木正成、新田義貞ら名将を抱えていたのに敗北した後醍醐帝って無能すぎるだろ…
“最古の日の丸”の有力候補、奈良県五條市西吉野町賀名生(あのう)の堀家に伝わる旗の年代測定が行われ、1463~1528年か1553~1634年に作られた絹製であることが分かった。
NPO法人大和社中が16日発表した。後醍醐天皇(在位1318~39年)から下賜されたとの伝承があるが、100年以上後の室町期か江戸期の旗と判明。旗は新たな謎に包まれた。【大川泰弘】
調査は、染織史家の吉岡幸雄さん、京都大の化学研究所と総合博物館などが、大型放射光施設スプリングエイト(兵庫県)も利用して行った。
年代は放射性炭素の計測で割り出した。生地のたんぱく質の分析で絹であることを確認。含有元素の解析により赤い染料は朱だと分かった。
旗は縦に掲げる形式。縦95センチ、横75センチ。さおに固定するために鹿皮を紫に染めたものがある。糸の品質も良く、吉岡さんは「相当に身分の高い人から贈られたもの」と指摘した。
吉野に南朝を開いた後醍醐天皇は、賀名生の有力郷士、堀家に仮皇居を構えた。日の丸は、この時に下賜されたと伝わる。堀家から委託された五條市が「賀名生の里・歴史民俗資料館」で保管、展示している。
堀家二十九代当主、堀丈太さんは「後醍醐天皇下賜の伝承は崩れたが、誰が作り、どんな経緯でうちに来たのか、一歴史ファンとして興味がある。新たな謎が生まれた」と話した。
“最古”の有力候補に山梨県甲州市の雲峰寺に伝わる日の丸がある。伝承では、源頼義が1056年、奥州征伐の際に後冷泉天皇から下賜され、甲斐武田家に伝わったとされる。年代測定はしていないという。
https://mainichi.jp/articles/20190817/k00/00m/040/044000c
55: 青色超巨星(宮崎県) [US] 2019/08/17(土) 16:27:48.60 ID:uw+JqZ7i0
既に武家政権が出来上がってるのに今更、貴族政治なんかできるかよw
摂政関白秀吉でさえも幕府武家政権にひっくり返されたからなw
>>1のような疑問に答えるような楠木正成の名台詞がある
要は人心が建武の新政に期待から失望へと移り変わったから、ってこと
>>1
源氏会と平家会ってあるんだよね
子孫が集まって駄弁ってる
最も戦国あたりまで行くと源氏と平家の末端あたりは混血しまくったろうけど
尊氏と師直が異常に有能
2で終わらすなw
あとから焦って北条時行に恩赦だしたりとか見苦しい
秀吉の中国大返しより早いとか嘘くさいわ
秀吉軍は糧食や物資を代金を支払って調達し行軍していたのに対して
顕家の奥州軍は補給は用意せず糧食は道々で略奪しての行軍だからスピードが違うんよ
奥州軍が通った後は略奪の限りを尽くされた民衆の餓死者の山だったそうな
コイツが結局一番の忠義者なんじゃないのかと思う
その後の部下親類のグダグダは見るに耐えん
そういう意味では高師直だって、切羽詰まった局面でしか露骨な裏切りはしていない。
田宮にでも鑑定してもらったんか?
前にやってたよ。真田弘之が足利尊氏役だった。ミスターオクレが小男。
あれのせいで真田太平記とごっちゃになる
割と救いが無い
皆はそらマシな方を選ぶわな
それな。世の中の経済実態の変化に対応出来ない非現実主義だから大勢はついてこなかったんやな。
そもそもあそこまで冷遇されてもなお楠木公は忠義を尽くしたのか理解できん
>>45
冷遇されればされるほど忠義を尽くし忠義の大切さを示す
忠義の士とはそういうものだ
一種の宗教だからな、基本的に冷遇とか厚遇とか関係ない
あれ上手いよな。
軍師官兵衛の御着殿も上手かった、
坂の上の雲の海軍さんも上手かった。
あれはもっと評価されていい
天皇の失策に文句言い放つ奴なので扱い辛くて
代わりに楠木正成だけ持ち上げたんだよ
なんでガンダーラガンダーラ言う人がいるのかやっと分かったわ…
新田義貞は戦下手だし、性格もクソじゃないか?
