2021年2月14日
1: 2006/12/12(火) 01:32:00 ID:coSevre2
2: 2006/12/12(火) 01:35:50 ID:xbsEHm6r
信長暗○未遂事件って何の事ですか?
他の事例は知ってるけど。
5: 2006/12/12(火) 14:54:04 ID:RBWsoDZf
前田利家と仲が悪いという風評を聞くが
実際はそんなに悪くなかったらしい
6: 2006/12/12(火) 17:23:32 ID:ojQiwknP
>>2
暗○というか謀反だな。信長公記にあるよ
>>5
出奔中の利家を匿ったことがあるから最初は仲よかったんだろ
そのうち北陸でライバル同士になり
その後前田に自分の娘を嫁がせるのに反対したみたいだから越中時代にはこじれてたんだろう
8: 2006/12/12(火) 20:38:08 ID:Cra6Lg89
革新だと利家と成政は親愛武将
9: 2006/12/12(火) 20:55:24 ID:ojQiwknP
内蔵助は黒母衣衆筆頭、又左衛門は赤母衣衆筆頭。信長はこの二人を競わせてたきらいがあるな
北陸時代にも内蔵助を先に取り立て、次いで又左を加増している
10: 2006/12/13(水) 00:19:50 ID:zvA4aXoQ
織田家の鉄砲隊と言えば、明智か佐々って感じだな。
16: 2007/01/20(土) 09:45:24 ID:i9uyTOKq
太閤立志伝3だと秀吉をいじめる役
18: 2007/02/21(水) 20:49:17 ID:0VhtcZzG
織田家での序列はどの程度
19: 2007/03/09(金) 21:34:37 ID:6KdbsZ29
信長上洛時の母衣衆黒母衣衆:佐々成政、毛利良勝、河尻秀隆、生駒勝介、水野忠光、
津田信重、蜂屋頼隆、中川重政、松岡九郎次郎、中島主水正
赤母衣衆:織田越前守、前田利家、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、
黒田次右衛門、毛利長秀、野々村正成、猪子一時
赤母衣衆が一人足りないのは、穴埋めに無能な奴を入れたりしない信長の力量だそうだ。
21: 2007/04/09(月) 15:55:16 ID:H+BUuj6Z
>>19
でも直政戦タヒ後の遺族の扱いはどうにかならなかったのかねぇ…
22: 2007/04/09(月) 22:10:00 ID:+Q4cQM5Q
>>19
黒母衣衆の筆頭は川尻秀隆だ!
20: 2007/03/14(水) 21:55:36 ID:Ft81AWG3
上洛時にまだ母衣衆なんてあったんだ。
とっくに用なしかと思ってたよ。
24: 2007/05/23(水) 16:36:27 ID:5iodAwke
北政所を怒らせたのは作り話?
26: 2007/05/24(木) 22:37:18 ID:MXwnxX5z
>>24
どうだろう。ただ回りの人をイライラさせるタイプではあったみたいだね。
無神経だったのかもしれない。行動力はあったんだけどね。B型?
27: 2007/05/25(金) 10:46:37 ID:vMRMd4GB
この人のお孫さんって徳川家光の正室なんだっけ。
まさか自分の孫が天下人の正室になるなんて思ってもいなかっただろうな。
28: 2007/05/25(金) 23:29:30 ID:svimplou
だがしかし、家光はホ◯だったお陰で全く相手にされず、不幸な人生だった。
なんか佐々家って本当についてないなぁって感じがする・・・
29: 2007/06/01(金) 15:05:18 ID:rrumbMLp
意味のなかった山越え
31: 2007/06/01(金) 22:43:21 ID:XnRtLv3u
>>29
意味がないどころか、
考えなしのおかげで多数の家臣が○された。佐々に。
その亡霊に呪われてるんだろ。w
30: 2007/06/01(金) 22:25:51 ID:HPeSbHIC
狩野探幽もこの人の孫じゃなかった?
32: 2007/06/02(土) 13:36:17 ID:faBm5rHq
赤母衣衆の中でいまいち影の薄い佐々
33: 2007/06/02(土) 14:22:21 ID:LWsqg0R0
子孫の佐々介三郎は有名なんだがなぁ……
34: 2007/06/02(土) 19:47:43 ID:gPBmfJMh
滝川一益とどっこいどっこい
46: 2007/10/05(金) 01:04:19 ID:gsZi4zxl
>>34
功績は滝川のがある
35: 2007/06/03(日) 00:50:07 ID:IPOnMa3G
兄も織田家に捨て犬のように○されたし、
嫡男が誕生しても成人する前にタヒんでしまったし、
その後男の子が生まれなかったり。
42: 2007/09/03(月) 13:03:24 ID:tv+Ikwxu
>>35
婿養子を受ける予定は無かったの?
38: 2007/07/17(火) 22:43:24 ID:NVbUeLzX
金森も赤ホロじゃなかったっけ?
39: 2007/07/18(水) 05:47:03 ID:ra27JfSp
金森さんは黒
40: 2007/08/07(火) 00:30:50 ID:3N8eEt5H
佐々は黒母衣衆、利家は赤母衣衆。
黒母衣衆と赤母衣衆って、どっちが格上なんだ?
68: 2007/11/28(水) 17:27:29 ID:MP6xTaS6
>>40
どっちかが上と言っている武将もいるらしいが小姓出身が黒、馬廻出身が赤
と織田オタの教授が言ってたような。
41: 2007/08/17(金) 10:45:19 ID:mtlwiWfD
佐々君って呼んでた同級生いるけど珍しい苗字だから本当の子孫かな~?岡崎市
45: 2007/10/01(月) 14:08:05 ID:Qh+p849k
本能寺後に正規軍わずか2000人で背後の上杉を防ぎつつ隣の前田戦を優勢に進めた猛将
織田家への忠義を捨てきれず最後は秀吉軍10万に降伏
小勢ながら秀吉軍10万人を北陸まで動かせたこの男は只者ではない
おそらく後の国主に事実歪曲されたのうだろうが、なぜか未だに歴史的評価は低い
47: 2007/10/19(金) 00:04:33 ID:unNodpfW
>>45
勝家が賤ヶ岳で秀吉と戦えたのも佐々のお陰だしな
信長が利家に越中与えて佐々に能登与えてれば歴史も随分変わってたかもしれん利家が戦場で裏切るって事もないだろうし
49: 2007/10/24(水) 17:27:48 ID:oKk/FIlI
>>47
信長的には、武将の器量が佐々>前田って評価だったのかな?
224: 2011/02/19(土) 03:15:03 ID:6CAgRvfG
>>49
府中での石高も佐々が一番だっけ?
50: 2007/10/24(水) 17:40:30 ID:2N1Mq1O8
高柳さんは成政が秀吉と不仲だったと言われるのはその後から遡って言われるようになっただけで
賤ヶ岳後には難しいこともなく和睦したと書いてるね新発田重家に重家から秀吉に音信を通じるように勧めていたりしているんだそうだ
52: 2007/10/30(火) 15:54:52 ID:chN/SRts
賤ヶ岳直後は織田家を立てるのか潰すのか読めなかったのでは?