>>35
この時代、みんな性格がクソなのはしょうがない。
少なくとも動員兵力のこともあって、南朝での主要な戦闘では新田がエースなのは事実。
鎌倉幕府軍の殲滅は水際だった勝利と言えるし、足利尊氏との鎌倉攻防戦はそもそも公家社会の軍団を率いていた以上、武士の軍団を率いている足利一族とは戦闘力が違うのはやむを得ない部分がある。
それでも、どうしても正当化が無理なのは、播磨。
でも勾当内侍はいい女だったらしいから、しょうがないね。
ナポレオンに負け続けたブリュッヒャーもそうだけど諦めないことが大事だわ
千早城に籠もるぞコノヤロー!
九州の菊池一族も忘れないで
石原良純だからバカボンに見えるけど、地方でかなり活躍した
尊氏の首取ってもおかしくない戦が2回ぐらいあったが全て台無しにしてるこれが致命的
新田全盛期は対北条の時で終わってる
>>64
新田義貞が無能だったけど不運もあったよな。公家大将が「佐々木道誉を戦線に配置しろ」の義貞に命令したらしいけど、義貞は「道誉は裏切るから駄目」と断ったのに、公家が強引に道誉を戦線に配置。案の定裏切っているしな。
楠木は籠城戦だけが強い局地戦闘指揮官
北畠は足利絶対殺すマンだけど兵站ガン無視ダメ
いくら足利討伐の為でも通過する村々からことごとく略奪して民衆を苦しめちゃダメ絶対
そもそも北畠顕家を鎮守府将軍にした後醍醐が悪いんや
東北から畿内まで数万の大軍を何往復もさせるにはどれだけ兵站が必要になるのか
なのに顕家が畿内鎮めて東北に帰るとすぐまたやらかして
早く来い早く来いと綸旨連発
相馬、伊達、佐竹、大崎、最上等の、
鎌倉御家人を始祖とする坂東武者の後裔で、勇猛な騎馬武者を揃える軍勢だったのに、使い方間違ったよな。
ここに後醍醐天皇は一時期潜伏していて
そのときに詠んだ歌やらがあって
ただただ泣き言を言うだけのボンクラ感がすごかったw
自己レスだけど
どんな歌かというと、こんな所いやだー
誰か助けてー
みたいなw
>>96
この前、吉水院いったけど行ってよかったわ
最初は目立つところに置いてあった勝手神社の看板見て「あれ?道間違えたか?」と困惑したけど
あれは神社再建の寄付集めのために置いてるそうだな
吉水院は南朝の御所でもあり、静御前と源義経が別れて「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
と詠んだ舞台だったそうだね
これに尽きる。
少ない兵力で多勢を打ち負かすには地形を生かすしかない
湊川の戦いの際も最初の軍議で正成は反対して一旦は軍勢を引いて挟撃体制を取れば勝てる案を出していた
だが後醍醐や側近が一旦後退するのはカッコ悪い、正々堂々戦うべきと主張を曲げず正成の案を退けた
正成は主君の命なら致し方なしと、敗戦と死を覚悟して戦ったからこそ、後に水戸黄門に大楠公稀代の忠臣として讃えられる事になる
決して弱かった訳ではない
そうするなら、すぐに平和になっただろう。
そもそも後醍醐は北条とかいう武家による平和が嫌だからぶっ壊したんだぞ?