しかし踏み台にする事が明確になると再び戦闘状態に突入
信長直臣最後の砦が崩れていくことになる
56: 2007/11/02(金) 15:36:10 ID:gdAt53Rj
当時の上杉ってゴタゴタしてたんじゃなかったっけ?
誰でも抑えられそう
つか前田って佐々に戦で勝ってるしね
そこまで戦下手とは思えないが
57: 2007/11/02(金) 19:06:35 ID:1eSYXsWB
いやいや利家が佐々に勝ったのは終盤末森城攻めの囮部隊に勝っただけでその他は全敗て言うか撤退しまくってる
利家本人が攻めに移るのは秀吉自ら援軍としてきた時だから、それまでは戦う意思が無いて言うか完全守勢
しかし佐々の方も囮作戦成功させて一度だけ利家誘き出してるのに佐々本体は越中→金沢の行軍で道に迷って撤退してる事がある
決めた日時どおり囮と合流できれば大勝確定なのに(笑
冬の北アルプス横断する登山家大名が僅かな距離の富山金沢間の山中で迷うとは何事!比較すると戦は佐々が上で 政治は利家は上じゃないかい?
58: 2007/11/02(金) 19:10:43 ID:gu3aThZb
佐々は織田家命という気持ちは前田より上だったが
織田家命と吼えてる時代遅れの武将はたいてい時代の波に飲まれてる
(佐々、柴田、丹羽、などなど)
59: 2007/11/02(金) 19:19:17 ID:1eSYXsWB
そうだな 優秀な息子が居るかどうかで運命わかれてる気もするな
60: 2007/11/04(日) 14:45:30 ID:SC46uAdm
秀吉に素直に降って前田の次男を養子に貰っていれば
秀吉政権でも生き残れたし
徳川政権になればさらに佐々家は栄えたであろう
惜しいことしたなあと
64: 2007/11/12(月) 18:43:56 ID:8mweoLMr
>>60
佐々はすでに信長から養子貰ってるから今更前田から養子もらえなくね?
65: 2007/11/15(木) 14:13:41 ID:Gkf5keFg
>>64
それは初耳。信長の何子にあたる人物をもらったの?
225: 2011/02/19(土) 03:18:22 ID:6CAgRvfG
>>64
信長→秀吉はあった
名前は信勝
61: 2007/11/05(月) 01:10:22 ID:GHr7Hs5g
あの陰湿な秀吉が許すはずがない
じっこんといわれた前田でさえ北条制圧後、氏直を助けたため、秀吉の逆鱗に触
れた
62: 2007/11/05(月) 23:37:31 ID:dDhUvnbb
最近大河の「利家と松」見たら、さらさら越えに女房一緒に連れて行ってあまつさえ女房が雪崩に撒きこまれた。
あまりの超展開にさすがに爆笑してしまったよw
74: 2008/01/30(水) 14:57:46 ID:9MIU5tkS
最近読んだ本に、成政は後漢書を引き合いにだして信長が浅井長政達の首を
見世物にしたのを諌めたって話しがあったけど捏造?
成政は千田吟風という学者から古典を学んだと書いてあったけど
76: 2008/01/31(木) 10:01:04 ID:07j+Wc3c
>>74
成政第二の逸話(俺の中で)を捏造扱いするなw
他にも書き残されてるから
>>75
いまだ越前経由と言い張る某教授も居るけど冬の長野やその他に立ち寄った形跡があるし
アルプス越えしてるとされている
78: 2008/02/02(土) 14:30:30 ID:N7d8lJD3
切腹時に帝から追悼の歌を賜った話が気になってます
天皇自らの追悼を受けた武将は佐々成政ただ一人と言われてますが
どんな関係だったのだろうか
79: 2008/02/02(土) 23:18:05 ID:MarQYOI9
>>75-76
伝承のコースは、現在の近代装備でも走破は難しいと聞くが。
84: 2008/02/14(木) 20:05:40 ID:4bnVNO2O
>>79 山を越えする越中の方の面倒をみてくださり主君家康が大変喜んでおります
つー感じの本多正信の手紙が長野県に残ってたみたいで、確定したらしいよ
87: 2008/04/05(土) 15:20:33 ID:4fs3Y6fV
小牧長久手の戦いで佐々は徳川と同盟したと一般的に言われてますが
この時秀吉は丹羽の要請を受けて佐々へ援軍を頼んでますね
佐々もこれに応え数百の兵を派遣してます
その兵達は堀の陣を借りていたらしいので中入り隊の中にいたのでしょうか
90: 2008/05/25(日) 19:10:09 ID:A9sjy/eV
佐々は結構インテリだったみたいだな。
他の家臣と違い寝所に呼んで佐々の講釈を聞いたらしい。
そして佐々の訓戒にはよく耳を傾けたようだ。
91: 2008/05/25(日) 19:11:32 ID:mR2bpXbH
>>90
文章に主語をつける訓練をしような。
93: 2008/05/27(火) 05:11:42 ID:IPSBSxG9
信長は家臣の忠告聞くイメージがないからな
そういう中で恐れながらも諌言した成政はイィ!
あっさり間違い認める素直な信長もイィ!
95: 2008/05/27(火) 23:09:34 ID:u6/OO1Ri
佐々淳行氏も佐々氏の子孫だよ
100: 2008/06/23(月) 21:02:05 ID:dp6exqpM
>>95
ならば成政も自慢屋だったのか。
それで周囲との軋轢が生じたと。
96: 2008/05/28(水) 13:16:03 ID:tRZIaSXw
有名じゃない所の子孫は九州の加藤家-細川家に仕えた者もいるし
紀州家や越中前田家もかな
それより影武者に切腹させて本人三河へ入った説を子孫もいるんだし調べて欲しいなー
年齢一緒だし陣形の弱点助言するなんて絶対天海は佐々だろと思ってるのだが
364: 2014/07/18(金) 01:01:18.93 ID:tVQlxwO3
>>96
佐々成政=天海僧正説ってのは初めて聞いたけど斬新だな。
明智光秀説はよく言われるけど。
101: 2008/07/02(水) 15:48:55 ID:TaFvJvuZ
105: 2008/07/22(火) 23:30:22 ID:dJ1tSS/f
>>101
初耳ですな。
どんな縁があったんだろ? 茶の湯とか??
130: 2009/03/26(木) 15:52:45 ID:NJI5NRx4
>>105さん。カキコしたのをずっと忘れていました。スミマセン。成政の正室は、京都所司代村井貞勝の娘で、その縁で朝廷に出入りしていたのでは?
その証拠に成政が眠っている尼崎の法園寺に、後陽成天皇が彼のタヒをいたんで書いた書画があるらしい。
秀吉は「信長の忠臣」を嫌っていたのかもね。
http://www1.ocn.ne.jp/~sea-8/houonji/narimasa.htmlより
102: 2008/07/02(水) 18:52:35 ID:gNBPWJmG
水戸黄門の助さん(のモデル)が佐々の子孫だっけな
106: 2008/07/22(火) 23:40:56 ID:x7fdW7Kp
秀吉に逆らって、人質の娘は磔にされたね。
男子がいなくて、娘ばかり生まれる。
107: 2008/07/23(水) 10:18:35 ID:VZnRDgHn
どんな縁があったのかはわからない
ただ官位を貰った御礼とかで禁裏に出入りしていた武将クラスは佐々だけじゃないかな>>106 長男は伊勢で戦タヒだったような
108: 2008/09/12(金) 16:16:42 ID:whyKlUT1
金ヶ崎の退き口で梁田広正・中条将艦らと一緒に、馬廻り衆として成政も殿の軍に参加し
鉄砲隊を用いて、秀吉を救援し活躍たと「信長公記」「当代記」にあるんだけど
これはどの程度の信憑性のある話でしょうか?
110: 2008/09/13(土) 13:38:41 ID:BIne593y
>>108
そんな「信長公記」や「当代記」を見たこと無いよ
111: 2008/09/15(月) 15:47:01 ID:G45v6hLd
>>110
ごめん。俺も直接見たわけじゃないんだ。
「佐々成政のすべて」って本に、そう書いてあったんだ
じゃあ、これは嘘?金ヶ崎の退き口で佐々は踏みとどまらずに
さっさと(駄洒落じゃないよ)逃げただけ?
112: 2008/09/15(月) 20:43:20 ID:OkAV9a0H
逃げたとすれば信長の護衛だろうけどそっち方面に名前は出てきませんよ
116: 2008/10/14(火) 09:43:24 ID:T9ZbZm3h
そう言えば数年前佐々成政の記念館を愛知だか富山に作ろうって話あったよな
淳行氏も展示品は全面協力しますってやつ
そろそろ完成するの?エ○い人教えて
117: 2009/01/17(土) 16:44:21 ID:s9cyRCOf
>>116
成政記念館を断念 集客力に疑問、募金中止
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics050930-3.html富山県ではマイナーな存在らしい(´・ω・`)
118: 2009/01/17(土) 17:28:59 ID:VE0SzMUL
まー・・・一般的な知名度で言うときびしいよね。現実問題。
俺はあったら行きたいけどさ
119: 2009/01/18(日) 17:27:31 ID:LYYsvhIz
織田ファンなら行く、心配するな
ただ富山遠すぎるな
126: 2009/03/08(日) 17:03:19 ID:rdZVVwhn
富山県民だが、慕ってるの定義がよくわからんが、現代において清正とか伊達とか上杉とか武田みたいに地元で思われてるってことはないな。
富山で生まれたわけでもなく、富山の発展に多大な功績があるわけでも無く、富山でタヒんだわけでもなく。前田以下で大伴家持と同じぐらいかね。
恥ずかしながら佐々祭りなるものをこのスレで初めて知った始末。
128: 2009/03/08(日) 23:13:26 ID:b5MvUKjU
>>126
伊達・上杉・武田みたいな教科書に出てくるような全国区の知名度の武将と
比較したら、大概の人物はそういう評価になるのでは。
東京とか埼玉で北条氏康って知ってる?って聞いても
歴史好き以外の人はほとんど知らないだろうし。
逆に言ったら、地元出身でもないのに
記念館設立の動きがあったり、祭りがあったりする事が
それなりに支持されているという証なんじゃないのかな
131: 2009/03/26(木) 17:18:40 ID:+MxiVsPl
>>126
なんだったかな
富山で成政が堤だか何だかを築いてそれが領民に凄く喜ばれたんじゃなかったっけ
今でも使われてるだとか何とか
132: 2009/04/03(金) 22:59:32 ID:cIWOvrCU
>>126
私は特に歴史好きな訳じゃないけど成政は大好きですよ。
佐々堤もそうだけど、「安住町」命名の話なんかも胸が熱くなりますね。
133: 2009/04/03(金) 23:04:50 ID:cIWOvrCU
>>126
>前田以下それは絶対にあり得ない(笑)
富山は前田大嫌いです。
本当に富山の方?
失礼ながら金沢の匂いがするんですが…
138: 2009/04/07(火) 18:27:04 ID:1B2pE7nN
>>133
石川は敵視してるが、前田家自体はそれほどでもなくね?そもそも富山藩主も前田だし。
富山城に立ってる像だって、売薬を広めた前田藩主と万葉集の大伴家持だったはず。
成政記念館の計画が潰れたのも、富山経済の礎になった売薬前面に出した総合博物館に変更するためらしいし。
俺個人としてはあんまり利家は好きじゃないし、成政好きだけど、大河効果もあって知名度で圧倒的に負けてると思うぞ。
139: 2009/04/08(水) 18:18:18 ID:5Fy4lasa
>>138
幕藩体制下の藩主は前田だけど、それ以前の富山城主は神保や佐々だったわけだし。
そもそも前田が越中に執着した理由からして最悪だしね。
前田に関しての認識は富山の人間なら共通だと思うけどなぁ…
後々の富山藩主達はある意味運命共同体みたいな感じになると思うけどね。
前田正甫にしても売薬を広めた功績は大だけど、
あくまで中興の祖という立場だし。
そう言えば正甫像を移転する話も以前あったはずだよ。
前田の知名度が高いのは否定しないけど、極悪人としての認知度が高いと思うよ(笑)
127: 2009/03/08(日) 21:38:02 ID:mRMi1rZe
信長対信行の頃の佐々対柴田を引きずっているとは思えんが
129: 2009/03/09(月) 15:59:37 ID:VH1jw2A4
>>127 まあそこは文章で何か残っているわけじゃないので想像って事で佐々祭りは富山でもマイナー祭りなのかな
写真見ると数百人規模の参加者が写されているのに
報道されていないとかあるのか?
見えない外部圧力ある静岡の某祭りとかぶるなw
134: 2009/04/06(月) 11:32:33 ID:X50aql/p
安住町の話とやらを教えてくれませんか?
135: 2009/04/06(月) 19:25:36 ID:om+3q2dw
>>134
長く戦乱が続いた越中の地に、人々が安心して住めるように
って思いを込めたんじゃなかったっけ?