都に咲いてた花が、こんな辺境の地にも咲いてたのを見て姫が久しぶりに嬉しそうに笑ったそうだ。
それを知った家来達が険しい山中を必死で探し回り、沢山のその花を庭に植えて喜ばせてあげたんだと。
その集落は今も続いていて、北畑姓が多いんだ。
せっかく足利尊氏やや楠木正成や新田義貞と鎌倉幕府を倒したのにね。
その後の行状で、武士や御家人達にすっかり嫌われてしまった後醍醐天皇。
いくら楠木正成と新田義貞が忠誠を誓っても、
武士団・御家人達が足利尊氏についてしまった人望の無い後醍醐天皇に勝ち目は無いよ。
新田や楠木なんかとでは名門加減が違う
新田の鎌倉攻めの総大将は、義貞でなく千寿丸だしな
>>135
北条と親戚だからとか、素人か
足利の貴種性とは、三河で源頼朝と繋がっている事によるものだ
北条はコレを恐れ続け、足利との姻戚関係を望んだ
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
北条が別に足利恐れてなんぞないだろ
宗家の源氏すらばしばし粛清されたのに足利だけ恐れるかよ
むしろ北条とズブズブだったから生き残ったに決まってるだろうが
>>195
俺は物を知らん田舎者だ、まで読んだ
三河の源頼朝が構築した三河システム(三河縁者の武士が武家社会を牛耳るシステム)の継承者が足利氏だ
コレを眺めて、そうなんだと理解出来ない奴は田舎猿
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
>>195
続き
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
「後醍醐天皇っていう強烈な個性は面白い、あんだけ精力的な天皇は日本史上稀有ではないか」みたいな評価は読んだことあるけど
この時代には不案内だなぁ
なんか面白い小説なり漫画なりない?やっぱ太平記?
このスレにもいくつか出てる北方謙三のなんかいいんじゃない?
俺は吉川英治しか読んでないけど
ありがとう
戦前のモノと戦後のモノを対比して読むと面白そうな気がしてきた
とりあえずその2つ試してみます
私本太平記は楠木正成の駆け落ちして平野の湿地帯でコジキ夫婦してた馬鹿娘が史料の娘と全く異なるとこはわざとだろうけど色々と凄くエモい
大河ドラマ
新田は、足利の分家でなく同等の家柄に近かったが、失脚した先祖がいたうえにそのときに妻の実家の足利家の援助でなんとかおとりつぶしを免れたので、かなり家来に近い立場にあった
義貞の鎌倉進撃も足利別働隊に近い役割だった
義貞は、尊氏に対抗できるほどの影響力はもともとない
実際は敵にウンコを投げつけるオッサンだったんだよな。
しかも、熱々のウンコです????
後醍醐天皇、征夷大将軍が護良親王、その両翼に新田と楠木、北に北畠顕家、南に懐良親王(´・ω・`)
これが実現してたら南朝盤石やったやろな(´・ω・`)
尊氏も大人しく軍門に下ったやろ(´・ω・`)
それだと護良親王が本当にクーデターを企てていたら
一気に体制崩壊するぞ。
だからこそ、後醍醐帝は疑惑が出た時点で彼を処刑した。
恩賞含め社会が武士無くして回らないことを理解して枠組み作らない限りは尊氏を引き込んでも別のアタマを立てるだけになるでしょ
そもそも尊氏自体は後醍醐帝と争う気はあまりなかったはず
大大名作り過ぎて室町幕府は不安定だったけど
等持院ほか複数伝わる尊氏の木像や肖像画は共通してタレ目の人の良さそうな風貌
そうかと思えば勝者の細川顕氏に対して刀を抜いて脅したりよくわからん人物だわ
よく言われるように躁鬱病だったのかも知れないな
孫の義満も相当お天気屋だったそうだし曾孫の義教もご存知ヤバイ人
精神病は遺伝あるのか分からないけど
躁鬱は、遺伝の可能性がかなりあるよ
ただのうつ病なら誰でもなるけど
自殺した先祖もいたよな
それ亀田センセに言わせれば逆だから
(敗者としての尊氏が恐縮しただけ)
敗北した南朝関係者の御霊をお慰め申し上げる(怨霊化抑止)ために正統とされている