136: 2009/04/07(火) 09:59:05 ID:YRnBc9ak
>>136thx
パツと見軍拡一筋なんだが民の心配までしていたんだねえ
だからこの規模で兵2万も集まったのかしら
元佐々家臣ってマイナーだが後に活躍する有名所がめっちゃ多い
137: 2009/04/07(火) 13:04:39 ID:9ctnQ0La
>>136
まあ松倉山の膨大な金銀の力もあるでしょうけどね。
でも基本的に越中人に凄く愛された人なんだと思う。
後に前田がボロクソに悪評を流したにも関わらず、
富山は数百年に渡って一貫して佐々贔屓だったしね。
わがままな(笑)越中人が佐々の下では見事に統率された軍行を見せてたし。
140: 2009/04/16(木) 06:16:57 ID:6zzyfFNZ
富山でも地域によって違うだろ
西部のほうは利長関連で商売してるから前田家はおおむね好かれてる
147: 2009/04/28(火) 14:06:29 ID:digfYAh9
>>140
正確には高岡市だけなんだよ前田家が好かれているのは。
銅器や漆器の産業を興してくれたので高岡では利長は神様的存在。
けど、それ以外の地域は前田家をあまり良くは思っていない。
というのも当初は加賀藩だけに税を納めていたんだが利常の時代に支藩の富山藩が出来たおかげで加賀藩と富山藩のふたつの藩に納税をしなくてはならなくなった。
つまり二重課税ね。
前田家としては課税が目的というよりも支藩を作って本家が取り潰されても前田の血筋が絶えない様にとの考えだったらしいが。
この二重課税のおかげで富山の領民は苦しめられて財産を隠す様な県民性へと変わっていった。
富山県東部では東部の中心地の魚津が上杉家ゆかりの地の米沢市と親交が深い事もあって上杉贔屓の人達が多いな。
141: 2009/04/16(木) 12:34:39 ID:MhlXcawh
西部というより高岡市中心部限定じゃなかろうか。
あそこは前田が開いた町だから前田寄りなのは当然だけどね。
市内でも伏木あたりだと利長とか開町400年騒ぎとかは煙たがられてるよ。
あの辺は遥かに歴史古いから。
144: 2009/04/28(火) 10:48:47 ID:aKjJ102p
佐々って富山にいたの数年だろ?
神保や前田の方が歴史的に上だろしかも反秀吉で徹底的に秀吉に抵抗してたのに
秀吉が攻めてきたらソッコーで降伏してるし
わけわからん
姉小路とかは最後まで戦ったのに
145: 2009/04/28(火) 13:39:17 ID:NEgr5xSR
神保とか前田なんて特筆すべきような事もない凡庸な大名じゃんお( ^ω^)
その点、成政は登山家武将としては間違いなく戦国一だお( ^ω^)
150: 2009/05/02(土) 19:23:17 ID:teXFbGSK
>>145
神保長誠は存在感あるけどね
戦国時代の幕を開けた主要人物だし、戦強いし
前田あたりと並べたら失礼だわ
でも息子の代から小粒になるんだよねぇ
146: 2009/04/28(火) 13:55:01 ID:MuBUG/EA
佐々は最後まで織田家臣
秀吉の佐々征伐軍の中に信雄がいたから戦わなかっただけよ
149: 2009/05/01(金) 18:32:11 ID:hB/BKpYy
>>146
愚直だなぁ・・・
148: 2009/04/30(木) 22:55:19 ID:R2V0UBr7
佐々は堤防作ったり、何だかんだで統治が良かったよね
156: 2009/06/30(火) 00:13:07 ID:J/85GHLO
何で若い頃信長謀○しようと思ったんだろ?
157: 2009/06/30(火) 05:51:44 ID:S9sQ+tfo
そら切腹させられると考えたからでしょじゃあ何故に晩年切腹を告げにきた加藤清正を斬らなかったのかと考えたりも駿河
158: 2009/06/30(火) 15:09:08 ID:aYnzXQ+N
清正を斬ったところで既に秀吉の天下じゃ、第二第三の刺客が来るからじゃないの?
159: 2009/07/01(水) 00:54:42 ID:6tesTKUn
加藤や浅野はそのころまだ大名クラスじゃない小物
斬っても意味ないぞ
160: 2009/09/08(火) 23:24:41 ID:K/s2cO0C
越中を収公された時に、滝川みたいに隠居してしまうとかは考えなかったのかな?
161: 2009/09/09(水) 00:15:15 ID:ZRbWSGWL
再起を狙ってたんじゃない?
162: 2009/09/09(水) 03:50:38 ID:nkgQhx1t
成政が隠居したら織田家を守る人がいなくなるし
下手に隠居されて信雄の側に行かれたら秀吉にとって脅威になる可能性もある
163: 2009/09/10(木) 13:06:12 ID:pI5+cfEI
佐々が評判悪いのは前田家が悪評流した説在り。
善政敷いた佐々が女の祟りで変わったなんておかしいだろ
165: 2009/09/10(木) 19:44:11 ID:g7+OLvf7
>>163
佐々というか、織田政権に元々従属しながらも、親上杉だった国人が多かったのも
理由の1つかと思われる。
166: 2009/09/11(金) 05:43:08 ID:e3+a8Hdk
佐々と利家の差は臨機応変に対応できるか否かの差だろ
うまく立ち回った利家は出世し、頑固な佐々はダメだったと
167: 2009/09/11(金) 07:37:50 ID:tfV6hYEc
譜代とそうじゃない家臣の差だよ
織田家に対する忠誠心が根本的に違う
168: 2009/09/11(金) 10:58:22 ID:lwk1zdoN
結局は結果がモノを言うからなぁ・・・
佐々の忠義心を天晴れとは思うが見習いたくはないな・・・
171: 2009/09/11(金) 20:17:03 ID:lIlLrQ2L
利家は加賀の金山から採掘された金を秀吉に送ってた云々あったな。
172: 2009/09/25(金) 07:27:28 ID:/n5txpRb
信長の野望・天道での佐々成政の能力
統率79
武力84
知力33
政治66
前作・革新と変わりませんな
個人的には政治能力がもう3~4くらい上になってほしい
173: 2009/09/25(金) 11:52:43 ID:uEluCqtU
その数字って例えば隣の直江兼続と比較するとどうなの?
174: 2009/11/17(火) 13:01:19 ID:aLK0pcWa
中国の古典を引用して信長に諌言するくらいの教養人だったのにな
勇猛な印象しか無いのかね
175: 2009/11/20(金) 11:25:23 ID:9z//w2gT
江戸時代までなら勇猛な印象だけじゃないよ
江戸幕府内ではむしろ信長家臣の中では最高ランクの武将とされている
明治以降は小説の類で無能なレッテル貼られちゃったからちょっとカワイソスだけど
印象なんて時代背景でコロコロ変わりますからまた注目される日も来(ry
176: 2009/11/30(月) 00:34:57 ID:5YTqeTXo
親徳川だったから江戸時代の評価が高いのか
177: 2009/12/03(木) 03:28:09 ID:1kDQgWL9
あのさ、佐々成政の家臣の姓名で知りたいんだけど
・成政がアルプス越えをしてる最中に、前田か上杉が城に攻め寄せてきたが寡兵で撃退
・佐々滅亡後、中村か堀尾にスカウトされて仕官するがお家騒動に巻き込まれタヒ亡
・諱は伝わってない。佐々平左衛門ではなかった。こういう武将っていなかったっけ?
200: 2010/03/11(木) 10:39:14 ID:5UmBEYqb
>>177
久世但馬守のこと?確か最期は松平忠直に上意討ちされたはずだけど
178: 2009/12/03(木) 03:53:06 ID:k93haBvD
やっぱりさー
秀吉みたいに有能な部下集めないとダメじゃね?
佐々の家臣誰も知らんもん
秀吉は福島、加藤、黒田、etcとてんこ盛り
この差は大きいね
180: 2009/12/03(木) 09:34:23 ID:9hb58Tyj
>>178つ男塾の水野勝成様の名は覚えておいてくれ
179: 2009/12/03(木) 04:08:43 ID:3bfZWEjg
ゲームの類に居なくてマイナー扱いかもしれないが越中いたころはかなりの面子だとおもうよ
秀吉は後に有名になる家臣多いから比較できないが少なくとも明智や滝川よりも全然有名人が多い
そして問題児の数も相当なものww
181: 2009/12/06(日) 23:23:36 ID:RCni8UTH
やっぱ、敗者になると歴史に残らんからな……
184: 2009/12/21(月) 21:49:34 ID:hpS9NdMq
自分地元が尾張なんだが、そういや昔の同級生に成政の子孫がいたな。
直系か傍系かは知らんけど、成政が切腹した後に先祖が尾張に逃れて帰って来たらしい
185: 2009/12/21(月) 22:26:39 ID:7jqn8xCe
>>184
家系図が残っている家はいいなー
自分なんか家系図とか預けていた寺が火事で燃えて、調べんのがめんどくさい
家紋なんか祖父が自分で二両引きがいいとかいって決めたらしいし
186: 2009/12/22(火) 19:18:05 ID:CKWnxHnw
前に富山行った時道路標識に太閤山とかあったけど
なんか秀吉に縁がある場所なのかな?
191: 2009/12/27(日) 02:19:47 ID:/JIeFcad
>>186
秀吉が成政討伐のときに陣を張ったのが由来だったと思う。
ちなみに現在では日本海側最大のニュータウンがある場所。
197: 2010/02/21(日) 16:03:35 ID:Bk/4QVcf
天地人では利家は歴史上重要な役だったけど
佐々なんて超マイナー役でしかないからな。
いずれ歴史の陰にかくれ誰も知らない存在となるだろうな。
199: 2010/03/10(水) 23:37:05 ID:UtW+MrMR
>>197
佐々 淳行がいるからしばらくは大丈夫だろう
201: 2010/03/15(月) 05:36:43 ID:lsTN9TFH
どうして佐々成政は自ら雪山アルプス越えしたんだろ
帰ってこれたから良かったものの、あまりに無謀じゃないのか
普通こういうのって家臣の誰かを使者にするもんだと思うんだけど…
202: 2010/03/16(火) 15:20:52 ID:gENNd/vX
真心
203: 2010/03/19(金) 11:37:14 ID:kloB8Nfk
でもその真心は家康に通じなかった、と
山越えルートは行きより帰りの方が精神的にきつかっただろうな
206: 2010/03/24(水) 09:56:27 ID:IK8NtXh1
>>203
確かに(;^ω^)
登山もメンタルがかなり重要だし、よく帰り着けたものだお( ^ω^)
荒木村重だったらそのままバックレるに違いない
204: 2010/03/19(金) 23:19:16 ID:D/cu6oVX
最新の研究によれば、越後ルートで越えた可能性が高いらしい
205: 2010/03/24(水) 07:31:56 ID:UaINIzW0
さらさら越えはホント諸説ありまくりなんだねまぁ確かに少しロマンティクな話ではある
207: 2010/03/28(日) 08:38:02 ID:0D/sv5Pp
成政の家臣として出てくる前野勝長って人がいるんだけど
この人は秀吉の家臣の前野長康の血縁関係ってあるの?
出典が武功夜話しかないようなので、実際のとこどうなのかな?と思いまして
208: 2010/04/27(火) 09:31:35 ID:OjTP1S0e
宗康の子って事になってる
つまり長康の弟
211: 2010/08/14(土) 00:06:24 ID:oFn46NCg
自分も同じ佐々だから親近感わくわ
読みはサッサじゃなくてササなんだけどな
215: 2010/09/09(木) 11:34:32 ID:ogITyuS+
佐々成政が大逆転勝利を収めるにはどうすればよかったのか
もう2、3回ほど山越えしとけば歴史に残ったか
216: 2010/09/09(木) 13:01:24 ID:pnaictiF
佐々陸奥守は清須會議でおとなしく秀吉について越中国主をまっとうすべきだった
217: 2010/09/23(木) 01:49:45 ID:HSPsqqIh
遠藤和子氏著の『佐々成政』に
成政が越中国主のとき
生地比良城に祖父早川主水正とともに雄助が在城していたらしいけど
この雄助が成政の実子と書いてあるけどホント?だったら前田利政を養子として迎え入れようとしていたこととつじつま合わなくなるのだが
218: 2010/09/23(木) 11:03:19 ID:0e4mjwSe
そういう系図はある
但し系図の常として信用出来るかは不明
219: 2010/09/30(木) 17:21:07 ID:Prr20WCs
前田家の関わった記録は10に1つくらいしか信用できない。
あいつら前田家の過去の自己正当化のためならどんな捏造、創作でもするし。
220: 2010/11/06(土) 21:22:55 ID:mqtRxSHR
>>219
藩祖の人柄が偲ばれますなw
221: 2010/11/10(水) 16:04:08 ID:GWBLxCYU
富山の役で信雄経由で秀吉に降伏したけど
秀吉が戦ってた前田にどうするか聞いて「助けてやってくれ」と前田が言ったってマジネタすか?
222: 2011/02/08(火) 20:53:50 ID:yAfy7sV5
清洲会議で長浜を成政、越中に前田ならどうなったか
223: 2011/02/09(水) 00:33:54 ID:JGFTonIM
>>222
成政が大損したんじゃないか?せっせと城や堤防や街道を作って領内整備に励んでたのに、投資が全部無駄になる。
利家は能登ではあまり領内整備やってないし、成政が頑張って整備した越中が手に入ったら大儲けだろ。
237: 2011/09/04(日) 23:25:41.43 ID:t0S8EOAt
「佐々」ってサッサって読むのな
々←これ打つ為にsasaって打ってたからずっとササだと思ってた
240: 2011/09/07(水) 22:22:30.26 ID:6IyuoO63
>>237
検索したら佐々と書いて「さっさ」「ささ」「さざ」と読む名字が現在あるようだ
成政がどの系統だったかはわからない
246: 2011/10/11(火) 21:16:36.74 ID:6xIAB2wy
>>240
今日【ささ】さん見た
文字だけだとわからんな
238: 2011/09/06(火) 03:09:40.92 ID:OEekuOlg
そこはわからんよ 佐佐と書かれていたりもするから
「ささ殿」もありえる
241: 2011/09/07(水) 23:13:51.15 ID:vB02nmgS
「さっさ」がいちばん自然だよね。
243: 2011/09/08(木) 15:04:29.87 ID:tJHSZLtm
矢防ぎというなら母衣は物理的防御というより視覚的な錯覚による防御を狙ったものだよな。
244: 2011/09/08(木) 17:00:54.62 ID:NnSpjcYy
≪こんな布で矢を防げるのか?テスト≫
矢:先端がロケット型(所謂鎧を貫通させる矢)と先端菱型(刃物形状) の2種類
弓:日本製長弓
的:粘土で作ったマネキンに母衣(形と材質は史料から再現)を付ける
(馬で走っている事を想定し前方から扇風機で風を送り母衣を膨らませる)テスト結果 マネキンまで到達したもの
ロケット型:10本中0本
菱型:10本中3本
スーパースロー映像:絹の母衣が飛んできた矢に絡みつきエネルギーを奪う事で無力化させると結論
乗馬した人が付けた映像では母衣が左右に大きく動き狙いを定め難そうだとも言っていた
十分評価できる装備とされた
247: 2011/10/20(木) 23:13:57.00 ID:MTH7mQoZ
佐々位のもんかなあ~織田家を必タヒに守ろうとしたのは。
信長の幼馴染で尾張統一前から苦楽を供にした池田、丹羽、前田は秀吉に付いたけど。
かつて信長を○そうとした佐々なのにね。
248: 2011/11/13(日) 06:50:25.34 ID:xwDyyFvu
富山に成政酒造って言う会社が有るんだね~成政が槍を突いたら水が湧き出したらしい。
この湧き水を使ってお酒を作っているのが社名の由来だって
250: 2011/12/11(日) 17:31:52.57 ID:9K/Ych5i
熊本での成政ってあまり語られないね?このスレとかでも
252: 2011/12/12(月) 20:15:22.76 ID:77GcxLUc
>>250
肥後熊本たらセイショコさんだろもん
256: 2011/12/13(火) 11:34:14.48 ID:0aUNTGqz
>そもそも、佐々って富山の為に何かしたのか?