勝った側が居丈高にならずに謙虚になるようにするために必要なことだ
勝者の野蛮化防止のためだよ
南朝正統論は江戸時代に水戸藩が編纂した「大日本史」以降
太平記での楠木正成人気もそれを後押しした
護良親王は後醍醐天皇の密命を受けて、新田義貞、楠木正成、赤松則村とともに、尊氏を討つ計画を企てた。
しかし、尊氏の実力になかなか手を出せずにいた。
建武元年(1334年)夏に、状況が変わらないことに我慢がならなくなった護良親王は、令旨を発して兵を集めて尊氏討伐の軍を起こした。
これを聞いた尊氏も兵を集めて、備えた。
その上、尊氏は親王の令旨を証拠として、後醍醐天皇に謁見した。
これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王を捕らえて尊氏に引き渡した
後醍醐天皇何やってんだよw
勝手に令旨を出したことに激怒したらしい
しかし、足利尊氏が鎌倉幕府を裏切ったのも、円心配下の武将が北条高家を討ち取ったのがきっかけって言われているし
2千の兵で50日以上、6万の新田軍を先に行かせず食い止めた円心の役割ってかなり大きいんだよな
円心は室町幕府成立のキーマンかも知れない
他の武将に比べて有名じゃないけど
赤松は、悪党系だと思っているけど悪党系列でもっとも成功したと思うけどな
赤松は悪党系と思いきや実は御家人
楠木も悪党系と思いきや実は後家人からの得宗被官
出自は、そうでも当時のたち位置も変わらかったの?
>>304
御家人でも采地を経営するに当たっては流通経済をガッチリ押さえないとね
赤松はこの類い(新田も幕末にはその点うまく行きそうだったのに長崎らからいちゃもん→両使を派遣され押し問答の末に両使を斬って挙げ句切羽詰まって挙兵したとw)
楠木もそうなんだが一歩踏み込んで得宗被官化したのが悪い方に出ちゃったと…利権闘争があったのかも?
(長崎高資の蝦夷管領・安東氏よりの二重収賄があったくらい利権を巡り幕府の内実もおかしくなりかけてたからね)
楠木は当時、京都の高名な摂関の二条さんに皮肉まじりな落首まがいの和歌で風刺的に詠まれているほど立ち位置を変えているから蝦夷の安東問題以上の確執を得宗家や幕府と抱えていた結果があのようになった希ガス
さらに序にいえばそのような位置付けだから、今日そう捉えられるほど楠木さんは勤皇家じゃなかったと思うよ
>>295
また、適当な事言ってのか
足助氏は頼家の正室を輩出し、将軍以外では唯一昇殿が出来、北条が手を出せなかった名族
その足助氏に楠木正成の叔母が嫁入りした事実は、何にもまして出自を探る鍵がある
足助氏には安達盛長の娘が嫁入りし、霜月騒動当時、尾張の那古野荘の地頭だった足助氏の嫁(楠木正成の叔母とと同年代か?)は安達一族だった
つまり河内の安達氏の所領は、得宗被官としてではなく、この縁故で獲得した可能性があるのである
名和の子孫だけど、あっという間に表舞台から姿を消した名和家に較べれば十分成功じゃん。
赤松家は南と北を行ったり来たりもあるし、南北朝終わっても後南朝への乱入イベンまであるし。
最後のは現代に至るまで地元に悪名残ってるのはアレだけど
でも名和氏の本家は確か、後醍醐天皇への忠義の功績で明治新政府から爵位を受けていた筈
表舞台から姿を消したと言っても。
貴族院議員になってるでしょ
>>289
だって南北朝~室町前期を舞台にした大河ドラマなんて
数える程しかないんだもの。
いくら源平や戦国、幕末の受けがいいからって
これを無視するのはもったいない。
※この時代がドラマのネタにされない理由は知ってる。
放映後、必ず南朝と北朝のどちらが正当かで揉めるからだ。
引用元:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1566024671/0-
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