堤防、町の区画整理、運河の整備・・・未だに全てが軽く手直ししながら使用中w
毎年佐々祭りもあってバリバリ郷土の英雄
佐々が造った運河「いたち川」の周囲は井戸水湧き湧きスポットになって東北地震の支援物資調達で
どこも水汲み大行列。成政さんのおかげで今も人が救われているのだよ
257: 2011/12/13(火) 11:51:38.08 ID:XalCMGDV
>>256
佐々祭りまであるんなら、郷土の英雄だね
富山県がメジャーになれないのは、昔じゃなく近代の負の遺産が大き過ぎなんじゃね?
ジンツウガワの有るところだろ
259: 2011/12/14(水) 00:19:50.63 ID:BhXtGzA1
なんで富山は大河ドラマ化運動で木曽義仲を押してるんだろう
義仲も面白い武将ではあるけど、倶利伽羅峠の戦しか関係ないやん
領主だった佐々成政をもっと目立たせてやれよ
261: 2011/12/14(水) 01:56:59.13 ID:mZEyyAqe
>>260
そんなことはありませんよ
2000年以降だけ見ても、大河では源義經、近藤勇、山本勘助、坂本龍馬、そして平清盛がいる。
要は見せ方。最後が悲惨だろうと、余韻が残る様な演出をすればいいのです。>>259
佐々で大河は木曽義仲以上に難しいでしょう。
残念なことに資料が少ない上、原作小説もない。
できるとすれば、さらさら越えに焦点を絞った1~2時間のドラマか映画でしょうね。
なんにせよ、富山の戦国武将といえば佐々だと、
富山県民も他県民も思いつくぐらいにしたいものです。
264: 2011/12/14(水) 06:12:22.39 ID:A2+9SYPU
>>261
まあ、熊本のセイショウコウ(加藤清正)にしても彦根のヒコニャン(井伊直孝?)にしても余所者だが
富山県代表が愛知県出身の近江由来の人で良いのか?
267: 2011/12/15(木) 17:36:34.27 ID:3s4ahZ4r
>>264
後期の戦国武将って
出身地と在住地がずっと同じ人の方が少ないよな…>>265
晩年はずっと富山に住んでたみたいだけど
どうしても前田家=加賀のイメージだし
現代だと加賀=石川県になってしまうのでダメなんじゃないのかね
260: 2011/12/14(水) 01:35:41.51 ID:OScq3k2B
最近は最期が悲惨な人物は主人公にならないからなぁ
富山出身の成功者といえば藤子不二雄くらいしか思い浮かばん。
262: 2011/12/14(水) 02:30:12.79 ID:CyXV+F6i
信長の野望って戦闘力80超えてて強いけど
そんなに戦上手だったの?
成政が活躍した戦、知らんのよね、80超えには思えない
263: 2011/12/14(水) 05:19:47.88 ID:gKgC9X1b
上手だったよ
272: 2011/12/30(金) 08:57:42.70 ID:gFXZnKOX
政権担当者の前田家に対する不満を、佐々の殿様はよかったなあ~って
いうことで発散させてんだろ 成政が越中のためにそんなに仁政を
ひいたとは思えんが
273: 2012/01/01(日) 09:11:23.15 ID:qgKndyKt
>>272
残念ながらマジで超絶人気だったらしい
274: 2012/01/01(日) 16:38:02.11 ID:3EPpv0e6
つうか統治期間中合戦に明け暮れてただろ
戦の合間に佐々堤作ったくらいで仁政にはならんだろ
前田家の苛政がなければこんなに人気が出たとは思えない
昭和が酷すぎたので明治を礼賛したくなる司馬史観心理
276: 2012/01/01(日) 21:14:48.07 ID:qgKndyKt
>>274
前田は越中では政治らしい事はしていないかもだがそこはあんまり関係ないかと
佐々の人気はおそらくその前と比較されてると思われる
不可能と思われていた上杉と真っ向勝負できる武将が威力的では無い形で赴任してきたんだからな
そりゃワクワクテカテカするさ。
でなきゃ土豪が噂を頼りに次の主無視して遥々肥後まで佐々の加勢には行かない
歩いて北陸から九州は資金も激しく消耗するだろうから余程の信頼関係がないと命令無しでは行けねーぞ
277: 2012/01/01(日) 21:28:25.36 ID:Vr3liVBt
>>276
土豪が肥後まで佐々の加勢に行ったなんて話聞いたことないんだがw
当時越中武士は殆ど上杉被官化してしまっていた。
上杉と真っ向勝負されてもいい迷惑だったろ
275: 2012/01/01(日) 18:12:08.94 ID:RWZXm1W6
仁政関係なく地元で名が知られてるならそれで良し
278: 2012/01/03(火) 02:01:47.11 ID:VaO2LstA
あー普通そこからだよな。援軍で分りやすい史料は歴史研究会の検証本に張ってある、暇な時図書館でもどーぞ
殆ど上杉被官化といっても肝心の守護は?つー話で力的に多数ではないから織田が易々と入国してるでしょ
即座に戦うか逃亡かの選択もしない、なので上杉家が守る事もない、これで上杉に従っていると言われたら両方
に迷惑でありえない話し
真っ向勝負は上杉のお家芸なんだな
この国の肝は神保なんだ、その神保と繋がりを持った佐々(織田)には多くが正当性を認めただけ
その神保は織田からの圧力で仕方なく織田軍を越中へ呼び込んだわけでは無い
279: 2012/01/03(火) 22:36:00.22 ID:atq4EeU6
>>278
歴史研究会の検証本って?
題名教えてくんないと探せないよ
つかあんたの言っている意味がよくわからん
越中国人は上杉家に人質出して織田軍と戦わさせられている。
守るとかいう問題ではなく越中自体上杉領国だから
上杉家が上杉家のために戦っている
越中武士はその手駒として使われている
281: 2012/01/19(木) 21:32:51.44 ID:gVKlz75z
さらさら越えは今の時期か?
282: 2012/02/09(木) 23:55:42.62 ID:RMylS/Fl
よく遭難しなかったよな
283: 2012/02/10(金) 18:16:41.29 ID:ue7pQhlX
冬は五箇山とか行くだけビビるわ
284: 2012/02/10(金) 22:18:27.32 ID:lHbcYD09
予想ルートと日程を書いてある本はあるけど
誰か実地で再現した人はいないのかね
冬は立山入山禁止されてるぽいけど学術調査なら…
危険すぎるか…
285: 2012/02/11(土) 16:41:40.06 ID:N6EUQtly
修験道で意外と越え易いとか言う輩もいるが
どー考えても危ないよね
286: 2012/02/12(日) 15:49:20.14 ID:5Dqs+1ic
今の時期にあそこ行くなんてタヒにに行くようなもんだ
287: 2012/02/13(月) 09:56:37.27 ID:B0iPFWxJ
そんな危険な旅をしてわざわざ行ったのに目的を果たせなかった、と
289: 2012/02/13(月) 10:42:38.20 ID:nus3vVIU
この人って、賤ヶ岳や小牧長久手の際は
何してたの?
290: 2012/02/13(月) 11:42:10.73 ID:hQjQL0M6
上杉と睨み合ってたり
298: 2012/02/28(火) 20:00:23.85 ID:NsUA9aUd
同族の佐々長穐とかも、もっと語られても良いだろうがな。
299: 2012/03/03(土) 19:32:43.54 ID:ablnSrCe
長穐は成政の弟とする説もあるが
どうなんでしょうな。
谷口克広氏は別系としているようだが。
別系としても一族ではあろうな
303: 2012/03/04(日) 18:54:13.69 ID:vUMiwvHe
随分マイナーな中世城郭(家臣の城)のジオラマだ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500㎜×330㎜で卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
304: 2012/03/05(月) 00:16:35.76 ID:8cK+xYT9
>>303
上級者向けだな。
307: 2012/03/17(土) 18:00:47.88 ID:5TU8wNl6
成政は優秀な浪人を召抱えるために、
300石と約束しておいて実際には500石を
与えるなどしたため、名のある武士が集ったという。
ところが前田家側の記録では、全く逆で、
500石と約束しておいて300石しか与えず、
名のある武士はみな成政の元を去った、とある。
309: 2012/03/20(火) 13:37:57.90 ID:SKzfdspl
>>307
出典名を教えてくれ!
310: 2012/03/20(火) 15:14:56.81 ID:iuZRAfaM
>>309
すまん忘れたw
どっちかは佐々成政のすべてか何かだったようなきがする
308: 2012/03/17(土) 21:27:54.79 ID:oM6EQKzz
佐々成政と前田利家はライバルだったんだろうなあ
そして信長公はいつもふたりをセットで使ってた
犬ぞりは気の強い犬ばかりをあつめて引かせると聞く
それと同じようなかんじだったんだろうな
311: 2012/03/20(火) 20:16:39.87 ID:tOzJfCbW
可児の才蔵さんの話だな
ホント色々な戦に顔を出す恐るべき御仁にござるwww
317: 2012/06/06(水) 02:59:04.40 ID:pvpPts8Z
よく「上司にしたい戦国武将は?」ってのあるけど、
部下にしたいと思うのはこの人か柴田勝家だな
318: 2012/06/06(水) 03:03:27.44 ID:IrOvnPFo
こんな部下いやや どつかれる
319: 2012/06/06(水) 04:43:44.02 ID:52WacWWk
雪山を越えていくほど、木下が憎かったか
320: 2012/06/06(水) 12:18:30.08 ID:DNh9Ngt+
ただ単に時間がなくて焦ってただけじゃないの
雪解けしたら羽柴に攻めこまれるのはわかりきってるんだから、それ以前に手を打ちたかった
321: 2012/06/06(水) 12:52:13.13 ID:NWerT30K
322: 2012/06/07(木) 16:16:54.68 ID:7fvh6tdL
この人はもっと評価されてもいい
323: 2012/06/10(日) 23:53:05.05 ID:+wQHPgqX
秀吉の風下に立たされて悲嘆にくれたそうな
324: 2012/06/11(月) 11:24:02.57 ID:9YUIxIP6
秀吉は佐々を認めてたよ、実際厚遇してるし
あれだけ反発したのに肥後60万石の大名だよ
九州の要として期待されてたと思うよ
信長時代からの同僚武将だし
佐々が肥後で力を出してくれれば島津なども抑えられ
九州は安泰と秀吉は思ってたはず
一揆は秀吉が悪いんじゃなく成政のミスでしょう
だいたい秀吉が佐々を処罰したかったのなら
佐々が降伏した富山の戦の時にできたはずだしね
325: 2012/06/11(月) 17:19:41.97 ID:0BVsQImG
つうか最初本領安堵されてたのに何で裏切ったの?
家康に秀吉が滅ぼせると思ったんだろうか
326: 2012/06/13(水) 02:54:17.03 ID:vQpNanRp
厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し
遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や
滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。
338: 2013/05/04(土) 16:02:53.37 ID:9Xf2lN6+
家系図を見ると五代前のご先祖様の兄弟が佐々家と和仁家に婿養子に行っていた。
ご先祖様は戦国時代のことを知っていたのか?
ちなみにうちは大内家の末裔。
みんな負け組だが・・・佐々家は親子二代で東大医学部を主席で卒業したそうだ。
そして今では富山が自分のふるさとだと言う。
成政の子孫でも彼の富山暮らしは短かっただろう。
339: 2013/05/04(土) 16:11:00.44 ID:9Xf2lN6+
佐々も和仁も酒の銘柄として残っているから地元では人気があると思う。
345: 2013/09/28(土) 22:32:10.98 ID:aS6w+1NY
信長の野望の最新作での能力値がどうなるか気になるな
近作での傾向としては基本的には準一流の戦争向きだが政治が高適正、知謀は低めという中々味のある評価をされている
敗れはしたが織田家への忠義という信念に基づいた行動だと思うし決して頭の悪い人では無いだろうに…
義理が高くないのが不思議でもある
346: 2013/09/30(月) 21:23:56.80 ID:En7RCthF
最近成政が恋を詠んだ和歌が発見された
武辺一辺倒ではなかった武将
347: 2013/10/01(火) 07:09:16.45 ID:n2wDc0z7
和歌の巧拙は何とも分からんが
世の儚さを相変わらず降る雪と引き比べてみたり
籠城中に水源を発見して詠んだり
無骨なようで感性豊かな人
348: 2013/10/26(土) 21:39:51.41 ID:75sdcdRI
信長家臣辞典では没年齢73歳が有力との説だが、
やはり無理があるような気が
349: 2013/11/24(日) 21:11:23.54 ID:o6W753f/
秀吉ってめっちゃ佐々好きだったし認めてたろw
俺だったら小牧長久手の後即効○してるし
絶対近くには置かない
352: 2013/12/26(木) 14:11:59.59 ID:8hE4Go1M
>>349
直ぐ横で佐々大活躍があったお陰で秀吉は数多くのピンチを脱しているんだから
○さなくてもいいじゃん
350: 2013/12/24(火) 23:50:52.39 ID:MF4LNWVD
手元の日本史教科書の本能寺から朝鮮までの流れでハブられてる
351: 2013/12/25(水) 04:52:21.52 ID:iocLwG/Y
>>350
そのあたりが最も歴史の転換点なのにな。
本能寺がなければ、佐々の悲劇も前田の統治もなかったし、
上杉は織田に滅ぼされていただろう。
354: 2014/01/17(金) 22:56:23.53 ID:B92H82Yu
>>351
越後に織田軍がなだれこんできたら100%織田方は撃退されてただろ
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部~魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞上杉5000~8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
実際に攻め込んで撃退されたり苦戦してる。松倉城でも飛騨口別働隊は撃退され
ろくな備えもない魚津城では4ヶ月もかかり
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部~魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化
356: 2014/01/17(金) 22:59:14.30 ID:eLBZg7tU
魚津城なんて春日山から親知らず子知らずの難所の先にある松倉城の枝城にすぎんろくな備えもない城
こんな所を45000と9倍の兵力で攻めかかって大苦戦したのが織田軍。
これじゃ越後進むどうこうといったレベルじゃなく名将須田満親の守る堅城松倉城をまずどうするかだな
357: 2014/01/17(金) 23:51:43.55 ID:as90JL0n
越中越後境は親不知の海路と山の方の上路の二通りがあってその頃よく使われたのは上路らしい
361: 2014/02/12(水) 04:25:04.97 ID:BwOrbMTG
>>357
軍は川沿い(海岸線も)を進まず
襲撃された時に背水の陣になるのを防ぐ為なの
365: 2014/07/21(月) 15:56:49.39 ID:lpQ85m1p
熊本の名門済々學は佐々さんが作ったもんやでー
佐々一族の血は佐々→清正→忠広→三斉・忠利…と熊本に続いているのかもしれないやでなお自分は高校済々落ちたから済々が大嫌いな模様
あ、佐々成政はすきやで
(なんか不器用そうな所がワイと似てそう)
肥後は佐々→清正と猛将枠が続いたと思ったら穏やかな細川家にバトンタッチしよった!
366: 2014/07/21(月) 19:22:51.53 ID:pgHOKJ7m
佐々成政は秀吉にとって大気と恐怖を宣伝する役割しか残っていなかったのである。
換言すると、秀吉にとって成政ほど、○して惜しくない武将はいなかったに過ぎない。
がんらい成政は、成り上がり者の秀吉を毛嫌いして臣従しようとしなかったし、
秀吉もそんな成政は好きになれなかったはずだ。
柴田勝家や徳川家康と組んで何度も抵抗してきた成政を、助命し肥後一国を与えた
時点で、秀吉にとってのただの宣伝官に成り下がっていたのである。
すなわち、自分に刃向った男でもここまで厚遇されるという、秀吉の大度、大気ぶりを
宣伝する役まわりである。
だいたい秀吉にとって本当に必要ならば、古い力任せな成政を、もっこすで鳴る肥後に封じたりはしない。
民衆を慰撫するにも、時代は物柔らかな手法が求められていたにもかかわらず、
果たして肥後で一揆を起こした成政としては、たとえ一国の国主といえども
秀吉の意に染まない者はこの通りと、今後は対面すら許されず尼崎で腹を切らされる・・・
367: 2014/08/17(日) 06:59:21.54 ID:cSdYrwiO
沙羅沙羅越え
と言う歴史小説本が7月に発売されていました。
興味が有る方は是非みてね
369: 2014/09/14(日) 22:45:36.89 ID:jX4LOFih
そもそも、最初から失敗するであろうという予測に立った上での人事だったんじゃないのかなと
目障りな佐々と既得権益にしがみつく国人をまとめて一掃する手段として
その後加藤清正がやった大規模な土木事業も、そういったしがらみが排除されたからできたんじゃないのかな
370: 2014/09/17(水) 21:23:25.93 ID:xcZeyuhl
結果から見ると「捨て石」に見えるけど、
肥後統治に成功してたら、どうなったんだろう?
372: 2014/10/20(月) 15:56:59.19 ID:KrKktIbm
375: 2015/10/19(月) 07:54:34.84 ID:itfvMLWY
スーパーアルピニスト
377: 2016/05/14(土) 05:14:55.34 ID:2f50TxKO
サラサラ越えはしてなくて越後経由だって話もあるけど
白馬とか渋峠とか三国峠でしょ
1~2月だとそれでも自○行為だよね
378: 2016/05/16(月) 17:05:11.27 ID:80weLNKs
元上杉家臣の手引きで安房峠を越えたって説が、現時点で最も可能性が高いような気がする
さすがに「さらさら越え」は後世の人々が作り上げた都市伝説みたいなものでしょう
379: 2016/05/17(火) 03:26:46.87 ID:mezVMW4E
>>378
安房峠でも十分ヤバいだろ
380: 2016/08/24(水) 17:34:55.56 ID:RilOiTFW
家臣もよく付いていったな
385: 2017/02/04(土) 14:01:36.51 ID:TbpuP83P
嫁の差だな おまつさまは短気な夫をほんとにうまくコントロールした
388: 2018/02/11(日) 21:59:19.91 ID:biXYjepF
肥後統治の失敗見れば加藤清正や小西行長より低レベル武将なのは間違いない
390: 2018/02/21(水) 17:30:04.99 ID:flTMHmnK
>>388
小西行長も統治失敗してるんだけど?
391: 2018/04/29(日) 19:11:07.84 ID:e55mKDXi
黒島敏氏 秀吉の武威、信長の武威より
秀吉は九州を五畿内同然と重視していた
とりわけ、博多と熊本は2つの要として構想されていた
成政が人並優れているからそこに配置したただし、成政の責務は重大で
肥後は大友、島津の抗争で支配関係が複雑で
越中からの家臣、九州征伐で秀吉が雇用した大量の浪人と肥後の国衆の面倒をみなければならなかった
秀吉は近いうちの大陸侵攻を表明しており、そのための軍役体制の新規構築、国内生産の詳細な把握が不可欠であった。
これほど難しい条件で平和的に統治をするのは、秀吉が武器を支給し城郭普請支援をしても容易ではない
秀吉は九州に介入する際に大友氏に肩入れするかたいで介入した
もともと肥後で大友派だった国衆から見れば、自身も同じように大友と同じく早くから通じていた意識があった
秀吉ー国衆との主従関係が形成されている中で秀吉を主人とする点は成政と国衆は同じ立場である
新参の大名が彼らの上位者となって手なづけるのは並大抵ではない
ただし、前述のような責務の大きさもあり
性急にことを進め、武力行使という形で国衆統制を図ったため肥後の国衆は蜂起した
392: 2018/06/12(火) 00:59:05.45 ID:UvAWS4qg
戎光祥出版に織豊期大名の研究第11巻として成政は出る予定
著者は萩原大輔氏
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1165854720/
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